大阪市立大学大学院文学研究科主办的第6次国际学术研讨会议

会议内容

 由大阪市立大学大学院文学研究科主办的第6次国际学术研讨会议于3月10日线上举行。本次会议以《传统都市—上海的流通,贸易和商人团体》为主题,请到了来自上海社会科学院历史研究院的马学强老师做了精彩的报告。之后还请大阪市立大学大学院文学研究科的研究员渡边祥子老师做了精彩的点评。

 马老师的报告题目是《从“商船会馆”透视清代中后期上海港口及周边街区的变迁》。通过聚焦18世纪初期以来上海沙船业的发展与船商的活动,来思考其对由港口城市出发的上海市发展的影响。该报告通过对大量文献资料与地图的解读,复原了清朝到民国初期的上海县城内外的道路网络和街区情况,同时确认了商船会馆作为上海标志性建筑的历史意义。此外,该报告还指出作为主要交通工具的沙船,在上海由手工业城市向商业城市的转型过程中发挥了重要作用。

 在马老师精彩的报告之后,渡边老师以日本江户时代的商人团体药材中买仲间为例,与沙船的船商和商船会馆进行了比较。渡边老师指出,大坂的药材中买仲间也拥有自己的会馆,该会馆位于药材商人们居住的街区——町内,同时邻近水运便利的东横堀川。此外,药材中买仲间的商人们会定期在会馆内商讨各种事宜。会馆内还建有神社,供奉着商人们信封的神灵。渡边老师在点评的最后,还结合中日历史研究中所运用的史料特征等问题阐述了自己的观点。

 渡边老师认为,在对各类历史文献和图像史料进行解读的同时,还需注意这些史料的制作者及制作背景等史料自身性格要素。例如,在对药材中买仲间的历史形态进行还原时,就会利用到各类不同性格的史料。这其中就包括药材中买仲间自己传承下来的史料,还有他们所居住的街区传承下来的史料,以及其外部,比如当时的政府颁布的涉及药材流通的法令和各类文人,商人所记录下来的带有文学色彩和描述性质的史料等等。这种分析方法,如果放到中国,在对商人团体进行分析的同时,也对所使用的史料性格自身进行探讨的话,应该会更利于双方历史研究发展以及对于不同事物的解读。

 


大阪市立大学国際学術シンポジウム2021 オンラインセミナー(第6回)の記録

テーマ 「伝統都市・上海における流通・交易と商人集団」

  • 日 時  2022年3月10日(木)15:00~18:00 
  • 内 容
    • 報告 馬 学強氏(上海社会科学院)
      「商船会館」からみた清代中後期上海の港口および周辺街区の変遷
    • コメント 渡辺祥子氏(大阪市立大学文学研究科)
  • 形 態  Zoomでの開催

 


 

「商船会館」からみた清代中後期上海の港口および周辺街区の変遷

馬 学強 

1.「馬家廠」を探して

 本論に入る前に、都市のランドマークの定義について説明を加えた。そのうえで、本報告では、これまで研究があまり進められてこなかった、商船会館についての検討を行う。

 まず、商船会館の位置について検討を加えた。これまで注目されることのなかった、民国初年に編纂された『民国上海県志』の「商船会館在馬家廠。」(商船会館は馬家廠にある)という記述をてがかりとして、「馬家廠」の位置の特定を試みた。文献史料や地図を検討した結果、清末民国初の時点で、上海県城の東門外港口に「馬家廠街」という地名が存在し、当時「会館街」と称されていたことが確認できた。会館街(すなわち馬家廠街)に位置する商船会館は、北は蘆席街・漕倉街に接し、会館碼頭(船着き場)に面していた。

 

2.商船会館を中心とする上海港口と周辺街区構造の変遷

 次に「商船会館」から見た、上海港と上海県城の空間形態及びその構造について検討を加えた。

 はじめに「軍工廠」に注目し、太倉と劉河口から「軍工廠」が上海に移転した事実を踏まえ、黄浦江一帯の港口の重要性が高まったことを裏づけた。

 清末から民国初年に至り、上海県城の内外の道路が増加し、道路網が整備された。こうした道路の変遷について、複数の地図を使って分析・整理を行った。そして、文献史料と地図から商船会館の場所および、周辺街区の状況を確認した。

 

3.商船会館および街区における船商の活動

 最後に、船商と商船会館およびその活動について確認した。

 道光年間に海運が実施されると、関連史料が増加してくる。とくに船商のなかから官僚に就任した人も出現し、史料が完備されようになった。そうした史料を利用して、船商の活動場所を特定した。

 はじめに、有力な船商である郁氏の活動状況を明らかにした。また同じく有力な船商である王氏についても、自らの碼頭を保有していること、徴信録(民間の慈善団体の活動記録)に王氏の名前が出てくることを明らかにした。以上のように明らかにした船商の活動場所について、その街区や地名を地図上で確認した。

 海運が整備されるにつれて、船商と国家とがつながっていく。商船会館で地方官が活動をしていたことや、江南制造局が事務を行っていたことは、商船会館と国家とのつながりを裏づける。また、商船会館の周辺には、地方官衙である江蘇海運局や浙江海運局が置かれ、商船公会もあった。さらには船商で官僚になるものも現れた。商船会館は国家と結びつくことで、地位が高くなっていく。

 沙船業の発展及び船商の活動は、上海が港として発展していく過程において、重要な役割を果たした。なお、船商の信仰と上海の社会生活をめぐっては、王健氏(上海社会科学院・研究員)が研究している。

 このように反映した商船会館であったが、沙船が輪船へと転換されるにつれ、その地位が徐々に低下していった。それに伴い、外灘がランドマークとなっていく。

 

 以下、本報告の内容をまとめる。

一、沙船業の発展と船商の活動は、港湾と商業に代表される上海の発展を考えるうえで、重要な意味を持つ。康熙54年(1715)に船商によって作られた商船会館は、数世紀にわたって存続し、上海の「生きた化石」と呼ばれている。

二、本報告では、大量の文献史料と図像資料に依拠し、清代から民国初年にいたるまでの、上海県城内外の道路網と街区の状況について分析した。「商船会館」は建築のランドマークとして、上海の文化財となっている。

三、明清以来の主要な交通機関であった沙船は、上海が手工業都市から商業都市への変貌にあたり、大きな役割を果たした。

 商船会館は上海の一つの建築物でありながら、都市の発展とつながっており、より深く検討すべき点が数多くある。

*( )内は整理者が補充した。

(整理・渡辺健哉)

 

「馬学強氏の報告に対するコメント -日本近世の同業組合会所と比較する視点から-」

渡辺祥子  

 馬氏の報告に対し、日本近世の同業組合について研究している立場からコメントを行いたい。

 まずは上海の商船会館と、大坂の薬種中買仲間の会所とを、立地条件や利用のされ方などの点で比べてみると、

  • 仲間の構成員が集住している町内に存在している
  • 東横堀に比較的近い場所にある
  • 会所内では、仲間の役職者が交替で事務を勤め、書類を作成する
  • 仲間の役職者、あるいは仲間全員が会所に集まり、話し合いを行う
  • 会所の敷地内に神社を建て、仲間で信仰している
  • 18世紀の中頃から、現在まで存続している(現在は資料館のビルと神社が建つ)

など、大まかなところでは類似点が多く見つかる。しかし、歴史学として比較研究を行うためには、表面的な事象の比較にとどまらずに、もう少し具体的な事実をつき合わせていくことが必要になるであろう。そのための出発点として、今回は分析に使う史料自体に着目し、史料の性格をつかみとることを通して、日本と中国の社会の違いなどを読み取る議論につなげてみたい。

 薬種中買仲間の会所に関して、これまで分析に使われてきた代表的な史料とその性格をまとめたのが、以下の表である。

 次に、これら①~⑧の史料について、どのような組織の史料か/誰が作成したか/何のために作成されたのか、といった、史料自体の性格に注目しながら、薬種中買仲間の会所について知る上で重要度の高い順に配置してみたのが、以下の図である。同心円の中心に近いほど、重要度が高い史料ということになる。

 このように配置してみると、各史料はそれぞれに、作成者も、その立場も、また作成の目的や作成時期も、ばらばらであることが分かる。史料に書かれてある内容には、作成者の立場や目的が色濃くにじみ出るものである。例えば⑤のような別業種の商人が、「薬種中買仲間の会所の規定が改悪された」と記していたとしても、それは商売相手の立場の者の主観から記しているのであって、実は薬種中買仲間たちにとっては改善の内容である、ということもあり得るのである。それでも商売相手の立場から見れば「改悪」が事実として記載されるわけで、史料に書かれた内容を検討する際には、書かれた事象が誰にとってのどういう事実なのかという点に注意しなければ、解釈を見誤りかねないわけである。

 このように、史料そのものの性格に注意しながら分析に使用することで、たとえば①のような、薬種中買仲間の会所自体の史料が存在しないような場合でも、周囲に存在するいろいろな史料から、有効な事実を豊富につかみ取ることも可能になるのではないかと考えられる。

 中国の場合に、商船会館を同心円の中心に置くなら、当時の誰が、あるいはどんな組織が書類を作成したと想定しうるのか、そして実際に現在まで史料として残っているのはどんなものなのか、同じように配置してみることができるなら、中国と日本の社会の仕組みの違いまで含めた興味深い議論を深めることができるのではないだろうか。

 

質疑応答

(渡辺コメントに対する馬氏のリプライ)

  • 日本の歴史学研究での史料の扱い方は、非常に興味深い。これは、今までに研究会を重ねてきた中でも感じていたことである。
  • 今回報告した商船会館の研究の中では、違う時期の史料を大量に使っているので、渡辺コメントでの、使用史料の重要度を見渡す図表のあらわし方に関心を持った。自分の研究では、史料の重要度は基礎史料と核心史料という分け方で考えている

(全体討論)

  • 馬氏がリプライの中で述べた基礎史料・核心史料とは、どのようなものかとの質問には、核心史料は、渡辺コメントの図で言うなら円の一番内側にあたるもので、その研究において一番大事な史料のこと、具体的には今回なら商船会館の建築の図であり、基礎史料とは核心史料を補佐するもので、今回なら家譜やその他の文献などであること、帳簿などの史料は中国ではあまり見られていないことを答えた。
  • 中国では一般的には会館といえば地縁的組織で、公所が同業者組織であるというイメージだがそうではないのか、また上海以外の港湾都市にも商船会館のようなものはあるのか、との質問があり、商船会館は同業者組織であること、また同じような会館が寧波にもあることを答えた。
  • 1902年の地図で見ると、会館馬頭と商船会館には対応関係があるようにみえるが、船の荷物を保管する機能があったのかとの質問には、会館には荷物を保管する機能は無く、主に事務所の機能を果たしていたこと、馬頭のほうに商船会館の土地があり、そこに荷物の保管場所があったことを答えた。
  • アヘン戦争による道光22年の上海開港は、商船会館に何らかの影響を与えたのではないかとの質問には、特に直接の影響はみられず、この頃は沙船業の最盛期であったと答えた。
  • 上海には、会館街がある一方で、洋行街もあるが、両者はどのような関係だったのかとの質問には、会館街には船商が多いのに対し、洋行街では福建・広東省の商人が多数を占めていたと答えた。
  • 商船会館に参加するための条件は何か、沙船の商人でなければならないのか、沙船から汽船に商売を変えた者はどうなるのかとの質問には、近代になってからは明確な規約があるのだが、当初については不明であること、おそらくは沙船を所持していることや、会館運営の費用負担に協力することなどが条件になっていたのではないかと考えられることを答えた。
  • 商船会館は、最初は民間の商人たちの私的な同業組合として出来上がっていくのだが、役人が一族から出たりする中で、官と密着した関係となっていく。いっぽう日本の場合は、株仲間の構成員が町奉行所の役人になることはあり得ない。このような同業組合をめぐる官民の密着性の違いを考えることは、比較研究の対象になり得る論点なのではないかとの意見が出た。これに対しては、商船会館では商人たちと官僚の密接な関係があるとはいっても、漕運関係の官僚に限られており、それ以外のところでの関わりは無いこと、また、海外の研究では中国の局に関する研究が多いが、政治的というよりは民間の企業的なものとして扱われることが多いこと、局をもらうのは名誉的なもので、実際の官僚の世界に入るのとは違っていることを答えた。これを受けてさらに、ここで注目したい官との密着というのは、商売上の利益のために政治を利用するという意味であり、その意味でむしろ漕運関係の官僚に限定されていることが重要ではないかという意見が出た。この点に関わって、馬氏が日本の場合について知りたいとして、中国の局のように、政府が運営するが、商社に委託して経営するような仕組みが日本にはあるのかと質問し、日本史の研究者からは、官僚になるのとは違うが、御用や請負という形で官の仕事の一部を担うことはあるという答えや、日本の御用や請負や株仲間も、社会を維持するために置かれたものではあるが、形は中国とは違っているので、官の利益と民の利益が併存するありようの違いを、両国ともそれぞれ丁寧にみて比較することが大事だと思うとの意見が出された。
  • 沙船発展の時期区分の中で、第二期が衰退する理由に、汽船との競争や漕運の消滅を挙げているが、それにしては民国初期まで新聞記事にも出てくるのはなぜかとの質問には、報道と実際には2年ほどの差があるが、この時にはすでに衰退していたこと、沙船と汽船はその後も長く一緒に航行しており、完全に衰退するのは1920年以降であること、1949年の新中国の時にも、沙船はまだあるが、民間の個人的な貿易用のものであり、国で運ぶようなものは汽船に移行していることを答えた。
  • (中国の会館は、同業者組合であると同時に国家との関係も保持しているので、中国の本質を理解するための鍵となり得るものとして、日本では重要視されて多くの研究があることを説明した上で、)商船会館の館長になるのはどのような人物なのかとの質問があり、董事(館長)は、たいていは船商人だが、その他に地域の有力者が担当する場合もあること、董事ではなくても、商船会館に参加するのは、会館に寄付金を出している人々のようなので、明確な規定はないが董事も有力者だと考えられること、誰が董事を勤めているかには関心を持っているので、今後も研究を続けたいと考えていることを答えた。
  • 最後に馬氏から、今回のセミナーも有意義な議論ができてよかったが、ぜひ次回はオンラインではなく、対面参加での研究会が開けるように願っているとの発言があった。

(文責・渡辺祥子)