大阪公立大学国際学術シンポジウム 2021 フォローアップ・セミナー(第 4 回)の記録

報告

朱 虹氏(上海大学文学院歴史学科)
「1920 年代における上海港内私設浮標の買収をめぐる列強間の競合 ―日本外務省文書をベースに―」

張 智慧氏(上海大学文学院歴史学科)
「上海港の利権をめぐる駆引き ―1920~30 年代における招商局の埠頭問題を中心に」

日時:2023 年2 月23 日(木)13:00~16:00 Zoom 方式利用


1920 年代における上海港内私設浮標の買収をめぐる列強間の競合
―日本外務省文書をベースに―

朱 虹

【内容紹介】

 これまで上海港に関する歴史研究において、上海港の航路、埠頭、貿易、管理機関、景観形成などの検討が数多く積み重ねられてきたが、港湾施設、とりわけ浮標への言及は極めて少ないといわざるを得ない。ここで言う浮標は、船舶を繋留するために水面に浮かべておく標識のことである。『上海港史』や『上海港誌』などの通史研究の中では、私設浮標の買収問題に少しだけ触れているが、断片的な記述に止まり、それを切り口とした列強の利権争いを解明する試みがほとんどなされていない。本報告は「上海港築港計画」と「上海港内交通整理計画」という二つの計画を分析することによって、1920年代における上海港内私設浮標の買収経緯を解明し、さらに、上海港の利権獲得をめぐる日本とイギリス、アメリカ、フランスなどの西洋列強との競合の様相を浮かび上がらせたい。

 周知のように、1843 年 11 月、上海は「南京条約」により外国に向けて開港された。イギリスをはじめ、西洋列強は続々と黄浦江沿岸に港湾施設を建設し、中国の国内航路をコントロールするだけでなく、上海発の遠洋航路まで独占した。1895年に至り、日本は「下関条約」の締結により上海港における勢力を急速に拡大させた。第一次世界大戦の勃発により、イギリス商船の多くが徴用されたが、それを契機に日本郵船、大阪商船などの日本の海運会社は政府の援助を得てさらに多くの遠洋航路を開設した。1918年には、上海港における日本商船の輸送量がイギリスを超えて一位となったものの、1920 年代にはイギリスの影響力がかいふくするなど、上海港における列強の勢力の消長が激しかったが、上海港の主導権は相変わらず列強の手に握られていた。当時、上海港における貨物取扱量の急増に伴い、世界各国の海運会社が停泊場所の不足問題を解決するために、競って黄浦江に私有浮標を濫設していった。

 1912年、「浚浦局暫行章程」の制定により、開浚黄浦河道局(略称「浚浦局」) が設立され、スウェーデン人ヘイデンスタム(Hugo Von Heidenstam)が初代主任技師に就任した。その後、浚浦局は彼の主導のもと、黄浦江の航路を整備する「上海港築港計画」を策定し、私設浮標の買収問題をめぐる日本とイギリス、アメリカ、フランスなど西洋列強との競合の幕が切って落とされた。1921年、主要海運国(英・仏・米・蘭・日)および上海総商会(中)を代表する委員6名からなる顧問局(Consultative Board)が『上海港改修国際顧問技師会議報告書』を作成し、「上海港築港計画」を提出した。その計画内容は、主に水道の浚渫、港湾施設の管理と建設、関連工事の財政計画、浚浦局の改組という四つの重点事項からなっている。『報告書』の中の「港湾施設ノ件」に基づいて、「現存の浮標を買収し、必要に応じて増設する」ことを構想された。同年12月2日、浚浦局は交渉員許沅経由でこれを北京政府に送呈するとともに、外交部にも口上書を提出した。だが、それに対して、中国政府は返答しなかった。1922 年1 月 9日、浚浦局は改めて顧問局委員会会議を開き、『報告書』を上海領事団委員会と北京外交団に順次提出し、それぞれの審議結果に基づき修正を加えてから中国政府と交渉することを対応策として決定した。

 同年2月、『報告書』を受けた上海領事団は日、英、米、蘭、仏、諾、伊など諸外国の商会に「上海港築港計画」に対する修正意見を求めた。日英両国はイタリア、ノルウェーとも連携して「現存する浮標の買収には賛成しないが、浚浦局が浮標を増設することにも反対しない」という意見を表明した。米、仏、蘭三ヵ国と和明商会は私設浮標の公有化に賛成するが、浚浦局が浮標を新設・管理すれば現存する私設浮標を買収しなくてもいいという意見を表明した。11月3日、上海領事団が会議を開催し、最終的に「現存私有浮標ハ買収セザルコト(所有者カ自発的ニ提供スル場合ヲ除ク)、但シ今後新設スベキ浮標ハ公有トスルコト」と決定した。1922年12月、『上海港改修ノ件ニ関スル上海領事団小委員会報告書』が北京外交団首席公使フレータス(José Batalha de Freitas、ポルトガル人)に提出たが、1923年3月20日、フレータスは日本政府の意見書(「土地の公用徴収」と「私設浮標の買収」に関する提案)を外交文書に作成し、各国公使に配った。米国公使シュマン(Jacob Gould Shurman)は『上海港改修国際顧問技師会議報告書』が上海港の発展に資することを説き、一日も早く意見をまとめるべきだと強く主張した。同年7月、外交団が特別委員会を設置し、三回の会議を通して、中国政府に送呈する報告書の草案を作成した。「浮標買収ノ件」については、最終意見として「上海領事団の提案に賛同するが、私設浮標をすべて買収し、公共管理の下に置くべきと建議する」という一文が書かれている。それは日本の私設浮標の維持という立場とはかなり距離を置くものであった。1923 年 8月 28 日、フランスは浚渫工事がフランス租界の繁栄に影響を及ぼすことを憂慮し、態度を一変させ、土地の公用徴収と私設浮標の買収という二項目について日本と一致することになった。

 同年11月27日、ポルトガル公使館で開かれた外交団会議では、「上海港築港計画」の最終案が検討された。外交団の意見を統一し、中国政府との交渉を実現するために、オランダ公使オーデンディック(William James Oudendijk)はイギリス参事官随行マクリー(Ronald Macleay)とともに立場を変えて日本の意見に賛同し、土地の公用徴収と私設浮標の買収という二項目を削除した。アメリカ参事官ベル(Edward Bell)が情勢の変化に応じて妥協せざるを得かった。1923年12月11日、首席公使オーデンディックが「上海港築港計画」の最終案を中国外交部に送呈した。しかし、中国外交部は相変わらず返答しなかった。そのため、「上海港築港計画」は棚上げのまま終了を迎えた。

 その後、上海港に進出する船舶トン数の増加に伴い、航路改善の必要性がいっそう高まった。1925年、江海関港務部長ホトソン(A.Hotson)が「上海港内交通整理計画」の作成に着手しはじめた。その計画内容は、主に上海港内に「大型汽船ヲ廻転スルswinging berthヲ設ケ、且ツ船ノ通路ヲ広」め、日本総領事館「前ヨリ下流ニ在ル私有ノブイ(浮標)十三個(英国七、日本四、佛国一、支那一)及ビ税関浮標四個ノ移転ヲ計画」するというものであった。しかし、計画通りに実行に移すことができなかった。「上海港内交通整理計画」は英国商人が提出した買収案によりいっそう複雑化したのである。英商太古洋行(Butterfield & Swire Co.)の支配人ブラウン(N. S. Brown)は山崎郵船支店長代理を訪問し、「私有浮標ヲ此際自費ニテ移転スルヨリモ、寧ロ支那政府ニテ私有浮標全部ヲ買上クル方便宜」 と提議し、日本に賛同を求めようとした。これにより、日本は一時進退窮まる立場に立たされることになったのである。

 1925 年12 月7 日、上海港関係諸団体代表者会議が開催された。代表者たちは「上海港内交通整理計画」を詳しく検討し、私設浮標の買収・移転と新しい浮標の設置にかかる費用も推算した。同月 16 日、24 日にも、各団体代表者会議が開催され、私設浮標の買収・移転を航路改善の解決方法とみなす「上海港内交通整理計画」に対して、各国の意見がいったん一致した。

 ところが、多くの国が私設浮標の買収に賛成する動きとったのに対して、日本は迂回対策を取ろうとした。1926 年 1 月、幣原大臣から田島総領事代理に対して、「正面ヨリ私有浮標買収ニ反対スルコトハ出来ル限リ避ケルヲ得策トスルコト」という訓示が下されている。1926 年 4 月、日本は長期間意見を留保していたため、税関長メイズ(F.W.Maze)と港務部長ホトソンの注目を引くこととな った。そのため、上海港の改善に「日本ガ独力阻止シツヽアリトノ印象ヲ與フルモノトシテ日本ノ為メ却テ不利ナル」と考え、内部の議論を加速しはじめた。逓信省と海軍省がそれぞれ私設浮標の買収に応じる条件を提出した。

 逓信省は主に以下の二点を条件としてあげた。一つ目は「買収ニ応ジタル浮標ハ旧所有者ニ対シ一定料金ニテ貸付ケ之ヲ専用セシムルコトトシ、港内船舶輻輳ノ為止ムヲ得ザル場合ニ限リ港務部長ノ指図ニ依リ之ヲ他船ノ繋留ニ使用セシムルモ支ヘナキコト」。二つ目は「委員組織ヲ以テスル港務局ヲ設置シ船舶利害関係者ヲシテ干與セシメ港務ノ円滑ナル運行ヲ期スルコト、尚之ガ実現ノ暁ニ至ル迄同港務部ニ幹部職員トシテ相当数ノ本邦人ヲ採用シ港務ヲ執ラシムルコト」。

 海軍省も類似した意見を提出した。一つ目は「警備任務ヲ有スル帝国海軍艦船ハ邦人居住地域ノ関係上従来本邦私有浮標随時使用ノ便宜ヲ享有シ得タルニ鑑ミ、海軍固有浮標ノ外匯山碼頭附近(第八、第九区)ニアル浮標使用ノ優先権ヲ保留スルコト」。二つ目は「改正セラルベキ港則及之ガ運用ハ最公正ナルベキコト、(イ)港務官ニ日本人ノ採用、(ロ)日本水先人ノ採用率増加」。即ち、両省はともに私有浮標を放棄すると引き換えに、却って港務ヘの関与を深め、長期にわたる利益を図ろうとしたのである。日仏両国は連携して一時私設浮標の買収を拒否したが、最後まで抵抗することはできなかった。1926 年 12 月、ついにホトソンは浮標の所有権の返還を要求するに至った。翌年12月までに、彼は私設浮標を有する会社と個別に交渉し、すべての私設浮標を回収し、港務局の管理下に置くことに成功したのである。その代価として、彼は港務局における日本人港務官と水先人の増員に協力することを承諾した。

 総じて言えば、「上海港築港計画」は多岐にわたる厖大な改修計画であった。その策定をめぐって、日本やイギリス、アメリカ、フランスなどの国々はみな自国の利益を最優先しながら交渉を行った。アメリカは上海港における勢力を伸張させるために、浮標の公有化を強く主張した。それに対して、日本は上海港における利権を維持するために、浮標の私有制を固守しようとした。日米両国のはっきりした立場と違って、イギリスは権益の保持とアメリカとの衝突の回避を両立させるために、態度を二転三転した。最終的には、日本はフランスと結んで浮標の公有化向けの動きを一時阻止することができた。

 「上海港内交通整理計画」は黄浦江航路の改善を単に私設浮標の買収・移転と結びつけて実行に移す地方レベルの計画であった。排貨運動の影響を受けた英商は私設浮標維持の立場を改め、中国政府による完全買収と統一管理を建議した。日仏両国は私設浮標の存続を希望したが、表立ってこの計画に異議を唱えることが出来なかった。最終的には、日本は私設浮標の譲渡によって上海港港務に関与する機会を得ることに成功し、貿易上の優位性を確保した。両計画で取り上げられた私設浮標の買収問題は、度重なる検討・審議をへて、漸く結末を迎えた。それは上海港の利権獲得をめぐる列強間の競合の縮図を雄弁に物語るものと言えよう。 

 

【コメントと質問】

 質問として、主に以下の3点が出されました。その内容を簡単にまとめておきます。

①江海関港務部長ホトソン(A.Hotson)はどこの国の出身ですか。

 『海関題名録』という資料によれば、江海関港務部長ホトソンはイギリス出身です。彼の名前の中国語訳は「赫偁」です。江海関理船庁の庁長を務めた経験もあります。

②英商はなぜ排貨運動の影響を受けて私設浮標護持の立場を改めたのでしょうか。その歴史的背景はどのようなことでしょうか。

 1925 年5 月 15 日、上海の日本人経営の紡績工場でストライキを行った労働者が射殺されたことが発端となり、5月30日に大規模な労働者・学生の抗議デモが起こりました。租界を警備していたイギリス人警官隊が発砲し多数の死傷者が出ると、抗議運動が中国各地で起こりました。この五・三〇運動は中国での帝国主義に対する戦いであり、ナショナリズムの高揚を示す動きでもあります。とりわけ、この運動の広がりのなかで起こ った香港のゼネストと経済封鎖はイギリスの植民地支配の拠点を麻痺させました。長い香港の植民地支配の歴史のなかで、イギリスにとって最大の危機でした。中国からの批判の声を緩めるために、イギリスは私設浮標維持の立場を改め、中国政府による完全買収と統一管理を建議したのです。

③フランスが浚渫工事がフランス租界の繁栄に影響を及ぼすことを憂慮し、態度を一変し、土地の公有徴収と私設浮標の買収という二項目について日本と一致したということですが、それはなぜでしょうか。

 日本外交文書「往電第七六六號、及其後屡次ノ公信ニ関シ」(1923 年9月 7日)の記述によれば、特命全権公使芳澤謙吉は、フランスが「上海港築港計画」に異議を唱えた根本的な原因を浚渫工事が貿易業を黄浦江下流区域に移動させ、フランス租界の繁栄を損なうおそれがあると考えたからだという判断を下しています。本報告は主に日本外務省文書に依拠しながら、日本は私設浮標の買収問題をめぐってイギリス、アメリカ、フランスなどの西洋列強とどのように競合していたのかという問題を検討してみました。英文史料を視野に入れなかったため、イギリス、アメリカ、フランスなど諸国の外交判断の背後にある要因を深く考察することができませんでした。今後、新たな史料の発掘により研究を深めていきたいと考えております。

 本報告にあたって、先生方より貴重なアドバイスをたくさんいただき、心から感謝申し上ます。今後とも交流を深めていければ幸いです。

 


 

上海港の利権をめぐる駆引き
―1920~30 年代における招商局の埠頭問題を中心に

張 智慧

 招商局(輪船招商局)は1872年に李鴻章により創立され、最初の民族企業として、近代中国に重要な位置を占めていた。1912年に招商局は官督民営の体制から民営に変わり、発展を遂げた一方で、1920年代に入り、中国国内の軍閥闘争、内部の経営問題などにより、招商局の負債額は年ごとに増加し、経営が悪循環に陥っていた。1927年4月に国民政府が成立し、招商局の整理・改革に力を入れ、1930年10月に招商局の国有化を実行した。1949年以後、招商局は中国の一大国有企業として現在まで続いている。

 招商局に関してはこれまで膨大な研究が蓄積されてきた。これらの研究は主に以下の三つの側面に注目していた。一つは洋務運動史の視点から、中国近代化の過程における招商局の位置づけとその役割。二つは招商局の歴史的変遷、特に政府との関係に注目し、官督民営から民営へ、その後国営化された軌跡についての研究。三つは招商局内部の組織構成、経営体制、また関連する重要人物などについて研究が行われてきた。本報告は外務省外交史料館所蔵黄浦江関連史料『上海招商局碼頭問題』四巻(1926年6月~1930年10月)に基づき、主に招商局の埠頭問題を通じて、上海港の利権をめぐる日本側の思惑、列強間の競争及び国民政府の革命外交の実態などを分析したい。 

 

1.問題の発端及び日本側の関心

 前述したように、1920年代に入り、中国国内の軍閥闘争、招商局の経営問題などにより、招商局の負債額は年ごとに増加し、経営が悪循環に陥っていた。1926年に香港上海銀行が招商局に800万両の借款の返還を要求し、この危機を乗り越え、又は経営を改善するため、招商局は黄浦江に位置する三か所の埠頭を売却しようとした。三か所埠頭(中棧・北棧・華棧)、特にその中の中棧と北棧は上海港の重要な場所に位置し、英・米・日・仏など列強からも注目された。
1926年6月15日に在上海の矢田七太郎総領事から幣原喜重郎外務大臣宛に電報を送り、10日に開催された招商局の秘密重役会議で三埠頭を売却する動きがあり、関係者を通じて確認したところ、「事実」だと分かったことを報告した。矢田は「此等埠頭を我船会社の手中に収むることは帝国永遠の利益なる」と強調し、「尚ほ米の『ダラー』佛の『エムエム』及英国系船会社に於ても夫々運動中の模様なれば此等の競争に打勝ち我方に於て買収するには政府の後援を必要とすべし」と強く主張した。

 その後、外務省通商局第二課は在外領事館と外務省の往復電報に基づき、『招商局の上海に於ける埠頭売却問題』(1927 年 1 月)という冊子を作成した。冊子には、(一)招商局の埠頭売却決定事情、(二)日本側に於ける埠頭を買収するの必要及利益、(三)埠頭買収見積価格(合計827万7338両)、(四)外国側運動の状況、(五)結論の五つの項目が含まれていた。最後の結論としては、「本件三埠頭か上海港の特殊の性質に鑑み他に懸け換えなき有利なる埠頭にして将来国際的航運及貿易の競争上最も重要なる」と強調し、「既に諸外国側に有力なる競争者現はれたる以上此際本邦側としては採算を問題とせす是非とも之を獲得せさるへからす」と結論を付けた。

 注目すべきことは、五つの項目の後に参考資料や関連データが付け加えられていたことである。参考資料第一号は「支那の外国貿易と上海港との関係」、第二号は「日本の上海に於ける地位」についてまとめたものである。また第一表「最近五年間に於ける支那全国並上海港貿易比較表」(1920~1924年)、第二表「支那主要港対外直接貿易額」(1922~1924年)、第三表「最近三年間に於ける上海港対外貿易主要国別表」(1922~1924年)、第四表「最近三年間に於ける支那海関出入主要国船舶表」(1922~1924年)、第五表「最近三年間上海海関出入主要国船舶表」(1922~1924年)、第六表「上海港区に於ける棧橋所有者国別表」の上海港関連のデータも付け加えられていた。

 如何なる経緯でこのような冊子が作成されたのかについて考える必要がある。おそらく、その背景には外務大臣の指示があったと思われる。1926年6月17日に幣原大臣から矢田総領事への返電で、「此際関係の局に対し政府に於て是非とも本件買入を援助せさるへからさる事情を説明する材料を供したき」と指示したことが『招商局の上海に於ける埠頭売却問題』の編纂に繋がったと考えられる。また関係史料四巻の中に、この冊子の内容が何度も繰り返し言及されていた。おそらく日本政府の各部署の間でこの冊子をベースに意見交換などが行われていたと思われる。また付け加えられた参考資料や関連データからは、中国貿易における上海港の重要性、および上海港の権益をめぐる英・日・米の競争の実態などがよく窺える。 

 

2.招商局の碼頭問題に関する交渉

 1926年からの招商局の碼頭問題に関する交渉は、おおよそ以下の三段階に分けられる。第一段階は買収をめぐる日本側と招商局の直接交渉である。この段階は日本側と招商局との間に交渉が繰り返され、何度か合意に到達している。1927年12月30日に総領事矢田七太郎から外務大臣田中義一宛の電報で、12月23日に日本郵船斎藤上海支店長(斎藤武夫)と招商局の李社長(李偉侯)との間で行われていた交渉の結果が報告された。それによれば、両者の間に「中棧と北棧の取引値段を銀600万両とすること」、「国民政府、重役、大株主間の分配のため、100万両を支払うこと」、また「受渡期限を1928年3月31日とすること」などの項目が合意されていたことがわかる。

 しかし、招商局と日本側との直接交渉は幾度か纏まったにもかかわらず、最終的に挫折した。その原因は当時の中国輿論と深く関わっていた。交渉の動向が新聞に暴露された時に輿論の批判をあび、その都度、招商局の株主は新聞に「声明書」を出し弁明せざるをえなかった。また一方で、この時期の国民政府の動向も無視できない。1927 年 11 月 7日に国民政府は「招商局監督章程」を発布し、交通部長王伯群を監督とし、同部航政主任趙鉄橋を総辦に任命した。彼らは11月20日に正式に任務に就いた。

 第二段階は1928年3月から始まった抵当物(三か所埠頭)をめぐる日本側と香港上海銀行との交渉である。招商局の借款の返還期限が迫ってきたこの時期に、返済されなければ香港上海銀行に借款の抵当物を処分する権利が発生するため、日本郵船は香港上海銀行との間で直接交渉を行ったのである。しかしこれも挫折に終わ った。1928年7月31日に日本郵船側がまとめた「招商局碼頭問題其後の成行」によれば、「銀行が先に購入方を吾社に申入れ爾来折衝を重ねたるに拘らず急に利子の支払を口実にして態度を豹変したるは英国系商社よりの勧告に拠ると伝へらる、蓋し北棧を日本人をして買収せしむる事は英国商社にとり相応苦痛とすべければなり」と分析していた。

 交渉の失敗は、招商局が銀行による埠頭の処分を恐れて、ある程度の金策を講じたことによるだけではなく、背後に英国系商社側の動きがあったことに注目すべきであろう。またこの時期の国民政府の動向も考えなければならない。1928年3月24日に国民政府外交部が日本側に送付した通知書によれば、「現在中国の時局が平穏ではなく、この際に該局を抵当として借款し又は売却する恐れがあり、中国の国家航業権に関わるもので『断して承認し難き』と改めて鄭重に声明」したことが確認できる。とは言え、国民政府内部には招商局の整理・改革を行う際、借款などの道が避けられないとの意見があったことも史料から確認できる。

 第三段階は三か所埠頭の「リース」又は借款をめぐる交渉である。招商局内部で財産処分に反対する議論が高まり、「碼頭売却」を見合わせ、「其代り長期の『リース』を以て五百万両以上の借款を調達し香上銀行より抵当物の解除」をしようとする動きが浮上してきた。それに「弗線」の不動産会社「チャイナ リアルテー」が積極的に応じ、しかも日本郵船への「復貸」を促進しようとした。これには、日本側が難色を示した。1928年11月8日の上海支店長斎藤武夫から社長への報告によれば、「チャイナ リアルテー」がその後招商局とダラーの間の仲介に立っていると認識し、日本郵船側は「ダラーとの取引を妨害し置く事然るべし」と強調しながら、在南京の岡本領事を通じて、国民政府の王交通部長から「目下招商局根本問題未決に付其解決迄は借款問題は相談出来ず若し借款の場合は優先岡本氏に相談すべし」という言葉をもらって安心したことが窺える。

 この時期に国民政府は招商局の国有化政策を促進し、1928年8月に開催された全国交通会議において、招商局を国有化することを原則とし、暫くの間は「官民合辦」の形を採ることが決められた。また1929年6月に、国民党の会議で招商局の所属は交通部から国民政府に変えられ、新たに「招商局整理委員会」が組織された。

 さらに1930年10月に、国民政府は招商局の国営化を実行し、招商局を傘下に置こうとした。この国民政府の一連の動きは「碼頭問題」をめぐる招商局と列強の交渉を挫折させる重要な一因になっていた。

 

3.上海港の利権をめぐる思惑と競争

 招商局埠頭問題をめぐる交渉からは、日本側内部の思惑と協調の実態がよく窺える。1927年2月に東亜興業株式会社は「招商局碼頭買収交渉経緯」という報告書を作成し、その二点目に「郵船会社か試みたる買収交渉経緯」がまとめられていた。この史料から、日本側が辛亥革命の時期から、しかも幾度も招商局の利権を狙っていたことがよくわかる。1926 年から再開した交渉の経過からは、日本側の各関係者間の協調が見てとれる。在上海日本総領事、在南京日本総領事は外務省に交渉の動向を頻繁に報告していた。また交渉の中で、最も深く関わったのは日本郵船であるが、日清汽船、大阪商船も大きな関心を示していた。更に上海の不動産投資に力点を置いた「東亜興業株式会社」も積極的に関与したことが注目される。日本政府内では外務省だけではなく、大蔵省、逓信省、更に海軍省も支援していたことがよくわかる。

 また、交渉の過程からは日本と諸外国側との競合がよく窺える。前述した冊子には「外国側運動の状況」についてもまとめられているが、それによると、日本側は上海の状況に基づき、フランスM.M会社は「問題とするに足らす」と判断し、また当時上海の対英感情からは英国側に対する売却はできないだろうと判断していた。しかし一方で、1928年3月には、香港上海銀行との直接交渉が英国商社により妨害されたことも注目すべきであろう。また史料からは、日本側が常にアメリカとの競争を意識し、特にアメリカの「ダラー」汽船会社の動向に注目していたことが注目される。招商局が米系会社「チャイナ リアルテー」を通じてダラーと交渉した際に、日本郵船側が妨害を試みたことも史料から読み取れる。1930年代に入り、国民政府が招商局の国営化を決めた後も、招商局の総支配人李国傑(李鴻章の孫)と当時の交通次長陳孚木はダラー汽船会社と借款の交渉を進め、契約まで締結した。しかし、これも国民政府の不承認で挫折した。日本側はこの動向にも注意を払っていた。

 さらに、招商局の埠頭問題をめぐる交渉からは、招商局内部の対立や中国の革命情勢もリアルに窺える。招商局内部の対立、特に日本派と米国派の存在が明らかである。これは国民政府内部の対立にもつながっていた。また交渉の過程からは、国民政府の対招商局政策の変化もよくわかる。1927年4月に南京国民政府は成立直後から対招商局政策に力を入れていた。招商局の反対を押し切って、招商局の国営化を実行した実態も詳細に窺える。更に文書には「極秘」の文字が頻繁に表記されていたが、おそらく中国の輿論を警戒し、特に中国民衆の批判を恐れていたからだと考えられよう。

 以上で述べたように、招商局の埠頭問題をめぐる複雑な交渉経緯からは、日本、米国、英国、仏国など列強が上海港の利権に対する深い関心を持ち、奪い合った実態が窺えるだけではなく、各列強内部の動向や思惑なども窺うことができ、注目すべき問題だと考える。また国民政府が招商局を傘下に組み込もうとする過程は、革命外交の一環としての利権回収の一面は無視できないが、それ以上に招商局の重要な経済的、軍事的価値を狙ったものと言えよう。さらに1926年からの交渉過程は幾度も合意に到達したものの、最終的に挫折したのは招商局内部の対立、またそれとつながる国民政府内部の対立に原因があるだけではなく、列強間の妨害運動も大きな要因だと考えられる。最後に、文書に頻繁に表記された「極秘」の文字からはこの時期の中国の革命情勢の一端が窺え、中国の輿論に警戒するなど、民衆の力も列強の利権獲得を阻止する一要因になっていたと言えよう。

 

参加後記

 今回の報告は昨年 11 月に上海社会科学院が主催した国際シンポジウムで報告した内容を日本語に訳したものではありますが、報告を準備する段階で史料を読み返すことにより、新たに気付いた点が多々ありました。また研究会当日に先生方からいろいろ重要なコメントやご指摘などをいただき、大きな示唆を受け、とても勉強になりました。心より感謝申し上げます。今後の研究課題としては、近代上海港の埠頭の私有化過程、また港の空間形成などの重要な問題を念頭に置きながら、それに関連する史料や先行研究について調べたいと思います。それから、今回の報告で取り上げた史料はほぼ権力者間の交渉に関連するもので、交渉の実態(時には極めて衝撃的な実態)がよく見えますが、何だかそこには共鳴できないものが多くて、上に浮いているような感じがします。埠頭に関連する様々な社会集団、またそこで働いた人々にも光を当てなければならないと思っています。今後も日本外務省外交史料館の外交文書をベースにしながら、『「申報」招商局史料選集』などの中国語史料もあわせて分析し、招商局の埠頭問題を総合的に考察したいと思っています。