ShaDa(シャダ、写経所文書データベース)の作成と公開

目次 

  1. ShaDaの概要
  2. 個別写経事業の流れ
  3. ShaDaの特徴と意義
  4. 研究メンバー
  5. 基本用語集

1 ShaDaの概要

 「写経所文書」(は5 基本用語集参照、以下同じ)は正倉院文書の多くの部分を占めています。文字通り古代に行われた写経事業に関する事務帳簿・文書群ですが、そのデータベースShaDa(試行版)の準備が整いましたので、公開します。

(正倉院宝物)

 「写経所文書」は、古代の末端官司の一つである「写経所」の事務局の帳簿・文書です。これらの帳簿・文書は、個々の写経事業(個別写経事業)ごとに、その進展にしたがって作成されていきました。つまり、1つの個別写経事業ごとに1セットの帳簿・文書が作成されました。もちろん複数の写経事業を対象とする帳簿・文書が作成されることもありましたが、1写経事業に1セットの帳簿・文書群が対応するのが基本でした。

 ShaDaは、個別写経事業ごとにそれに関係する帳簿・文書を集成することをめざしたデータベースです。このことは逆に、ある帳簿・文書を検索すると、それがどの個別写経事業に関するもので、同じ個別写経事業の関係帳簿・文書として他にどのようなものがあるかが把握できるようになっています。

 さらに、「写経所文書」の特色として、帳簿・文書が首尾完結して残っている場合はあまりなく、多くは、裏紙または余白部分の再利用のために、断簡に分断されてしまっています。そのため、ある断簡がもとはどの帳簿・文書の一部分であったかが、すぐにはわからない場合が多いのです。

 ShaDaは、断簡単位の入力を心がけましたので、ある断簡について検索すると、それがどの帳簿・文書の一部分であり、したがって、どの個別写経事業の断簡かがわかるようになっています。

 こうしてShaDaでは、1つの個別写経事業に関係する一連の帳簿・文書(およびその断簡)を提示し、検索によって、それらが写経事業の進展に従って、写経の発願から、紙・筆・墨等の必要物資の受給、写経の作業の諸段階、完成した経巻の納入などの順で展開していくことを把握できるように工夫しています。またそれにかかわった事務員・写経生等の関係者も入力しています。つまりShaDaを検索することによって、個別写経事業ごとの知られる限りの情報を得ることができ、個別写経事業の全体像を把握することができることを目指しています。

 もちろん、以上は、写経所文書のすべての帳簿・文書(およびその断簡)を入力し終わったときに言えることで、現状では、未入力の帳簿・文書(その断簡)が多く残っています。今回公開するのは試行版です。皆様のご意見を参考にしながら入力を進め、バージョンをあげて完成に近づけていきたいと思います[i]。(栄原永遠男)

(正倉院宝物)

2 個別写経事業の流れ ―№174 三部経を例として―

(1)はじめに

奈良時代の写経所では、さまざまな写経事業が行われました。「写経所文書」が残る皇后宮職系統の写経所は、写経スタッフと事務スタッフによって構成されました。写経スタッフは「経師(きょうし)」(書写担当)・「装潢(そうおう)」(装丁担当)・「校生(こうせい)」(校正担当)・「題師(だいし)」(題経の書写担当)です。「(あん)()」を中心とする事務スタッフは、多くの帳簿や文書を作成し、写経事業を運営しました。他にも造東大寺司の「史生(ししょう)」や、案主を補佐する雑使、雑役を行う「()()(そく)」「()()()」「()使丁(してい)」などがいました。

この写経所では、光明皇后発願の一切経五月(ごがつ)一日(ついたち)(きょう)」が活動の中心として位置づけられて常に写されていたので「常写」と呼ばれました。それ以外の写経事業は、その間に写すという意味で「間写」と呼ばれました。天皇家をはじめとした発願主の意向によって行われた個々の写経事業を、個別写経事業と呼びます。

(2)個別写経事業の事例:三部経

ここでは、個別写経事業のひとつである、№174 三部経(大般若経1部600巻・六十華厳経1部60巻・八十華厳経1部80巻)についてとりあげます。これらの経典は、大乗仏教を代表する経典です。大般若経(大般若波羅蜜多経)とは、玄奘が訳した全600巻からなる般若経典群の集大成です。華厳経は、東晋代に漢訳された60巻本(六十華厳・旧花厳)と、唐代に漢訳された80巻本(八十華厳・新花厳)とがあります。

174番というのは、薗田香融氏[ii]が作成した「薗田目録」の番号です。ShaDaはこの番号を踏襲しています。№174では、大般若経・六十華厳経・八十華厳経を合わせて「三部経」として写経しました。〈写経事業一覧データベース〉には、天平勝宝6年の項に「三部経」に関するものとして№174、№174・5156、№174・5157、№174・5158をあげています。5000番台は、その写経事業に該当する可能性があるものです。それでは、この写経事業を例に、個別写経事業の流れを見ていきたいと思います。

まず、発願主の意向が写経所に伝えられて、写経事業が始まります。ただし、「三部経」では誰が発願したのかが分かる史料は見当たりません。写経事業の実施が決まると、はじめに写経所が行うのが、用度申請解案(見積書兼請求書)の作成です。依頼された経典を写経するには、どれだけの物品や人員が必要なのかを算出し、紙・筆・墨や、布施(給料)、(じょう)(え)(スタッフに支給される衣服)、食料などの見積もりを書き上げて発願主側に提出し、内容が了承されれば銭や物品が支給されます。本写経事業では天平勝宝6年2月18日付の下書きが残っており、大般若経1部600巻・六十華厳経1部60巻・八十華厳経1部80巻を「三部経」としてひとくくりの写経事業ととらえていたことが分かります(13/50~57[iii])。この案(下書き)にもとづいて正文(しょうもん)が作成され、造東大寺司から太政官に提出されたと考えられます。そして太政官から発願主に用度申請がまわされます。予算案が承認されれば、請求された物品や銭が、発願主から造東大寺司を経由して写経所に納入されます。申請通りの数量が納入されない場合も多いです。

写経所に納入された物品は、帳簿に記録されます。「写書所請間(せいかん)筆墨帳」は間写に必要な筆墨を受け取った記録であり、さまざまな写経事業について記載されています。そのなかに、「三部経」の筆墨に関する記載も見えます(12/282・12/283)。また、用度申請の請求通り、経紙14327張も納入されました(3/604)。

写経の具体的な作業の開始は装潢による経紙の加工です。経紙を貼り継いで巻物をつくる工程を「(つぎ)」、紙をたたくことにより緊密度・平滑度を高めて滲みをおさえるのを「(うち)」、縦横の界線を引くのを「(かい)」といいます。「三部経」でも大般若経の経紙を装潢に充てる記録が残っています(9/526~529)。

写経をするには、「本経」つまりそのもととなるテキストの経典が必要です。写経事業によっては、本経がどのような由来をもつものであるかこだわったものもありました。「間本納返帳(かんぽんのうへんちょう)」は、間写に使用する本経についての借用・返却の帳簿です。借用先から本経と一緒に送られてきた送状の余白に、その後のやり取りを続けて記録している部分もあれば、各所との本経のやりとりを時系列に書き継いでいく部分もあります。このなかに「三部経」に関わると思われる記載があります。大般若経は、この時期に2セットが借りだされています。ひとつめは(やま)階寺(しなでら)(興福寺)から借用されたもの(№174・5156、9/613)、もうひとつは河内(かわちの)雪寺(ゆきでら)から借用されたもの(№174・5158、9/613~614)です。河内雪寺(()吉寺(きでら))の大般若経は「辛手(からて)」とあるので外国からの将来経であることが分かります(4/37・4/43にも借用・返却時の史料があります)。№174に5156・5158の番号を付けたのは、本経となりうる経典が2セットあり、最終的にどちらをテキストとしたのか判別できないためです。また、八十華厳経は()(きん)(花厳講師所)から辛手の経典が借用されました(№174・5157、9/613・9/614、4/36~37)。「間本納返帳」には、この時期に六十華厳経は見当たりません。

次に、経師に経紙と本経、そして筆・墨を充て、書写が開始されます。「三部経」では経師30人が3か月弱で書き写しました。なお、最初に作られた「大般若経一部并花厳経二部充紙筆墨帳」(13/64~69)は途中で廃棄され、その記載内容を写したうえで新たに追記されていったのが「大般若経一部并花厳経二部充紙帳」です(4/1~12)。このように、写経所では同じような帳簿・文書が何度も作り直される事例も多くあります。

書写が終了した経典は順次、校生による本経との校正作業にまわされ、別々の校生によって二度校正されました。「三部経」では校生7人が見えます(11/24~25)。そして、装潢によって表紙・軸・緒が付けられて仕立て上げられます。「三部経」では装潢3人が従事し(12/323~325)、軸には絵付けがされました(13/9~10)。最後に題師が表紙の題を書き込んで、経典は完成します。

経師たちは、担当の仕事が終了すると「(しゅ)(じつ)」(業務申告)を案主に提出しました。「三部経」では経師の「(この)神徳(じんとく)手実」(13/70)が残っています。そして、案主は各帳簿類と手実を照合して、それぞれの作業量を確定し、布施申請解案(給料申請)を作成して、造東大寺司・太政官を経由して発願主に提出したと考えられます。承認されれば、布施の布や銭が発願主から納入されます。最後に、支給された物品の使用量と残量を示す用残(決算)報告が作成されました。「三部経」では布施申請解は見当たりませんが、天平勝宝6年7月30日の経紙の用残報告があります(13/27)。

写経し終わった経典は、発願主のところや発願主が指定した場所に送られます。「三部経」の場合、天平勝宝7歳2月9日に法華寺西堂に送られて安置されました(25/184)[iv]

(3)おわりに

 以上が個別写経事業のおおまかな流れです。「写経所文書」では、奈良時代における紙の再利用や、江戸・明治期の「整理」により、写経事業における帳簿・文書が完全な形で残っているものは多くありません。個別写経事業は、行われた時期や事情によって様々なバリエーションがあります。典型的な例を参考にしながら個々の写経事業を検討することによって、断片的にしか史料が残っていない事例も推測することができます。

また、写経事業に関する文書・帳簿の中には、個別写経事業ごとにつくられるものと、複数の写経事業を一緒に記載するものがあります。ShaDaでは、この両者を対象として、写経事業に関する情報を収集・整理し、内容を分析したうえで各写経事業に分別して、それぞれの個別写経事業の全体像を把握することを目指しています。(渡部陽子)

3.ShaDaの特徴と意義

ShaDaのデータベースとしての最大の特徴は、「個別の写経事業に注目し、関連する史料を集積・整理し、その分析結果を写経事業ごとに帳簿単位で示す」という点にあります。ここでは、ShaDaが他の関連データベースと比較して、どのような点に焦点を当てたデータベースなのかを示しながら、ShaDaの特徴と利点、その研究史上の意義についての概略を紹介します。

(1)先行する関連データベースの特徴

まず、現在公開されている、関連のデータベースには以下のものがあります。

①奈良時代古文書データベース(東京大学史料編纂所)

②正倉院文書マルチ支援データベース(通称SHOMUS)(東京大学史料編纂所)

また、作成・公開されたものの、現在休止中のデータベースに、以下のものがあります。

③SOMODA(大阪市立大学・正倉院文書デ―タベース作成委員会(代表:栄原永遠男))

なお、正倉院文書の写真は、宮内庁正倉院事務所のホームページの「正倉院宝物検索」で公開されています。

以下、順にその概略を記します。

①奈良時代古文書データベース(東京大学史料編纂所)

現在刊行されている『大日本古文書』全25巻(東京大学史料編纂所編)を、全文検索(横断検索)するためのデータベースです。検索する方は様々な関心で、関心のある語句が『大日本古文書』の何巻・何ページに記載されているのかを調べることができます。どのような語句であっても、『大日本古文書』に記載されているものであれば検索することが可能です。いわば、デジタル仕様の『大日本古文書』といった趣の、汎用的なデータベースであるといえます。

②正倉院文書マルチ支援データベース(通称SHOMUS)(東京大学史料編纂所)

こちらは、正倉院文書研究のためのデータベースであり、『正倉院文書目録』(東京大学史料編纂所編)をデータベース化しているものです。『正倉院文書目録』は現状の正倉院文書についての様々な基礎的情報、例えば文書の寸法、紙質、文書の表裏両面の利用状況などが詳細に記されています。そのなかには文書の「接続情報」も含まれています。

正倉院文書の大半は「写経所」の事務帳簿・文書群ですが、これらは江戸時代以後の「整理」によって寸断された状態で現存しています。そのため、奈良時代当時の記載として読解・分析するためには、まず「接続情報」をもとに、文書群を本来の帳簿・文書の状態を復元する必要があります。

しかしながら、接続情報を基に帳簿・文書を復元して、その全体像を把握する作業は非常に労力を要するものであり、正倉院文書の研究に取り組むための障壁のひとつとなっています。SHOMUSでは、任意の文書や断簡(文書の一断片)についての情報を、検索によって簡便に参照することができます。このように、SHOMUSは正倉院文書を研究する際に、断簡の配列の情報を把握することを助けてくれるものです。なお、SHOMUSには史料の釈文のテキストや、対象史料に関連する学術論文の情報も併せて提示しています。

③SOMODA(大阪市立大学・正倉院文書デ―タベース作成委員会(代表:栄原永遠男))

現在休止中ですが、ShaDaの成立にも関わるデータベースであるため、ここで紹介します。SOMODAは大阪市立大学(現大阪公立大学)の栄原永遠男ゼミにおける、25年間にわたる個別写経事業研究の蓄積のなかで着想・構想されたデータベースです。このデータベースでは、帳簿を構成する断簡の配列(接続関係)を視覚的に把握する点に力点があり、任意の断簡の前後に並ぶ断簡の配列を、『大日本古文書』とその写真版の画像データとを表示したことが大きな特徴です。また、栄原ゼミで個別写経事業を検討する際に使用された、「短冊」(帳簿の配列、表裏関係などを示す模式図。画像参照)を、データベース利用者と共有することを目指すものです。すなわち、SOMODAは断簡の配列・構造を視覚化することを重視したデータベースであるといえます。

(2)ShaDaの特徴と利点

 ShaDaは上記のデータベースの存在を前提として構想・構築されました。すなわち、個別の写経事業に注目し、関連する史料を集積・整理し、その分析結果を個別写経事業単位で一覧化することを目的としています。その場合、対象の史料を帳簿単位(史料文書番号)で提示しています。(1)で触れたように、正倉院文書を帳簿として理解することは、文書の記載内容を理解するうえでとても重要なことです。この史料を帳簿単位で提示するという点では、③SOMODAの「写経所文書を帳簿(短冊)単位で把握することを重視する」という観点を継承しています。また、文書の接続情報は②SHOMUSおよび『正倉院文書目録』の情報を継承・活用しています。

 ShaDaは、上記のように個別写経事業ごとに情報を一覧化したところに大きな特色があります。さらに、それを接続情報と『大日本古文書』の頁数とに結びつけたところも特色です。

(3)個別写経事業研究におけるShaDaの意義

 本プロジェクトおよびShaDaは正倉院文書研究のなかで、どのような意義を持っているのでしょうか。ShaDaは、当初は薗田香融氏の間写経目録の改訂を意図して始まったものでした。薗田氏は、一切経の書写のかたわらに行われる、様々な間写経の写経事業に注目することによって、そのときどきの発願者の願望を知ることができると考えました(これを「救済の論理」という言葉で表現しています)。そして、正倉院文書を広く検討した結果、間写経の一覧表をまとめ、奈良時代の間写経研究における基礎を築きました。

 薗田氏の論考は極めて先駆的な業績でしたが、以降の個別写経事業研究の進展に伴い、薗田氏の写経一覧に漏れた写経事業が発見されるようになりました。ShaDaはそのような研究の進展を受け、あらためて史料を検討し、間写経一覧を更新することを目的としていました。その結果、多くの新しい写経事業を検出し(データベース上の〈写経事業一覧〉を参照のこと)、また薗田目録の写経事業番号を一部修正(統合・分割)しました。

 このように、史料を検討して、個別写経事業に番号を与え、関連史料を整理し、データベースとして公開することは、個別写経事業を分類・確定したうえで、その個別写経事業の全体像を把握しようとする行為に他なりません。これはこれまでの個別写経事業研究の集大成であります。ShaDaがこれからの写経研究の門戸を広く開くものとなることを願っています。(濱道孝尚)

4 研究メンバー

栄原永遠男(大阪公立大学客員教授・大阪市立大学名誉教授、プロジェクト代表)

渡部陽子 (大阪公立大学文学研究科都市文化研究センター研究員・大阪公立大学大学史資料室研究員)

濱道孝尚 (大阪公立大学文学研究科都市文化研究センター研究員)

5 基本用語集

〔写経所文書〕 写経事業を行うための組織である写経所の帳簿・文書類。正倉院文書の主要部分。奈良時代には多くの写経所が存在しました。①内裏に関係する写経所、②皇后宮職(光明皇后のための家政機関)に関係する写経所、③貴族の家に関係する写経所等です。このうち②はその後造東大寺司という東大寺の造営を担当する役所の管轄下に移管されましたが、この皇后宮職―造東大寺司の下にあった写経所の事務局では、写経事業を進めるにあたって膨大な帳簿や文書が作成され、差し出したり受け取ったりしていました。この②の事務局にあった文書・帳簿類が、正倉院文書の一部として奇跡的に現在まで残ったものが「写経所文書」です。

〔断簡〕 写経所文書の断片。写経所の帳簿は、いろいろな形で作成されました。まず、提出されたり受け取った個々の文書を貼り継いで事務に利用したり保存したもの、つぎに、不必要になった断片を貼り継いでその白紙部分に事務情報を書き込んで作成されたものなどです。これらの帳簿を構成する個々の文書や断片のことを「断簡」と言います。

〔接続・接続情報〕 「断簡」と「断簡」との関係を示す用語。もとは一連の帳簿や文書が二次利用のために分断された結果「断簡」が生じましたが、ある「断簡」と別の「断簡」とが、間に欠失部分なくつながっていたことが確認できた場合、「接続する」と言います。ある「断簡」の前後にどの「断簡」が接続していたかを示す情報を「接続情報」と言います。

〔一切経〕 経典の大規模なひとまとまり。『開元釈教録』(中国の唐代に編纂された経典の目録)その他の既存の経典目録に見える経典のまとまりを意味することが多いですが、独自に作成した経典目録にもとづくまとまりの場合も一切経と称しました。経・律・論の三蔵からなる場合や、経・律のみの場合、疏が加えられる場合など、多様な場合があります。

〔五月一日経(ごがつついたちきょう) 写経所文書を残した皇后宮職―造東大寺司系統の写経所では、存続期間の多くにわたって、光明皇后が発願した一切経が写し続けられ、総数約6500巻あるいは約7000巻に達したとみられます。同所における写経事業の柱でありました。これには天平12年5月1日づけの願文が付けられていますので、それにちなんで「五月一日経」と通称されています。

〔常写(じょうしゃ) 皇后宮職―造東大寺司系統の写経所では、「五月一日経」の写経が写経事業の柱でしたので、常に写しているという意味で「常写」と称されました。

〔間写(かんしゃ) 「常写」の合間に、内裏や貴族や官人たちの要望を受けて、写経所では、さまざまな経典が写されました。「常写」の間に写すという意味で、これを「間写」と言いました。

〔写経生「経師」「装潢」「校生」「題師」〕 写経所で写経を実際に行う人々を総称して「写経生」と呼びます。まず「装潢(そうおう)」が一枚ずつバラバラの写経用紙を加工して、写経できる状態に用意します。これに「経師(きょうし)」が経文を書き写します。それを「校生(こうせい)」が校正し、ふたたび「装潢」が経巻に仕立て、最後に「題師(だいし)」が題経(外題)を書き込んで、新たな経巻が完成します。

〔『大日本古文書』全25巻〕 東京大学史料編纂所編の一大史料集である『大日本古文書』は、さらに「東大寺文書」などに分かれています。奈良時代以前の古文書を集成した全25巻は、単に『大日本古文書』と題されていますが、他と区別するために『大日本古文書(編年)』と呼ばれることもあります。「大日古」と略されることも多いです。この全25巻のほとんどは正倉院文書です。正倉院文書のほとんどを占める写経所文書が活字化されており、写経事業について研究するための必須の史料集です。

〔『正倉院文書目録』1~9〕 東京大学史料編纂所が、原本調査に基づいて、写経所文書について断簡ごとの基礎的情報を示したもの。その断簡の大日古における掲載巻ページ行、紙質、紙数、大きさ、記載内容に関する大日古の補足情報、左右両端の情報その他の基礎的情報が記載されています。特に左右両端にどの別の断簡が続いているかの情報が示されており、それによって分断されてしまったもとの帳簿・文書が復元できることも多いです。ShaDaはこの接続情報を活用しています。2023年時点で、続々修第16帙までが刊行されています。


[i] 正倉院文書および正倉院文書研究については、栄原永遠男『正倉院文書入門』(角川学芸出版、2011年)参照。

[ii] 薗田香融「天平年間における間写経一覧」(日本宗教史研究会編『救済とその論理』法蔵館、1974年4月)、のち『日本古代仏教の伝来と受容』塙書房、2016年2月

[iii] 『大日本古文書(編年)』13巻50頁~57頁、以下13/50~57とする。

[iv] 山下有美氏によると、この時「五月一日経」の一斉勘経(写経時の本経とは別のテキストを使って校訂すること)が行われており、「三部経」の写経事業は、将来経をテキストとして勘経した「五月一日経」を本経とする、光明発願の法華寺の善光朱印経と一連のものである可能性が指摘されている。(山下有美「嶋院における勘経と写経―国家的写経機構の再把握―」(『正倉院文書研究』7、2001年11月)