倫理学入門 第4回
究極的原理はどのようなものか

●再び、実践的三段論法について──目的と手段
 ひとくちに実践的三段論法といっても、さまざまなバリエーションがあります。
 第2回に紹介したのは、小前提の主語になる事柄が、大前提の主語となる事柄の一例である(大前提の主語となる事柄の集合の要素である)ようなタイプの三段論法でした。アリストテレスが挙げた例(『ニコマコス倫理学』1141b)を再掲します。

  軽い肉は健康によい(大前提)
  鳥の肉は軽い肉である(小前提)
 ∴鳥の肉は健康によい(結論)

第2回に述べたように、小前提は、その主語(小名辞:鳥の肉)が、大前提の主語(媒名辞:軽い肉)の一例(「軽い肉」という集合の一要素)となっていることを示しています。だからこそ、結論が正しいといえるわけです。

 ところで、今回取り上げるのは、小前提が《ある手段(かりにAと呼びます)によってある目的(かりにBと呼びます)が実現される》という事実を示し、大前提が《目的Bがよい(望ましい)》という規範を示す、というタイプの実践的三段論法です。これは「目的のよさが手段のよさを正当化する」という形式になっています。これもアリストテレスが定式化したといわれています。

  目的Bはよい(大前提)
  手段AはBをもたらす(小前提)
 ∴手段Aはよい(結論)

いくつか例を挙げてみましょう。

  健康をもたらすことはよい
  スポーツは健康をもたらす
 ∴スポーツはよい

  飛行機を墜落させてはならない
  電子機器を離着陸時に用いると飛行機を墜落させる
 ∴電子機器を離着陸時に用いてはならない

  バイク事故の際のケガを防ぐようにすべきだ
  ヘルメットはバイク事故の際のケガを防ぐ
 ∴[バイクに乗るときには]ヘルメットをかぶるべきだ

  人の命を救うのはよい
  臓器移植は人の命を救うための手段である
 ∴臓器移植はよい

★このタイプの実践的三段論法は、Bという目的はすべてよい、Aという手段は必ずBをもたらす、ゆえにAという手段はすべてよい、という形になっています。すなわち、手段Aが小名辞(S)、「よい」が大名辞(P)で、「目的B」が媒名辞(M)である、と考えれば
  すべてのMはPである
  すべてのSはMである
 ∴すべてのSはPである
となり、「軽い肉は健康によい、鳥の肉は軽い肉である、ゆえに鳥の肉は健康によい」という実践的三段論法と、論理学的には同じ形式の三段論法(第1格第1式)になっていることがわかります。

 このタイプの実践的三段論法の大前提と小前提を見出す作業としても、適切な媒名辞を見出すことがポイントになります。ただ、この場合は、小名辞が媒名辞をもたらすための手段であるといえるような媒名辞を探すことになります。すなわち、具体的手順としては、第2回に述べた方法にならって、

(1) 正当化しようとする結論を書く
(2) その結論に含まれている小名辞と大名辞を、それぞれ小前提と大前提に割り振って、結論の下に書く
(3) 小前提と大前提に共通に含まれうる媒名辞として適切な言葉を探す。その際、媒名辞を目的として、小名辞がその目的を達成する手段であり、なおかつ媒名辞を主語とし大名辞を述語とする規範命題(大前提)が正しくなるよう留意する

 たとえば、媒名辞を「X」とすると、

結論:臓器移植はよい
小前提:臓器移植はXをもたらす[手段である]
大前提:Xはよい

としておいて、臓器移植(小名辞)がXをもたらすための手段であり、なおかつ「Xはよい」が正しくなるようなXを探します。そして「X=人の命を救う」という解を得るわけです。
 ここで「人の命を救うことがよいといえるのはなぜか?」と再び問うなら、得られた大前提を結論として、さらにその前提をさかのぼることになります。たとえば、

臓器移植はよい(結論)
臓器移植は人の命を救う手段である(小前提)
人の命を救うことはよい(大前提=結論)
 人の命を救うことは人々に幸福をもたらす(小前提)
 人々に幸福をもたらすことはよい(大前提=結論)
  人々に幸福もたらすことはよいことである(小前提)
  よいことはよい(大前提)(論証終わり)

こうしてさかのぼっていくときには、大名辞(「よい」)は変わらずにずっと用いられていくことになります。

●それ以上さかのぼれない大前提としての同語反復
 さて、このようにして実践的三段論法の形式に整理して、隠れた前提を明らかにしながらさかのぼっていくと、もうそれ以上さかのぼれない前提にいつかは達するはずです。しかし「もうそれ以上さかのぼれない」というのは、どういうことなのでしょうか。
 その一つに、大前提が同語反復(トートロジー tautology)になってしまう、ということがあります。たとえば、

・健康はよい。なぜなら、健康は幸福をもたらすからであり、幸福は望ましいからだ。
 では、なぜ幸福は望ましいのか?

という問いに対して、

・それは「望ましい」ということこそ「幸福」ということの意味だからだ。

という答え方があります。この答え方では「幸福が望ましいのは、幸福とは望ましい状態のことであり、望ましい状態が望ましいというのは同語反復だから、幸福が望ましいのは当たり前だ」ということになります。
 同じような例として、

・商売繁盛はよいことだ。なぜなら、商売繁盛は利益をもたらすからであり、利益はよいことからだ。
 では、なぜ利益はよいことなのか?

という問いに対して、

・それは「よいこと」ということこそ「利益」の意味だからだ。

という答え方があります。つまり「利益がよいのは、利益が『よいこと』をさすからであり、よいことがよいというのは同語反復だから、利益がよいことなのは当たり前だ」というわけです。

*英国人のジョン・ステュアート・ミルという哲学者は「功利主義(公益主義)Utilitarianism」(1861年発表) という著作の中で「幸福が望ましいのは、万人がそれを望んでいるからだ」と述べ、それを「人々の幸福の総和を最大にすべきだ(なるべく多くの人々が、なるべくたくさん幸福になるようにすべきだ)」という「功利主義(公益主義)原理」の証明としました。これに対し、やはり英国の哲学者ジョージ・エドワード・ムーアは『倫理学原理』という本のなかで、「万人がそれを望んでいる」という事実命題から「望ましい」という価値命題(規範命題)を導き出すのは誤り(「自然主義の誤り」)だ、とミルを批判しました。そこから「規範命題は事実命題から導き出せるか」という現代倫理学上の論争が始まったのですが、ミルが言いたかったのは「幸福が望ましいのは、〈万人にとって望ましいもの〉ということこそ幸福の意味だからであり、そうすると〈幸福は望ましい〉は〈万人にとって望ましいものは望ましい〉という同語反復になる」ということだったのだ、と解釈すれば、ミルが事実命題から価値命題を導き出しているとはいえないと考えられます。

★ところで、大前提が同語反復になってしまうということは、どういうことなのでしょうか?
 ここで再び上の例をみてみます。

臓器移植はよい(結論)
臓器移植は人の命を救う手段である(小前提)
人の命を救うことはよい(大前提)……なぜ?(結論)
 人の命を救うことは人々に幸福をもたらす(小前提)
 人々に幸福をもたらすことはよい(大前提)……なぜ?(結論)
  人々に幸福もたらすことはよいことである(小前提)
  よいことはよい(大前提、同語反復)……論証終わり

前提をさかのぼるとき、{媒名辞}⊃{小名辞」となっているような媒名辞を探していくことがポイントでした。ところで、同語反復になる場合、媒名辞が大名辞にもなっています。この例では、媒名辞は「よいことである」と、「(大名辞)+ことである」という形になっています(「ことである」という言葉は、小前提を事実命題にするために必要です)。すなわち{大名辞}≡{媒名辞}になってしまい、大前提が「(大名辞)は(大名辞)である」という同語反復の形になるのです。

★★したがって、同語反復になることを目指してさかのぼっていくときは、最終的にどのような同語反復になるのかをあらかじめ見越して大名辞を選択することが重要になります。
 最もはっきりした形の同語反復は「よいことはよい」とか「すべきことはすべきだ」といったシンプルなものなので、それを目指すなら最初から大名辞を「よい」とか「すべきだ」という言葉だけに絞り込んでおく必要があります。
 大名辞を「よい」とか「すべき」というシンプルな言葉に絞り込んでおくということは、最初に小名辞のほうに豊かな内容を含ませておくということでもあります。小名辞を媒名辞で包含させるような事実命題が小前提であり、見いだされた媒名辞を新たな小名辞としてさらにそれを包含する媒名辞を探していくという過程を繰り返すなかで、一つ一つ隠れた前提が明らかになっていきます。その際に、大名辞を「よい」とか「すべき」というシンプルな言葉に絞り、小名辞に豊かな内容を残しておけば、同語反復に到達するまでにたくさんの隠れた前提を明文化することができます。反対に、大名辞に豊かな内容を残しておくと、それだけ同語反復に早く到達してしまい、隠れた前提を十分に明らかにすることができなくなります。
 たとえば、「空き缶はくずかごに捨てなければならない」という規範命題を、「空き缶は」を小名辞とし、「くずかごに捨てなければならない」を大名辞とすると、

空き缶をくずかごに捨てなければならない(結論)
空き缶はくずかごに捨てなければならないものである(小前提)
くずかごに捨てなければならないものはくずかごに捨てなければならない(大前提、同語反復)……論証終わり

となります。この分析は論理的には正しいのですが、実質的に「なぜ、くずかごに捨てなければならないのか?」という問いに対して答えていません。すなわち、隠れた前提を十分に明文化できていません。
 これに対し、「空き缶をくずかごに捨てること」を小名辞とし、「しなければならない」を大名辞としておくと、たとえば、

空き缶をくずかごに捨てることをしなければならない(結論)
空き缶をくずかごに捨てることはゴミを散らさないことである(小前提)
ゴミを散らさないことをしなければならない(大前提)……なぜ?(結論)
 ゴミを散らさないことは町を清潔に保つ(小前提)
 町を清潔に保つことをしなければならない(大前提)……なぜ?(結論)
  町を清潔に保つことは人々を心地よくする(小前提)
  人々を心地よくすることをしなければならない(大前提)……なぜ?(結論)
   人々を心地よくすることは人々に幸福をもたらす(小前提)
   人々に幸福をもたらすことをしなければならない(大前提)……なぜ?(結論)
    人々に幸福をもたらすことはしなければならないことである(小前提)
    しなければならないことはしなければならない(大前提、同語反復)……論証終わり

というように、多くの隠れた前提を明文化することができるのです。

●目的論
 ところで、規範の根拠をたどっていくと最終的に「幸福」や「利益」というものにたどり着き、「幸福」や「利益」こそ究極的な目的であり、あらゆる規範は「幸福」や「利益」によって正当化される、という考え方のことを、倫理学用語で「目的論」と呼びます。これは、倫理学において、長い伝統をもつ有力な考え方の一つです。

●義務論
 また、やはり原理が同語反復になる考え方として、次のようなものもあります。それは、たとえば

・校則は守らなければならない。それは、校則はルールだからであり、ルールは守らなければならないからだ。
 では、なぜルールは守らなければならないのか?

という問いに対して、

・それは「ルール」とは「守るべきもの」のことだからだ。

という同語反復で答える、といったものです。他にもこのような例はたくさん考えられます。

・切符を目的地まで買わなければならないのは約款であり、約款は守らなければならない。なぜなら、約款とは守るべきことだからだ。

・友達との約束は守らなければならない。なぜなら、約束とは守るべきことだからだ。

・人を殺してはいけない。なぜなら、それは人の道に反することであり、人の道は守るべきものだからだ。

・結婚差別はいけない。なぜなら、結婚差別は人権侵害であり、人権は侵害してはいけないものだからだ。

 こうした考え方では、ある段階から先は、その規範が何のために決められ、どのようなメリットをもたらすものなのか、といったことを問うことなしに、その規範を「原理」として守るべきだと考えています。その規範が「原理」である以上、それを守ることは私たちに課せられている「義務」であり、その理由を問うことはもはやできない、というわけです。
 このような考え方を、倫理学用語で「義務論」と呼びます。これは一見不条理な考え方のように見えるかもしれませんが、社会のごく基本的なルールや人権などは、義務論的な考え方に基づいて正当化されていることがよくあります。

 目的論と義務論のどちらがすぐれているのか、どちらを採るべきなのか、という点は、これまで倫理学史上で長いこと論争がたたかわされてきました。この授業でも、しばらくはこの2つの伝統的な考え方について、考察を進めていきます。

★目的論と義務論では、実践的三段論法の形式を用いて正当化(論証)の道筋を明文化していった場合に、どのように異なってくるのでしょうか?
 たとえば「がんの告知を行うべきだ」という規範の正当化を試みてみましょう。その一つの道筋として、以下のように整理したとします。

がんの告知を行うべきだ(結論)……なぜ?
 がんの告知は真実を告げることである(小前提)
 真実を告げることを行うべきだ(大前提)……なぜ?(結論)
  真実を告げることは行うべきとされていることなのである(小前提、ルール)
  行うべきことは行うべきだ(大前提、同語反復)……論証終わり

この場合は、究極的な小前提として「真実を告げるということは、行うべきこととされているのだ」という、一般的な社会的ルールの存在(そのルールが存在するという事実)に訴えています。それゆえに大前提が「行うべきことは行うべきだ」という同語反復となり、論証がそれ以上さかのぼれなくなっています。このように、論証すべき結論は誰でもが行うべきルールとして指示されているのだという事実を主張して、大前提を同語反復に持ち込むのが、義務論です。

 これに対し、同じ規範を「がんの告知はよい」と捉えれば、次のような正当化の道筋も描けます。

がんの告知はよい(結論)……なぜ?
 がんの告知は患者本人のためになる(小前提)
 患者本人のためになることはよい(大前提)……なぜ?(結論)
  患者本人のためになることは(患者という)人を幸福にする(小前提)
  人を幸福にすることはよい(大前提)……なぜ?(結論)
   人を幸福にすることは人々に幸福をもたらす(小前提)
   人々に幸福をもたらすことはよい(大前提)……なぜ?(結論)
    人々に幸福をもたらすことを人間はよいと感じる(小前提、事実)
    人間がよいと感じることはよい(大前提、同語反復)……論証終わり

 このように、媒名辞で示される目的を達成する手段として、小名辞を位置づけていく道筋を取り、最終的には誰の目にも明らかな事実に訴えて、「よいものはよい」という同語反復に持ち込むのが目的論です。
(もっとも、この論証の最後の大前提は同語反復になっていない、と考える人もいるかもしれません。「人間がよいと感じることが本当によいことなのか?」とまだ問うことができるからです。これこそ、ムーアが「自然主義の誤り」とミルを批判した要点でした。しかし上述したように、ミルが「よいというのは人間がよいと感じること以外にありえない」と考えていたと解釈すれば、「よいことはよい」という同語反復になっているといえなくもありません。)

 以上のような相違は、根本的には、義務論では正当化したい規範を「行うべきだ」という述語(大名辞)で捉えるのに対し、目的論では「よい」という述語(大名辞)で捉える、という出発点における違いに由来しているといえます。なぜ義務論では「行うべきだ」という大名辞を用い、目的論では「よい」という大名辞を用いることになるかというと、前提をこの形式でさかのぼっていく際には大名辞はずっと変わらないので、最終的に到達する大前提として、義務論では私たちが「行うべき」義務に関する命題を念頭に置いており、目的論では究極的な「よい」目的に関する命題を念頭に置いているからです。


【シラバスに戻る】