倫理学概論 I 第3回
「事実」と「規範」の違い②「世界」の二つの扱い方

●何が事実命題と規範命題を生むのか
 ところで、そもそも、事実命題と規範命題という、二つの異なる種類の命題は、どのようにして生じてくるのでしょうか?なぜ命題の種類は一つではなく、二つなのでしょうか?
 それは、私たちがさまざまな「もの」(物、者)を扱うしかた(「扱い方」)が二つあるからです。「さまざまなもの」をまとめて「世界」と呼ぶならば、私たちの「世界」の扱い方には二種類あるのです。

●一人称・二人称・三人称
 文法用語で「人称」と呼ばれるものに注目するのが、この二種類の「世界の扱い方」を捉える手掛かりになります。人称とは発話の話し手や聞き手などを区別するもので、話し手を「第一人称(一人称)」、聞き手を「第二人称(二人称)」、話し手でも聞き手でもなく発話の中で言及されている「ひと」や「もの」を「第三人称(三人称)」とし、それぞれ人称代名詞によって示すことができます。
 一人称を示す人称代名詞は、英語の主格では「I」と「we」です。日本語では「わたし」「おれ」「あたし」「ぼく」「あたい」「わし」「われ」「わたしたち」「おれたち」「あたしたち」「ぼくたち」「わしたち」「われわれ」などのさまざまな語を状況によって使い分けています。
 二人称を示す人称代名詞は、英語の主格では「you」です。日本語では「あなた」「きみ」「おまえ」「なんじ」「あなたたち」「きみたち」「おまえら」「なんじら」などが使われます。
 三人称を示す人称代名詞は、英語の主格では「he」「she」「it」「they」です。日本語では「かれ」「かのじょ」「それ」「そのひと」「かれら」「かのじょら」「それら」「かれたち」「かのじょたち」「そのひとたち」などです。

●「わたし-あなた」と「わたし-それ(かれ、かのじょ)」
 ひとりひとりの「わたし」(およびその総体としての「私たち」)が「世界」を扱うしかたの違いが、その発話において人称の違いとして表れている、ということを指摘したのが、マルティン・ブーバー(1878-1965)です。オーストリア出身のユダヤ思想家であるブーバーは、主著『わたしとあなた』(原題 Ich und Du、1923年。邦訳「我と汝」『我と汝・対話』岩波文庫およびみすず書房所収。ただし以下の訳文は邦訳には従っていません)の冒頭で、次のように述べています。

「世界は、人間がとる二つの扱い方によって、人間にとって二つになる。
 人間による世界の扱い方が二つあるのは、人間が語りうる根源的な言葉が二つあることからわかる。
 根源的な言葉とは、単独の言葉ではなく、組になっている言葉である。
 根源的な言葉のひとつは、『わたし−あなた』という一組の言葉である。
 根源的な言葉のもうひとつは、『わたし−それ』という一組の言葉である。これは、『それ』を『かれ』や『かのじょ』に置き換えても変わらない。
 したがって、人間の『わたし』も二つあることになる。
 というのは、『わたし−あなた』という根源的言葉の『わたし』と、『わたし−それ』という根源的言葉の『わたし』は異なるからだ」

 ここでブーバーが言っているのは、「わたし」が世界(さまざまなもの)を、二人称の「あなた」として扱うのと、三人称の「それ」「かれ」「かのじょ」*として扱うのには、根本的な違いがある、ということです。
「さまざまなもの」には、無生物だけでなく生物も含まれます。「わたし−それ」の「それ」が「かのじょ」や「かれ」に置き換わるのはそういう場合です。にもかかわらず、無生物である「それ」に「置き換えても変わらない」ということは、「かれ」「かのじょ」が、「それ」と同じ扱われ方をしているということを示しています。

*ここで「かれ」「かのじょ」と並記せざるをえないのは、日本語を含む多くの言語では三人称のヒトを一語で示す中性的な代名詞がほとんど使われていないからです(「あいつ」「そいつ」「こいつ」などは例外的ですが、やや侮蔑的な意味合いがあります)。多くの言語は、生物の性別に関し男性(オス)と女性(メス)の区別しか想定しておらず、この区別には該当しない多様な性のあり方を表す適切な言葉を欠いています。
 なお、男性代名詞(「かれ」「かれら」)ばかり使うことが「男性が第一の性で女性は第二の性」という位置づけを示している、というフェミニストからの指摘があります。かといって、すべて「かれ・かのじょ」と併記するのも煩雑になるので、今回のテキストにおいては、以後「かれ」と「かのじょ」を交互に用いて書きます。

●「わたし-あなた」は「顔を合わせる」という扱い方
 さまざまなものを「あなた」として扱うとき、それらは「顔」(ラテン語では「ペルソナ」、ギリシア語では「プロソーポン」)のある「人格」(person。語源はペルソナ)として扱われています。その場合「あなた」は生物としてのヒト(種の学名はホモ・サピエンス)であることが多いですが、ヒト以外の生物(動物や昆虫、植物など)や、人形などの無生物も、ときには「顔」をもち「あなた」と呼びかける相手として扱われます(ブーバーは『わたしとあなた』の中で樹木に「あなた」と呼びかけ向き合う経験について書いています)。この「顔(ペルソナ)」は、キリスト教において神の「現れ」を指す場合には「位格」と訳されます(「三位一体」説の「位」とはこの「位格」のことです)。また「人格」は人為的に作られる場合もあります。例えば現代では、法律上一つの主体(人格)とみなされる組織のことを「法人」と呼びます。
 重要なのは、「人格」とは「わたし」が「あなた」として向き合い呼びかける相手のことであり、その際に「わたし」が向き合うのが「顔」である、ということです。「わたし-あなた」とは、さまざまなものに「あなた」と呼びかけ向き合う扱い方を表しており、それは「顔を合わせる」という扱い方です。

*ただし、「わたし-あなた」という扱い方をしたからといって、それだけで相手も私に「わたし-あなた」と呼びかけ向き合う扱い方をしてくれるとは限りません。「あなた」と呼びかける相手が無生物である場合は当然そうなりますが、相手が人間である場合ですら、私は相手に「あなた」と呼びかけ向き合っているのに、相手のほうは私を「それ(かのじょ、かれ)」としか扱っていないという事態が、しばしば起こります。すなわち、「わたし-あなた」という扱い方は、必ずしも相互的なものにはならず、一方的なものでしかないことが少なくありません。

●「わたし-それ(かれ、かのじょ)」とは客観的に対象とする扱い方
 これに対し、さまざまなものを「それ(かのじょ、かれ)」として扱うということは、「それ(かれ、かのじょ)」と「顔と顔を合わせない」扱い方をするということです。「それ(かのじょ、かれ)」は、「わたし」が「向き合っていない」ものです。その際に「わたし」は、それらのものとは距離をとり(「世界」から一歩身を引き)、第三者としてそれらを眺めています。すなわち、それらのものに「コミット[関与]」せずに、それらを「対象」として「客観的に」「観察」しているのです。そして、そのような観察の成果としての記述は、「わたし」はあたかもそこにいないかのように、「それ(かれ、かのじょ)」についてだけ行われます。これが「客観的記述」ということであり、自然科学や社会科学などの客観科学が行っていることです。
 つまり、客観科学が世界を扱うしかたは、ブーバーのいう「わたし-それ(かのじょ、かれ)」という扱い方なのです。そして、その成果として得られた客観的記述が、「〜である」や「〜となる」という命題、すなわち事実命題です。

●「わたし」に気づくこと(自己意識)は「わたし-それ」という扱い方に基づく
 このように「それ(かれ、かのじょ)」としてさまざまなものを対象化し、客観的に観察を行うのは、「わたし」が「わたし」であるという気づき、すなわち「わたし」についての意識 (自己意識)をもつものだけです。「わたし」を意識することがなければ、さまざまなものと「わたし」の間に距離をとることはできません。「わたし」が、さまざまなものを「それ」として距離をとる(世界から「一歩引く」)ということは、その前までそれらと距離をとれていなかったということを示しています。「わたし」が「わたし」であることに気づかないもの(自己意識をもたないもの)はおそらく、世界の中で何も考えることなく(「わたし」も「あなた」も「それ」もなく)生きているのでしょう。
「わたし」に気づくとは、「わたし」を「それ」として捉えるということです。つまり、「わたし」に気づくことは、すでに「わたし-それ」という扱い方ができているからこそ可能なのです。

●ヒトが生きるには「あなた」と呼びかけることが欠かせない
 しかし「わたし」がさまざまなものから距離をとれたとしても、ただ世界と距離をとり観察し記述しているだけでは、生きていくことができません。生きるためには、さまざまなもの(世界)に働きかけなければなりません。
 さまざまなものと距離をとり観察し記述することは、世界を「それ」として利用することを可能にします。そして、世界を「それ」として利用することができなければ、「わたし」は生きていくことができません(たとえば、生き物を食べることは、その生き物を「それ」として扱わなければ、行うのが非常に困難です)。
 ですが、少なくともヒトという生物種の一員である「わたし」は、ひとりきりで生きているのではありません。「わたし」というヒトは、さまざまなものを「それ」として利用すると同時に、さまざまなものに「あなた」と呼びかけ向き合うことで生きる、共同的な存在です。アリストテレスの言葉を借りれば「人間はポリス(都市国家、社会)的動物」です。ブーバーは『わたしとあなた』の第一部を次の言葉で締めくくっています。
「『それ』なしに人間は生きることができない。だが、『それ』だけで生きるものは、人間ではない」

●規範命題は「わたし-あなた」という扱い方から生じる
 上述したように、世界を「わたし-それ(かれ、かのじょ)」として扱うしかたは、さまざまなもの(および「こと」)との間に距離を置き(世界から一歩身を引き)、そのものごとにコミット(関与)せずに、観察します。したがって、その成果として得られるという事実命題(「〜である」や「〜となる」)は、そのものごとを、あたかも傍観しているかのように記述されています。
 これに対し、「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」といった規範命題は、前回に述べたように、「指図性」をもち、そのものごとにコミット(関与)する「わたし」の「主体的」な姿勢を示しています。そして、「コミット(関与)する」という主体的姿勢は、「あなた」として呼びかけ向き合うという扱い方から生じます。
 つまり、指図性をもつ規範命題は「わたし-あなた」という世界の扱い方から生じるのであり、「わたし-それ(かのじょ、かれ)」という世界の扱い方からは生じないのです。

*規範命題が「わたし-あなた」という世界の扱い方から生じるということは、規範命題の主語がつねに「あなた」であるということではありません。「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」などということが、「あなた」に呼びかけ向き合いながらで発せられることで、(「と言われている」「なんちゃって」などが省略されている事実命題ではなく)指図性をもつ規範命題になる、ということです。
 なお、「わたし-あなた」という世界の扱い方から生じるのは、規範命題だけではありません。「〜しよう」「〜しない?」などの呼びかけや勧誘、「〜しなさい」「〜せよ」などの直接的命令、「どうですか?」「元気?」などの気遣いも、「わたし-あなた」という世界の扱い方から生じている言葉と考えられます。


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