倫理学概論 II 第4回
正当化② 帰結主義(1) 利己主義

●帰結主義
「帰結主義」は、行為のよしあしを、その行為がもたらす「帰結」(結果)のよしあしによって理由づける考え方である。もたらそうと意図する帰結(結果)は「目的」であるから、帰結主義はしばしば「目的論」とも呼ばれる。
 帰結主義(目的論)が「よい帰結(結果、目的)」として目指すのは「利益」ないし「幸福」である(逆に「わるい帰結(結果)」とは「不利益(損害)」ないし「不幸」である)。西洋の倫理思想では、最終的に目指される帰結(目的)は単なる利益ではなく「幸福」と考える立場が有力であった。しかし「利益」を広く「その人のためになること全般」と捉えれば、幸福も利益に含まれることになる。そこで当科目では、帰結主義の目指すよい帰結(目的)を「利益・幸福」と並記する。

●帰結主義の種類〜誰の利益・幸福か?
 帰結主義(目的論)は、それが目指す利益・幸福は「誰の」ものなのか、という点に即して、三つに分類される。
 まず、「自分だけ」の利益・幸福を目指すのが「利己主義」である。
 反対に、自分以外の「他者だけ」の利益・幸福を目指すのは「(純粋な)利他主義」である。
 そして、自分も他者も含んだ「みんな(関係者全員)」の利益・幸福を目指すのは「功利主義(公益主義)」*である。

*「utilitarianism」という英語の倫理学用語の訳としては「功利主義」が多く用いられている。だが、日本語の「功利的」という言葉は「利己的」という意味で使われることもあり混乱を招きがちなので、最近は「公益主義」や「公利主義」という訳語も使われ始めた。「みんな(関係者全員)の利益・幸福」という意味からすれば「功利」よりも「公益」のほうがふさわしく、誤解も招きにくい。しかし「功利主義」という言葉が専門用語として定着しているので、当科目では「功利主義(公益主義)」と表記する。なお、「公利主義」という訳語は、「公利」が「公的金利」の略との誤解を招きかねないので採用しない。

●「心理に関する利己主義」と「規範に関する利己主義」の違い
 利己主義には、規範に関するものと、心理に関するものがある。「規範に関する利己主義」(「倫理に関する利己主義」「倫理上の利己主義」「倫理的利己主義」などとも呼ばれる)は、《自分だけの利益・幸福を追求することがよい》と考え、そうした行為をすべきだと指図する倫理学の教説である。
 これに対して「心理に関する利己主義」(「心理上の利己主義」「心理的利己主義」と呼ぶこともある)は、行為の動機や人間の本性について説明するものであり、《人間の行為はけっきょくのところすべて自分自身のために行われているのだ。人間とは本質的に利己的な存在なのだ》とする。これは、自分だけに利益・幸福をもたらす行為をすべきだと指図するわけではなく、ただ、あらゆる行為はみな利己的なのであり、それ以外の行為はありえないという「事実」を主張している。このように、心理に関する利己主義は、心理学ないし人間学の教説であって、倫理学の教説ではない。
 心理に関する利己主義は、たとえ自己犠牲的な行為であっても、《自己犠牲をしたということに満足を覚えたり、この世やあの世における何らかの報賞を期待して行うのだから、結局は自分のために行っているのだ》と解釈する。すなわち《すべての行為は利己的であり、一見利他的にみえる行為もじつは自分の利益を得るために行われている》と考えるので、ことさらに《利己的に行為することがよい》と指図することもない。心理に関する利己主義は、人間の心理に関する事実を記述(していると主張)するだけで、どういう行為がよい行為か、という点に関しては、何も述べない。
 これに対し、規範に関する利己主義は、《自分だけの利益・幸福を追求することがよい》と考えるので、純粋に自己犠牲的な行為(ひたすら他者のためにしかならず、けっして自分のためにはならないような行為)は「よくない」行為とみなし、そのような行為をしないよう指図する。
 だが、西洋の倫理思想史では、規範に関する利己主義(以下では単に「利己主義」と表記する)に対し、しばしば《そもそも倫理や道徳の教説として成り立たない》という批判が向けられてきた。

●利己主義に対する批判
・「刹那的な利己主義」に対する批判:「長い目で見る利己主義」へ
 まず、《利己主義は、自分の利益を得るために他者を害するような行為、たとえば他者をだましたり殺したり他人のものを盗んだりすることを容認するので、倫理や道徳の教説としてふさわしくない》という批判がある。だが、このような「刹那的な利己主義」に則って行動すれば、ほとんどの場合、他者を害したことに対する報復や処罰を被り、長い目で見れば結局は自分の利益にならなくなる。そこで、利己主義者はすぐに刹那的な利己主義を捨て、他者を害することを差し控えて報復や処罰を受けないようにする、という「長い目で見る利己主義」へと移行するだろう。
「長い目で見る利己主義者」ならば、世間で通用している道徳や法律を守り、紳士的に振る舞い、時には他者のためになることをみずから進んで行う。だがそれはあくまで、そうすることが最終的には自分のためになると思われるからであって、守るべきだという理由から法や道徳を守るわけではないし、純粋に他者のために行うわけでもない。
 また、報復や処罰や非難によって失われる利益や幸福よりも、得られる自分の利益や幸福のほうが大きいと見込まれる場合や、報復や処罰を受けないと確実にわかっている場合では、「長い目で見る利己主義者」も法や道徳に反する行為や他者を害する行為を行うだろう。もっとも、実際には「確実にわかっている」ことはまずないので、「長い目で見る利己主義者」はつねに他者からはけっして利己主義者には見えないようにしているかもしれない。

・「自分勝手な利己主義」に対する批判:「普遍的利己主義」へ
 次に《利己主義者は利己主義者本人のためになるように行動することを他者にも指示する(「あなたは私のためになるよう行動せよ」と、自分以外の他者全員を自分に奉仕させようとする)ので、誰もが利己主義の立場に立つなら、他者に対する指示が錯綜し衝突してしまい、収拾がつかなくなる》という批判がある。たしかに、利己主義がこうした自分勝手で自己中心的なものでしかないならばこのような事態が生じ、現実にこの種の利己主義を実践可能なのは独裁君主くらいしかいなくなる。しかし、自分に奉仕するよう他者に指図せず、一人ひとりに《それぞれみな自分自身の利益や幸福を、各自で追求するのがよい》と指示する形の利己主義なら、あらゆる人がこの利己主義の立場に立っても矛盾は起こらない。このような形の利己主義は、すべての人々が同時に採用しうる(普遍化できる)利己主義という意味で「普遍的利己主義」と呼ばれる。
 人々がみな普遍的利己主義者である社会とは、各々が自分の利益や幸福を追求して競い合っている社会になる。このような社会は「弱肉強食」の「闘争状態」の社会だ、と考える人もいるだろう。しかし、刹那的な利己主義ではなく「長い目で見る利己主義」を人々が採用しているなら、そのような社会も無法な社会になるわけではない。むしろ、スポーツにおける競い合いのように、場合によっては適度に協力や援助すら行われる、健全な競争社会になるかもしれない。

 このように「長い目で見る」「普遍的な」利己主義であれば、倫理ないし道徳の教説となりうる。ただし、それが倫理ないし道徳の教説として「最も望ましい」ものであるかどうかは、なお検討の余地がある。

●「行為利己主義」と「規則利己主義」
 利己主義をとっていても、一つ一つの行為がほんとうに自分の利益や幸福につながるかどうかを、そのつどいちいち見積もることは、不可能ではないにしてもかなり面倒である。そこで、それに従えばたいていの場合は自分の利益や幸福になるような、自分にとってのルールやポリシーを定めて、そのルールやポリシーに従うようにしたほうが効率的かもしれない。このような利己主義は(第6回で取り上げる「規則功利主義(規則公益主義)」という用語に倣えば)「規則利己主義」であるといえる。これに対し、一つ一つの行為に即して、自分のためになるかどうかを、その都度計算する利己主義は(「行為功利主義(行為公益主義)」という用語に倣えば)「行為利己主義」である。
 規則利己主義では、自分の利益や幸福につながるはずのルールやポリシーを守り、ある行為が正しいか正しくないかは、このルールやポリシーに従っているか否かで判定される。しかし、環境や社会等の条件が大きく変わると、あるルールやポリシーに従い続けることでかえって自分の不利益や不幸を招く場合もあるだろう。その場合に規則利己主義では、ルールやポリシーを修正したり、(その場限りの例外ではなく)一定の例外を条件として設けるなど、ほんとうに自分の利益や幸福になるよう、自分にとってのルールやポリシーの見直しを行う。そして、それ以後は見直したルールやポリシーに従うことになる。

●エピクロス
(テキストの引用箇所は主にディオゲネス・ラエルティオス『哲学者伝』第10巻の分節番号で示す。訳文は出隆・岩崎充胤訳『エピクロス——教説と手紙』岩波文庫、1959年による)
 エピクロス(紀元前341年頃〜紀元前270年頃)は古代ギリシア・ヘレニズム期の哲学者であり、英語で「epicurean(エピクロス主義者)」とは快楽主義者や美食家のことを指すほど、通俗的には快楽主義的な利己主義者の代表のようにみなされる。しかし実際にはその著作は深遠であり、西洋思想に大きな影響を与えてきた。彼の快楽主義的利己主義は、原子論的・唯物論的な世界観と経験主義的な人間観に基づいている。その概略を以下に説明する。

・原子論的唯物論:無からの生成はなく、無への解体消滅もなく、全宇宙は不変である。それ以上分けられず、変化しない原子が、無限の空虚のなかを運動しており、全ての事物はこれらの原子が合成されてできている。
「(a) まず第一には、有らぬものからは何ものも生じない、[中略](b) もしまた、ものが見えなくなったとき、それはそのものが消滅して有らぬものに帰したとすれば、あらゆる事物はとうになくなってしまっているはずである。[中略](c) さらにまた、全宇宙は、これまでもつねに、今あるとおりに有ったし、これからもつねに、そのとおりに有ろう」(『ヘロドトス宛の手紙』38-39)
「…物体のうち、或るものは合成体であり、他のものは合成体をつくる要素である。そして、これらの要素は——[中略]——不可分であり不転化である、つまり、それらは、本性上充実しており、どんなものへも分解されてゆきようがないのである。したがって、根本原理は、不可分な物体的な実在でなければならぬ」(『ヘロドトス宛の手紙』41)
「なおまた、不可分で稠密な物体、つまり、合成体がそれから生じそれへと分解される要素は、さまざまな形状をもっており、その相違の仕方は、われわれの理解を絶するほどにたくさんにある」(『ヘロドトス宛の手紙』42)
「また、原子は、たえず永遠に運動する。或るものは〈垂直に落下し、或るものは方向が偏り、或るものは衝突して跳ね返る〉」(『ヘロドトス宛の手紙』43)
「原子は、形状、重さ、大きさ、および形状に必然的にともなう性質、をもっているが、それ以外には、われわれに現れる諸事実に属するいかなる性質ももたない、と考えねばならない。なぜなら、こうした性質はいずれもみな転化するが、原子は決して転化しないからである」(『ヘロドトス宛の手紙』54)

・感覚主義的経験論:原子と感覚器官の相互作用により知覚が生じる。すべての知識は感覚に基づき、正しく用いるならば、感覚は信頼できる。感覚の原因は霊魂であるが、肉体が滅びれば霊魂は分離し、感覚は生じない。
「外界の事物から何ものかがわれわれのうちに入るので、われわれはその事物の形態を見るのであり、また、それを把握するのである、と考うべきである」(『ヘロドトス宛の手紙』49)
「臭いも音と同じように、もし、事物から発する・当の感官を刺激するのに適当な大きさをした・或る種の粒子どもが存しないならば、どんな感覚を引き起こすこともできない、と考えねばならない」(『ヘロドトス宛の手紙』53)
「霊魂は微細な部分から成り、全組織体にあまねく分散しており、熱を或る割合で混合している風に最もよく似ていて、或る点では風に、或る点では熱に似ているところの物体である」(『ヘロドトス宛の手紙』63)
「霊魂は感覚の最も主要な原因となるということも、心にとどむべきである。だが、もし霊魂が組織体の残りの部分によって何らかの仕方で囲み保たれているのでなかったならば、霊魂は感覚をもつことさえもできなかったであろう」(『ヘロドトス宛の手紙』63-64)

・個人主義(利己主義)的快楽主義:快が究極目的であり、他の価値あるものは快を得る手段である。各人は、思慮(プロネーシス)を働かせて、長い目で見た、自分自身の快を追求し苦を避けるべきである。「無駄な」欲望でなく、「自然的」で「必須の」欲望を満足させることが、最大の快につながる。苦しみのないことが最大の快である。
「快とは祝福ある生の始め(動機)であり終わり(目的)である」(『メノイケウス宛の手紙』129)
「快は第一の生まれながらの善であるがゆえに、まさにこのゆえに、われわれは、どんな快でもかまわずに選ぶのではなく、かえってしばしば、その快からもっと多くのいやなことがわれわれに結果するときには、多くの種類の快は、見送って顧みないのである。[中略]とにかく、われわれは、それぞれを測り比べ、利益と損失を顧慮することによって、これらすべての快と苦しみを判別しなければならない」(『メノイケウス宛の手紙』129-130)
「自己充足を、われわれは大きな善と考える。とはいえ、それは、どんな場合にも、わずかなものだけで満足するためにではなく、むしろ、多くのものを所有していない場合に、わずかなものだけで満足するためにである。つまり、ぜいたくを最も必要としない人こそが最も快くぜいたくを楽しむということ、また、自然的なものはどれも容易に獲得しうるが、無駄なものは獲得しにくいということを、ほんとうに確信して、わずかなもので満足するためになのである」(『メノイケウス宛の手紙』130)
「欲望のうち、或るものは自然的であり、他のものは無駄であり、自然的な欲望のうち、或るものは必須なものであるが、他のものはたんに自然的であるにすぎず、さらに、必須な欲望のうち、或るものは幸福を得るために必須であり、或るものは肉体の煩いのないことのために必須であり、他のものは生きることそれ自身のために必須である」(『メノイケウス宛の手紙』127)
「これらすべての始原であり、しかも最大の善であるのは、思慮[プロネーシス]である。このゆえに、思慮は知恵の愛求(哲学[ピロソピアー])よりもなお尊いのである」(『メノイケウス宛の手紙』132)
「快の大きさ(量)の限界は、苦しみが全く除き去られることである」(『主要教説』三)

・アタラクシア(心の平静):身体的苦しみがないことと霊魂(心)が乱されない平静こそが、生の目的とすべき真の快である。
「心境の平静(アタラクシアー)とは、これら[霊魂の動揺]すべてから全く解放されていることであり、全般的でしかも最も重要な事項をたえず記憶していることである」(『ヘロドトス宛の手紙』82)
「身体の健康と心境の平静こそが祝福ある生の目的である」(『メノイケウス宛の手紙』128)
「快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、——[中略]——道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されないこととにほかならない。[中略]素面の思考が、つまり、一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの、素面の思考こそが、快の生活を生み出すのである」(『メノイケウス宛の手紙』131-132)
「死はわれわれにとって何ものでもない。[中略]われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである」(『メノイケウス宛の手紙』124-125)

●アイン・ランド『利己主義という気概——エゴイズムを積極的に肯定する』ビジネス社、2008年
(Ayn Rand, The Virtue of Selfishness: A New Concept of Egoism, Penguin Books, 1961. 引用の頁付けは邦訳による)
 米国で今日に至る大きな影響力を持ち、新自由主義の祖とも目される20世紀の思想家ランドは「利己主義」を肯定する論陣を張ったが、その核は「客観主義という倫理 Objectivist Ethics」にあり、快楽主義的な利己主義や主観主義は否定する。概略を以下に示す。

・「利己的」「利己主義」 selfishness とは
「『利己的』という言葉の正確な意味と辞書の定義は、自分の利益に対する関心である」(p.4)
「この概念は、道徳的評価を含まない」(同上)
「確かに、私が『利己的』という言葉で意味していることと、世間で一般的に慣習的に『利己的』という言葉で意味していることとは違う。そうであるのなら、実は、それこそが、利他主義 altruism が告発されてしかるべき起訴事項の最悪のもののひとつである。どういうことかといえば、利他主義は自尊心を持つ人間や独立自営の人間という概念を許さない、ということである。自分自身の努力によって自らの生を支え、自分のために他人を犠牲にしない気概ある人間という概念を利他主義は許さない。利他主義は、生贄になる獣としての人間像か、他の存在を犠牲にして糧を得る者としての人間像しか許さない。利他主義は人間は犠牲者か寄生虫かどちらかでしかないという人間観しか許さない。利他主義は、人と人との間で生まれる互恵的な共存という概念を許さない。つまり、利他主義は、正義という概念を許さない」(pp.8-9)
「このような破壊的邪悪と闘うために、人間はその邪悪が依拠する根本的前提なるものに抵抗しなければならない。人間と道徳を回復するために、人間が取り戻さなければならないものこそ、『利己主義』の概念である」(p.9)
「道徳の目的とは人間の適切な価値観と利益を定義する[ことである]……。自己自身の利益に対する関心とは、道徳的存在の本質である……。人間は、自分自身が行う道徳的行為の受益者でなければならない」(p.10)
「自分自身のために生きるとは、自分自身の幸福の達成こそが人間の最高の道徳的目的であるということを意味します」(p.57)
「客観主義という倫理は、誇り高く合理的利己主義(rational selfishness)を提唱し支持します。合理的利己主義とは、人間として人間が生き延びるために必要とされる価値です。人間的(human)サバイバルに必要とされる価値です」(p.66)
「客観主義という倫理は、人間的善は人間の犠牲など必要としないし、誰かが誰かの犠牲になることによって成就されるものでもない、と考えます。そして、合理的な利益ならば衝突するはずがないと考えます。獲得するのに値する努力もしないのに獲得することを欲望することなどしない人間どうしの間には、利害の衝突はありえません。誰をも犠牲にせず、犠牲など受け取らず、価値と価値を交換する商人(trader)として互いに取引をする人間どうしの間では、利害は衝突しません」(p.67)
商売(trade)の原則とは、個人的であれ社会的であれ、私的であれ公的であれ、精神的であれ物質的であれ、あらゆる人間関係の中で唯一合理的で倫理的な原則です。それは、正義の原則です」(同上)
「合理的で生産的で自由な社会においてこそ、合理的で生産的で自主独立した人間が価値ある人間になるのです」(p.70)
「利他主義は、を究極の目標であり価値基準と考えます。死が価値基準なのですから、断念、諦念、自己否定など、自己破壊を含めたあらゆる形式の苦痛こそが、利他主義の提唱する美徳になるのは論理的帰結です」(pp.73-74)

・「ニーチェ風利己主義」批判
「『ニーチェ風利己主義者』とは、自分自身の利益になるのならば、どんな行為でも、その行為の性質にかかわらず、良いことだと信じる人々のことである。他人の不合理な欲望を満足させることが道徳的価値の基準にはならないのと同じく、自分自身の不合理な欲望を満足させることも道徳的価値の基準にはならない。道徳は、気まぐれを満たすことではない」(p.12)

・享楽主義(hedonism、快楽主義)批判
「『幸福 happiness』は倫理の目的 purpose にはなりえても、基準ではありません。倫理のなすべきことは、人間にとって適切な価値観の規則(code of values)を定義し、それによって幸福を達成する手段を人間に与えることです。倫理的享楽主義者が言うように、『適切な価値とは、あなたに快楽を与えるものならすべて』と言うのは、『適切な価値とは、たまたまあなたが価値を置いたものすべて』と言うのと同じことです。それは、知的哲学的放棄です。思考停止です。倫理など無用だと言うのと同じことです」(pp.63-64)
「すべての享楽主義的教え、および利他主義的教えの道徳的食人風習(moral cannibalism)なるものの前提は、ひとりの人間が幸福になるためには、別の人間を傷つけなければならないということです」(p.65)

・生命と生存が究極の価値。しかし種の保存ではなく個人の生存が目的
「『価値 value』という概念を可能にするのは、『生命』という概念だけなのです」(p.30)
「ただ、生きている実体のみが目標を持つことができるし、目標を生み出すことができます」(p.31)
「存在維持のために刻々と獲得されなければならない究極の価値とは、その有機的組織体の生命です」(p.32) 「客観主義という倫理は人間の生命を価値の基準として掲げます。あらゆる個人が持つ倫理的目的としての自分自身の生命です」(p.52)
価値とは、人間がそれを獲得し保持するために行動するものです。美徳 virtue とは、それによって人間が価値を獲得し保持する行為です。客観主義という倫理には三つの主要な価値があります。……それは理性 Reason と目的 Purpose と自尊 Self-Esteem です。これら三つの価値それぞれに対応する価値というものもあります。それが合理性 Rationality と生産性 Productiveness と誇り Pride です」(p.53)

・価値を知る手段は感覚
「『価値』を知る手段とは、快楽 pleasure か苦痛 pain かを感じる身体の感覚です」(p.34)
「快楽か苦痛かを経験する能力は、人間の身体に内在しています。それは人間の本質の一部です。……[快楽か苦痛かという肉体的感覚を]決定する基準を、人間は選べません。その基準とは何か?それこそ、人間の生です」(p.35)

・理性は生存の手段
「意識(consciousness)とは、それを所有する生きた有機的組織体にとって、生き延びるための基本的手段です。人間にとって、生き延びるための基本的手段は理性です」(p.43)
「『概念化』という作業は、さまざまな活動が能動的に保持された過程です。……[概念形成の]この過程を指揮する機能が理性 reason です。概念という手段によって働く能力が理性です。その過程が思考 thinking です」(p.41)
「『概念』とは、ふたつか、それ以上の概念になった具体物を脳の中で統合したものです。概念になった具体物は、抽象化という過程によって分離され、特定の定義を通して統合されます」(p.40)
「あらゆる意識を所有する有機的組織体にとって、知識とは、生き延びるための手段です。生きている意識にとって、あらゆる『存在』(is) は、「すべき」(ought) ことを内包しています」(p.46)

・倫理 ethics[倫理学]は生き延びるための必需品
「倫理とは、人間が生き延びるための客観的形而上的必需品です。倫理は、超自然的な存在や隣人や自分の気まぐれのおかげで存在するものではありません。人生の現実と生命の本質ゆえに在るのが倫理なのです」(p.47)

・政府の目的、完全な資本主義
「政府のただひとつ適切で道徳的な目的は、人間の権利を保護することです。物理的暴力から人間を保護することです」(p.71)
「私が『資本主義 capitalism』と言うとき、それは完全で、純粋で、支配されない、規制を受けない自由放任資本主義(laissez-faire capitalism)を意味します。……国家と経済が分離している体制が資本主義です。ところが、資本主義の純粋なシステムは、いまだかつで存在したことがありません」(p.72)

・神秘主義 mystic theory、社会主義 social theory、主観主義 subjectivist theory の批判
「神秘主義者と社会主義者と主観主義者の三大勢力こそが、現代世界を今のようなものにしました。彼らこそ『死の道徳』を代表する人々です」(p.73) 「神秘主義が基づいている前提は、倫理の基準は人間とは別の超自然的次元によって墓の向こうのあの世に設定されているということです。人間が実践するには不可能なのが倫理であるという前提に立っているのが神秘主義です」(p.74)
「社会主義は、神のかわりに『社会』を代用させます。社会主義というのは、この地上の生活に主たる関心があると主張するのですが、関心があるのは人間の生活ではないのです。個人の生活ではなくて、関心があるのは具現化されない実体、集合体(collective)の生活なのです。この集合体というのは、あらゆる個人に関係していながら、個人以外の、あらゆる人間から構成されています。個人に関する限り、個人の倫理的義務は、他人によって肯定される欲望や要求や主張の奴隷でいること、それも私心なき声なき権利なき奴隷でいることなのです」(pp.74-75)
「倫理の理論のなかでも主観主義は、理論にもなっていません。倫理の拒否でしかありませんから。……善であろうが悪であろうが選んだものが何であれ、それで通用する。人間の気まぐれは有効な道徳的基準である。残る問題は、どうやって、それをうまくやりおおせるかでしかないと」(p.75)

●「純粋な利他主義」の困難
「自分以外の他者の利益・幸福を追求することがよい」という利他主義は、純粋につきつめれば「それが自分の利益や幸福の追求になってはいけない」という内容を含む。というのは、他者の利益や幸福の追求が自分の利益や幸福の追求にもなるのであれば、それは「他者の利益や幸福のみ」を追求する利他主義というよりは「他者の利益・幸福のみならず自分の利益・幸福も」追求する立場であり、上述した分類に従えば、「みんな(関係者全員)」の利益・幸福を目指す「功利主義(公益主義)」になってしまうからだ。
 利他主義を徹底させた《自分以外の他者の利益・幸福を追求し、それがけっして自分の利益や幸福の追求になってはいけない》という立場は「純粋な利他主義」である。しかし、このような「純粋な利他主義」は、すべての人々が同時に採用しうる(普遍化できる)立場ではあるものの、実際に実践することはほとんど不可能である。というのは、私たちは、他者の利益や幸福をもたらす行為を行った場合に、自分もよろこびを感じてしまうことが多いからだ。
 私たちの心は、多かれ少なかれ、他者の利益や幸福に共感してしまう性質を持っている。もしそのような共感をいっさい持っていない人ならば「純粋な利他主義者」になれるが、その場合に利他主義者は、他者が利益を得たり幸福になったりすることに対してまったく何の喜びも感じないのに他者の利益・幸福を追求する、ということになる。そのような人は、自分にとってはうれしくも何ともない他者の利益や幸福を追求するが、もしその行為が「義務だから」という理由に基づいて行われるのなら、それは義務論であり、帰結主義の一つである利他主義ではない。
 このように、「純粋な利他主義」は《他者の利益や幸福を追求し、しかも自分ではそうすることに何の喜びも感じてはいけない》という、実行するのが非常に困難な教説になる。

●「純粋でない利他主義」や「純粋でない利己主義」から「功利主義(公益主義)」へ
 もちろん「純粋でない利他主義」であれば十分に成立しうる。「自分の利益・幸福」だけを100%追求し「他者の利益や幸福」をいっさい追求しない「純粋な利己主義」と、「自分の利益・幸福」はいっさい追求せず「他者の利益・幸福」だけを100%追求する「純粋な利他主義」を両極端とすれば、その中間には「自分の利益・幸福」も「他者の利益・幸福」も両方追求する混合形態があることになる。そして、厳密に言えば、「自分の利益・幸福」と「他者の利益・幸福」の両方を平等に(他者ひとりひとりの利益・幸福と自分の利益・幸福を同じように重視して)追求する混合形態が、次回以降に取り上げる功利主義(公益主義)になる。
 功利主義(公益主義)をちょうど真ん中に位置づけるなら、それよりも「純粋な利己主義」に近い位置にあり、「自分の利益・幸福」のほうを「他者の利益・幸福」よりも重視する立場はすべて「純粋でない利己主義」である。一方、「純粋な利他主義」に近い位置にある立場(すなわち「自分の利益・幸福」よりも「他者の利益・幸福」を重視する立場)はすべて「純粋でない利他主義」である。
 だが、「純粋でない利己主義」や「純粋でない利他主義」にとっては、「自分の利益・幸福」と「他者の利益・幸福」とを、どのように重みづけるのかが問題になる。そして、「自分の利益・幸福」と「他者の利益・幸福」の両方を追求する点においては、「純粋でない利己主義」と「純粋でない利他主義」は、共に功利主義(公益主義)への入口に立っているといえる。


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