P03-04 – Part 4: “The World of Social Groups in Early Modern Osaka: A Series on the Interpretation of Historical Documents”

Hero Image: The Yoshino Goun monjo -Document 63,
owned by the Department of Japanese History, Osaka Metropolitan University.
吉野五運文書63、大阪公立大学日本史学教室所蔵

(英語版は近日公開予定)


第4回:「近世大坂の社会集団の世界―史料と解説―」シリーズ

吉野五運の史料と解説・その4

 前回までで、吉野五運文書の看板預り証文について、詳しく考察してきました。吉野五運文書には、その2その3で見たものと似た形式で書かれた看板預り証文が、多数残されています。そこで今回は、看板預り証文の全容について、把握していきたいと思います。

まず、前回までの復習も兼ねて、看板預り証文について簡単に説明しておきましょう。大坂で合薬屋を営んでいた吉野五運は、代表的な商品として「人参三臓円」という薬を製造していました。そして製造した薬を広範囲に販売するために、各地の商人と契約して、取次所と呼ばれる販売店を確保していました。その契約の際に、取次所となる商人から吉野五運に宛てて提出される証文が、看板預り証文です。この証文を提出した商人の居所を確認することで、取次所がどこにどのくらい存在していたのか、ということなどが分かってくるはずです。

 吉野五運文書の中には、看板預り証文が102通あります。証文の作成年代は、安永8(1779)年から明治9(1876)年までと開きがありますが、ほとんどは天保期以降(1830年代以降)の幕末のものです。また、これらの証文は地域別に並んでおり、「看板預ケ一札入 西海道部 明治十年六月調ル」などの包紙も一緒に残されています(「吉野五運文書」63、扉絵参照)。「調ル(しらべる)」のは、この書類の持ち主である吉野五運家の者のはずですから、看板預り証文は明治10年の時点で、吉野五運家の者によって地域ごとにまとめられ、扉絵の写真のような包紙に包んで整理されたことが分かります。わざわざ整理していることから、これらの証文は明治10年時点でも、吉野五運家と取次所との関係を結ぶ証文として効力を持ち続けていたものと考えられます。

 なお、ここでもう一つ注意しておきたいのが、吉野五運家が証文類を整理した際に作った包紙には、看板「預ケ」一札と記されていることです。これに対し、その2でみた枡屋要助が作成した証文では、文中で看板「預り」証文と記されているし、残されている他の看板預り証文もみな、文中では「預り」という表現がとられています。同じ証文を指して、預ける/預かる、という逆の意味の言葉が使われているわけです。これはつまり、吉野五運家の側からみれば看板を預けて取次所に商売をさせているのだから「預ケ」の一札だと書き、取次所となる商人の側から見れば看板を預かって取次所の商売をすると約束しているのであって、証文を提出するときには看板を「預り」ましたと書く、ということなのです。当たり前のことのようですが、この違いは重要です。史料に書かれた言葉には、作成者の立場や意図がいろいろな形でにじみ出ているものです。それ注意しながら丁寧に読みこむことは、史料の内容をより深く理解することにもつながっていくはずです。

 それでは本題に戻って、証文の差出人、つまり人参三臓円を売る取次所となった商人の居所についてみていきましょう。彼らの居所を旧国名(播磨国・近江国など)ごとに集計して、その数を日本地図上に書きこんだのが、以下の図です。

 ここから読み取れることを挙げていきましょう。まず、全体を眺めてみると、取次所は東北地方南部から九州地方まで、かなり全国規模で存在していることが分かります。大坂で製造した薬を、なぜこれだけ広範囲に送り届けて販売できたのでしょうか。それは、江戸時代の間に技術や経済が大きく発達したことと関わっていると考えられます。例えば、街道の整備などにより交通網が発達したことで、商品を遠くまで運ぶことが可能になりました。また売買代金のやり取りについても、金や銀を直接運ぶ方法のほかに、各地の両替商を介して為替などの金融制度が安定的に利用できるようになり、遠隔地間でも多額のお金の決済がしやすくなったのです。人参三臓円の取次所を介した全国的な販売は、こうした社会状況の中でこそ可能となった、と言えるでしょう。

 次に、もう少し細かく取次所の分布を見てみると、関東地方のあたりには、取次所が全く見られないことに気付きます。江戸時代の政治的中心地であり、巨大な都市が形成されていた江戸(武蔵国)にも取次所がありません。これはなぜなのでしょうか。それは、吉野五運が江戸と京都には出店でみせを出していたことと関係していると考えられます。(吉野五運の出店については、松迫寿代「近世中後期における合薬流通―商品流通の一例として」『待兼山論叢』29、1995年、を参照。) 出店とは、現在の会社で言うと支店のようなもので、本店から離れた場所での商売を円滑に行うために、本店と連携をとりながら経営を行う店のことです。出店の経営者には、分家や別家の者など、本店にとって信頼のおける人物が選ばれました。上に掲げた図で、関東地方一帯に取次所が見られないのは、そこに吉野五運店の取次所が存在しなかったわけではなく、江戸の出店が関東地方の取次所を管理していて、看板預り証文も江戸の出店で保管されており、大坂の本店には証文類が残らなかったためなのではないかと考えられます。同様の事情は、京都についても読み取ることができます。図をよく見ると、京都のある山城国には、取次所が見られません。京都には出店があるため、取次所は置く必要がなかったか、もし置かれていたとしても、京都の出店で管理していたか、ということなのだろうと考えられます。

 それでは次に、各「国」に置かれた取次所の数に注目してみましょう。一つの国の中に7店あるところもありますが、1~2店のところが多いようです。本店に近いから多いとか、遠いから少ないというような違いは見られず、全域にまんべんなく配置されているようです。このことと関連するものとして、「吉野五運文書」50-2(弘化3年6月28日「乍恐書付を以御願奉申上候」)の中では、「取次所は諸国城下に一か所のみ」であるとの記述が見られます。城下とは、城を持つ大名の統治範囲、つまりはそれぞれの大名が治めている藩の領域のことです。吉野五運家では、無秩序に取次所を増やしていたわけではなく、「城下」つまりは1つの藩につき1店しか置かないという限定条件を設けていたのです。おそらくこれは、地域内での競合を避け、円滑に商品を行き渡らせるために決めたものではないかと考えられます。ただし、たとえば大和国の取次所は1店しかありませんが、大和国には複数の城があります。全ての城下に1店ずつ置いているわけではありません。そもそも、国内に1店も無いところもあります。その3でも指摘しましたが、取次所となる商人は、大坂にいる縁者を証人に立てるなどして、縁を頼って吉野五運家と取引をはじめているのです。そのため、吉野五運家が関係を結ぶ相手が見付からない地域もあるということでしょう。しかし、完全ではないにしても、これだけ広範囲に取次所を確保できているのは、吉野五運家の経営規模がかなり大きいことの表れだと考えられます。その一端を示す事例として、吉野五運は天保14(1843)年に、大坂町奉行所からの命令に応じて御用金6000両を納めています(『大阪市史』5、1010頁)。ここからも吉野五運がかなり有力な商人だったことがうかがえます。

(つづく)