大阪市立大学国際学術シンポジウム 準備セミナー(第7回)報告

報告:彭 浩
「近世日清貿易の関係史料―日中比較を兼ねて―」

日時:2021年8月7日(木)15:00~17:00  Zoom方式利用


報告内容

 本報告は、文学研究科叢書第12巻『周縁的社会集団と近代』(仮)に寄稿を予定している論文の構想報告。まず、長崎の開港から唐船の長崎一港集中までの経緯、主要な貿易品、貿易商人の形態などの近世日清貿易の基礎的事項を概説した。次に、3節に分けて日清貿易の関係史料について、写真を参照しながら説明した。第1節で主に取り上げたのは、「奏摺」(皇帝親展の上奏文)と「題本」(内閣経由の上奏文)などの清朝政務文書、及び漂流船関係記録などの、中国商人の国内活動が分かる史料。第2節は、長崎町役人の記録・法令集・各種の見聞録や旅日記・オランダ東インド会社商務日記などの、唐船の出入国管理・貿易プロセス・滞在唐人の管理・唐人滞在中の生活などに関連する史料。第3節は、町役人や長崎会所役人の記録や商家文書などの、日本側の貿易商と貿易機構の史料。これを順に概観した。

 第4節では、関係史料の残存状況をめぐる日中比較を試みた。①中央政府の政務文書について、a.清朝は政策議論に関する政務⽂書(奏摺や題本)を原本と副本を備えて系統的に管理・保存していた、b.日本では、各役所の担当者(長崎奉行や勘定奉行など)から老中への伺書と老中の回答などの、政策立案の過程が見える文書は幕府ではなく、それぞれの担当者(伺書の差出⼈)が所有・管理していた、という違いがあったのではないかとの論点を提示した。②地方役所の政府文書については、長崎奉行所関係史料の全体の構成を詳細に説明したが、貿易に最も深く関わる蘇州・上海などの地方役所の史料は皆無に近いと指摘。③民間とりわけ商家文書について、日本側の会所関係や商人関係の史料の豊富さに対して、中国では稀に見られる程度という状況にも言及した。

 比較を通じて、中国側の民間史料の乏しさが顕著な問題点として浮かび上がってきた。唐船貿易の独自の事情から、組織的な商務文書の作成・保管制度の欠如や、大規模な内乱下の貿易組織の突然の崩壊などが原因として推測される。その一方、社会共通の要因も当然ながら考えられる。たとえば、同時代の中国において日本のような身分制がなく、社会的流動性が比較的高かった。そして、識字率の差も関係するであろう。また、近代化に伴う古文書の保存事情を考えると、長期にわたる大規模な戦争のほか、土地改革に伴う階層闘争・文化革命など、社会の基層に及ぶ広範な社会運動による被害も大きい。ただ、これらの議論はほとんど印象論に過ぎないので、近年の研究成果を踏まえながら確認する必要があると痛感している。

(文責・彭 浩)

 

質疑応答

 まずは事実確認として、奏摺と題本の違いについての質問があり、題本は内閣を経由するもので、通常の多くの政務はこの形式の書類だったこと、奏摺は直接皇帝へ提出するもので、重要事項のみをまとめてあること、時期が下るにつれて奏摺の割合が増えていく傾向にあったことを答えた。

 また、地方から提出された奏摺について、皇帝がこれを見て書き込んだものは、地方では写しを取らないのかとの質問に対しては、差出人にいったん送られた奏摺は一定期間後に政府に返却することになるので、写しは取られたかもしれないが、地方政府の役所の史料はほとんど残っておらず、分からないと答えた。

 また、日本人はどうやって清へ商品のリクエストをしていたのかとの質問に対しては、幕府や長崎奉行が希望する商品を注文している記録は残っていると答えた。

 また、中国での史料の残り方として、これまでは版本ばかりが注目されていたことから、手書きの史料や紙背文書などは、まだ新たに見つかる可能性があるのではないかとの指摘があった。

 この点に関連して、日中の史料の残り方を比較するにあたっては、作成された時代/機能した文書を系統的に引き継ぐ仕組みの違い/その後の外在的な事情(戦争や内乱)による散逸の有無/残っているものが公開されているか、といった点に注意すべきであろう、との論点整理が提起された。 

 また、史料の残り方に関連して、大坂の町奉行所では、町奉行の史料はあまり無く、実務を担う与力の史料が多く残っていることから、長崎でも実務を担う奉行所の役人の史料ならあるのではないかとの質問があり、長崎奉行所の与力レベルの史料はなかなか見つからないが、確かに実務を担う長崎の町役人などの史料はたくさんあると答えた。

 また、明から清へは、档案は引き継がれなかったのかとの質問には、明朝の後期のものなら残っているが、前期・中期のものは残っていない、これは中国では前王朝の歴史本(いわゆる「正史」)を作る慣習があり、それが作られた後に処分されたためかもしれないと答えた。

 また、史料の残り方の比較としてオスマンの場合を挙げ、オスマンでは中央政府のものが多く残っており、その中でもノート状のデフテル(徴税簿)などは、後で参照する目的があって残されていくが、その一方で一枚ものはあまり残らず、残存するのは18世紀以降、大半は19世紀のものであること、また地方のものは数が少なく、残っているものの多くは裁判記録であることなどから、何を残すかが社会のあり方と関わっているのではないかとの指摘が出た。これに対しては、中国でも近代に近づくほど残存史料は多いが、裁判記録については17世紀半ば頃のものでも長崎に残っており、中国でも後から参照されるようなものは残っているし、「徽州文書」の中などでも、商人の商売上の記録など、大事に保管されなければならないものは残っているのではないかと応じた。

 また、ここまでの議論のような国家レベルでの比較も大切だが、民間レベルでの問題の比較も必要であるとして、たとえば日本では町村の構成員が屋号を持ち、家が持続していく中で史料も引き継がれていくのであり、民間レベルでの文書の残り方の違いに注目することも、それぞれの国の社会のありようとつながる問題であり重要だとの指摘もあった。

 この点に関連して、日本の裁判史料は、幕府レベルでは判例集として編纂されて残る一方で、民間では編集されたものと原本のどちらもが残っており、何を残そうとするか、どのように編集しているか、などの問題に着目することも重要ではないかとの指摘が出た。

 そして最後に、本会では史料の残り方の問題を中心に、様々な角度から活発に意見が交わされ、有意義な議論ができたことを確認して、閉会した。

(文責・渡辺祥子)