【倫理学入門・事例2】

 Aさんは救急医療に携わっている医師である。脳外科医としてすぐれた腕前をもち、勤めている病院も設備が整っていて、これまで他の病院では助からないような重い脳障害の患者さんを何人も救ってきた。その一方でAさんは臓器移植にも関心があり、どうやっても助けることのできない脳死状態の患者さんから臓器を取り出して、臓器移植をしなければ死ぬしかない複数の患者さんに移植することは、一つの死によっていくつもの生が救われるすばらしい医療行為だと考えている(ただし、救急医であるから、臓器の摘出や移植の手術に携わることはない)。
 ある日、路上で倒れた中年の男性患者が運び込まれてきた。意識がなく、脳に障害を起こしているらしい。衣服はぼろぼろ、汚れと垢にまみれていて相当に臭く、髪の毛も垢でまとわりついている。もう何年も風呂に入っていないようで肌は真っ黒、息はアルコール臭い。応急処置をしていたら、患者のポケットから「脳死状態になったら、すべての臓器を提供します」という欄にマルを付けたドナーカードが出てきた。患者はここ十年以上も路上で生活していて身寄りはいないらしく、家族に連絡を取ろうにも取りようがない。
 CT検査の画像を見ると、脳出血していて、頭蓋内にかなり大きい血腫(血の固まり)が広がっている。一般の病院の平均的な医師ならば、すでに手の施しようがなく、患者が脳死状態に至るのを食い止めることはできないだろう。だが、この病院の設備とAさんの腕をもってすれば、血腫を取り除く手術をして生命を助けることができる。しかし、脳に重い障害が残るかもしれないし、たとえすっかり元気になって退院したとしても、患者のこれまでの暮らしぶりからすると、また路上生活に舞い戻るだけのように思える。
 一方、手術をしなければ患者は確実に脳死状態に陥る。そうすればドナーカードに記された患者本人の希望に従って臓器が摘出され、患者の死と引き換えに、心臓・肝臓・膵臓・腎臓・角膜・皮膚・骨などを移植された患者十数人の生命が救われたり病気が治ったりすることになる。
 一般的な治療の基準からすればこの状態の患者に手術しなくても非難されることはないし、万が一訴えられたりしても医師の裁量の範囲内のことであるから罪に問われることはありえない。だが、Aさんにとっては、治療をせずに患者を脳死状態に至らせ臓器提供者にすることは、明らかに患者を意図的に見殺しにすることになる。
 さて、Aさんはこの患者の脳の血腫を取り除く手術を行うべきだろうか?それとも、行わずに脳死状態に至らしめるべきだろうか?


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