佐藤 敦子・佐賀 朝・奥野 久美子・橋本 唯子 共同執筆)*

*西田正宏・奥野久美子編『上方・大阪都市文化の研究拠点形成―大学アーカイブの整備と発信』(URP「先端的都市研究」シリーズ34 2022年3月刊)第2章より抄出

0 𠮷沢英明氏旧蔵書受贈の経緯(本項執筆:奥野久美子)

 𠮷沢英明氏の演芸資料コレクションは、学界のみならず、講談師、寄席関係者など、演芸界でも名高い。その数万点の貴重資料を受贈するという、一大事業の担い手に、なぜ大阪市立大学(以下「市大」、「本学」など)が選ばれたのか、また、どのようにして受け入れを進めたのか、その経緯を以下に報告する。

0-1 受贈のきっかけ

 発端は、2020年3月、𠮷沢氏より奥野へ一葉のハガキ(消印3月10日)が届いたことであった。そこには、「わが蔵書の運命…すべて姉上にお譲り…と考えています。具体的にはお勤めの大学に寄付、ご研究にお役立て下さい」「全てを総合するとン万冊、書庫、2棟満員です」「又戦後の講談掲載誌(カストリ)も相当あります。又演芸のビラ、チラシ…すべて一括寄贈。」と書かれていた。

 私は近代文学の研究、中でも芥川龍之介研究に携わる中で、芥川をはじめとする近代作家たちの複数の作品の材源が、講談本からとられていることを研究してきた。その過程で、二十年ほど前の院生時代に、京大国文研究室の先輩にあたる、実録・講談研究者の高橋圭一氏から𠮷沢氏をご紹介いただき、たびたび𠮷沢氏から講談本をお借りしていた。

 しかし、𠮷沢氏に直接お会いしたのは一度だけ、同じくもう二十年ほど前に、𠮷沢氏と神田照山師に浅草を案内していただいたことがあるだけだ。𠮷沢氏はその日一日ご一緒するなかで、関西育ちの私に「浅草を愛してください」と繰り返しおっしゃった。

 その後、郵送で何度も本をお借りし、そうして書いた拙論はもちろんお送りしてきたものの、また、年賀状だけは毎年お送りしていたものの、私は𠮷沢氏のご自宅すら一度も訪れたことがなかった。親しいとは決して言えない私とその勤務先の大阪市立大学に、𠮷沢氏はなぜ人生そのものである蔵書を託して下さったのか。この一大事業を担うによりふさわしい研究者はたくさん思い浮かぶし、𠮷沢氏のご自宅がある埼玉県を含む首都圏には、喜んで受け入れる大学や研究機関も複数あるだろう。

 考えても合理的な説明はつかないのだが、想像をめぐらすならば、まず、整備に何十年かかるかわからない膨大な蔵書であるから、この先定年まである程度の年数がある研究者でなければならない。また、国文学・史学の専門家が複数在籍する昔ながらの文学部をそなえた大学か研究機関でなければ、整備ができないだろうとお考えだったのかもしれない。そして何より、大阪には𠮷沢氏と長年の交流があり、氏とその仕事を深く敬愛している、高橋圭一氏がいる。高橋氏と一緒に資料を整備してほしいということだろう、そう思った。

 しかし、人生そのものである蔵書をすべて手放す、それは想像するだに困難なことで、𠮷沢氏からはその後二度ほど、「やはりあの話はなかったことに」という旨の、寄贈取り消しのハガキが届いた。

 最初のハガキも入れると三度目になる寄贈の意向が示されたのは、𠮷沢氏から奥野への2020年9月11日付の封書だった。最初のハガキから半年後である。そこには、「ささやかな資料(本、チラシ、レコード、新聞類)は以後全て貴方に一任することにしました。五年後、大きな施設が完成するとか―(*奥野注:大阪公立大2025年開設予定の森之宮キャンパスのこと)どうかご自由に処置してください」「実は親しい古本屋にチラシ類(当然演芸)を少しづゝ処理していましたが、心が何か晴れません」「(書庫は)四棟あり、雑本が分散してどうしようもありません」「とにかくわが蔵書の運命―お助け下さい」などと記されていた。

 特に、「心が何か晴れません」という一言が、胸に刺さった。𠮷沢氏はやはり蔵書を古書店に売って散逸させることは望んでいない、氏の旧蔵書として一括収蔵・保存され、整備・活用されることを願っておられると思った。それは氏とその研究の恩恵を受けてきた多くの研究者や演芸関係者の願いでもあるだろう。

 ただ、いつまたお気持ちが変わるかもしれない中では、受贈の話を具体的に進めることができない。そこで2020年11月ごろ、𠮷沢氏所蔵資料のごく一部の試験的譲渡を受けた。大きめの段ボール4箱分で、明治大正期の新聞の講談連載を切り抜き、綴じた冊子がほとんどであった。これらについては、すぐに簡易リストの作成にとりかかり、2021年3月に簡易版データ入力は完了している。

 中で、他にはない貴重な一点もの資料として、帙に川口松太郎の句と署名が入った、悟道軒圓玉の日記帳(亡くなる前年、昭和14年の日記)があった(図0-1・図0-2)。この資料については、別途、解題を示して紹介する。

 わずかでも蔵書を譲渡していただいたことで、𠮷沢氏が寄贈を決心されたことが確認でき、受贈に現実味が出てきたため、関係者と相談のうえ、準備を進めることにした。     

図0-1
図0-2

0-2 第1回予備調査

 まずは𠮷沢邸を訪問し、書庫の状況を確認したいと思いつつ、コロナ禍に阻まれていたが、2021年3月22日、ようやく訪問がかなった。その際、𠮷沢氏が案内してくださったのは、二階建て離れの一階部分書庫(メインの書庫、図0-3)と、別棟の平屋書庫(図0-4)の二棟であり、資料があるのはこの二棟だというお話だった。実は、前節で紹介した𠮷沢氏からの二通目の手紙を読み返せば、たしかに「四棟あり」と書いてあったのだが、そのことをすっかり忘れていた私は、7月の選別作業時まで、資料があるのはこの二棟のみと勘違いしていた。

 さらにこの日、𠮷沢氏のご長女と寄贈の件を具体的に相談することができたのだが、そこで判明したのは、書庫をすべて取り壊し、敷地に自宅を新築したいので、8月上旬には資料をすべて搬出し、書庫を空にしたい、というご家族の意向であった。つまり、5ヶ月弱で搬出・搬入までこぎつけねばならないことになった。

図0-3:二階建て離れ一階書庫
図0-4:平屋書庫

1 第2回予備調査(本項執筆:佐賀朝)

 2021年5月4日、佐賀朝が𠮷沢邸を訪問し、書庫の予備調査を行った。

 その際にも、案内されたのは二階建て離れの一階部分書庫(メインの書庫、前掲図0-3)と、別棟の平屋書庫(前掲図0-4)の二棟であった。数時間かけて両棟のうち、二階建て離れの一階書庫については概要調査を行った。そこでは、歴史学の現状記録法、あるいは研究者や社会運動家の個人蔵書の保存等に関する経験をふまえた概要把握方法を採った。すなわち、書庫全体のスケッチを作成(画像は稿末)し、すべての書架にナンバリングを行い、書架ごとの立面の写真を撮影した。スケッチと対照し、搬出の際に一つ一つの箱にもすべて書架番号を記し、データ入力の際にも箱番号と紐づけすれば、書庫の資料配置の復元が可能となる。実際に書庫の配置どおりに図書館で配架されるわけではないが、記録を残しておけば、その本が𠮷沢邸のどの棟にあり、どの書架の、どのあたりに配架されていたのかをたどることができる。

 このような移送方法をとった理由には、研究者の書庫の資料配置はいわば「研究者の頭脳内部の見取り図」であり、後々までそれが復元できる状態にして受け入れることは、寄贈者に対する最低限の礼儀である、という発想があった。この点は、のちの調査でも二階建て離れの一階部分の前室や平屋書庫、あるいはガレージからの資料搬出の際にも同様の発想で作業を行うことにつながった。搬出後まもなく二階建て離れが取り壊されたことにより、写真・スケッチとナンバリングによる書架配置の記録は、今後、𠮷沢コレクションや𠮷沢氏の講談本研究の特徴を把握する上で意味を持ってくるのではないかと予想する。

 この調査により、書庫をはじめとする保管場所の再現性を重視した受け入れの方法が具体化した。

図1 𠮷沢邸二階建て離れ一階部分書庫の西面に配架された講談本

2 搬出作業(本項以降の執筆:佐藤敦子)

 現在、大阪市立大学経済研究棟1F書庫に、数多くの講談本や芸能関係の史料群である「𠮷沢コレクション」(段ボール箱590箱)が仮置きされている。さらに、77箱は大阪府立大学上方文化研究センターに一時的に別置されている。

 これらは、𠮷沢氏が高校教師を勤めながら講談研究をてがけ、半世紀以上かけて蒐集した明治~昭和の講談関係資料コレクションである。当コレクションは、大阪市立大学で保管することが決まったが、2021年8月には𠮷沢邸の建て替えが予定されていたこともあり(現在取り壊し完了)、早急に𠮷沢邸から搬出する必要が生じた。寄贈を受けた貴重なコレクションを無事に市大へ搬入するための調査・搬送作業には、遠距離であることやタイムリミットがあるなど、やむを得ない制約があった。搬出した箱数は実に667箱にのぼる。以下、本格的な史料整理に入るまでの、搬送のための調査過程および概要を記録しておく。

図2-1 𠮷沢邸建物(佐賀氏作成)

2-1 7月作業

 2021年5月の第2回予備調査の成果を受けて、7月22~25日の日程で、大阪市大への搬出に向け資料の選別作業をおこなうことになった。𠮷沢家からは英明氏のご長女が対応し、調査者は当研究の統括者である奥野氏と、佐賀朝氏、久堀裕朗氏、高橋圭一氏、橋本唯子氏、森節男氏、筆者の7名であった。22日午後から打ち合わせを行い、作業に入った。

事前準備

 調査に向かう前に、奥野氏によりある程度の作業用具が現地に郵送された。手袋、刷毛、マスク、防虫剤、ガムテープ、ハサミなどの調査必需品や、コロナ感染防止用のアルコール消毒液、ウェットティッシュなどが事前に準備されていた。長期間居住していなかったためトイレが利用できるか不安があったが、事前に使用可能であることが確認された。

 作業は敷地内に点在する建物にわかれて行うことになったが、庭には樹木がうっそうと茂っており、見渡すことも困難な状況であった。そのため、別棟の作業グループとの意思疎通が不安に感じられるほどだった。佐賀氏が事前に綿密な作業工程を作成していたおかげで、前もって作業計画を共有することができ、作業工程表にならって、①二階建て離れ(書庫)、②平屋(書庫)の選別作業を行う予定であった。

図2-2 作業工程表
図2-3二階建て離れ「前室」

 この時点では、二階建て離れの1階と平屋書庫の2か所を調査することになっていたのだが、二階建て離れの2階にも相当量の講談関係資料が残されていることが判明し、さらには高橋氏から、𠮷沢氏は執筆作業を母屋で行っていたこと、そのため母屋にもかなりの関係資料があるだろう、という助言をいただいた。急遽、二階建て離れの2階と③母屋も資料選別作業の対象場所に加えることとなった。

 なお、7月末の運送業者による梱包・搬出には立ち会うことができないため、混乱が起こらないよう、奥野氏が梱包の方法や番号の振り方などを記した詳細な指示書を作成し、業者に託すことになった(前室を除く二階建て離れと母屋は業者による梱包)。

 以下、建物ごとに7月の調査作業を記録する。

図2-4二階建て離れ「書庫」

二階建て離れ

 ここには、倉庫のような「前室」があり、四畳半程度の広さにスチール製の書棚が置かれ、多くの資料が所狭しと配架されていた。作業を始めるにあたって、まずは通路を確保することから始めなければならなかった。「前室」の資料選別作業は橋本氏・森氏が担当し、講談本・希少と思われる新聞類を搬出し、段ボールに詰めた。作業空間の狭さと蒸し暑さ、それに埃には悩まされ続けた。講談本や新聞に掲載された講談の切り抜きが数多く保存されており、𠮷沢氏の執筆原稿も発見された。1日半の作業で総数29箱分の資料を梱包し救出した。これらは7月30日に大阪府大へ搬入された。

 離れの一階「書庫」は今回の搬出のメインとなる場所で、𠮷沢氏が最も活用した図書類・講談本を配架した書庫兼書斎だったと思われる。広さ約14~15畳、壁面に作り付けの書棚、中央部にも所狭しと書棚が置かれ、すべて本・資料で埋め尽くされていた。壁面書架に東西南北と算用数字を組み合わせた番号を事前調査の際に付し(詳細は紙面最後の平面図を参照のこと)、それぞれ資料の選別をおこなった。奥野氏・久堀氏が担当した。搬出のための箱詰めは宅配業者に依頼しその指示のメモを書棚に貼っていった。7月末の運送業者による梱包は、この書庫だけで総箱数490箱にも上った。

図2-5平屋書庫(中央床手前から奥はレコードの一部)

 ここで講談本以外に、大正期の音楽・バレエ公演パンフレットが見つかったことは興味深かった。20世紀前半に活躍した世界的なバイオリニスト、ミッシャ・エルマン、フリッツ・クライスラー、バレエダンサーのアンナ・パヴロワの来日公演のものだった。

 離れ二階部分は、寝室・台所・奥の間・廊下・流し台からも40箱に上る講談本・関係資料が見つかった。台所・流しといった湿気の多い場所のためカビの心配もあったが、比較的良好な状態であった(奥野氏・森氏担当)。一階書庫と二階部分の資料は、市大へ搬出された。

図2-6 通路確保後の平屋書庫(右側戸棚に「𠮷」屋号徳利)

平屋書庫

 二階建て離れや母屋からジャングル化した庭園を分け入っていくと平屋書庫にたどり着く。調査は、佐賀氏と佐藤が担当し、講談本とともに戦前の浪曲・落語等のSPレコードが大量に保存されていることが判明した。隙間なく家財道具が積まれ、床には大量のSPレコードが置かれていたため、まずは作業通路の確保のための力仕事にかなりの時間を費やした。ここでも現状記録を重視し、壁面書棚を東西南北と算用数字で表示し、スチール本棚・戸棚など様々な書架に番号を振りつつ作業をおこなった。

 書庫の奥深くに到達した時、天井まで高く積まれたいくつもの段ボール箱が見つかり、この中には埼玉県域の近世~近代文書が大量に保管されていた。主に上尾市史編纂と埼玉県史編纂の折に活用した地域史料群で、「原市 𠮷沢英明所蔵文書」と記載された箱が8箱(目録あり)、かつて市史・県史により整理・目録化されたものだった。この他、とくに整理がなされていないものも含め𠮷沢氏が収集した埼玉県域の近世~近代地域史料が数多く保管されていた(約25箱)。この機会に、埼玉県文書館・上尾市史編纂室に管理を委ねるべく、佐賀氏が県文書館にコンタクトを取った。

 地域史料が保管されていたことは、𠮷沢家が近世には酒造業を営んでいたということとも関係があるかもしれないが、酒造関係史料がその中に含まれていたかどうかを確認する余裕がなかったのは残念だった。近世𠮷沢家の痕跡を示す酒を入れる大きな徳利が何本も保存されていたことは興味深かった。平屋は講談本も多数保存されていたが、家や地域に関連する資料も保存されており、他の建物とは違う特異な空間だったと思われる。

 書庫内の講談本・和綴じ本の類など48箱分梱包し搬出することとし、埼玉県文書館・上尾市史編纂室行きの箱と別置して7月の調査を完了した。

母屋

 主に生活、執筆の場として最後まで使用された建物で、高橋氏が1・2階とも選別作業をおこなった。1階居間に講談本関係、2階和室に演劇などのポスター類が多くみられ、搬出箱数は12箱となった。

 作業後、最近になって判明したことであるが、奥野氏によると講談本の最初期の形態を伝える松林伯圓(二代目)講述の『安政三組盃』(速記法研究会 明治18年)を探すため、𠮷沢氏に保管場所をうかがったところ、「母屋です。手元に置いていました」とのことで、実際に母屋2階から搬出された箱から同書が発見された。

市大搬入

 7月30日、市大へ590箱、府大へ77箱の資料が搬入された。市大では経研棟書庫(管理は学情センター)、府大では上方文化研究センターに当面保管することとし、搬入には奥野氏ほか関係者が立ち会った。

2-2 8月作業

図2-7 ガレージ内の様子

 搬入後、取り残し資料がないかどうかの確認のため、8月20~21日に計4名(奥野・佐賀・森・佐藤)で𠮷沢邸書庫の再調査を行った。7月調査の時点では、新聞資料は主な搬出対象ではなかったが、主に二階建て離れで希少な新聞資料も見受けられたため、搬出することとした。

 埼玉県立文書館・上尾市史編纂室の担当者も来邸し、調査の結果、7月調査で見つかった古文書群は調整の結果、いったんすべて上尾市史編纂室に搬入することになった。今後、各機関と𠮷沢氏ご長女の間で調整を行い、上尾市域関係文書とそれ以外の文書に分けて、後者は県立文書館で受け入れになる予定である。

ガレージ

 ジャングルと化した庭の端に、ひっそりと倉庫のようなガレージが建っていた。離れ・平屋・母屋を散々調査しつくし、少し早く終了できそうだという安堵があり、よもやそこには何もあるまいという根拠のない確信もあり、ガレージの戸を開けてしまった。すると、そこには壁際から中心部までびっしりとスチール棚が置かれ、段ボール箱等に保管された講談本・古文書、箱入りのレコード群があった。砂埃や害虫の糞の埃がたまっていたが、急いで作業に取り掛かったところ、思いがけず状態の良い講談本も多数見つかり、14箱分の梱包をすることができた。ガレージの大半を占めたレコード群は、既存のレコード箱につめられたものもあれば、むき出しの状態のものも多数残されていた。

 全ての調査・選別作業を無事に終え、約25箱分の資料を追加収集し、9月1日に市大経研棟書庫へ搬入した。

 8月調査では、特に講談本類の取り残しがないかどうかの点検、各所に保存された大量のレコードの確認、地域史料(古文書)を地元の公的機関で保管できるようにする橋渡しが主な作業内容となった。限られた時間と限られた労力で成しうる限りの資料保存ができたのではないかと思う。

 平屋書庫には往年のSPレコードのプレーヤーがあり、それで再生を試みたところ、広沢虎造の懐かしい声が流れてきたのには感慨を覚えた。

 これらも𠮷沢氏が人生の長い時間をかけて蒐集したものであり、全てを含めて𠮷沢コレクションなのだと改めて思う。同種類のSPレコードはデジタル音源で聴くことができたり同じ実物が他機関に保存されているものもあると聞く。しかし、実物はいったん災害に遭えば再生不可能となるかもしれず、想定外の災害が多い昨今、予算の問題は重々承知の上だが、数か所で同じ物を保存しておくことも、今後大きな意味を持つと思う。

図2-8 平屋書庫のSPレコード

3 箱目録の作成

図3-1 資料出所別箱数(箱目録より)

 市大搬入分590箱、府大搬入分77箱、合計667箱を𠮷沢邸から搬出したわけだが、搬出・搬入の時点では箱総数やそれぞれの建物の箱数の把握が困難であったし、当然ではあるが、搬入の際の書架への配置は箱番号順とはならず、東西南北等に分けた箱番号は混在して配架された。どの配架棚にどの箱が置いてあるのか、また建物(所在)別箱数が不明なままでは今後の整理作業に差し障りもあり、本格的な資料目録の作成もままならない。佐賀氏の提案で、まずはどの棚にどの箱が配架されたかを把握するための「箱目録」が必要だということになった(各所在別箱数が判明したのは「箱目録」作成後である)。

 配架された市大経研棟内は、平置きして高く積まれた箱によって通路が塞がれ、箱に記載した番号も確認できない状態だった。「箱目録」作成にかかる前に、通路を確保する作業を行ったがこれが大変な重労働だった。「箱目録」作成の便宜上、各棚に五十音順にマーキングし、箱の所在がわかるよう目録を作成した。本来なら各箱を開封し中身の把握を行いたいところではあったが、箱の配架場所の把握という目的を優先し、搬出前の状況写真から箱の中身をある程度把握することとした。同様の作業を府大搬入分でも行い、箱の配架場所の把握という目的を達した。

 現在、島崎弘子氏に本格的な資料目録「𠮷沢コレクション図書リスト」の作成をご担当いただいており、また橋本氏の尽力により和歌山大学においても授業の一環で資料目録を作成中である。今後、𠮷沢コレクションの全体像が見えてくることが楽しみである。

 資料が搬入された後の最大の懸案は、害虫の存在である。搬出・搬入が夏~秋で、冬の今は害虫の活動時期ではないため、目立った害は見受けられない。今後季節によって、橋本唯子氏や業者のアドバイスを参考に害虫・カビの駆除対策をとっていく必要がある。

おわりに

 2度に分けて行われた𠮷沢コレクションの調査の概要を以上にまとめた。

 調査による作業は、該当する資料が元々どのような状態で置かれていたかを、記憶上・図面上でできるだけ復元できるよう現状記録を重要視して作業が行われた。事前調査での状況写真と平面図は、建物自体が取り壊されてしまい、かつてあった書庫・書架の情報を得る手立てを失っても、資料がどこにどのように存在したかをうかがい知ることができる貴重な記録だと言える。史料残存の全体像がわかるように調査することが大切であることを再認識する機会となった。

 2021年7月末には𠮷沢氏と市大文学研究科との間で「𠮷沢英明氏所蔵資料の寄贈に関する覚書」をかわし、2022年1月末に本学文学研究科長から𠮷沢英明氏へコレクションの受贈感謝状の贈呈も行われた。𠮷沢コレクションの一括での受贈は、講談関係資料蒐集・研究において影響力も大きいとのことから、2月9日には大学HPを通じて受贈を公表し、2月20日には、講談師をゲストに成果報告会のイベントが、奥野氏を中心とする文学研究科プロジェクト共同研究者らによって企画、実施された。3月末までには文学研究科特設サイトでの画像公開も行われる予定である。

 2月20日に行われた文学研究科によるオンラインイベント「上方・大阪都市文化の研究拠点形成―新収 𠮷沢コレクションを中心に―」の内容を紹介して本稿を締めたいと思う。

 このイベントは、講談を中心とした芸能関係の数万点に及ぶコレクションの一括寄贈の報告と共同研究の成果報告も兼ねて企画されたものだった。コロナ対策のためZoomでの開催であったが、60名を超える参加があったことからも、学内外での注目度の高さがうかがえる。以下にプログラムを掲載しておく。

『上方・大阪都市文化の研究拠点形成―新収 𠮷沢コレクションを中心に―』

【日時】
2月20日(日)14時~  zoom開催

【プログラム】
はじめに 西田正宏(大阪府立大学高等教育推進機構教授・副学長)
大阪公立大学蔵 古典籍の資料性 西田正宏
𠮷沢コレクション受入れ報告―講談本と近代文学の関係に触れつつ― 奥野久美子(大阪市立大学文学研究科准教授)                       
𠮷沢英明氏の人と仕事 高橋圭一(大阪大谷大学文学部教授)
旭堂南海師に訊く 旭堂南海(講談師)
 聞き手:西田正宏・高橋圭一・奥野久美子
口演 ―旭堂南海師による講談実演・大阪ゆかりの演目から― 旭堂南海

 イベントは14:00から開催され、大阪府立大学副学長で上方文化研究センターの西田正宏氏の司会で進行された。文学研究科長・添田晴雄氏は、𠮷沢氏の寄贈への感謝と、大阪公立大学の門出にふさわしい資料群であるとの挨拶を述べた。副研究科長・佐賀朝氏からは、当研究プロジェクトメンバーとして今後の支援を呼びかけた挨拶があった。

 次に、「大阪公立大学蔵 古典籍の資料性」と題し、西田氏の講演が行われ、大阪府立大学・大阪市立大学の貴重書資料群の紹介とその可能性について解説があった。府立大所蔵資料は、2005年に府立大に統合した大阪女子大学(旧大阪府女子専門学校)時代から教育に必要なものとして蒐集された古典籍、音楽資料や芝居・浄瑠璃等の上方古典芸能に関する豊富な資料群であること、市大には地域史料を含め豊富な古文書史料群や文学・経済関係文庫、そして大衆演劇資料である𠮷沢コレクション等が所蔵されているとの紹介があった。とくに今後、上方学芸資料の可能性として、資料を介して研究者・古典芸能演者の協働の試みが期待されるとのことだった。

奥野久美子氏講演の一コマ(「𠮷沢コレクションの一部より講談本」)、2022年2月20日

 奥野氏の講演「𠮷沢コレクション受け入れ報告―講談本と近代文学の関係に触れつつ―」では、𠮷沢氏自筆の葉書も紹介しつつ、コレクション受贈の経緯や研究プロジェクト・資金の詳細、資料選別作業過程などの紹介があったのち、現段階での成果の一部として、貸本屋での講談本の貸し借りの実態や、近代文学に講談本がどのように影響したかなど文学と講談本の関係についてお話しがあった。

 𠮷沢氏との交流も深い高橋圭一氏(大阪大谷大学)からは、「𠮷沢英明氏の人と仕事」についてのご講演があった。𠮷沢氏の履歴から生涯をかけて編綴した「講談目録、講談史、講談事典」の解説と紹介、「徹底して現物にこだわって、事実を追求した、基礎研究」について詳細な解説があった。

 講演ののち、休憩をはさんで上方講談師・旭堂南海氏を交えた講演者との対談では、𠮷沢氏の講談作品の事典が演者にとって非常に重宝される労作であること、講談速記本の正当性について、「鼠小僧次郎吉」講談本の描写のリアリティがむしろフィクションを想像させるといった指摘もあり、文献・研究者・演者の協働がまさに垣間見られた興味深い対談であった。

 イベントの最後は、旭堂南海師の講談、大阪ゆかりの演目、「大塩平八郎」の実演で締めくくられた。天保8年、大坂町奉行所元与力大塩平八郎の決起直前に、その計画が仲間内の密告により露見していくという話だが、中でも、仲間が大塩に露見を知らせるため大阪を駆ける描写などは当時の市中が眼前に浮かぶようだった。

 豊かな大学所蔵資料をめぐって、研究者による研究成果、演者の目線による解釈も交え、会は盛況のうちに終幕となった。

 現在、𠮷沢コレクションの整理・公開作業は着実に進められている。従来、府立大・市大に所蔵されていた史料群に新たに𠮷沢コレクションが加わることで、近世・近代の芸能・都市文化史料は一層の厚みを増すことになった。大阪公立大学としての再出発の暁に、これらを用いた研究がより豊かに発展することを願うものである。

平面図① 二階建て離れ「前室」平面図(橋本唯子氏作成)
※中央部棚は2列あった。
平面図② 二階建て離れ「書庫」平面図(佐賀朝氏作成)
平面図③ 平屋書庫平面図(佐賀朝氏作成)
平面図④ ガレージ平面図(佐賀朝氏作成)