倫理学入門 第7回
目的論(2) 功利主義(公益主義)

 今回は目的論のうち、功利主義(公益主義)を取り上げます。

●「みんな」の幸福・利益とは?
 前回、功利主義(公益主義)とは「自分の利益・幸福も他者の利益・幸福も考慮して、みんなの利益・幸福を追求することがよい」という立場であると説明しました。利己主義を貫徹しようとすると「長い目を持つ」「普遍化可能な」利己主義にならざるをえず、たとえ表面的にせよ、利他的な行為を行うようになります。また、純粋な利他主義に立つことは困難です。これらに比べると功利主義(公益主義)は、無理の少ない立場であるといえます。
 しかし「みんなの利益・幸福」といっても、自分の利益・幸福と、他者の利益・幸福を、どのように重みづけるべきなのでしょうか。そこでもし自分の利益・幸福を他者の利益・幸福よりも重く見て、自分の利益・幸福になることを他者の利益・幸福になることよりも優先するならば、公平に「みんなの利益・幸福」を追求しているとはいえません。そのような態度は、功利主義(公益主義)というよりはむしろ一種の利己主義というべきでしょう。そこで、公平に「みんなの利益・幸福」を追求するということは、自分の利益・幸福を、他者一人ひとりの利益・幸福と同じように重みづける、ということになります。いいかえれば、たとえ誰の利益・幸福であっても、それを自分の利益・幸福とまったく同じように尊重する、ということです。それは、自分であろうと他者であろうと「みんな」に含まれるあらゆる人について「一人を一人として数え、けっして一人以上には数えない」ということになります。
 このように、それぞれの人の利益・幸福を平等に取り扱う、ということが、功利主義(公益主義)の基礎にあります。しかし、それだけでは、まだ「みんな」の利益・幸福とはいえません。平等に尊重された各人の利益・幸福が「みんな」の利益・幸福として、総体的にとらえられるようになるためには、一人ひとりの利益・幸福を足し合わせて、全体の総量*として見なければなりません。

*ちなみに、この全体の総量としての「みんなの利益・幸福」のことを、倫理学用語で「功利性」「公益」「効用」「功用」(いずれも utility の訳)といいます(「効用」という訳語は経済学で用いられることが多いです)。また、効用(功利性、公益性)を算出することを「効用計算」(「功利計算」「公益計算」)などといいます。

 こうして、功利主義(公益主義)とは、それぞれ平等に重みづけされた一人ひとりの利益・幸福を足し合わせた、全体の総量としての「みんなの利益・幸福」すなわち「効用(功利性、公益)」を最大にすることがよい、という立場であることになります。「功利主義(公益主義)」という言葉を最初に用いた英国の哲学者ジェレミー・ベンタム(または「ベンサム」)はこのことを「最大多数の最大幸福」と表現しました(『道徳および立法の諸原理序説』第一章)。

*倫理思想史上は功利主義(公益主義)はごく大まかに言って、ベンタムやジョン・スチュアート・ミルなど19世紀までの英国を中心とした「古典的功利主義(古典的公益主義)」と、現代の「選好功利主義(選好公益主義)」とに区分されています。また、経済学では「厚生経済学」の中に、功利主義(公益主義)の発想が生きています。
 古典的功利主義(古典的公益主義)は「利益・幸福」の内容を、もっぱら「快(快楽)pleasure」という言葉でとらえていました。「利益・幸福」の反対である「損・不幸」は「苦(苦痛)pain」と呼ばれました。ここで「快」とか「苦」という言葉は、日常用語で用いられるよりもかなり広い意味を含んでおり、精神的な快楽や苦痛も含んでいます。こうした「快」や「苦」を、ベンタムは「強さ」「持続性」「確実性」「遠近性」「多産性」「純粋性」「それが及ぶ範囲」という7つの尺度で測って効用計算(公益計算)を行おうとしました(『道徳および立法の諸原理序説』第4章)。このようにベンタムにとって快と苦は、最終的に「量」としてとらえられるものでした。これに対し、同じ古典的功利主義(古典的公益主義)でも、ミルはさまざまな快(および苦)の間に、量の差には還元できない「質」の差を認めていました。すなわち、質の低い快がいくらたくさん集まっても、少量の質が高い快をしのぐことはできない、とミルは考えていたのです。彼の「満足した豚よりは不満足な人間のほうがいい。満足した馬鹿であるよりは不満足なソクラテスのほうがいい」(『功利主義論(公益主義論)』第2章)という有名な言葉はこのことを表しています。
 しかし、いずれにせよ古典的功利主義(古典的公益主義)は「快」や「苦」は客観的にとらえられるものと考えていました。これに対して、人びとが利益とか幸福と考えるものは、そうした客観的な「快」や「苦」としてとらえきることができない、という考えが強くなってきました。とくに「精神的快楽」のようなものは、客観的な快楽というよりはその人の希望や欲求に対応するものであり、それをとらえるために「利害(利益と不利益)interest」という言葉が使われるようになりました。この「利害」はしばしば「選好 preference」とも呼ばれるために、こうした現代的な功利主義(公益主義)は「選好功利主義(選好公益主義)」と呼ばれます。この立場に立つ代表的な哲学者として、英国のリチャード・マーヴィン・ヘアや、オーストラリアのピーター・シンガーといった人たちがいます。

●少数者の犠牲の問題
 しかし「みんなの利益・幸福」がこうして全体の総量としてとらえられ「利益・幸福の総量を最大にすること」が「みんなの利益・幸福を追求すること」であると解釈されるようになると、いくつか問題点も出てきます。
 その一つに《総量が最大になるとしても、必ずしも全員が利益や幸福を得るとは限らない》ということがあります。功利主義(公益主義)では、ある行為を行うことで大部分の人は利益や幸福を得るけれど一部の人は損をしたり不幸になる、という場合でも、その行為が実行可能な選択肢の中で最も効用(公益)を大きくするものならば、その行為をすることがよい、と結論します。たとえ、誰も損をしたり不幸にならないような選択肢があったとしても、一部の人が損をしたり不幸になったりする選択肢のほうが全体の効用(公益)を大きくするなら、むしろ一部の人が損をしたり不幸になる選択肢のほうを選ぶべきだ、ということになってしまうのです。
 このように功利主義(公益主義)は、全体の効用(公益)を最大化するためなら、少数者の犠牲もしかたがない、と考えてしまう傾向があります。もちろん「犠牲」になる少数者の損や不幸が全体の効用(公益)を低下させてしまうほど大きければ、功利主義(公益主義)も少数者が「犠牲」になることは認めないでしょう。しかし、少数者の損や不幸がかなり大きくても、それを補って余りある効用(公益)の増大が確実に見込まれるなら、功利主義(公益主義)は少数者の「犠牲」を容認してしまうのです。そのような場合に「犠牲」を容認しない理論的枠組は、功利主義(公益主義)には存在しません。

●行為功利主義(行為公益主義)と規則功利主義(規則公益主義)
 また、功利主義(公益主義)は、常識的には行ってはいけないとされている行為、たとえば人のものを盗むことや人をだますことや人を殺すことをも、もしそれによって全体の効用(公益)を増大させるのなら、行うことがよいと判定します。嘘をつくことでみんなが幸せならば嘘をついたほうがいいことになるし、厄介者を殺すことでみんなの不幸が減るのであれば殺したほうがいいことになります。個々の行為の是非だけを問題にする限り、功利主義(公益主義)ではこのような場合の嘘や人殺しを禁止する理由はどこにも見出されないことになります。
 しかし、このような功利主義(公益主義)のとらえかたは不適切であると考える研究者たちもいます。彼らによると、功利主義(公益主義)とはこのように個々の行為の是非を判断するための学説なのではなく、むしろ法律や政策など、社会のさまざまな《ルール》の是非を判断するための学説なのです。すなわち「人のものを盗んではいけない」とか「人をだましてはいけない」とか「人を殺してはいけない」といった《ルール》や、国家予算の使い道とか福祉政策のあり方などについて、その是非を考える場合にこそ《総量としての「みんなの利益・幸福」を最大にするのがよい》という功利主義(公益主義)が用いられるべきなのです。そして、いったんそのような《ルール》や政策が定められたなら、個々の行為や施策の是非はこうした《ルール》や政策に照らし合わせて判断されるべきであって、直接に《総量としての「みんなの利益・幸福」を最大にするのがよい》という功利主義(公益主義)の原理に照らし合わせて判断するべきではない、というのが彼らの考え方です。このような功利主義(公益主義)の解釈を「規則功利主義(規則公益主義)」と呼びます。また、個々の行為に功利主義原理(公益主義原理)が適用されると考える解釈は「行為功利主義(行為公益主義)」と呼ばれます。
 たしかにベンタムやミルなどの古典的功利主義者(古典的公益主義者)たちは立法(議会)のあり方や政府の政策を改革することを目指していましたので、彼らの功利主義(公益主義)は規則功利主義(規則公益主義)であったと解釈したほうが適当かもしれません。しかし規則功利主義(規則公益主義)は、個々の行為の是非に関しては《ルール》を厳格に適用して例外を基本的に認めませんので、その点においては義務論者と同じように融通がきかず、明らかに全体の効用(公益)を増大させるので望ましいと思われる行為でさえも《ルール》に照らして非である場合は非と判断することになってしまいます。そこで規則功利主義(規則公益主義)と行為功利主義(行為公益主義)のどちらが望ましいのか、功利主義(公益主義)者の間でも論争が続いています。

●「みんな」とは誰か?
 ところで、これまで私は「みんな」とか「全体」の利益・幸福という表現を特に注釈を付けずに使ってきました。しかし「みんな」とか「全体」には、いったい誰までが含まれ、誰からは含まれないのでしょうか。この点も、功利主義(公益主義)について考える場合に重要です。
 社会的な《ルール》すなわち法律や政策の是非を考える規則功利主義(規則公益主義)の場合は、その《ルール》が誰に適用されるのか、ある程度明確にすることができます。たとえば日本の法律は日本国内にいる人にしか適用されませんので、外国にいる人は「みんな」の中には含まれないことになります。このように、その社会的《ルール》の影響を受ける人全員が「みんな」に含まれるといってよいでしょう。
 しかし、行為功利主義(規則公益主義)の場合は「みんな」の範囲を確定することは難しくなってきます。というのは、その行為によって影響を受ける人の範囲は、行為を行う時点ではそれほど明確ではないからです。たとえば、授業の最初の討論に取り上げた事例を思い出してみましょう。あの未熟児の赤ちゃんの手術をするかしないかによって影響を受けることがはっきりしているのは、未熟児本人と、医師や看護婦などの医療スタッフと、両親およびその親族です。そして、この関係者だけの範囲内では、赤ちゃん本人と両親に与える影響が最も大きく、両親は手術に反対しているので、効用計算(公益計算)の結果は手術をしないほうがよいということになるかもしれません。しかし、この事例がマスコミに取り上げられたりして公になると、手術をするかしないかによって影響を受ける人の範囲は大きく広がります。このニュースを聞いた人の中には、手術しないことに抵抗を覚える人が少なくないかもしれませんし、障害者の人たちが反対運動を起こすかもしれません。その場合には「みんな」の範囲はすでに直接の関係者の範囲を大きく越えて広がってしまっています。この事例を知ったすべての人が、手術を行うか否かに関して、多かれ少なかれ何らかの「利害」を持つことになるからです。
 このような場合に、効用計算(公益計算)を「直接の関係者」に限って行うことは、功利主義(公益主義)の趣旨にそぐわないことになります。というのは、功利主義(公益主義)自体は「みんな」の範囲をどこまでに限るべきかという枠組をもっていないからです。功利主義(公益主義)はただ、実際に影響を受ける人の利害を考慮するだけであって、影響を受ける人のうち誰の利害を取り上げるべきかということは、功利主義(公益主義)自体からはまったく導き出せません。しかし、このように「みんな」の範囲が大きく拡散してしまうと、もはや手術を行ったほうがよいのかよくないのかを、効用計算(公益計算)によって判断することはほとんど不可能でしょう。「みんな」の範囲自体を確定するのが難しいだけでなく、両親のような直接の関係者と、ニュースを聞いただけの人の利害を、どのように比較し、どのように重みづけるのかを決めるのも、非常に困難になってしまうからです。

 また、この事例では、別の意味で「みんな」の範囲が問題になります。というのは、一番影響をうけるはずの赤ちゃんが、現時点では意志を表明できず、意識すらあるのかどうか、わからないからです。それはつまり、この赤ちゃんが現時点でどのような「利害」を持っているのかわからない、ということを意味します。少なくとも、感覚的な快や苦に関する利害はあるかもしれません。しかし、赤ちゃんが生きたいと思っているのか、そもそも「思っている」ということがあるのかどうか、ということすら、わかりません。とすると、この赤ちゃんの利害をどのように重みづけるのか、とりわけ、成人である両親や両親の親族や医療スタッフの利害と比べて、どのように効用計算(公益計算)において考慮すべきなのか、ということが決まらないことになります。
 功利主義(公益主義)者の中には、ある存在が利害を持つためには欲求をもつ必要があるから、欲求を持たない存在は利害ももたず、効用計算(公益計算)において考慮する必要はない、と考える人もいます(たとえばピーター・シンガー『実践の倫理』昭和堂)。このように考えると、感覚を持つ動物は快苦に関する利害をもつから、動物虐待の行為の是非の判断に当たっては動物自身の利害も効用計算(公益計算)に入れるべきだということになる一方で、生物学的にはヒトであっても、感覚すらもたない受精卵や脳死状態の人は利害をいっさい持たないから効用計算(公益計算)において考慮する必要はなく、また感覚しかもっていない胎児や新生児やきわめて重度の障害者や植物状態の人などは、せいぜい動物なみに考慮すればよい、ということになります。こうした考え方は、ヒトである限りその「人権」を尊重すべきだ、という考え方とは相容れないことになります。

●利益・幸福の比較は可能か?
 功利主義(公益主義)は、人びとがそれぞれ感じている利益や幸福(快や苦、利害)を一つの共通の尺度によって測ることができ、相互に比較することができる、という前提の上に成り立っています。すなわち、ある行為によってある人にもたらされる利益や幸福は、別の人にもたらされる利益や幸福に比べてどのくらいの大きさであり、両者を合算した場合にどのくらいになるのか、ということが計算可能であるからこそ、さまざまな行為の選択肢の中から最適な行為を選ぶことができるのです。しかし、この前提は正しいのでしょうか。
 たしかに、ごく大まかな「どんぶり勘定」としては、そうした個人間の比較や効用計算(公益計算)は可能なようにも見えます。そうでなければ、ケーキを切り分けるのも、年金を配分するのも、できないことになってしまいます。しかし問題は、多少なりとも緻密な計算が必要になる微妙な事例になると、効用計算(公益計算)はほとんど不可能になる、ということです。上述したように「未熟児の手術の事例」を効用計算(公益計算)だけで判断するのは困難ですし、現実の個々の政策にしても「みんな」の範囲や利害の重みづけに関して大きな困難が伴います。したがって《人びとの利益や幸福は共通の尺度によって測り比較することができる》という前提は、厳密な意味では無理があります。
 私は、むしろこの前提は、功利主義(公益主義)の果たし得ぬ「理想」と見るほうがいいのではないかと考えています。功利主義(公益主義)は、きわめて大まかな「どんぶり勘定」理論にすぎないのであり、そうであることをよく認識して使うべきでしょう。

●利益・幸福と《感じられている》ことは、必ずしも望ましいものではない
 最後にもう一つだけ、功利主義(公益主義)の根本問題を指摘しておきます。功利主義(公益主義)は「みんな」が、利益(ないし不利益)・幸福(ないし不幸)と《感じている》ことを効用計算(公益計算)の対象とせざるを得ません。しかし、みんなが利益ないし幸福と《感じている》ことは、必ずしも「ほんとうの意味での」利益や幸福ではないし、往々にして望ましくないものであることすらあります。
 もっとも、同じことは他の目的論についてもいえます。しかし利己主義においては「長い目を持つ」利己主義や普遍的利己主義に洗練されることによって「ほんとうの意味で」自分にとって利益や幸福になるということはどういうことか、という点に関して、目的の修正が行われます。しかし功利主義(公益主義)においては、現時点で人びとがどのように利益や幸福を考えているか、ということを尺度にしない限り、共通の尺度を得ることができず効用計算(公益計算)も不可能になってしまいます。そして、功利主義(公益主義)の中には「どのように利益や幸福を考えるべきなのか」を論じるための枠組は存在しません。
 たとえば、人種差別的な考えが流布している社会で、しかも差別される人種が少数者の場合は、人種差別的な政策が社会全体の効用(公益)を最大にする可能性が高くなります。「人種差別しない」ほうが利益や幸福につながるという主張も、不利益や不幸を被る人びとが少数で人種差別が全体の効用(公益)を低下させることがないとしたら、功利主義(公益主義)者に対しては説得力をもちえないでしょう。
 現行の法律や政策が社会の少数の人びとの利益や幸福のみを保全し、多数の人びとの利益や幸福につながっていない場合には、功利主義(公益主義)は社会改革の教説として大きな力を持ちます。しかし逆に、現行の法や政策が社会の多数の人びとの利益や幸福を保全し、少数の人びとの利益や幸福につながっていない場合には、功利主義(公益主義)は多数派の権益を保持するだけかもしれません。功利主義(公益主義)が「多数派の横暴」の装置になってしまわないかという危惧は、単に効用計算(公益計算)における人数の大小に関連するだけではなく、効用(公益)として測られる利益や幸福の中身にも関連してくるのです。


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