大阪公立大学国際学術シンポジウム2021 フォローアップ・セミナー(第2回)の記録

報告:栄原永遠男氏 (大阪市立大学名誉教授)
「北京を見た山根徳太郎―新出の山根徳太郎書簡より―」

コメント 渡辺健哉氏(大阪公立大学文学研究科)

日時:2022年9月14日(水)15:00-17:00  Zoom方式利用


栄原報告「北京を見た山根徳太郎―新出の山根徳太郎書簡より―」概要

 2019年、難波宮の調査研究・保存活動で知られる山根徳太郎に関係する書簡が発見された。これは、1941(昭和16)年5月から翌年5月まで、当時は日本統治下の北京(北平)において在外研究を行っていた山根が、京都の留守宅に宛てた書簡、および家族から山根に宛てた書簡である。報告者は、新たに発見されたこの書簡群――報告では一括して「山根書簡」と称した――の史料的価値に鑑み、研究班を組織して翻刻作業を進めている。当日は山根書簡の内容を紹介しつつ、そこから得られた論点も提示した。

 報告では、まず山根の履歴とその研究の軌跡について述べた。戦後は難波宮研究で知られる山根ではあるが、山根の研究を顧みると、在外研究以前にそうした都城研究を志向していた痕跡は確認できず、在外研究の前後で研究に大きな変化があったという見通しを述べたうえで、山根書簡の紹介に移った。

 山根書簡から得られた知見として、中国人研究者との関わりが見出せないこと、日本人研究者との交流は小野勝年と今西春秋の二人にほぼ絞られること、午前中は中国語を勉強し、午後は北京市内を見学・踏査していたこと、当時の北京の物価事情が読み取れることなどを紹介した。書簡の随所から窺える北京で得た様々な知見は、帰国後に執筆した論文の中で披露されていく。

 その一方で、内地の家族より山根に宛てた書簡からは戦時中の日本の社会状況の一端が読み取れることも紹介した。山根書簡が当時の日本社会の実像を知るうえでも貴重な史料になり得る可能性を提示した。

 ただし見落としてはならないこととして、様々な事情から山根や家族が書簡に見聞の全てを書いているわけではないため、書いている・書いていないことを適切に見極め、史料の性格を常に意識する必要がある点を強調した。

(文責:渡辺健哉)

  

山根徳太郎と北京――栄原永遠男報告のコメントに寄せて

渡辺健哉 

 2022年9月14日、国際学術シンポジウム「近世〜近代移行期における周縁的社会集団の世界」による、大阪公立大学国際学術シンポジウム2021フォローアップセミナーの第2回報告として、大阪市立大学名誉教授の栄原永遠男氏による「北京を見た山根徳太郎――新出の山根徳太郎書簡より」と題する報告が行われた。

 山根徳太郎(1889-1973)は、1928年から1952年にかけて大阪商科大学~大阪市立大学で教鞭をとった研究者で、定年退職ののちに携わった難波宮の発掘で広く知られている。

 大阪商科大学予科教授であった山根は、1941年5月から翌年5月まで、当時北平と呼ばれた北京で在外研究を行うのだが、田中ひとみ「山根徳太郎北京留学時代書簡の出現」(『大学史資料室ニュース』26、2022年)が概要を紹介するように、まさにこの時期の書簡が発見されたのである。

 栄原報告は、当該書簡にもとづき、在外研究の内実や山根の眼に映った北平社会の実態、そして家人からの書簡に記された日本国内の社会状況等について分析・紹介を行った。若干の質疑応答を経て、これらの書簡が、山根の動向や思考を明らかにするのみならず、広く当時の社会の実像を描写するという意味で、極めて学術的価値の高い資料であることが改めて確認された。

 筆者は栄原氏にお誘いいただき、この書簡の読解作業の末席に加えていただいている。そうした関係から、当日のコメントを担当した。以下では、栄原報告を踏まえてコメントした内容をまとめておく。


 そもそも13-14世紀の中国を統治した元朝の歴史を研究している筆者が、まったく分野の異なる山根徳太郎という人物に関心を抱くことに疑問を抱く読者もおられると思う。しかしながら山根は筆者の進めている研究――元代に建設された都城である大都の研究――と大いに関係がある。なぜなら山根は、元大都の研究史上において極めて重要となる論文(「元『大都』の平面配置」『人文研究』1-2、1949年)を発表しているからである。

 元の大都は、現在の中華人民共和国の首都北京のひな型である(詳細は拙著『元大都形成史の研究――首都北京の原型』東北大学出版会、2017年、また拙稿「元の大都――元朝の中国統治」『岩波講座世界歴史(7)東アジアの展開 8〜14世紀』岩波書店、2022年を参照)。この元の大都をめぐって、最も議論の集中したのが、大都の平面プランの問題であった。

北京故宮・太和殿(渡辺健哉氏撮影2014年)

 この問題にいち早く注目した戦前の日本人研究者のうち、村田治郎「元・大都における平面図形の問題」(初出1934年、のち『中国の帝都』綜芸社、1981年所収)と、それを受けた駒井和愛「元の上都並びに大都の平面について」(初出1940年、のち『中国都城・渤海研究』雄山閣出版、1977年所収)の論争が知られる。期間の長短はあれども、山根と同じく両者ともに中国に滞在した経験があることは注意しておきたい。議論の詳細な論点は、前掲拙著「序章」を参照していただくとして、この問題に一石を投じた研究こそ、前掲の山根論文であった。山根は大都の平面配置を決定したのは、地理的条件――北京における豊富な湖沼地帯と地下水脈――であり、豊富な水資源が「元の皇帝の心を離れがたくつなぎとめてしまった」と結論づけた。それまでの研究が、中国の古典である『周礼』や、遊牧民のテントの配置等、平面プランの下敷きになった何らかの法則=ノルムを見出すことに集中していたのに対し、山根は自然環境が大都の平面プランを決定づけたという、これまでとは全く異なる角度からの見解を打ち出した(山根の議論については、中尾芳治「元大都の平面配置について」『難波宮跡研究調査年報』難波宮址顕彰会、1973年も詳しい)。

 議論の正否は置いておこう。ここで問題としたいのは、中国史の専門家ではない山根がこうした考えを、〈いつ〉〈どこで〉〈なぜ〉着想したのかということである。そしてこの問題を突き詰めていけば、のちに山根が情熱を注ぐ難波宮研究に邁進した理由の解明も射程に入ってこよう。こうした問題を解くカギが北京滞在に隠されているのではないか、という見通しの下に、栄原氏と筆者たちは研究を進めている。

 山根書簡を読み解くことでこの問題の解決に近づいていくと考えているが、それだけでは充分といえず、さらなる工夫が必要であることも疑いない。

 工夫の一つに想定されるのは、北平滞在中の山根の交流関係の解明である。当時の北平には少なくない日本人研究者が滞在していた。現時点で、今西春秋、小野勝年、橋川時雄、雲崗石窟調査に向かう京都帝国大学の研究者(長廣敏雄や水野清一)等の北平滞在が判明している。交流の一端を挙げておく。長廣敏雄『雲岡日記――大戦中の仏教石窟調査』(日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1988年、91-92頁)には、「(昭和十六年)八月十五日(金曜) 午前八時山根徳太郎氏(日本史家)来訪。朝食前に交民巷および城壁上を、いっしょに散歩する」とあり、山根と接触した様子が記録されている。しかしながら、時代状況もあり、彼らがその点を後世になって書き残すことはほとんどなく、長廣の事例はレアなケースとなるのかもしれない。上記のような事例を探し出して、山根の行動を立体的に復元してみたいと考えている。

 栄原報告で紹介された書簡のみならず、周辺資料の調査も進めながら、山根徳太郎の理解を今後も深めていきたい。