第12回 国内個別セミナーの記録

Hero Image:「松島遊廓(大阪) 大正後半」絵葉書「御免遊女町松嶋廓之圖」
(大阪市立図書館HPより)

 第12回セミナーが、2018年11月15日(木)16時30分から19時50分頃まで、大阪市立大学文学部棟会議室(L122)で開催された。若手派遣研究者の一人である吉元加奈美氏(大阪市立大学都市文化研究センター・研究員)が報告を行った。

吉元加奈美氏の報告

「幕末~明治初頭の大阪における遊所統制の転換」

 報告の前半では、報告者自身の研究テーマである近世大坂の遊所統制について紹介した。近世大坂では新町で遊女商売が唯一公認され、道頓堀芝居地周辺や17世紀末〜18世紀半ばに宅地開発された曽根崎新地、堀江新地、難波新地などに存在した茶屋では遊客相手の茶立女が「黙認」(売春禁止を明言されない)されていた。天保改革により茶屋は廃止となるが、旧来の茶屋営業許可地であった「三カ所(新堀・曾根崎・道頓堀)」で「飯盛女附旅籠屋」(のち泊茶屋)の営業を許可し、事実上遊女商売が公認された。安政4(1857)年には旧茶屋赦免地の一部で茶屋が再び許可され、泊茶屋と同様に扱われるようになり、傾城町の遊女屋(公認)、三ヶ所の泊茶屋(ほぼ公認)・旧茶屋赦免地の茶屋(黙認)、それら以外で営業する者は隠売女(不正売女)として取締まった。つまり、近世では認可三者の複雑な位置づけは遊所統制の論理上は維持されたが、幕末期には統制上も泊茶屋と茶屋の境界が薄れた。明治期においては、松島遊廓への整理・統合を経て、遊所であるという社会的実態に基づき貸座敷免許地を指定し一元化した。

 報告の後半では、大阪府の性買売統制への対応の変容を、明治9(1876)年の大阪府「売淫取締懲罰則」に至るまでを、政府・東京府の動向を踏まえて見通した。報告者は府県が独自に性買売を統制することになった明治9(1876)年までの内務省・司法省・裁判所・警視庁・東京府による紆余曲折に焦点をあてた。私娼衒売行為を罰する改定律例267条(1873年)と東京府・警視庁による「隠売女取糺処分」(1875年)について、司法側は二重罰則であり警視庁の越権行為であると指摘した。それに対し内務・警視庁(川路利良)は、改定律例267条を廃止し売淫取締りは各地方官に委任することで国の尊厳を保つという路線を述べ、おおむねその通りに決定された。以後、東京・大阪でもそれぞれ売淫罰則が作成・施行された。報告者は、このような複雑な経緯を明らかにした。

 明治期に指定された貸座敷免許地は近世以来の遊所として社会的実態のある地であったことや、明治初年の統制に町政を担う役人である戸長が関わる点等に近世からの連続性を見、また近世以来使われた用語の「隠売女」が、「私娼」でもなく「売淫」と表現されることについても注目した。

質疑応答

 報告者が今後海外に長期派遣されることを踏まえての質問が多くあった。まず、本報告で使用された性売買や売春に類する用語の定義についての質問では、特に「性売買」は性を商品化することを良しとしない意図が含まれる言葉として認識し定義すべきとの指摘があった。また、本報告が社会史一般および国際的にもつ意義についても問われ、町で残った史料をもとに19世紀大坂における性売買の取締り、また都市開発の性格と絡めた性売買の実態を明らかにする点が本報告の特徴であることを確認した。内務省・司法省の両者の立場、意見の意義づけが、性売買という問題の中でどのように位置づけられるかとの質問があった。また、「隠売女」が「売淫」と表現されるようになる意味について考えることから迫るとともに、先行研究の分析も今後さらに重要となってくることも確認した。