倫理学概論 II 第3回
正当化① 義務論

●義務論とは
ある行動や規則の「結果の善悪」ではなく「行動が生み出す価値以外の、行動自体のある特徴」が、その行動を正しい、ないしはすべきである、といえる理由になる
(W. K. フランケナ『倫理学』改訂版、培風館、1975年、p.25)

●行動[行為]義務論(act-deontological theory)
「基本的な義務判断は、『この状態において、私はしかじかのことを行うべきである』のようにすべて純粋に個別的な判断であり、そして『われわれはいつも約束をまもるべきである』のような普遍的な判断は利用できないか、役に立たないか、せいぜい個別的判断からの派生的なものにすぎない」(同、p.27) と主張する
「個別的状況において何が正しいかまちがっているかを決定する基準をおよそ何も示さない」(同、p.38)
「個別的判断が基本的なのであり、普遍的規則は何であれそれらから導出されるのであってその逆ではない」(同上)
→では、何が正しいかどうやって個別に判断するのか?:
「当面の事実をはっきりとつかみ、その上で、直観主義者の呼称でいうならばある種の”直観”によるか、あるいは実存主義者が語るたぐいの”決断”によって判断を下す」(同上)
→「せいぜい大まかなもの以外に行動義務論者はわれわれに基準とか指導原理を全然示してはいない」(同上)

●実存主義
J-P. サルトル「実存主義はヒューマニズムである」(1945年10月の講演録)
(『実存主義とは何か』人文書院、増補新版1996年、に収録。以下頁付けは邦訳による)
「[「実存は本質に先立つ」とは] 「人間はまず先に実存[存在]し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味する」「人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない」(p.42)
「人間はみずからあるところのものにたいして責任がある」「全人類にたいして責任をもつ」(p.43)
「人間はまさにかくあるべきだとわれわれの考えるような、そのような人間像をつくらない行為は一つとしてない」(p.44)
「自由なアンガジュマン[engagement:参加、関与]によって各人は人間の一つの型を実現しつつ自分を実現していく」(p.68)
「決定論は存在しない。人間は自由である。人間は自由そのものである」(p.50)
「人間は自由の刑に処せられている……ひとたび世界のなかに投げだされたからには、人間は自分のなすこと一切について責任がある」(p.51)
「アンガジュマンが行われるやいなや、私は私の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。他人の自由をも同様に目的とするのでなければ、私は私の自由を目的とすることはできない」(p.75)
「[レジスタンスに身を投じるべきか母親の生活を助けるべきか相談に来た青年に対して] 私はただ一つしかなすべき返答をもたなかった。『君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ』と。いかなる一般道徳も、何をなすべきかを指示することはできない。この世界に指標はないのである」(p.56)
「人生に意味を与えるのは諸君の仕事であり、価値とは諸君の選ぶこの意味以外のものではない」(p.78)

●状況倫理
小原信『状況倫理の可能性』中央公論社、1971年(頁付けは同書による)
「私が自己のおかれた〈状況〉のなかで自ら責任をもって決断するとき、その私の決断を私は正しいとみてよいのである。社会も(そうして神も)この私の決断を善とみてくれるであろう。私がこう考え、こう生きるとき、古い規範も規格もかげをひそめる。何が善であり、何が正であるかを、われわれはあらかじめ、〈状況〉に先立って語ることはできない。真実を語るとは、ガンの患者に病名をいきなり告げることではない。白いうそはありうるのだ」(pp.235-236、強調は原文では傍点、以下同様)
「善悪、正邪は具体的な状況のなかで、そのことばなり、行動なりが生きたものとなるとき、おのずと決まってくるのである」(p.236)
「われわれは状況のなかで、いま何がふさわしいか、をその場そのときに、ケイス・バイ・ケイスで自分で決めてよく、またそうするほかはないのである。ゆえに、ある人のあることばは、いかなる状況においても妥当するというかたちで、不可謬であるとか不可侵であるということはできない。〈現在(いま)〉を生きるほかならぬこの私が、いまここで、自己のおかれた状況を総合的に責任をもって判断するという、すぐれて実存的良心的な生き方が求められることになる。判断し決断する自己には、判断するための知性教養、決断するための意志努力がここでは強く求められる」(pp.236-237)
「状況に生きる者は状況のなかにだけ生きるのではない。彼は状況のなかにありつつも、状況を越えて何かをみつめる」(p.237)
「状況倫理とは、原理規約を機械的に適用することによってではなく、いまここで現に起こりつつあることとの関連で、何がふさわしい生き方かを考えようとする生き方である。ただそのさい、どこかに、隣人を愛そうとか、お互い長生きをしたいとか、神は愛であるとかいった大前提のような原理はもっている。だが、それ以上に、こういうときはこうするといういちいちの綱目は固定的に決めておかないで、自分が自分の良心または感受性(センシティヴィティ)に従って、責任をもって判断し決断していこう、そうしてそれはそれでよい、とひらき直る立場である」(p.241)
「判断する私が、現実の状況との関わりで決断するとき、原理の倫理を唱える者は、原理の重要性を唱える状況倫理家になっているのである!」(p.245)
「原理でなく状況を、と言われるときに、そこでほんとうに含意されていることは、われわれの生きる今日のような時代状況にあっては、原理指向的な倫理が幅をきかせすぎ、そのためのゆきづまりが多すぎるというメタ倫理的な反省が背後にかくされているということである」(同上)
「状況倫理的に生きようと言う人がおちいる誤まりの最たるものは、われわれは状況倫理的に生きなければならないというふうに、ふたたび倫理に『べき』を導入してしまうことであろう。……[状況に応じた判断が]自動的・機械的にひとつの当然の権利として固定的に主張されるようになるならば、『原理』の亡霊がふたたびわれわれの首をしめはじめることはもちろんである。状況なき原理は空虚である。だが原理(良心)なき状況は危険なのだ」(p.246)

★直観や決断が正しいと、どうしていえるのか?
 そもそも正当化(正しいという理由づけ)はしていないのでは?

●規則義務論(rule-deontological theory)
「正邪の基準は一つあるいはそれ以上の規則から成り立っている」(フランケナ『倫理学』p.28)と考える
→例外を認めない規則は作れないし、複数の規則どうしが衝突することは避けられないのでは?

●W. D. Ross, The Right and the Good, The Clarendon Press, 1930.
「実際の義務 (actual duty)」=実際に正しいこと=個別的な状況下で実際に行うべきこと
「一応の義務 (prima facie duty)」=一応正しいこと=他の義務と衝突しないかぎりは「実際の義務」であること
★どうやって「実際の義務」を見極めるか?

●W. K. Frankena, Ethics, 2nd edition, Prentice-Hall, 1973.(杖下隆英訳『倫理学』培風館、1975。頁付けは訳書による)
混合義務論 (mixed deontological theory):善行の原理+公正の原理
「だれかの生活をよくするとか悪くすること、またいっそうよくすることとか悪くすることと直接・間接になんらかの関連をもたないようなことをする道徳的義務は、われわれにはないのだ」(p.76)
「功利の原則[principles=原理。以下同様]というとき私がきわめて厳密な意味でいい、またずっと続けていおうとするのは、この世における悪にまさる善のできるかぎり最大の量をもたらすであろう、またはたぶんもたらすであろうと思われる行動を、われわれは行うべきである、あるいはそのような慣習や規則に従うべきである、という原則である。しかしながら、この原則がいちだんと基本的なもう一つの原則を前提していることは明らかだと思われる;すなわちそれは、われわれは善を行うべきであり、そして害を与えることを阻止し避けるべきである、という原則である」(p.77。強調は原文)
「悪にまさる善の量を最大限にする一応の義務がわれわれにあるのは、われわれに善を行い悪を阻止する優先的な一応の義務があるときにかぎられる。私はこの優先的な原則を善行の原則(the principle of beneficence)とよぶことにしよう」(pp.77-78。強調は原文)
しかし、
「道徳におけるわれわれの正邪の唯一の基準として功利の原則には満足できない」(p.74)
「公正の原則を、世界における悪にまさる善の量を最大にする、ということに関するどのような原則からも独立であり、善悪に関するわれわれの配分を導くものとして認めるべきである」(同上)
「公正の原則は人びとを平等に扱えという一応の義務をわれわれに課してくる」(p.87)
ただし、
「二つの原則を実際の義務ではなく、一応の義務と考えなければならない」(p.75)

●神意説 (the Divine Command theory、神学的主意説 theological voluntarism)
「正邪の基準は神の意志または法である」(フランケナ『倫理学』p.47)
「正しい」=「神に命じられている」
「間違っている」=「神に禁じられている」
★神が命じたことなら何でも正しく、神が禁じたことなら何でも間違っているのか?
 神がもし、どう考えても不正としか思えないことを命じたとしても、それは正しいことなのか?
→それは神が間違っているのか?それとも、人間が神の命令を間違って受け取っているのか?
 そもそも、神が命じたり禁じたりすることを、人間はどうやって知りうるのか?
 もし本当に、不正にしか思えないことを神が命じたとしても、それはすべきことなのか?
 神が命じたから正しいのか、それとも、正しいことを命じるから神なのか?
…「理性」か「信仰」か?
 「理性」とは何か?
(神が人間に、正しいことを見極めるために与えたものではないのか?そうだとしたら、神の命令が理性に反することはありうるのか?)

●カントの理論
 倫理思想史においては、18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントの考えが代表的な義務論とみなされることが多い。しかしカントの義務論は、独自の世界観に基づく探究方法から導かれている。以下、『人倫の形而上学(道徳形而上学)の基礎づけ』の記述に沿って解説する。

・「義務だからこそ従うべきだ」
 カントは《私たちの行為は、それが義務であるという理由から行われるときにこそ、純粋に道徳的に正しい行為といえる》と考えた。「純粋に」というのは「経験によって知るのではなく、ただ理性のみによって知られうる」という意味である。
 私たちは、人生の中のさまざまな「経験」(これは個人的な経験ばかりでなく、教育など公共的な経験も含む)によって「道徳的」とされていることを知り学ぶが、人びとの間で「道徳的」とされていることは、社会や文化や時代によって異なるようにみえる。
 しかし、カントはこうした相対主義的結論に満足しない。彼が求めたのは、人間が人間である以上、誰もが受け入れざるを得ないような究極的原理であった。このような原理は、「経験」によってではなく、ただ「理性」を働かせることだけによって見いだされなければならない。なぜなら理性こそ、人間を人間たらしめているものとして、すべての人間に等しく備わっているものだからだ、とカントは考えた。
 そこでカントは帰結主義を退ける。《行為は望ましい帰結(結果)をもたらすがゆえに正しい》という帰結主義においては、何が「望ましい帰結(結果)」なのかは経験によって知られるしかなく、その具体的内容は人や社会や文化や時代によって異なってしまうかもしれないので、どんな人間にも普遍的にあてはまる道徳的行為を指し示すことはできない。また《幸福こそあらゆる人間が目指す究極的に望ましい帰結であり、幸福をもたらす行為こそ正しい》という考え方も、何を幸福と考えるかは人と場合によって異なりうるので、すべての人がどんな場合にも行うべき、無条件に正しい行為を示すことはできない。あらゆる人がどんな状況でも行うべき正しい行為とは「望ましい帰結をもたらしたければ〜を行え」と条件付きで指示されるものではなく、端的に「〜せよ」と無条件に指示されるものでなければならないはずだ、と。
 そして、端的に「〜せよ」と指示される行為とは、なぜその行為を行うべきなのか説明しようとすると、単に「〜すべきだからすべきだ」としか説明できない。もし「それがある帰結をもたらし、その帰結は望ましいから」と説明できるなら、その行為はたまたまその帰結をもたらすから望ましいにすぎないことになるし、その帰結自体が望ましいかどうかは、上に述べたように相対的かもしれない。
 このように、端的に「〜せよ」と指示される行為、あるいは、単に「〜すべきだからすべきだ」としか説明できない行為というのは、いいかえれば「それを行うことが義務だから」という理由のみによって行われる行為である。

・どのような《ルール》に従うべきなのか?究極的な義務とは何か?
 しかし、もし「それを行うのが義務だから行う」のが純粋に道徳的に正しい行為だとしても、義務だからという理由で行いさえすれば、どんな行為でもそれだけで道徳的に正しい行為だというわけではない。たとえば、人を殺しておいて、その理由を「教祖の命令に従う義務を果たすため」と説明しても、(狂信的なテロリスト集団の内部でもない限り)免罪されたり「純粋に道徳的だ」と賞賛されることはない。そこで、いったいどのような義務に従うべきなのか、どのような《ルール》に従うことが義務なのか、が問題になってくる。人間である以上誰もが従う義務がある《ルール》とは、いったいどのようなものなのだろうか。
 この問題を考えるに当たってカントは、人間はみな自分なりの《ルール》を立てながら生活している、という点に着目する。より正確に言えば、私たちの一つ一つの行為はみな、自分なりの《ルール》(カントの用語では「格律 Maxime」。これは現代語では「ポリシー」というのがわかりやすいかもしれない)の表現と解釈できる。たとえば、友達との待ち合わせの約束を守るのは「人と約束したことは守る」というポリシーに従っている。待ち合わせに遅刻することは「少しくらいなら約束した時刻に遅れてもよい」というポリシーのもとに行動していることになる。電車に乗るときに携帯電話の電源を切る人は、単に鉄道会社からそう言われたからではなく、「他人に迷惑をかけてはいけない」という自分のポリシーに従っているのかもしれない。道端に落ちている一円玉を拾う人は「決してお金を無駄にしてはいけない」というポリシーの持ち主かもしれない。
 そしてカントは、人間である以上誰もが従う義務のある《究極のルール》(カントの用語では「道徳法則」)を、このポリシーが従うべきルール、すなわち《自分なりのルール》についてのルールとして見出す。
 では、究極の《自分なりのルールについてのルール》とは、いったいどのようなものか。カントはそれを、ルールというものの本質を体現しているルールと考えた。では、ルールの本質とは何か。それは、そのルールが言及する状況にあるなら誰にでも同じようにあてはまる、という「普遍性」である。つまり《究極のルール》である「道徳法則」とは、自分なりのルール(ポリシー)が、自分だけではなく、誰にとってもあてはまる「普遍性」をもつものであるように、以下のように命じるルールである。

「あなたの格律が普遍的な法則となることを、その格律によって同時に意志しうるような、そういう格律に従ってのみ行為しなさい」(『人倫の形而上学の基礎づけ』第2章)
「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為しなさい」(『実践理性批判』第1部第1編第1章第7節)

つまり《ある行動を行う前に、その行動によって表現されることになる自分のポリシーが、他のあらゆる人のポリシーとなりうるのかどうか自問自答しなさい。なりうるのであれば行うべきだし、なりえないのであれば行うべきでない》ということだ。たとえば、友達とのある待ち合わせの約束を守ろうかどうしようか考えるときに、「待ち合わせの約束は守らない」というポリシーと「待ち合わせの約束を守る」というポリシーの、どちらがあらゆる人のポリシーとなりうるのか考えてみる。「待ち合わせの約束は守らない」というポリシーのほうは、もしそれがあらゆる人のポリシーになれば誰も待ち合わせには来なくなって「待ち合わせ」ということ自体が意味をなさなくなるから、このポリシーは「普遍的な」ものにはなりえない。これに対して「待ち合わせの約束を守る」というポリシーのほうは何の問題もなくあらゆる人のポリシーになりうる。こうして「友達とのこの待ち合わせの約束は守るべきだ」という判断が下されることになる。

・なぜ「義務」になっているのか?
 しかし「道徳法則」に従うことが私たちの「義務」になっているといえるのはなぜか。この問いはじつは、「なぜ私たちは道徳法則に従う《べき》なのか」という正当化の問いではなく、「道徳法則に従うことが私たちの義務に《なっている》のはどうしてか」という、世界の仕組みの説明を求める問いである。これに対してカントは、おおむね以下のように答えている。

──それは、我々人間が、理性の世界である「英知界」と、感覚的欲望の世界である「自然界」の両方に属している、中間的存在だからだ。もし人間が、神や天使のように、英知界に完全に属している存在ならば、意識して法則に従おうとするまでもなく、おのずと「道徳法則」に従ってしまうだろう。なぜなら「道徳法則」は、ちょうど自然法則が自然界全体を貫く法則であるように、英知界全体を貫く法則なのだから。また、もし人間が完全に自然界に属している動物的な存在にすぎないならば、我々はまったく理性を持たず「道徳法則」を知ることもけっしてないだろう。
 だが我々人間は、理性と欲望の両方を持っていることからわかるように、英知界と自然界の両方に属している。そこで「道徳法則」を知ってはいるものの、しばしば欲望に負け、自然法則に従って動物のように生きたくなる。そのような我々にとって「道徳法則」は、ことさらに意識して理性的に従わなければならないものとして現れる。だから「道徳法則」に従うことが命令と受け取られるのだ。──

 このように、カントのいう「義務」とは、今日私たちが「他者への義務」や「社会への義務」や「国に対する義務」などの言葉で表すものではなく、不完全な理性的存在者である人間が、理性的な存在者であり続けるために求められる条件を表している。人間は理性的存在者なのに、しばしば欲望に負けてしまいがちなので、理性を働かせて「道徳法則」に従うことが人間にとって「義務」となる。それは人間が人間である限りにおいて逃れられない「義務」なのだ。

・目的自体としての人間(性)
 カントによると、英知界に属する理性的存在としての人間の価値は絶対的であるから、人間は、何らかの目的を果たす(望ましい帰結をもたらす)ための単なる手段として(道具のように)用いられるのではなく、目的そのものとして扱われなければならない。単なる手段として(道具のように)用いられるならば、それは、何か他の目的を達成するがゆえに価値がある、という、相対的な価値しかもたないことになってしまう。
 ただ、現実の人間は理性的存在であると同時に自然界に属する動物的存在でもあるから、生身の人間がそのままで絶対的な価値をもつわけではない。絶対的な価値をもつのはあくまで、理性的存在としての人間(人格 Person)だけだ。そしてカントは、人格の人格たるゆえん、すなわち、人間が理性的存在であるゆえんのことを「人間性 Menschheit」とか「人格性 Persönlichkeit」と呼ぶ。
 こうした人間についての見方からすれば「道徳法則」は次のようにも表現できる、とカントは言う。

 「あなた自身の人格にも他のあらゆる人の人格にも同じように備わっている人間性を、つねに同時に目的として用い、けっして単なる手段としてだけ用いることのないように行為しなさい」(『人倫の形而上学の基礎づけ』第2章)

すなわち、究極のルールである「道徳法則」は、普遍性に留意して表現すると「あなたの格律が普遍的な法則となることを、その格律によって同時に意志しうるような、そういう格律に従ってのみ行為しなさい」(「普遍性の法式」)となり、究極目的としての人間性に留意して表現すると「あなた自身の人格にも他のあらゆる人の人格にも同じように備わっている人間性を、つねに同時に目的として用い、けっして単なる手段としてだけ用いることのないように行為しなさい」(「目的の法式」)となる。
「道徳法則」の「目的の法式」は、現代倫理学でも盛んに用いられている。たとえば、人を奴隷にしてはいけないのは、奴隷にされる人(の人間性)を単なる手段(道具)としてしか扱っていないからだ。また、本人の承諾を得ないまま患者を新しい治療法の実験台にするのも、その患者(の人間性)を単なる手段としてしか扱っていないことになる。
 もっとも、私たちは日常的に、他人の労働力をお金で買っている。たとえば、バスに乗るとき、散髪をするとき、弁当を買うとき、掃除をしてもらうとき、衣服をクリーニングに出すとき、食料を買うとき、授業料を払って授業を受けるとき、等々、あらゆる場面で、私たちは他人の労働にお金を払い、自分の目的を達成するための「手段として」その人(の人間性)を用いている。これらをすべて禁止するなら分業制は成り立たなくなる。カントもそのことには気付いていた。だからカントは、「つねに同時に」目的として用い「けっして単なる」手段として「だけ」用いたりしないように、と書いたのだ。カントが禁止したのは、人(の人間性)を手段として用いることすべてなのではなく、それを「単なる手段」にしてしまい、人間(性)が絶対的価値を持つということを忘れているような用い方だけである。
 しかし、人間(性)を「つねに同時に目的として」用いる、ということは、具体的にはどうすることなのか。現代倫理学においてそれは「その人の意思を尊重すること」と解釈されている。バスを運転したり、弁当を売ったり、清掃をしたり、クリーニングをしたり、食料を売ったり、授業をしたりすることは、そうして対価を得る人たち本人の意思に基づいているがゆえに、その人たちにお金を払って「手段」として用いたとしても、「同時に目的として用いている」といえる。これに対して、奴隷としてこき使うことや、患者本人に知らせないまま実験台にすることは、その人の意思に反して行われているので「単なる手段として用いている」ことになる。もっとも、患者本人に十分に説明し、本人が理解した上で進んで実験台になるのならば「同時に目的として用いている」といえるし、本人が奴隷になることを望んでいて、いやになればいつでもやめることが自由にできる(そうであれば「奴隷」という言葉はふさわしくないが)のなら、やはり「同時に目的として用いている」といえる。
 カントは、理性的存在としての人間は、自分の生き方を自分の意思に従って決めていくこと(自律)ができる存在と考えていた。そのような存在は、普遍化できるような格律を選び、他人をつねに同時に目的として用いけっして単なる手段として用いないようにして、生きていくだろう。そのような理性的存在であるからこそ、人間(のうちにある人間性)は絶対的な価値をもち、目的そのものとして扱われてしかるべきなのだ。その人の意思に基づく自己決定(自律)を尊重することが「つねに同時に目的として用いる」ことになると解釈される理由もここにある。


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