大阪市立大学国際学術シンポジウム 準備セミナー(第5回)報告

報告:
渡辺健哉「『村上専精と日本近代仏教』(法蔵館)をめぐって」
塚田 孝「文学研究科叢書第12巻『周縁的社会集団と近代』について」

日時:2021年5月7日(金)16:00~18:30  Zoom 方式利用


『村上専精と日本近代仏教』(法藏館、2021年)をめぐって

渡辺 健哉

はじめに

 今回、『村上専精と日本近代仏教』所収の拙稿を紹介する機会をいただいた。せっかくの機会なので、この分野を取り巻く研究状況と拙稿について簡単に紹介する。

1 近年の近代日本仏教史研究の展開

 日本における仏教史研究は仏教学、宗教学、日本思想史の研究者が取り組んでいるような印象を受けるかもしれない。しかしながら、近代日本仏教史研究に関しては、ディシプリンの異なる研究者が参入して、現在活況を呈している分野であるといってよい。事実、長尾宗典は「近代仏教史は今日最も豊饒な成果を生み出す領域の一つにまでなった」(『史学雑誌(2019年の歴史学界――回顧と展望)』129-5、2020年、181頁)と述べている。

 さしあたって近年の研究動向を把握するには、大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎〔編〕『近代仏教スタディーズ――仏教からみたもうひとつの近代』(法藏館、2016年)、佛教史学会〔編〕『仏教史研究ハンドブック』(法藏館、2017年)、島薗進・末木文美士・大谷栄一・西村明〔編〕『シリーズ近代日本宗教史〈全6巻〉』(春秋社、2020-21年)を手に取るのが良い。これらの書籍からは、研究を牽引している研究者の最新の動向とともに、仏教学・日本思想史のみならず、歴史学や社会学の研究視角が加わり、研究の多様性が理解される。

 現在、報告者は以下に述べる二つの点に関して研究が不足しているとみている。

 第一は、日本における近代仏教の展開とアジア諸地域との関係である。この点では、坂井田夕起子『誰も知らない『西遊記』――玄奘三蔵の遺骨をめぐる東アジア戦後史』(龍渓書舎、2013年)、川邉雄大〔編〕『浄土真宗と近代日本――東アジア・布教・漢学』(勉誠出版、2016年)、大澤広嗣『戦時下の日本仏教と南方地域』(法蔵館、2015年)、エリック=シッケタンツ『堕落と復興の近代中国仏教――日本仏教との邂逅とその歴史像の構築』(法蔵館、2016年)、藤井由紀子「〔特別調査報告〕西厳寺蔵「小川貫弌資料」調査報告(五)」(『同朋大学佛教文化研究所紀要』40、2021年)等の研究がある。日本によるアジアへの進出に関わって、仏教はいかなる役割を果たしたのかという点について、以上の研究を踏まえつつ、事実に即して掘り起こす必要があると思われる。この点は次に掲げる第二の点とも併せて考察を深めるべき課題といえよう。

 第二は、アカデミズムにおける仏教史研究の展開である。今回、東京帝国大学における印度哲学研究室の成立過程を考えた。今回は触れなかったが、宗教系の専門学校が1919年=大正8年4月1日施行の大学令により「旧制」の大学に移行した点は注目される。なかでも、1926年4月に成立した大正大学は、宗教大学・天台宗大学・豊山大学が合流して形成されたが、当初は総合仏教大学として設立が構想されていた。この設立構想にあたっては、拙稿で触れた常盤大定や安藤正純も暗躍していたことが、報告者の調査により明らかになっている。第一の問題とも関わって、アカデミズムにおける仏教学の展開と、日本が進めたアジアへの進出との間にどのような関係があるのか。この点は今後深めていくべき課題かと思う。

2 『村上専精と日本近代仏教』の簡介

 本書は、2017年12月16日(土)に開催された東京帝国大学インド哲学講座の開設100年を記念したシンポジウムの報告をもとにした論文集であり、日本学術振興会の科学研究費助成事業の研究成果公開促進費(2020年度)にもとづき2021年2月に出版された。

 村上専精(1851-1929)は、丹波国氷上郡野上村(兵庫県丹波市春日町)の真宗大谷派教覚寺(現在は廃寺)に長男として生まれる。1887年、東京の曹洞宗大学林(駒澤大学の前身)の招聘に応じて上京し、井上円了が設立した哲学館(東洋大学の前身)の講師を兼任した。1890年には浅草の大谷教校の校長に就任した。拙稿で扱った常盤大定はここに在籍し、村上との接点が生まれる。1901年には『仏教統一論』を刊行して、大乗仏教非仏説論などを唱えたことで、真宗大谷派の僧籍を一時的に離脱する騒動に発展する。1917年、東京帝国大学印度哲学科の初代教授に就任。この間、1894年、鷲尾順敬・境野黄洋らと雑誌『仏教史林』を創刊、1897年には『大日本仏教史』を刊行、1926年に辻善之助らと『明治維新神仏分離史料』を編纂・刊行した。

 本書の目次は以下の通り。

  • 村上専精という課題――はしがきに代えて(オリオン・クラウタウ)
    • 序章 統一論とユニテリアン思想――村上専精の全体像に向けて(ミシェル・モール/亀山光明訳)
  • 第Ⅰ部 伝統の再構築――村上専精の初期思想
    • 第一章 排耶への姿勢――〈実学〉と村上専精の思想形成(三浦周)
    • 第二章 村上専精『活用講述因明学全書』の思想(師茂樹)
  • 第Ⅱ部 仏教統一論とその思想的意義
    • 第三章 仏教統一論と比較宗教学――村上専精の「五種の研究眼」をめぐって(岡田正彦)
    • 第四章 〈大乗非仏説論争〉再考――村上専精の意図(蓑輪顕量)
    • 第五章 仏教の統一にあらがって――村上専精への宗門からの批判(ライアン・ワルド/佐々木隼相訳)
  • 第Ⅲ部 統一論の彼方――村上専精の遺産
    • 第六章 修養としての仏教――村上専精の教育実践とその射程(オリオン・クラウタウ)
    • 第七章 村上専精と常盤大定――東京帝国大学印度哲学講座の開設をめぐって(渡辺健哉)
    • 第八章 村上専精とその弟子――『明治維新神仏分離史料』の編纂について(池田智文)
    • 終 章 村上専精論を超えて(林 淳)
  • 付録① 村上専精直筆資料翻刻(オリオン・クラウタウ)
  • 付録② 村上専精著作目録・年譜(呉 佩遥 編)
  • あとがき(オリオン・クラウタウ)

 編者のオリオン=クラウタウは村上専精に関する単著を日本で初めて発表し(『近代日本思想としての仏教史学』法藏館、2012年)、村上をアカデミズム仏教学の鼻祖と位置づける。そうした編者の方針もあり、拙稿以外は日本思想史、宗教史、仏教史からのアプローチで、そのほとんどは村上の著作から彼の思想に迫った研究である。

3 拙稿「村上専精と常盤大定――東京帝国大学印度哲学講座の開設をめぐって」の紹介と反省

 拙稿では、東京帝国大学印度哲学講座の開設をめぐり、常盤大定(1870-1945)と村上がどのように活動したのかについて論じた。

 常盤は、磐城国(現宮城県伊具郡丸森町)に生まれる。帝国大学文科大学哲学科を1898年7月に卒業し、大学院に進み、そののち様々な大学の講師を経て、1907年7月に東京帝大の講師に就任する。1931年に退官し、1945年5月に死去した。この間、五回にわたって、中国大陸に渡り、仏教遺跡の調査を行った。

 拙稿では、当初は「仏教講座」として開設が企図されていたのに、紆余曲折を経て「印度哲学講座」として設立された経緯を明らかにし、その背景として、第一次世界大戦による宗教者の危機感があったこと等を指摘した。

 当初、この論文は単独の論文として発表することを考えていたため、『村上専精と日本近代仏教』というタイトルの書籍に収めていいものか、という疑問は最後まで払拭できなかった。いま振り返れば、もう少し村上の考えを踏まえればよかったかと思う。また、末尾でこの構想の萌芽を第一次世界大戦とつなげて考えてみたが、この点については、向き合った課題が大きすぎて充分に消化しきれなかった。

 ただ、本稿の検討を経ていくつかの課題も見えた。三点ほど指摘したい。

 まず、「寄付講座」というアイデアで講座が構想された事実と、その背景として大正時代の地方財閥が行った社会事業との関係である。常盤が寄付を求めた斎藤家(宮城県石巻市前谷地を根拠地)は、のちに財団法人斎藤報恩会を設立し、豊富な資金を背景に公募型の研究助成事業を行う。東北帝国大学で狩野文庫を購入する際の原資の一部となったことが特に知られている。

 同様に、風間家(山形県鶴岡市を根拠地)も、財団法人克念社を設立し、日本仏教の研究助成や、奨学資金の給付などの社会事業を行った。常盤大定が中国調査を実施するにあたっても風間家から資金を得ている。拙稿で触れた安田家を代表とする中央の財閥ではなく、地方の有力財閥がどのような社会事業を行ったのか、その背景とも合わせて考えてみたい。

 第二に、仏教学と宗教界との架橋となる人間の存在も気になった。当時の大学で、仏教学・宗教学を講じる教員は僧籍を有するものが多かった。大学や研究機関における研究者としての活動と、宗教界での活動をいかにすり合わせ、切り分けたのか、興味を抱いた。

 最後に、近代日本における学知形成の問題である。拙論の内容を踏まえれば、海外で研究手法を学んだ研究者と、江戸時代以来の伝統的な学問を身につけた研究者との関係も注意を払っていく必要があろう。とくに報告者の専門とする中国学では、ランケ流の近代歴史学を習得し、中国を相対的に学問対象として見つめた研究者と、伝統的漢学の素養を踏まえて中国を捉えた人との間で、相当の懸隔があった。今後研究を進めていくにあたっても、この点には注意を払っていきたい。

おわりに

 今回は常盤大定を軸にして東京帝国大学の一講座の形成過程を追いかけた。今後も引き続き、明治・大正時代に生きた知識人に焦点をあてて、その活動を掘り起こすとともに、アジアとの関係に注視した研究を行っていきたい。

*本報告の機会を与えていただいた事務局の方々、また報告者の気が付かないことまで指摘していただいた参加者の皆様に、心より感謝いたします。

【補足】

 拙論では明示しなかったが、村上と常盤の確執が人事にも及んでいた可能性もある。事実か否かは別にして、そのことが新聞に取り上げられているので、参考までに紹介しておく。

 大正15年(1926)10月26日付『読売新聞』「春は廻り来る――十八年の苦節 万年講師から教授へ 東大の常盤大定博士」

 豊かな学殖をもちながら、いろいろな情実の為、下積になつて埋れている学者は何処の大学にも二人か三人はゐる。支那佛教史蹟の名著で知られてゐる、東大講師常盤大定博士などもお多分にもれぬ一人である。後輩が已に十人も教授となつてゐるので、博士は明治四十二年から今日迄万年講師としてほうり出されてゐるが、之は御大の村上専精博士ににらまれた結果だといふ。往年両博士が「起信論」で論戦の火花をちらした事は有名な話である。然し不遇な博士にも暖き春はめぐり来て苦節十八年、今度講師から一躍教授に昇任、新設のインド哲学講座の擔任となる事に教授会で決定、来月講座の官制発表と共に正式の任命を見る筈である。講師から教授に昇進した例はごくまれで、最近では苦節十二年の真鍋嘉一郎学士があるのみである。小石川指ヶ谷町の邸に博士を訪へば「長い間の奉公ですが、格別不平も出ません。私は別に楽しみをもつていますから。然し大學の講師といつても講師は貧弱なもので、一ヶ年の俸給でやつと一ヶ月の生活を支へるだけですから、随分苦労しましたよ。教授昇任のことはまだ正式にきまつた訳ではないのですから」と謙遜して語つた(句読点は筆者が補った)

※大正12年(1923)3月、村上が退官、大正15年(1926)11月、常盤が教授に。

(文責・渡辺健哉)


渡辺健哉氏報告の討論要旨

 まず、近代日本仏教史研究が注目されているのはなぜかという質問に対し、さまざまなジャンルの研究者が関わっており、たとえば明治維新の中で、教育者のなり手として多くを僧に頼っていたことを背景として、宗教と教育という問題から近代を照射できるという点などが注目されているのではないかと答えた。

 日本の仏教の布教は、当時の中国がどのような状況にある中で行われたものだったのかという質問に対しては、中国の正確な状況は不明だか、少なくとも日本側の認識としては、辛亥革命などにより仏教のものが壊されており、日本が何とかしなくてはならない、という意識がはたらいていたようだと答えた。また、中国大陸に進出する僧は、誰に布教をするつもりだったのかという質問に対しては、建前としては中国の人々への布教を目的としていたが、中国側では大陸進出の足掛かり、あるいはスパイであると受け止められることもあったと答えた。また、朝鮮や満州支配の中で、日本の宗教の進出がどのような衝突を生んでいたかという質問には、その実態は不明であると答えた。

 また、「仏教講座開設の卑見」内にある泰西学者とは何を指しているのかとの質問には、マックス・ミュラーなどの宗教研究者のことではないかと答えた。これに対し、欧米の研究者たちのことを指していて、彼らではなく自分たち日本人がやるべきだという意味で使っているのではないかという意見も出た。また、欧米に学びに行った留学組の人々も、宗教学を学びに行ったのかとの質問には、仏教学ではなく宗教学や語学を学んだ、ただし留学した人の多くは僧籍を持つ人であった、と答えた。

 また、当時の東大で、村上や常盤はどのような意図があって新講座を設立しようとしたのかという質問に対し、村上も常盤も当時は講師であり、講座制を新設することで教授のポストが増やせたという現実的な理由もあったのではないか、と答えた。また、開設された印度哲学講座では、仏教史自体の研究は想定されていたのかとの質問には、宗派にはこだわらない形だが授業としては行われていたと答えると、そこで普遍的な仏教史が目指されていたのかどうか、興味深いとの意見が出た。これに関連し、東大においては、キリスト教についても、キリスト教学の講座は開設できなかった経緯があるのだが、同様のことが仏教においてもあったことは興味深いとの意見や、宗教を学問としてどう扱うかは、その国のありようにも規定される重要な問題だという意見も出た。

 そして最後に報告者から、今後の展望として、近代の中国と日本の関係について考えていきたいとの発言があった。

(文責・渡辺祥子)


育成事業・国際学術シンポジウムの成果のとりまとめの方向

塚田 孝 

 国際的な活躍が期待できる研究者の育成事業「周縁的社会集団と近代―日本と欧米におけるアジア史研究の架橋」の成果を発信することを目的とした大阪市立大学主催(文学研究科企画)の国際学術シンポジウムが2020年12月に予定されていたが、コロナウイルス感染症の蔓延で2021年12月に延期が決定された(本科研では、この国際学術シンポジウムを研究課題の第3の柱の一環として位置づけている)。しかし、コロナ感染症はますます広がりを見せ、今年12月の開催も困難が予想される。

 育成事業と国際学術シンポジウムの成果を合わせて文学研究科叢書として刊行することを予定していたが、国際学術シンポジウム実行委員会では、こうした状況を勘案して、文学研究科叢書のプランを先行して具体化して行くことに方針を切り替えた。そして、叢書への収録予定論文に関する個別の準備セミナーを積み上げていき、国際学術シンポジウムが開催できるようになれば、その編集プランをベースにシンポジウムのセッションを構成することにしたのである。

 そこで、今回の準備セミナーでは、研究科叢書の企画の全体の方向性を議論し、企画の趣旨を共有するための場とすることにした。育成事業における国際共同研究の成果を踏まえ、国際共同研究の中で見えてきた課題・論点を具体化する諸論考を盛り込んでいこうというのが、企画の趣旨である。

 当日の議論では、「③今後の課題」のうち、「第3:民衆の時代(歴史)の区切り方意識の比較史」の部分について、補足説明が求められ、また種々意見が交わされた。今回の議論で、企画の方向性が共有されたと言えよう。

(文責:塚田孝)