大阪市立大学国際学術シンポジウム 準備セミナー(第6回)報告

報告:坂井田夕起子
「『誰も知らない『西遊記』 ―玄奘三蔵の遺骨をめぐる東アジア戦後史』の刊行とその後の研究活動について」」

日時:2021年6月25日(金)16:15~18:15  Zoom方式利用


報告内容

 現在の日本には、なぜか玄奘三蔵の遺骨があります。全日本仏教会から正式に認められている奉安先は奈良薬師寺と埼玉慈恩寺です。ただし、ほかにも埼玉に二ヶ所、大阪岸和田、兵庫篠山にもあり、一時期は弘前市や青森市にもありました。

 では、なぜ日本に玄奘の遺骨があったのかというと、日中戦争中、南京の日本軍(通称高森部隊)が発見したからです。土木工事中に偶然発見した石棺と人骨、副葬品を調査した結果、玄奘のものではないかということになりました。日本軍占領地に成立していた汪政権の外交部長褚民誼は、仏教居士として有名で、彼はすぐに日本側と交渉して遺骨を接収し、日華親善をアピールするために日華合同の三蔵塔再建を計画しました。1944年10月10日、南京で大々的な建塔式が行われ、急遽日本への分骨も決定しました。

 しかし、まもなく敗戦を迎えたことで、玄奘の遺骨は行き場を失いました。仏教連合会では戦争犯罪に関わることを恐れ、蒋介石に遺骨返還を打診しました。しかし、蒋介石からは使者を通じて口頭で「返還不要」と回答があり、その結果、埼玉慈恩寺を中心に有志が奉安することで決定しました。慈恩寺の境内から離れた場所に塔を建立したのは、遺骨を私物化しないと言う慈恩寺の意思を表明したものです。

 玄奘の遺骨については一件落着かと思われたところに、降って湧いたのが台湾分骨騒動です。背景には、2つの「中国」をめぐる問題があります。1949年、中国大陸には中華人民共和国が成立し、中華民国は台湾に撤退しました。中国はアメリカの封じ込め政策に対抗し、国交のない日本と民間交流を重ねました。日中間の戦後処理について、特に在華邦人の帰国問題や日本人強制連行犠牲者の遺骨送還問題などに活躍したのが、赤十字と在日華僑、そして日本の僧侶たちです。1953年7月、僧侶たちは華僑らとともに外務省の制止を振り切って訪中を果たしました。僧侶たちの「人道的活動」に、外務省も反対することができず、中国政府は日本からの「民間」交流を積極的に受け入れました。そして、このような動きが、台湾の中華民国を刺激したのです。

 台湾の中華民国代表は、日本にある玄奘の遺骨の返還要求をしました。そして、要求が受け入れられないとなると、分骨交渉を実現させました。これには中国も黙っていません。中国大陸の略奪品は中国大陸に返還すべきと強硬に主張し、もし日本が希望するなら遺骨を日本で奉安することは認めてもいいが、台湾分骨だけは断固反対すると抗議しました。それでも日本は、台湾分骨を「宗教活動である」と強行し、中国側の抗議は単なる政治的ポーズだと見做していました。

 実際、1950年代後半の中国政府は積極的な仏教外交を展開していました。玄奘遺骨の問題についても日本側に釘を指しただけで、その後も仏教交流を継続しました。1957年には、玄奘の遺骨をインドへ贈与しています。この時期の中国にとって、国連など国際政治の正規ルートを持たない中国の外交手段として仏教は活用されたといえます。中国によるアジア諸国への仏教外交は、文化大革命で中断されるまで続きました。

 1971年、中国が国連に加盟し、中華民国が脱退します。翌年、日本と中国は国交を樹立し、台湾と断交しました。まだ文化大革命は収束していませんが、日本仏教界ではすぐに訪中団を派遣しました。1974年、奈良市と西安が姉妹提携を結んだことがきっかけで、薬師寺(法相宗)と西安興教寺が交流を開始し、それを仲立ちしたのが「玄奘」です。埼玉慈恩寺から正式に分骨を受けた薬師寺は、玄奘三蔵院伽藍を新たに建立しました。落慶式には中国仏教協会と玄奘に関係する中国各地の寺院から僧侶を招待し、盛大な落慶式を開催しました。かつての政治的な揉め事を再現しない、賢いやり方だったと思います。

 一方、日本と断交した中華民国でも、仏教は公式な外交に代わる手段として活用されました。従来、脱植民地化に熱心だった中華民国政府が一転、日華仏教の交流団体を後押ししました。ここでも玄奘の遺骨がシンボルとなりました。ただし、台湾の戒厳令が解除され、民主化が進むと、このような政府主導の「民間」交流は廃れていきました。

 そして、新しい時代には中国と台湾の交流が始まりました。1989年、中国と台湾の間で「里帰り」交流が開始されると、かつて大陸から台湾に逃れた僧侶たちが相次いで中国を訪問しました。当時、台湾中国仏教会の役員だった了中も河南省に里帰りを果たし、玄奘の遺骨の分骨を南京の霊谷寺に願い出ました。1998年、玄奘の遺骨が南京から台湾に分骨された時期は、中台仏教交流のピークでもあります。ただし、台湾の民主化に対する中国側の批判が高まっていた時期でもあり、玄奘の遺骨分骨にも中国側の「統一工作の一環」という台湾市民からの批判も寄せられました。

 最後に中印関係についてお話します。かつて中国から送られた玄奘の遺骨は、その後の中印関係の悪化で放置されていました。これが改めて脚光を浴びるようになったのは2000年代に入ってからです。背景には中国の仏教熱と、インド仏蹟巡礼旅行熱の高まりがあります。2007年、中国とインド双方が資金を出し合い協力して、ナーランダに玄奘記念堂を再建しています。

 玄奘は中国では仏教の偉人ではなく、偉大な中華帝国を体現する愛国者で、探検家で、外交官としてシルクロードの友好のシンボルです。2004年にユネスコに、カザフスタンやキルギスと協同で世界遺産「シルクロード:長安・天山回廊の交易路網」の登録が実現しました。「一帯一路」の経済圏構想など、21世紀においても中国では相変わらず、玄奘が政治的なシンボルでありつづけているのです。

 現在報告者が参加している中国側のプロジェクトは、北京大学が中心となっているプロジェクトで、国内外の若手を中心に中国で散逸した仏教資料を収集、復刻し、毎年シンポジウムを開催して、論文集を発行するものです。スポンサーが中国の著名な寺院というところも、参加者の顔ぶれが国際的であるところも時代を反映しています。カナダやアメリカ、シンガポール、日本で活躍する中国人研究者、日本や台湾留学で高度な知識を獲得した中国の若い教授たちが集うシンポジウムは、本当に刺激的であり、玄奘の時代同様、まさに宗教と政治が融合するさまを見ることができています。

 同時に、報告者は今年、ドイツやアメリカの研究者との共同研究で、アメリカ宗教学会の審査をパスし、パネル参加することが決定しました。日本による帝国主義的な海外進出と、日本人仏教者と東アジア各地の宗教の関係は、現在、世界的にも注目されているテーマです。中国的世界とは別の視点から、この問題を眺める絶好の機会だと楽しみにしています。

(文責・坂井田夕起子)

質疑応答

 今回(第6回)のセミナーは、前回の渡辺健哉報告で、仏教をめぐる日中文化交流史の注目すべき成果としてあげられていた坂井田夕起子氏にご自身の研究を紹介してもらったものである。

 討論では、まず玄奘三蔵の遺骨をめぐって、いくつか質問があった。発見に至る経緯については、稲荷神社を建てるための土木作業中に出土し、たまたま考古学に詳しい者がいて発見につながったこと、遺骨の真偽については本物でない可能性が高いと考えていることを答えた。また、蔣介石が戦後に遺骨の返還を不要と言った理由については、公文書には問い合わせがあったという記録しかなく事実確認はできないが、彼がクリスチャンであったことに加え、自身の政治的立場も危うい状況の中で、遺骨どころではなかったのだと思うと答えた。

 また、占領中の南京に日本の宗教各派が布教所を設けていたのは、何の目的だったのかとの質問があり、日本仏教界は日清戦争以来、従軍布教師を派遣する伝統があり、その後は布教師が占領地に残って出張所や別院を開設していた。ただし、布教権がなかったため、租界に住む日本人のみを相手にした。日中戦争開始後は、占領地各地に進出する日本人や軍人と足並みを揃えて教線を拡大していった。日本軍としては布教よりも現地の治安回復や医療活動など、中国人を相手とする「宣撫工作」を期待していたのだが、各宗派は実際には南京など中国各地へ多数流入した日本人への布教を競っていたと答えた。

 また、外交部長の褚民誼と仏教との関係について質問があり、彼は有名な仏教居士で仏教者の保護をしていたが、そのようなあり方は当時の政治家によく見られるものであったことを説明した。

 戦後の問題では、世界仏教徒会議が果たした役割についての質問があり、平和のために積極的に動くというよりは、世界の仏教徒が集まることそのものを重視しており、強制力はなく親睦を第一目的としていたこと、中国は最初これに批判的だったが、1950年代半ばからは、宗教保護の姿勢を強調するためにケース・バイ・ケースで参加したと答えた。また、戦後の日本では、僧侶たちが中国へ行く動きがあったとのことだが、政党はどのような動きであったのかとの質問には、1950年代は日中間に国交が無かったため、赤十字や中国が指定した日中友好協会、そして華僑団体などを通じての交流が行われ、中国政府は民間交流を通じての日中国交実現(「以民促官」)を目指した。しかし、政治家個人がここのメンバーの一人として訪中することはあっても、政党が絡んでくるのは国交樹立後からであると答えた。

 また、現在の台湾には、宗教を研究する学問として「宗教学」は存在するのかとの質問には、正確には分からないが、台湾の大学では、日本やアメリカへの留学経験者が宗教を教えることが多く、またそれとは別に台湾では宗教教団が発達しており、各教団が研究機関を持ち、仏教研究が進められている状況だと説明した。

 全体的なコメントとしては、坂井田氏の研究成果は、新しい切り口からのアプローチにより、仏教史・中国史など、さまざまな分野の「すきま」をつなぐことでできたものであることや、氏が英語圏の研究者との連携をはかっている点も興味深いなどの意見が出た。そして最後に、報告者が今後の活動予定や抱負を語り、閉会した。

(文責・渡辺健哉・渡辺祥子)