【倫理学入門・事例3】

 ある国で伝染病が流行っていた。それは、大人や幼児以上の子どもには伝染せず、1歳前後までの乳児だけがかかる病気で、有効な治療法がなく、一度かかってしまうと致死率が70%にも及ぶので、赤ちゃんをもつ親の間にパニックが広がっていた。
 Bさんはある大きな孤児院の嘱託をしている医師である。あるとき、この伝染病の研究をしている友人の医師から、開発中の新しい予防ワクチンの話を聞いた。このワクチンは、動物実験の結果からみて、人間に対しても有効性が高いと推測されるが、しかし副作用もきわめて強い。人間の乳児にほんとうに有効なのかを確かめるテスト(臨床試験)を行うために、実験台となる健康な乳児を募っているが、副作用の強さに親が恐れをなして、いまのところまったく応募がない。だが、早く予防ワクチンを開発しないと、伝染病に斃れる乳児は増え続け、将来この国の人口は激減するだろう。しかも、もしこの開発中のワクチンが副作用が強すぎるために発売できないとしても、実験のデータは今後のワクチン開発に必ず役に立つという。
 Bさんは、しばしば訪れる孤児院のことを思い浮かべた。ここの乳児たちは、生まれてすぐに捨てられ、親の名前さえわからない子ばかりである。施設の環境も悪く、職員は少ない人員で多くの孤児たちの面倒を見なければならないので疲れ果てており、乳児の世話まで十分に手が回らない。おむつの取り替えさえままならず、衛生状態も栄養状態も悪い。もちろん、伝染病で死ぬ乳児も毎月かなりの数にのぼる。また、成長して孤児院を出ても、行く当てがなく、大半はストリートチルドレンになってしまう。
 Bさんは、孤児院の乳児たちを、ワクチンの臨床試験の実験台に使ってはどうだろうかと考えた。親の承諾をとる必要はないし、じっさい親のわからない子が多いのだから、承諾のとりようもない。職員も、乳児たちの後見人である施設長も、反対しないだろう。孤児院は人里離れた場所にあるので、世間に知れる心配はない。こうした医学実験を禁止する法律や指針も、この国では定められてはいない。
 実験台にされた乳児は強い副作用に苦しむだろうが、そのあと伝染病にかからずにすむかもしれない。相当な数の乳児が副作用のために命を落とすかもしれないが、ほっておいても伝染病でばたばた死んでいくのだ。それに、実験によって得られる貴重なデータは、国中の乳児の生命を救うのに役立つ。
 さて、Bさんは孤児院の乳児たちを実験台に用いるべきだろうか?それとも、そのようなことはすべきでないだろうか?


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