P03-05 – Part 5: “The World of Social Groups in Early Modern Osaka: A Series on the Interpretation of Historical Documents”

Hero Image: The Yoshino Goun monjo -Document 1-3,
owned by the Department of Japanese History, Osaka Metropolitan University.
吉野五運文書1-3、大阪公立大学日本史学教室所蔵

(英語版は近日公開予定)


第5回:「近世大坂の社会集団の世界―史料と解説―」シリーズ

吉野五運の史料と解説・その5

前回は、吉野五運家の取次所が全国に存在していた様子を概観しました。今回は、そのうちの一つの取次所に着目して、取次所のありようについて、さらに詳しく見ていきましょう。

 今回とり上げるのは、信州松本(現在の長野県松本市)で取次所をしていた、生坂屋喜右衛門です。生坂屋喜右衛門に関する史料は、包紙を除いて13点あります。まず、このうちで最も年号が古い、文化四(1807)年正月の「預り申金子之事」(あずかりもうすきんすのこと)という表題の史料を見てみましょう。


 

「吉野五運文書」1-3

翻刻

   預り申金子之事
一、金百弐拾弐両也  去寅年七月前
           御薬代金御帳面御抜被下候
                     分也
右之通、慥預り借用申所実正ニ御座候、此度
以御了簡年賦ニ御定被下、忝奉存候、然ル上は、
一ケ年ニ金拾両宛為差登、皆済来ル寅年
金拾弐両也、返金可仕候、其年此証文御戻し可被下候、
ケ様相定候得は、縦如何様之故障御座候共、少も
違乱不仕候、万一本人致遅滞候ハゝ、加判之者
御薬売弘株ヲ以引請、急度返済可仕候、為後日
証文仍而如件、
           信州松本借用主
             生坂屋 喜右衛門 ㊞

           同所由緒
             綿屋 七右衛門  ㊞

文化四丁卯年正月
  大坂鰻谷
   吉野五運殿

 

読み下し文

   (あずか)(もう)金子(きんす)(こと)
(ひとつ)(きん)百二十二(ひゃくにじゅうに)(りょう)(なり)  ()(とら)(どし)七月前(しちがつまえ)
            ()(くすり)代金(だいきん)()帳面(ちょうめん)()()(くだ)され(そうろう)(ぶん)(なり)
(みぎ)(とお)り、(たしか)(あず)かり借用(しゃくよう)(もう)(ところ)(じっ)(しょう)御座(ござ)(そうろう)()(たび)()了簡(りょうけん)(もっ)(ねん)()()(さだ)(くだ)され、(かたじけな)(ぞん)(たてまつ)(そうろう)(しか)(うえ)一か年(いっかねん)(きん)十両(じゅうりょう)ずつ()(のぼ)せ、皆済(かいさい)()たる(とら)(どし)(きん)十二両(じゅうにりょう)(なり)返金(へんきん)(つかまつ)るべく(そうろう)()(とし)()証文(しょうもん)()(もど)(くだ)さるべく(そうろう)、かよう(あい)(さだ)(そうら)えば、(たと)()()(よう)故障(こしょう)御座(ござ)(そうろう)とも、(すこ)しも()(らん)(つかまつ)らず(そうろう)万一(まんいち)本人(ほんにん)遅滞(ちたい)(いた)(そうら)わば、加判(かはん)(もの)()(くすり)()(ひろ)(かぶ)(もっ)()()け、急度(きっと)返済(へんさい)(つかまつ)るべく(そうろう)後日(ごじつ)(ため)証文(しょうもん)(よっ)(くだん)(ごと)
             信州(しんしゅう)松本(まつもと)借用(しゃくよう)(ぬし)
               (いく)(さか)() ()右衛門(えもん) ((いん))
             同所(どうしょ)由緒(ゆいしょ)
               綿(わた)() (しち)右衛門(えもん)  ((いん))
  文化(ぶんか)(よん)(ひのと)()(どし)正月(しょうがつ)
   大坂(おおさか)(うなぎ)(だに)
    吉野(よしの)()(うん)殿(どの)

 

現代語訳

   預かりました金のこと(についての証文)

一、金122両   (この金は、)去る寅年の7月分で、
         お薬代金の帳面から抜いてくださった分です。

右の通り、たしかに預かって借用したのは真実です。このたびお考えくださって、年賦に定めてくださって、ありがたく思います。そうであるからには、1年に金10両ずつ送金し、来たる寅年(文政元年・1818年)に金12両を返金して完済いたします。その年にこの証文をお戻しください。このように決めたので、たとえどんな支障があっても、少しも違反いたしません。万一、本人が返済を遅らせたなら、一緒に判を押している者が、お薬の売り弘め株で引き受け、きっと返済いたします。後日のために、証文はこのとおりです。

 「預り申金子之事」という表題は、日本の近世史料ではよく見られるもので、お金の借用証文に用いられた典型的な文言です。現代語訳を一読すれば分かるように、この史料は、生坂屋喜右衛門が吉野五運からお金を借りた際に作成した、借金の証文です。吉野五運の合薬の取次所である生坂屋喜右衛門は、なぜ吉野五運からお金を借りたのでしょうか。この史料の内容について、詳しく見ていくことにしましょう。

 証文の最初のところに、金122両と記してあります。これが借用する金額です。このように金額を最初に記すのが、近世の借用証文の典型的な形式です。そしてその下に、この金額についての説明を記しています。そこには、昨年7月分の薬代金の帳面から抜いた分だ、と書いてあります。生坂屋喜右衛門は、取次所として吉野五運家から預かった人参三臓円を売り、薬の代金を吉野五運に支払うはずですが、経営がうまくいかず、支払いができなかったようです。そこで、7月分の請求金額を、薬の取引で用いている帳面からは削除してもらい、その金については吉野五運から借りることになり、この借用証文が作られたわけです。つまりこの証文は、新たに現金を借りるためのものではなく、自分が支払えていない薬代金を吉野五運から借用するという形にして、実質的に支払いを先延ばしにしてもらうためのものだったといえるでしょう。

 ところで、この証文は文化4年正月に作られていますが、前年の7月分の支払いが問題にされているのはなぜでしょうか。これは、その他の月の支払いは出来ていて、7月分だけが支払えていないということではなく、おそらく支払いに節季払いの方法がとられていて、7月の節季分が払えなかったということだろうと考えられます。江戸時代には多くの商取引で、一定期間は金銀の受け渡しをせずに売買の内容を帳簿に記しておき、期日が来たところでまとめて支払うという、節季払いの仕法が用いられていました。支払い期日は業種などにより違いがあり、隔月の場合や年4回の場合などもありましたが、盆と暮れ、つまり旧暦7月中旬と12月末を期日とする二季払いがもっともよく用いられていました。この史料に見える7月分の支払いというのも、おそらく盆の節季のことを指しているのでしょう。この証文が作られる直前に、文化3年暮れの節季払いも行われていたはずですが、その分の支払いだけは何とか済ませたのか、あるいは支払えていないがその分は薬代金の帳面に、未払い分として記されたままになっているのか、この史料からだけでは不明です。

 なお、122両というのは、かなり高額な借金です。これ以前の生坂屋喜右衛門の具体的な取引状況は不明ですが、おそらくこの金額は、7月の節季1回分の取引だけで発生したものではなく、もっと以前から支払いきれていない代金があり、それが取引のたびに増えてしまい、この金額に至ったのではないかと考えられます。

 それでは、金額に続けて記されている本文について見ていきましょう。本文では、年賦払いにしてくれたことへの感謝を述べた上で、借金の返済方法を記しています。1年に10両ずつ返し、最後の12年目は12両を返す、ということで、返済額は合わせてちょうど122両になります。利息についての記載が無いので、この借金は元金だけを返せばよいということのようです。

 そして、どんなことがあっても約束通りに返す、万一本人が返せなければ、一緒に判を押している者が返す、とあります。一緒に判を押している者とは、証文の最後で生坂屋とともに署名捺印している綿屋七右衛門です。この人物は肩書に「同所由緒」とあり、信州松本に住んでいて生坂屋喜右衛門の縁者であることが分かります。しかし生坂屋の親類なのか、商売上のつながりがあるのかなど、これ以上詳しいことは不明です。いずれにせよ生坂屋と何らかの縁がある綿屋七右衛門が、いざとなれば生坂屋の売弘め株を引き受けて、返済するとあります。

 この証文からは、吉野五運が取次所へ薬を送っても、生坂屋のように代金を払えなくなる者もいたことがうかがえます。以前にその2その3でとりあげた「看板預り証文」では、取次所で代金の支払いが滞った時には、吉野五運家が看板を引き取り、他のところへ取次所を出されても、一言も不満を言わないという内容が含まれていました。生坂屋の看板預り証文は「吉野五運文書」の中には残っていませんが、おそらく生坂屋も他の取次所と同様に、取次所となった時に、看板預り証文を吉野五運家に宛てて作成していたものと思われます。しかし実際には、支払いが滞ってもすぐに看板を取り上げられるわけではなく、未払い分は取引と切り離してもらって、吉野五運家からの借金という扱いにして年賦払いで返し、それでも返せなければ本人の縁者が取引所を引き受けて、支払いを保証する、という対処でしのぐことが容認されたわけです。取次所となる人々は、みな同じような証文で契約を交わすものの、実際に何か問題があった時には、画一的に文言通りの措置がとられるのではなく、当事者の事情に合わせた変更も行われていた、という取引の実態が、ここからはうかがえます。(つづく)