大阪公立大学国際学術シンポジウム2021 フォローアップ・セミナー(第1回)の記録

報告:濱本真実氏 (大阪公立大学大学院文学研究科)
「17ー19世紀ロシア帝国のムスリム史料としての嘆願書」

日時:2022年6月29日(水)17:00~19:00  Zoom方式利用


 17世紀のロシア史料に用いられたロシア語は、現代ロシア語とは文法がかなり異なる中世ロシア語である。中世ロシア語は、13-14世紀から18世紀初頭のピョートル1世時代まで使われていた。

 ロシアでは15世紀末にモスクワ国家が成立して以来、官僚機構の整備が進み、17世紀以降の行政文書はかなりの数が現在まで残されている。17世紀までの行政文書は、stolbtsyと呼ばれる巻物と、knigaと呼ばれる台帳の形で保管された。本報告で取り上げる17世紀のムスリムによる嘆願書は、巻物として保管されていたものである。

 18世紀まで、嘆願書はロシア語ではchelobitnaia gramota「叩頭文書」と呼ばれた。ロシアでは、「叩頭する」という表現が14世紀、すなわち、モンゴル帝国による支配時代以降に、おそらくは東方の影響を受けて登場し、遅くとも16世紀には「叩頭文書」という表現が現れた。文盲が多かったロシアでは、叩頭文書を実際に記したのは官庁街の広場にたむろしていた「広場の書記官補」と呼ばれた代書屋だった。

 本報告で扱う17世紀の嘆願書は、ロシアに臣従したムスリムの支配層によって外務庁に提出された、キリスト教正教への改宗に関するロシア国立古文書館の文書である。これらの嘆願書は、宛先であるツァーリに対して、ツァーリのkholop「僕」である嘆願者が「叩頭する」、という文章で始められる。そして、これらの嘆願書に対して外務庁でいかなる対応がとられたのかを示す、外務庁内で作成された文書が、嘆願書のあとに続く。

 これらの嘆願書の分析からは、第一に、17世紀のロシア政府がムスリム支配層に対して、正教会の聖職者や修道士を支援して改宗を進めたのではなくて、直接彼らの改宗に携わっていたということが判明する。第二に、ロシア政府によってふんだんに正教改宗の褒賞が与えられていることから、国家によるムスリムのエリート層に対する積極的な正教改宗政策が明らかになる。改宗者の身分ごとの褒賞の分析結果からは、ロシア政府が、特にムスリム・エリートの最上層に莫大な褒賞を与えていたことが判明し、より高い身分のムスリムを取り込んでいこうとする政府の姿勢が明らかになった。

 18世紀になるとムスリムの支配層はロシア社会の上層から排除され、当時のロシア・ムスリムの多くを占めたタタール人の中からは、商人として活躍する人物が増えていく。19世紀のタタール商人による嘆願書2通を例に、この時期の嘆願書の書式を見ると、文字の書体が西欧風に変化していること、西欧風の呼びかけの敬称が用いられていること、「叩頭」という表現が消えて、proshenie「請願」に変化していること、17世紀までに見られた、嘆願者が自らをkholop「僕」と呼ぶ表現が消えていることが分かる。

 17世紀のロシアの嘆願書の形式には、東方の影響が強く見られるが、18世紀以降は、西欧文化の影響が強まるロシア社会の中で、嘆願書の形式も西欧の影響を受けて大きく変化したと言うことができる。

 

参考文献

  • RGADA:Российский государственный архив древних акто
  • TsGA RK: Центральный государственный архив Республики Казахстан
  • RGIA: Российский государственный исторический архи
  • 中沢敦夫(2011)『ロシア古文鑑賞ハンドブック』群像
  • 濱本真実(2009)『「聖なるロシア」のイスラーム:17-18世紀タタール人の正教改宗』東京大学出版会
  • 福安佳子(2000)「ロシア語書簡文における«叩頭表現»について」『古代ロシア研究』20, pp. 107-122
  • Borodina, E. V. (2019) Бородина, Е.В. «Челобитная как источник для изучения истории Российского общества XVII-XVIII вв. : структура и эволюция формуляра», Манускрипт. Том 12, Выпуск 12. С. 28-33.
  • Danilevskii I. N. et al. (2015) Данилевский И.Н., Добровольский Д.А., Казаков Р.Б. и др. Источниковедение: учебное пособие, Москва.
  • Seniutkina, O. N. & Zagidullin I. K. (2006) Сенюткина О.Н, Загидуллин И. К., Нижегородская ярмарочная мечеть: центр общения российских и зарубежных мусульман (XIX-начало XX вв.), Нижний Новгород.

 

質疑応答

質疑応答では、さまざまな角度から活発な議論が行われた。ここではその中から主な内容を、テーマごとに分けてまとめておきたい。

社会的な組織の存在について

  • ロシア帝国内でのムスリムの共同体はどのように形成されていたのかという質問に対して、ムスリムを統括する国家組織であるムスリム宗務協議会が18世紀末に形成されており、それ以降はムスリムとしてまとまって国家に対して要求を行うなど、ムスリムの共同体としてのまとまりはかなりみられると答えた。
  • 嘆願の提出などの際に、個人と政府の間に立って媒介するような組織や仕組みはあるのかという質問には、媒介組織が存在するかどうかは不明で、書面を届ける者などが介在していた可能性はあるが、あまり大きな役割を担っていたわけではなさそうであると答えた。

改宗について

  • ムスリム・エリートを改宗させるのはなぜなのか、上層の者に率いられている下層の人々への影響力を期待しているのか、との質問があり、ロシア正教に改宗するというのはロシア人になることであり、ツァーリ(皇帝)への最大の忠誠を示すことになるので、ロシア政府としては反乱を起こさせないように、上層の忠誠心を求めたと考えられる、改宗した上層とその下にいる民衆とは切り離され、むしろ分断が生じていると答えた。
  • 17世紀後半以降の変化として、ムスリム・エリートをロシア上層社会から排除するようになったのはなぜかという質問には、政府の意図としては、基本的に非正教徒をロシア正教に改宗させたいのだが、条件が整うまでは徐々に進めていき、組み入れた地域が落ち着いてきたところで強制的な改宗政策に切り替えていったと考えられると答えた。これに関わる意見として、ロシア帝国の拡大につれて、政府はおそらくムスリムだけでなく、仏教やユダヤ教など、いろいろな宗教の改宗を半ば強制していったのではないか、その際に改宗させられるのは、ある程度軍隊を束ねられる人や、併合前に重要なポストにいた人ではないか、その一方で、それほど重要視されない商人はそのままだったのではないかという意見が出された。

史料の形式について

  • 改宗の嘆願の史料は、一つの巻物に複数の案件が収められているとのことだが、何らかのつながりがあって一緒にされているのかとの質問には、嘆願者が親類同士であったり、時期が近かったりなど、何らかのつながりを感じるものが多いが、逆に同じ巻物に入りそうな内容のものが別々になっている場合も見受けられ、はっきりした基準は不明であると答えた。
  • 行政文書の保管形態として、なぜ巻物と台帳という二種類があるのかとの質問も出た。これに対しては、種類を分ける明確な理由は不明としたうえで、外交・軍事関係のものは台帳の形式のものがあるが、それは前例を参照しやすいためと考えられると答えた。これを受けて、巻物に複数のものを綴っているのは、参照頻度が低いか、あるいは参照の必要性が薄れたあとになってから綴っているということもありうるかとの質問があり、ある程度時間をおいてからまとめて巻いた可能性はあるだろうと答えた。

識字に関する問題

  • 当時のロシア人の農民は、農奴的で識字からは遠ざけられた存在のように思うが、それに比べてロシア正教の教会の中に取り込まれず、宗教上は周縁におかれていたマイノリティーの方が、識字率は高かったのかという質問が出た。これについて、ムスリムの識字率に関しては、19世紀までロシア人より高かったこと、それはマクタブ(ムスリムの寺子屋的な施設)があったためであることを答えた。
  • これに関わって、19世紀末のカザン県の事例では、ロシア人は男性の識字率が高く女性は低いのに対して、タタール人では男女の差はあまりないということが紹介された。これについては、マクタブには少年だけでなく少女を教育する仕組みもあったためであること、ただしカザンタタールの女性は、ある程度成長すると教育は不要とされ、最低限の読み書きは出来ても、多くの場合、高い教育は受けられないという問題もあることを、報告者が補足した。

代書屋について

  • 中国にも代書屋がおり、大土地所有者の利益の代弁者などとして国家や一般民からは良くない、あるいは必要悪のような存在として見られていたのだが、ロシアではどうかとの質問には、ロシアでは国家からにらまれたりするようなことはなく、便利な存在ととらえられていたようであり、中国とは違っているようだと答えた。
  • これを受けて、日本の場合は識字率が高く、自分で書けないわけではないのに、訴訟に関わる代書を行う公事宿という代書屋がいて、公事師と呼ばれて否定的にとらえられることがあった一方で、不可欠な存在でもあったことが紹介された。そして、日本の公事宿は、法廷での作法をよく知っており、定形化した書式で訴状などを作成していたので、役所の側でもそれが便利だったのだが、ロシアではどうかとの質問が出た。これに対しては、ロシアでも多くの代書屋がいたが、似たような表現で書かれているものが多く、書式はかなり揃っているようだと答えた。

嘆願について

  • 皇帝に宛てた嘆願は、実際には皇帝だけでは見きれないのではないかとの質問があり、実際には非ロシア人を管轄していた外務庁が処理していたと答えた。
  • オスマン帝国では、嘆願は皇帝に宛てて出し、皇帝がこれに答えるという形式で一貫しているとしたうえで、ロシアの19世紀の嘆願では宛先がもっと下の者になっているが、これは17世紀のものとは性格が異なるのではないかとの質問が出た。これに対しては、ロシアでももともとはオスマン帝国と同じで皇帝に宛てたもののみであること、18世紀以降は、皇帝以外への嘆願も出るようになるのだが、その理由は不明であることを答えた。
  • 中国や日本の場合、庶民が下級の支配者に嘆願することも多いとの紹介があり、ロシアでは17世紀には改宗以外の嘆願でもすべて皇帝あてだったのが、19世紀になると願いの内容によって宛先も違っているようで、大きく形式が変わるようだと答えた。
  • ここまでの議論から、皇帝に出す嘆願と、それより下の者へ出す嘆願とは、区別されたものとして存在するのではないかとの意見が出た。これに対しては、本報告では個人あるいは団体から皇帝・国家に対して出すものを嘆願ととらえているが、皇帝以外に出すものを区別する方法もあるかもしれないと答えた。これを受けて、比較史として議論するためには、嘆願書というときに何を含めるのかを確認する必要があるという意見や、ロシア帝国内でもさまざまな嘆願書があるのだろうが、今回の報告は外務庁が受理した嘆願書での議論である、と厳密にとらえておく必要があるとの意見が出た。

史料の残りかたについて

  • 日本では、村や町や個人のところに、嘆願の控えが残っていてそれが現存しているという場合が多いのだが、ロシアではどうかとの質問には、ロシアではそのようなことはほとんどなく、少なくとも17世紀段階のものは役所に残るもののみであると答えた。
  • オスマン帝国の場合は、個人が書いた嘆願そのものはほとんど残っていないが、多くの場合は解決のために嘆願が法廷に転送されるので、法廷台帳に書き留められて残っていることが紹介された。
  • このようなことから、記録がどこに残るのかは、各地域の固有の事情により違っていることがうかがえて興味深いという意見が出された。

(文責・渡辺祥子)