大阪市立大学国際学術シンポジウム 準備セミナー(第3回)報告

報告:北村昌史
「鈴木董著『文字と組織の世界史
新しい「比較文明史」のスケッチ』(東京大学出版会、2018年)を楽しむ」

日時:202112816001800  Zoom 方式利用

報告内容

鈴木董著『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』(東京大学出版会、2018年)

報告者が近現代ドイツ史の研究を始めた1980年代半ばは、日本の近代化のモデルとしてのヨーロッパ・アメリカ史という、明治維新以来の西洋史研究の立脚点が完全に揺らいだ時期である。そのため、西洋史を大局的にとらえる視点を模索する必要があった。こうした思いを強くしたのが、そのころのアジア史研究者の動向であった。浜下武志、杉山正明、岡田英弘、羽田正といった研究者が、実証的な成果をふまえ広い射程をもった著作を刊行した。そこには、欧米由来の概念・史観を排して研究対象の社会に即して大きな見通しをもつ姿勢がうかがえたのである。

 たとえば、同じ1992年に出版された岡田英弘『世界史の誕生』(筑摩書房)と杉山正明『大モンゴルの世界――陸と海の巨大帝国』(角川書店)は、モンゴルの大遠征から「世界史」が作り出されたという見方が語られる。

 鈴木董『オスマン帝国――イスラム世界の「柔かい専制」』(講談社現代新書、1992 年)も、がちがちの専制国家による硬直した社会という、西洋中心史観に毒されて報告者が勝手にもっていたイメージを覆してくれた。その後立て続けに刊行された著作もふくめて、鈴木氏は、深みのある内容を平明な叙述で説得的に語ることにより、オスマン帝国やイスラームに関して、日本の歴史研究者がもっていたイメージを一新したといえる。

 この頃の報告者はこうしたアジア史研究者の動向を、西洋由来の概念や手法に対する根源的な「異議申し立て」と理解して、その「異議申し立て」をふまえてヨーロッパ社会をどのように把握していくのかを課題と考えるようになったし、現在も考えている。

 ラテン文字世界、ギリシア・キリル文字世界、梵字世界、漢字世界、アラビア文字世界の5 つの大文字圏の確立・展開として「世界史」を叙述しようとする本書を手にしたときに期待するのは、報告者の認識の枠組みにどのように衝撃をもたらしてくれるかであった。かつての著作のように、本書の記述が強烈な示唆をあたえてくれるわけではない。報告者にとって本書は、枠組みは提示しつつ、平明な叙述で歴史的事実・事件を丹念に描くことにより読み手の深読みを誘発するような書物といえる。

 帝国主義時代でも他の文字世界への進出をおこなわず、ラテン文字世界にとどまったといえるドイツの歴史を扱う報告者も、本書を読み進める中いろいろと想像をめぐらすことができた。

 一例をあげれば、第1次世界大戦の引き金となったサライェボ事件も次のような背景があったと想像できる。サライェボを中心都市とするボスニア・ヘルツェゴヴィナは、言語や習慣がほぼ同じ、ムスリムのボシュニャク、正教・キリル文字のセルビア人、ラテン文字・カトリックのクロアティア人が併存していた地域であった。それまでアラブ文字世界のオスマン帝国領であったのが、1878年にはラテン文字世界のハプスブルク帝国が軍事占領し、1908年に併合する。上野先生のご指摘によれば、ボシュニャクはアラブ文字を取得しているわけではないが、それでもこの地域を介してハプスブルク帝国は、ラテン文字世界、アラブ文字世界、ギリシア・キリル文字世界が混在するバルカン半島の世界に直接かかわらざるをえなくなる。1908年の併合によりボスニア・ヘルツェゴヴィナにおけるアラブ文字世界の存在の縮小があったものの、ハプスブルク帝国はバルカン半島において文字世界が混在する状況に十分対応できず、そこで生じた3つの世界のバランスの崩壊が、ボスニア系セルビア人によるオーストリア皇位継承予定者暗殺につながったのではないか。このように、第1次世界大戦のきっかけは、3つの文字世界の関係の変化と想像することができたのである。

 本書に関して細部の過誤を指摘するのは容易であろう。報告者の研究対象に近い地域についていえば、ポーランドは本書では「ラテン文字世界」に位置づけられているが、ポーランド分割から第1次世界大戦後の独立まで「ギリシア・キリル文字世界」にその領域のかなりが属していたので、単純にそのように割り切ることはできないはずである。とはいえ、本書は、細部にこだわらず本と対話しながら読み進めていけば、西洋中心史観の「世界史」から距離をとる手掛かりを得ることができる書物といえる。これは、欧米以外の地域出身の「アジア」史研究者だからこそなしえた業績である。欧米人あるいはアジアの西洋史研究者では、肥大化した19世紀以降の欧米社会を前提とした見通しから脱却することは難しいであろう。

 

質疑応答

 本書の内容や報告者の関心のあり方については多様な質疑応答が繰り広げられ、「世界史」的に研究を進める可能性について議論が深められた。                   

 (文責 北村昌史)


準備セミナー(第3回)コメント

地域区分と文字世界:鈴木董著『文字と組織の世界史』を受けて
上野雅由樹

 本書の特徴は、世界の歴史を描くにあたり、「文字世界」という概念を採用した点にある。ただし、こうした概念を用いる意義は必ずしも明示的に述べられているとは言いがたく、タイトル自体がミスリーディングですらある。こうした事情に鑑み、以下では若干の補足を試みたい。

 評者が理解した限り、文字世界は、分析的な(analytical)意味合いが深い概念では必ずしもなく、これを用いることで過去に生じた個々の事象について、その要因や性格、影響がより適切に、また分かりやすく説明できるようになるわけではない。むしろ、文字世界という概念を採用することの意義は、叙述上の(descriptive)ものである。

 このことは、本書がヨーロッパとアジアという言葉、とりわけ後者をあまり用いていないことに表れている。20世紀末以降、西洋と東洋という言葉の使用は、これらがヨーロッパ中心主義的なバイアスの強い概念であることを受け、学術的には避けられる傾向にある。そのなかでは西洋がヨーロッパと、東洋がアジアと言い換えられることも多いが(何なら西洋とアジアをタイトルで並べる専門書があったりもしてびっくりするが)、これは解決になっていない。西洋と東洋と同様、ヨーロッパもアジアも、ヨーロッパ中心主義的なバイアスを背負った概念なのである。

 しかしながら、ヨーロッパとアジアという言葉を便宜的には使わざるをえないというのが日本におけるこれまでの世界史叙述のあり方であり、こうした用語法は、高校世界史の教科書を中心に、広く採用されているように見える。こうした限界は日本において、ユーラシアの西端の小さな半島部に過ぎない(西)ヨーロッパの歴史が過剰代表される一方で、中国以外の「その他アジア」が軽視される世界史叙述が再生産されることに寄与している。また、文化的に共通性を持たない諸地域をあたかもひとまとめにできるようなアジアという言葉は、暴力的ですらある。これらの問題は結果として、世界の歴史を学ぶなかではヨーロッパの歴史に触れる機会がだんぜん多く、ヨーロッパ史に興味を持つ若者が比較的多くなり、研究者の数、学界でのプレゼンス、そして教科書レベルでの世界史叙述が維持されるという循環につながっているように思われる。

 よりバランスの良い世界史叙述を目指す試みは進められつつあり、例えば、大阪大学歴史教育研究会の『市民のための世界史』(大阪大学出版会、2014年)は、(東)アジア史を重視した世界史叙述の試みである。ただしこれは、別のバランスの悪さをもたらしていることは否めず、また、新知見を盛り込むことを重視した結果、読みやすさが著しく損なわれていると言わざるを得ない。評者自身が関わった『世界史/いま、ここから』(山川出版社、2017年)では、世界の歴史を5つの時代で章にわけ、現代以外のそれぞれの時代について、東アジア、西アジア、ヨーロッパの節を設けることで、ヨーロッパが過剰代表される世界史叙述を、よりバランスのとれたものにすることが試みられている。それでも、アジアという言葉を用いる居心地の悪さから自由になることはできていないし、高校世界史教科書の延長で構想されただけに、執筆陣のバランスの悪さ(中国史1名、西アジア史1名、西洋史4名)は引き継がれている。

 こうしたなか、鈴木氏の著書は、世界史を構成する単位を、漢字世界、梵字世界、アラビア文字世界、ギリシア・キリル文字世界、ラテン文字世界という5つの文字世界とすることで、アジアとヨーロッパという言葉の使用を極力避けることに成功している。そして、従来、過剰代表されてきたヨーロッパは5つの文字世界のひとつという地位に留められ、ヨーロッパの外縁として扱われる傾向にあった(ギリシア・)キリル文字世界は独立した地位を得ることができた。また、アジアとして文化の異なる諸地域をひとまとめにする居心地の悪さを解消することにもつながっている。無文字社会や文字文化の弱い地域が切り捨てられがちであるという欠点はあるとはいえ、総じて多極的な歴史像を描く端緒が開かれているのである。

 冒頭で述べたように、文字世界は必ずしも分析的な概念ではなく、そうであるがゆえに、より価値中立的な世界史叙述につながりやすいというのも利点である。これは、アラビア文字世界とラテン文字世界をイスラーム世界と(西方)キリスト教世界と言い換えれば分かるだろう。宗教の名前を冠した方が、共有された特徴をイメージしやすいように思うし、ペルシア語文化圏や中央ユーラシアのような、文化的共通性を重視した広域的な地域区分上の概念を採用することも可能だっただろう。しかし、あえてそうしないことで、価値中立的でバランスのとれた世界史叙述が優先されていると言える。

 さて、文字世界という概念を用いることは、とりわけそれらができあがり、それぞれの自立性の度合いが高かった中世までの歴史を描くところまでは、容易である。鍵となるのは、ヨーロッパが急成長する近代、そしてそれにいたる近世/初期近代をどのように描くかだろう。この点から見ると、鈴木氏の著書が、漢字世界や梵字世界、アラビア文字世界の17、18世紀にほとんど紙幅を割いていないのは残念でならない。これは本書が、国々の消長を重視する反面、比較的安定していた時代を軽視する叙述方法を採用したことに起因しているように思われる。ただし、著者が言う「ウェスタン・インパクト」へとつながる17、18世紀の「アジア」諸地域において、近代へと至る内在的な変化がどのように進んでいたのかを明らかにしようとする研究は、各地域に関して近年、著しい進展を見せているはずである。そうした成果を取り入れ、厚みのある形で諸文字世界の近世史像を描くことこそ、ヨーロッパ近代のみに収斂するわけではない、多極的な世界史像をバランスよく叙述することにつながるのではないだろうか。そしてそれによってこそ、中国とインドが急成長する現代史を、より適切な形で長い歴史軸のなかに位置づけられたのではないだろうか。もとより、これを単独で行うのは無理な話であり、方向性をすり合わせた複数の研究者が共同で取り組むべき課題だろう。鈴木氏の構想を発展的に受け継ぐ世界史書の登場を待ちたい。

(文責 上野雅由樹)