2004年度提出卒業論文
「地域」と記憶―新潟水俣病をめぐる運動の可能性―
川ア那恵
目次
T はじめに
U 新潟水俣病と被害者運動についての概要
1)新潟水俣病とはなにか
2)新潟水俣病第一次訴訟
3)未認定患者の発生と行政不服審査請求
4)新潟水俣病第二次訴訟
5)和解勧告申し入れと第二次訴訟終結
6)最終解決以降
V 安田町の地理的・歴史的概観
1)
2)阿賀野川との関わり
3)被害者運動の形成
W 新潟水俣病をめぐる
1) 先行研究についての評価
2)研究のアプローチ
3) 旗野秀人さんと
(a)法廷闘争から『阿賀に生きる』へ
(b)『阿賀に生きる』から『それぞれの阿賀』へ
(c)『それぞれの阿賀』から『阿賀の記憶』へ
V 「地域」・記憶・運動
1)宝物としての「地域」
2)運動にとっての「地域」
3)「地域」とその表象
4)新たな運動の広がり
Y おわりに
T はじめに
2004年10月,水俣病の被害拡大を招いた行政責任を追及し,水俣病をめぐる訴訟のうち唯一継続していた関西訴訟の判決が最高裁で下された。課題を残しながらも,国・
一方で,関西を除く,熊本,新潟,東京,京都,福岡で提訴された訴訟が,全国的に終結したのは1996年である。この時点ですでに水俣病公式確認より40年もの年月が流れていた。原告らは自らを水俣病患者と認めさせ,政府と熊本県が国家賠償法上の責任をとることを要求したが,明快な決着をつけることができないまま,高齢化する患者たちの「生きているうちに救済を」という切実なる願いのもと,「最終解決」を迎えた。そして,この「最終解決」を拒んだ関西訴訟もついに幕を閉じたのである。
このような状況の中で,水俣病問題は,グローバルな問題としてクローズアップされる地球環境問題とは対照的に,「すでに終わった」問題として過去性を帯び始めている。しかし,水俣病は「公害の原点」「環境問題の原点」として我々に様々な課題を投げかけている。「社会を映す鏡」(原田,1989)とも言われる水俣病から我々が学ぶべきところは数多く残されており,水俣病を伝え,教訓化する必要性は誰もが認めるものであろう。
これまで,水俣病問題の顕在化や教訓化に被害者=当事者が大きな役割を果たしてきた。例えば,水俣病をめぐる運動は当事者を中心として展開されてきたし,当事者による語りが学校や資料館における水俣学習の際に効果的に用いられる。当事者主体の活動は,水俣病を経験しなかった者が水俣病を記憶し,教訓化するために効果的であると言える。しかし,時の流れが問題の顕在化や教訓化に関わってきた当事者の存在を奪いつつある現在,当事者ではない存在によって,水俣病の記憶を共有するための取り組みがなされる必要があるのではないだろうか。なぜなら,そのような取り組みを模索しない限り,水俣病のように,その出来事を経験した者が存在しなくなるような問題は,たやすく「終わった」問題とされ,時の流れとともに出来事そのものが歴史の闇に葬られてしまう可能性があるからである。
本論文では,水俣病を取り巻く現状に対するこのような筆者の問題関心から,具体的な事例をもとに,水俣病患者亡き後も,水俣病という出来事の記憶が,水俣病を直接的に経験していない人々によっても共有されるような運動の可能性を見出してみたい。事例として取り上げるのは,新潟水俣病の被害地域である新潟県安田町(図1参照,2004年4月より町村合併のため阿賀野市)の運動である。安田町の運動は,新潟水俣病という出来事を「地域」という切り口から人々に伝え,また記録として残している。そのような運動がどのような経過を経て形成されてきたのか,また運動における「地域」の意味とは何かを明らかにし,当事者に頼らずして水俣病の記憶が共有される可能性について考察する。
なお,ここで取り上げる安田町の運動は,例えば,労働運動や環境保護運動,マイノリティ運動に代表されるような社会運動,すなわち,大畑ほか(2004)の「@複数の人びとが集合的に,A社会のある側面を変革するために,B組織的に取り組み,その結果C敵手・競合者と多様な社会的な相互作用を展開する非制度的な手段をも用いる行為」と定義される社会運動のイメージに必ずしもあてはまるものではないかもしれない。しかし,記録を残す作業は複数の人々のつながりを基盤として行われ,社会に水俣病を記憶する主体を増やしている点で,筆者は新たな社会運動のあり方であると位置づけ,「運動」として取り上げることにする。
U 新潟水俣病と被害者運動についての概要
本論文の事例として取り上げる運動が,新潟水俣病被害地域において展開してきたものであるため,ここでは水俣病全般ではなく,飯島・舩橋ほか(1999)と関(2003)による先行研究を参考に,以下新潟水俣病についての概要を示す。
1)新潟水俣病とはなにか
新潟水俣病は,新潟県阿賀野川(図2〜4参照)上流,新潟県と福島県の県境にある鹿瀬町に立地していた昭和電工(当時昭和肥料)鹿瀬工場(図5参照)の工場排水が,無害化されることなく阿賀野川へ排出されたことによって,メチル水銀が川魚に蓄積し,それを人間が大量に摂取することで発症した公害病である。熊本県水俣市におけるチッソ水俣工場の工場排水によって引き起こされた水俣病(1956年5月公式発見)に続き,1965年6月12日,第二の水俣病が
2)新潟水俣病第一次訴訟
1967年,下流で発見された患者と家族13人によって昭和電工を被告とした民事訴訟(第一次訴訟)が起こされた。最終的に34家族77人が原告となったこの裁判は,1971年患者・家族側の勝訴となった。判決は廃液が昭和電工鹿瀬工場によるものであると認めたが,賠償額は原告請求額の半分しか認めなかったため,1973年原告と昭和電工との間で補償協定が結ばれた。
第一次訴訟提訴に至るまでの患者支援組織である「民主団体水俣病対策会議」(1970年「新潟水俣病共闘会議」に発展改組)の結成は迅速であった。また,新潟水俣病第一次訴訟は日本で初めての本格的公害訴訟として,世論の注目を集め,その後の公害裁判のモデルとなった。
図2 阿賀野川下流の風景(2003年3月,筆者による撮影)
図3 阿賀野川中流の風景(2003年5月,筆者による撮影)
図4 阿賀野川上流を川舟より臨む(2003年3月,筆者による撮影)
図5 昭和電工鹿瀬工場(現新潟昭和)(2003年3月,筆者による撮影)
3)未認定患者の発生と行政不服審査請求
第一次訴訟勝訴は,それまで水俣病の症状が出ても,自身や家族の結婚や仕事への影響をはじめとする様々な差別へのおそれがあったため,患者であることの公表にためらいを持っていた被害者に,自らが新潟水俣病患者であることを示す勇気を与えた。その結果,判決を境に患者であることを自己申請し,認定を求める被害者が急増する。
しかしながら,1970年に施行された「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」に基づいて設置された認定審査会が認定基準を厳格化し,患者認定の抑制をはかった。これは,1973年の補償協定成立以後,認定審査会の審査が,単なる医学的判断の提出にとどまらず,申請者一人ひとりの補償金の獲得資格を判断するという,認定と補償とが連動している状況を踏まえた上でのことであった。大量の未認定患者の発生は,患者が暮らす地域社会において,認定患者と未認定患者との関係の悪化や,患者申請をする者を「ニセ患者」扱いし差別するという「ニセ患者差別」を引き起こすことになる。
そのような状況の中,阿賀野川中流域安田町では,認定を求めて自主検診運動や行政不服審査請求運動が始まる。地域ぐるみで組織された安田町の運動が,
未認定患者による新潟水俣病第二次訴訟の提訴につながっていった。
4)新潟水俣病第二次訴訟
1981年11月から12月にかけて,新潟水俣病弁護団と共闘会議によって,裁判に向けた未認定患者の地区懇談会が開催された。ここで国を相手どっての損害請求訴訟を行うことが正式に決まり,阿賀野川全流域で原告団を組織化する方向で動き出すことになった。
1982年5月「新潟水俣病被害者の会」が結成され,中・上流域の未認定患者第1陣94人が原告となって,国の責任を追求し,新潟水俣病患者として認定されることを求め,被害賠償を求めた裁判を国と昭和電工に提起する。新潟水俣病第二次訴訟である。第8陣まで追加提訴され最終的には234人の原告で構成されたこの訴訟で,第1陣判決が提訴以来10年目の1992年3月末日,国に対する請求は棄却されたが,88人の原告は認定するという判決が下された。しかし,被告昭和電工はこの判決を不服として5日後に控訴し,原告も同年4月13日控訴に踏み切り,裁判は長期化する。
5)和解勧告申し入れと第二次訴訟終結
1992年5月,環境庁(当時)は総合対策医療事業実施要綱を公表する。これは「水俣病が発生した地域において,水俣病とは認定されないものの,水俣病にもみられる四肢末端の感覚障害を有する者について,医療の機会を確保することにより,症候の原因解明及び健康管理を行い,地域の健康上の問題の軽減・解消を図るため療養費及び療養手当を支給する」ものである。この事業を受給する者は以降水俣病の認定申請権は放棄しなければならないことが条件であったため,第二次訴訟原告は医療事業を受け入れることを望まなかった。しかしながら,1995年5月第二次訴訟原告90人は,裁判の長期化を危惧し,早期解決への望みをつなぎ,東京高裁に対してすでに死亡している39人の氏名も示し,「生きているうちに解決を」という切実な願いのもと,総合対策医療事業受け入れをのみ,苦渋に満ちた和解勧告の申し立てを行う。
1995年9月,政府・与党によって提示された最終解決案を,関西訴訟原告団を除くすべての水俣病訴訟原告らは10月末までにこれを受諾することを表明した。新潟水俣病被害者の会,新潟水俣病共闘会議および昭和電工も,1995年12月協定書に調印し,新潟水俣病をめぐる法廷闘争は「最終解決」を迎えた。
6)最終解決以降
新潟水俣病被害地域において,法廷闘争が最終解決を迎えたことに伴って,水俣病をめぐる運動が必ずしも終結したわけではない。最終解決を迎えた後,それまで損害賠償による患者の早期救済を目標としてきた共闘会議の課題は,総合対策医療事業による全被害者の救済と,地域再生・振興策として真に水俣病の教訓を生かした事業の実現にシフトしている(新潟水俣病被害者の会・新潟水俣病共闘会議編,1996)。
教訓化事業として,2001年8月,昭和電工が地域の再生・振興のために
被害者の会は,資料館での語り部活動の他,1997年より「新潟水俣病環境賞」を設け,水俣病問題や県内に関わる公害・環境問題において優れた功績を上げた個人や団体,今後の調査・研究活動によりさらに多大な成果を上げることが見込まれる個人や団体に対し,表彰状,賞金及び助成金を贈っている。また,1999年からは,次代を担う子どもたちが,子どものときから環境問題に関心を持ち,理解し,行動することが非常に重要であるという観点から,小中学生を対象にした「新潟水俣環境賞作文コンクール」も実施している(新潟県福祉保健部生活衛生課,2002)。
このようにして,裁判が終結し,新潟水俣病を伝え語り継ぐという,法廷闘争中には後回しになっていたとも言える問題の解決に向け,さまざまな試みが現在も展開されている。そのような取り組みの中でもユニークな運動の一つとして,
V 安田町の地理的・歴史的概観
安田町は,2004年4月1日より,近隣の京ヶ瀬村,水原町,笹神村と合併し,阿賀野市となった。したがって,安田町は2005年現在,行政上存在しない町である。しかし,運動の展開基盤として
1)
安田町は新潟県の北東,阿賀野川河口の新潟市内から約30km上流に位置する。地形的には,栃木・
2)阿賀野川との関わり
高度経済成長に伴い,上流でのダム開発が進められ,燃料源が薪や木炭から石油やガスへと転換し,道路が整備され交通手段が川船から車や鉄道へ移行する中で,阿賀野川流域に暮らす人々(図6参照)と川の関係性も変化していきはしたものの,魚はとることはごく自然に行われていたという(関,2003,p.188)。
3)被害者運動の形成
川と密接なつながりのある生活を送る中で,水俣病の被害を受けた安田町の人々の多くは,他の阿賀野川中上流域の患者たちと同様,第1回一斉検診2)と第2回一斉検診3)から漏れ落ちていったのだが,1972年には安田町で初の認定患者が出た。下流で患者の支援を行っていた共闘会議の影響が及びにくかったこともあり,安田町では自民党の代議士と町長の協力のもとで「明和会」という独自の患者組織が結成された。
一方で,1973年には明和会とは発生を異にする未認定患者が主体となった独自の動きが始まる。
次章では,この安田町における被害者運動の延長にある,現在の
図6 安田町小浮に暮らす患者が川のすぐ手前にある畑へ向かう
(2003年8月,筆者による撮影)
図7 第11回追悼集会後の交流会の様子(2003年5月4日,写真提供:伊藤芳保氏)
W 新潟水俣病をめぐる
1)先行研究についての評価
公害反対運動の研究は,高度経済成長期の時期を取り扱ったものが多く,その他の社会運動と同様,社会運動研究の事例として,社会学や政治学の分野でなされてきた。水俣病をめぐる運動に関しては,主に患者と支援者による運動の展開過程についての研究や,運動参加者や支援組織による聞き書きやルポルタージュが残されている4)。しかしながら裁判闘争終結以降,運動のテーマが教訓化や地域再生へとシフトしてきている現状についての研究は,まだ数が少ない。また,新潟水俣病に関しては研究蓄積が熊本の水俣病研究に比べると非常に浅いという現状がある。
一方,近年,地理学的研究においても,公害問題や環境問題をめぐる住民運動を具体的事例として,「地域性」という観点からの研究がなされている5)。しかし,運動と関わる「地域」とは何かについては明らかにされてこなかった。
このような現状をふまえ,本論文では,新潟水俣病被害地域における運動,とりわけ,その裁判闘争終結後の取り組みに焦点を当て,そこに「地域」がどのように作用しているかを考察する。
事例として取り上げる安田町の運動については,近年,関(2003)によって,被害者の日常に基づいて展開され,法廷闘争以降も患者が地域の生活文化を主体的に発信することによって「教訓化」6)がはかられ,多様な人々のネットワークをつないでいる運動として評価されている。しかしながら,患者という運動の主体が少なくなっているのもまた現状である。そのような現状をふまえながら,今後の運動にどのような可能性が見いだせるのか,「地域」と運動の関わりから見いだしてみたい。
2)研究のアプローチ
本章では,安田町の運動の展開過程と現状を明らかにするため,発生時から現在にいたるまで,運動のまとめ役を担ってきた旗野秀人さんをインフォーマントとして選定した。旗野さんは安田町で生まれ,現在,地元で大工を本業としている。安田町において展開されている運動は,本論文で筆者が明らかにしようとする,当事者のみに頼ることなく新潟水俣病を伝達する運動の可能性について,運動の一つのあり方を提示する事例として筆者は注目しているが,その前進となる1970年代からの患者運動を,一貫して安田町に暮らす水俣病患者を日常的にサポートし,あくまで患者の意思を尊重したかたちで,中心的に,また,唯一直接的に推進してこられたのが旗野秀人さんである。また,旗野さんは,法定闘争以降も
調査方法として,旗野さんのご協力のもと,自身の講演録や手記などをこれまで収集してきた資料とともに,テキスト資料の確認と補足を目的として,2004年10月10日21時から約一時間半,11日12時から約1時間,
3)旗野秀人さんと
(a)法廷闘争から『阿賀に生きる』へ
旗野さんが新潟水俣病に関わるきっかけは,1971年21歳のとき,家出同然で当時盛り上がっていた三里塚闘争に参加するため出て行った東京駅前で,水俣病のチッソ本社前座り込み運動に出くわし,ハンガーストライキ中のテントの中で当時水俣の患者運動のリーダー的存在であった川本輝夫さんに出会い,「新潟はどうなっているか」と質問されたことであった。それ以来,旗野さんは家業で本業の大工の傍ら,生まれ育った地元安田町での患者運動に関わっていくことになる。
川本さんに言われるまで,地元の問題を全く知らなかった旗野さんが,1972年地元安田町に帰ると同時に,安田町からも初めて行政認定の患者が出た。旗野さんはまずは認定された患者の家を一軒一軒回って話をきかせてもらおうと,川筋の集落に足を運ぶようになる。水俣の話を切り出そうとすると「水俣の話はしたくない」と門前払いになったことが何度かあったが,「水俣の話をしなければまた来なさい」と言われ,患者のお茶のみ相手として足を運ぶうちに,患者とは家族づきあいのような関係を築いていく。そのような関わりの中で,徐々に,認定された患者のほかにも,家族が水俣病に認定された人や体の具合が悪いという人の間で自分も水俣病なのではないかという疑問が出てくるようになった。そこで,安田町千唐仁7)に暮らし川船の船頭だったIさんを中心に,地域ぐるみの自主検診運動や行政不服審査請求の運動が始まる。しかしながら,熊本での川本さんたちの闘いを真似ようとした行政不服審査請求も,10年間で約300件のうち差し戻し裁決が1件,逆転認定裁決が1件という結果に終わる(旗野,2004,p.3)。
一方で,旗野さんは,患者たちと交流を重ねるうちに,彼らの持つたくましさや明るさ,一見貧しいように見えても自然と同じペースでゆったりと生きている暮らしぶりの豊かさに気づき始めた(旗野インタビュー記事より,国土交通省北陸地方整備局阿賀野川河川事務所,2004)。そして,患者を悲惨でかわいそうな救済してやらねばならない存在とし,支援者気取りであった自身を省みると同時に,運動や仕事に対する考えを見つめ直すようになる。この頃を振り返って旗野さんは次のように語る。
行政不服がなんでこんな無駄なことやるんだろうと思って,もう嫌んなってたときにね,(患者の話を)ちゃんと聞いてたらなかなかすごいことみたいな。で,同時進行でやっぱり片っぽうでは,ここんちのじいちゃん(患者の一人であり,『阿賀に生きる』(後述)にも登場している加藤作二さん)に,「旗野さん,運動なんかやめろ」とかって言われて。「ちゃんと仕事せねばだめだぁー」って。まあ,その微妙に同時進行で,今までかって自分が思いもしなかったことを気づき始めるっていうか教えてもらったわけだ。「運動なんてやめろー」って。それをよしとして一生懸命やってきたのに,行政不服の中でからめぐり。いくら一生懸命にやっても認定にはならないし,俺の想いとはまた違う患者の人たちのその様子をみてるとね,なんかそのぜんぜんマイペースってゆうかなぁ,これはなんだと思ったわけだなぁ。(2004年10月10日新潟県五泉市にて,括弧内は筆者による挿入)
患者との関わりの中で気づいた彼らの暮らしぶりをなんとか多くの人に伝えたいと考えていた旗野さんのもとに,1983年,熊本県水俣市で制作された『無辜なる海』という水俣病を取り上げたドキュメンタリー映画の自主上映運動で東北を回っていた佐藤真監督がやってきた。旗野さんは佐藤監督に阿賀野川とともに生きてきた人々の魅力を語り,水俣病の告発という観点からではなく,患者の日常を撮った映画を作って欲しいと訴え,佐藤監督に映画作りを決意させた(佐藤,1997,p.27〜p.29)。
全国1500人余りの人たちからのカンパによって,3年の製作期間を経て1992年ドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』8)が完成する。
映画は,根っこの部分では水俣病を伝えたいということはあったのですが,それよりも何よりも川筋の人達のとっても魅力的な暮らし,それをそっくりそのまま伝えて,映像に残してもらいたいという気持ちがあった。(旗野講演録より抜粋,関,2001,p.10)
『阿賀に生きる』は,このような旗野さんの思いの通りに,できるだけ水俣病という言葉を使わずに,川筋の人たちの日常の暮らしを切り取ったドキュメンタリー映画となった。そして,映画は阿賀野川流域の生活者であり,水俣病患者でもあった人々のことを,多くの人々に伝えるための手段となり,以後の
水俣病事件にかかわって二〇年目にして得た映画「阿賀に生きる」は私にとってその後の大きな力となりました。公開まもなく話題となって劇場などで上映された後も地味ながら毎年のように学校や農協,町内会や宗教団体に老人クラブなど思いもかけないところからも声がかかって観てもらえたのです。また,北は北海道,南は九州沖縄までフィルムを担ぎ患者さんとともに巡ることも出来ました。観客のみなさんは水俣病問題を超えて,ひとが豊かに生きること,そして逝くことを「阿賀に生きる」人たちから学んでくれたのかもしれません。(旗野,2004)
(b)『阿賀に生きる』から『それぞれの阿賀』へ
だが,映画が完成した翌年には映画に出演した人たちが次々と亡くなってしまう。旗野さんの依頼により,全国の『阿賀に生きる』のファンになった人たちから50通の追悼文が寄せられ,追悼文集がまとめられた。その後,全国のファンに感謝の気持ちを込め,地元で「送る会」と称した追悼上映会を主催した。これがきっかけなり,翌年以降も5月の連休を利用して「追悼集会・阿賀の岸辺にて」という映画上映会が開催されることになった(旗野,2004,p.6)。追悼集会(図7参照)は2004年で12回目を迎え,参加者は全国各地から毎年100名近くにものぼる。会場には,
映画の製作に関わる一方で旗野さんは,長期化していた新潟水俣病第二次訴訟に区切りが着いた後のことに思いを馳せていた。
裁判や直接交渉が終わって何らかのお金が出たとしても患者の苦悩はこれからも続き,終わりはないである。阿賀の流域でこの先も共に暮らしていく一人として,新たな(文化)運動を真摯に考えねばならなかった。(新潟日報,1995年12月12日)
裁判が終わり,弁護団も医師団も共闘会議もいない日常の生活に患者たちが戻ったとき,彼らに誰が寄り添えるのかということを考えた。「およそ裁判闘争にはかかわることを苦手としているふつうの人たち」(旗野,2004,p.8)とつながることが重要なのではないだろうか,と旗野さんは思うようになる。そして,「もっと今までとは違うやり方,患者である以前に川の民,川筋の人達の生きざまにもう一回,誇りが持てるような,普通の町民としてのかかわりあいがもてるようなかかわりあい,仕掛けが必要ではないか」(旗野講演録より,関,2001,p.20)と考え,そのような仕掛けを生み出す運動を実践していく。
1995年12月,昭和電工と被害者の会,共闘会議による和解協定書が調印された日,旗野さんは隣の会場で『新潟水俣病30周年特別企画写真展・それぞれの阿賀展』の展示作業に追われていた。『それぞれの阿賀展』では,水俣の写真で有名なユージン・スミスが新潟を撮った写真のほかに,阿賀野川の風景に魅せられたアマチュアカメラマンや画家,書家の作品が展示された。翌年1月より,旗野さんは『それぞれの阿賀・流域巡回展』,阿賀野川流域市町村10箇所にて開催する。最初の開催を予定していた昭和電工の影響力が強い鹿瀬町では直前にキャンセルになってしまったが,それでも開催地ではそれぞれに新しい出会いがあった(旗野,2004,p.8)。数多くの出会いは,患者運動を支援する熊本県水俣市や東京など全国的に広がった支援ネットワーク(成,2004)といった被害者救済や公害問題解決という共通の課題を軸につながるネットワークや,熊本と新潟といった共通の経験でつながるネットワークとはまた違った,旗野さん個人の力と,写真展という場の力が合わさって,より広範な「ふつうの人たち(前出)」との人的ネットワークの形成を可能にしたのである。その後の旗野さんの取り組みを,より円滑に進めることを可能にしたネットワークの形成である。
また,和解調印の前後から地元の小学校でも『阿賀に生きる』の上映や,患者の講演を求める声が上がるようになってきた。映画完成直後,地元
(c)『それぞれの阿賀』から『阿賀の記憶』へ
このように,映画を介し,多くの多様な人々との出会いが訪れたことにより,旗野さんの取り組みは,水俣の運動という枠にはまらないユニークなものになっていった。「これまで苦労してきた分,残された時間はそれぞれの患者さんが輝けるような楽しい運動」(旗野,2004,p.9)であるように心がけたのである。また,運動の中で出会った人々の協力をもとに,新潟水俣病や患者たちの記憶の残す記録が数多く作られている。このような取り組みを時系列に沿って紹介しよう。
1999年,
川魚が余計に獲れればお裾分けし,野菜が採れればそのお返しをする。そんな当たり前のことがこの事件が起きたことで,認定されて補償金を手にした人,棄却された人,裁判で闘った人,また潜在している人など,お互いに患者であるにもかかわらず非難,中傷を繰り返し集落がズタズタになりました。虫地蔵さんを昔から大切に村中で守ってきたように,不知火からやってきたお地蔵さんも新しい村のシンボルとして代々語り伝えてもらえたらと,願ってのことでした。(旗野,2004)
図9 阿賀のお地蔵さん(左)と虫地蔵(阿賀の会(2002)パンフレット『阿賀のお地蔵さんより』)
図10 二体のお地蔵さんは阿賀野川を臨む(2003年3月,筆者による撮影)
阿賀のお地蔵さんには,新潟水俣病の経験を経て地域社会に生まれた軋轢を解消し,「地域の人びとが仲良く暮らしてゆけるように」との願いをこめられた。その背には「不知火から阿賀へ」と彫り込まれ,地域に暮らす人々が大切にしてきた虫地蔵の隣で,同様に大切にまつられている。パンフレット「阿賀のお地蔵さん」にはこのように書かれている。
水俣へ石を探しに行った人は,100年後にこんな会話が交わされることを祈っています。
「ねえ,おじいちゃん,あのお地蔵さんは何のお地蔵さんなの?」
「あれはね,おじいちゃんのおじいちゃんが水俣まで石を拾いに行って建てた地蔵なんだよ。その頃,阿賀野川では水俣病という病気がおきてね,おじいちゃんのおじいちゃんも水俣病になったんだよ。(後略)」(阿賀の会,2002)
患者がすべて亡くなっても,このお地蔵さんは残り,地元
この他にも,新潟水俣病という出来事とともに,患者の姿や声や生き様を後世に残す記録がつくられている。2002年,患者自らが阿賀野川流域の自然と生活について語るビデオ『阿賀野川 昔も今も宝もん』が旗野さんの撮影により製作された。「私が30年余りかかわってきた新潟水俣病事件と,この間つきあってくれた阿賀の川筋で暮らす人生の達人たちを映像に残したい」(旗野,2002)という旗野さんの思いから製作されたものである。ビデオでは安田町千唐仁に並んで建つ二体のお地蔵さんが紹介された後,3人の患者がそれぞれ,かつて川船を操ったり,仕事の合間に魚を捕ったりした場所に立ち,当時の暮らしぶりを実直な語り口で振り返る。
2003年には,水俣病患者であり,歌好きの渡辺参治さんの米寿を記念し,参治さんの歌う民謡を収録したCD『うたは百薬の長』(図11参照)が旗野さんを中心として「冥土のみやげ企画」という名の有志たちによって自主製作された。参治さんは,旗野さんとともに新潟水俣病の語り部として
そして,2004年には『阿賀に生きる』に登場した人々の痕跡を収めた続編『阿賀の記憶』10)が完成した。
これらの記録は,現在,前述の追悼集会や「冥土のみやげ全国ツアー」と呼ばれる患者と旗野さんによる語り部活動の場で上映されたり,宣伝されたりしている(図13参照)。2004年2月は沖縄で『阿賀に生きる』上映と参治さんの唄の披露,同年8月には,北海道常呂町で『阿賀に生きる』と『阿賀の記憶』の上映会が実現し,筆者も参加させて頂いた(図14参照)。
映画『阿賀に生きる』をはじめとして,映像や音,文字やかたちなど新潟水俣病とその中を生きた人々の記録は,新潟水俣病の当事者でない者たちと,新潟水俣病という出来事とを媒介する。現に筆者は『阿賀に生きる』の鑑賞をきっかけに,新潟水俣病に関心を持つようになった。また,「不思議なことだが,十一年も毎年『阿賀に生きる』を繰り返し上映しているにもかかわらず,今年もやっぱり「お陰さまでようやく念願の『阿賀に生きる』を見ることができました」などとお礼を言われたりする」(旗野,2003)と述べるように,年月を経てもなお人々に新たな出会いを『阿賀に生きる』という映像作品はもたらす。
図11 渡辺参治さんのCD 『うたは百薬の長』
図12 里村洋子(2004):『渡辺参治さんの聞き書き 安田の唄の参ちゃん』
図13
図14 「新潟・あがの岸辺から映画と食を楽しむつどい」にて,北海道常呂町の皆さんとともに(前列左から4人目が筆者)
(2004年8月28日,写真提供:旗野秀人氏)
では,記録に込められた旗野さんの思いとは何だったのだろうか。「やっぱり新潟水俣病があったということを伝えたいと思うのですか」という筆者からの質問に,旗野さんは次のように答えた。
それ(新潟水俣病を伝えること)はついでの話で,やっぱりたとえば餅屋のじいちゃん(『阿賀に生きる』に登場する加藤作二さん)ていう人がいてさ,みたいな話をしていきたいんだよね。こういう生き方をしたすごいじいさんがいたんだよって。ほいで,たまたま水俣病でもあったのさ,っていうことになるのね。だからそのまあ,あんまり違わないことなのかもしれねえけど,実際新潟水俣病って40年前にあってさ,っていう風に語り口っていうのは苦手なわけね。(2004年10月11日新潟県五泉市にて,括弧内は筆者による挿入)
この発言からもわかるように,必ずしも新潟水俣病という事件とその問題点のみについて伝えるのではなく,『阿賀に生きる』製作のきっかけにもなった,阿賀野川と共に生きた「宝もんのように素晴らしい人たち」(旗野インタビュー記事より,国土交通省北陸地方整備局阿賀野川河川事務所,2004)の魅力と,そこから照射される新潟水俣病を伝えたい,という思いが旗野さんの中に強くあったことがわかる。
そのような
X 「地域」・記憶・運動
1)宝物としての「地域」
安田町における運動において,旗野さんが一貫して周囲に伝えたいと思っていたものは,阿賀野川と共に生きた「宝もんのように素晴らしい人たち」(旗野,2004)の魅力であった。旗野さんは自身の強い思いが出発点となり,記録として残された映画『阿賀に生きる』,ビデオ作品『阿賀野川 昔も今も宝もん』,渡辺参治さんのCD『うたは百薬の長』について,それぞれ,「告発調ではなく,水俣病という言葉はなるべく使わず,新潟の宝もんをそっくりそのまま撮ってほしいと訴えていたのです。」(旗野,2004),「かつての暮らしは川の恵みにあふれていた。水俣病が起きた後も川は地域の財産だということを知ってもらいたい」(新潟日報,2002年10月12日),「参治さんの歌は地域の宝物。なんとか歌声を記録に残したかった」(新潟日報,2003年4月25日)と述べている。映像や音声で記録された流域で暮らす人々の姿やその暮らしぶり,阿賀野川という自然,歌という文化などは,「新潟の宝もん」「地域の財産」「地域の宝物」として捉えられている。
旗野さんは,とりわけ第二次訴訟の終結とともに新潟水俣病の教訓化が叫ばれるようになってから,「私はもっと身の丈にあったっていうか,地域ができることをしたかった」(旗野講演録より,関,1999)と述べている。運動は,
運動の基盤となった空間は,豊かな財産としての患者たちの日々の暮らしを支えながら,一方で近代化という時代の流れの中で,新潟水俣病という出来事を経て変化せざるを得なかった。どのように変わったかについて旗野さんは以下のように述べる。
それまでは,たとえ漁業権がなくても,魚がいっぱいとれると,みんなお裾分けしたんです。「今日はいっぱい生きのいい魚がとれたから,おめえさんところに半分やるわ」,「おめえさん,蟹好きだったから,川蟹とれたからやるよ」,「じゃあ,お返しに,うちのところは野菜いっぱいとれたからお返しするわ」。
そういうコミュニケーション。共同体としてちゃんとうまく成り立っていたんです。いくら貧しい時代だったとしても。それが,水俣病だけじゃないんですけども,いわゆる近代を追い求めて,ここまで,いわゆる「豊か」になった日本の,これまで歩んできたツケというか,それが象徴的なのがこの水俣病事件だったと思うんですね。その残したツケ,いわゆる「お互いさま」の世界がぐしゃぐしゃにされたんですね。(旗野講演録より,1999)
人と自然のコミュニケーション,人と人のコミュニケーションから成り立つ共同体こそが,患者が日常を送ってきた阿賀野川流域という場所であった。近代化,例えば,ダム開発や道路建設によって川舟から車へと人々の交通手段の変化や,第一次産業から第二次・第三次産業へという就労構造の変化などが,それまで共有されていた空間の秩序を徐々に変容させた。なかでも新潟水俣病という経験はこの共同体に差別や中傷など人間関係の軋轢をもたらし,これまで存在していた世界は壊れてしまった。しかし,旗野さんが関わってきた患者たちは,新潟水俣病を経験してもなお,それまで共有していた生活文化や習慣を今も体現していた。
みんな真面目に一生懸命働いてきて,地域をとても大事にしてきた,まだそういう世代が生きているうちに,我々がしっかり見たり聞いたりせねばならないんじゃなかろうか。(旗野講演,1999)
ゆったりとした患者の日常生活を通して,人はどう生きるべきか,本当の豊かさを考えてほしい(柏崎日報,2002年11月14日)
患者たちが大事にしてきた「地域」とは,川との関わりの中にあった共同体的な生活空間そのものであると言える。すなわち,旗野さんにとって「地域」とは,ある一定の範囲をしめる行政区域のような場所ではなく,そこに暮らす患者と,彼らの日常生活によって価値づけられた場所であった。旗野さんは患者の死とともに今後失われてしまうかもしれない価値をもつものとして「地域」を表象し,一人でも多くの人々に伝え,本当の豊かさとは何かということを,今生きている我々に投げかけてきたのではないだろうか。そして,また「地域」を伝えるということは,同時に,「地域」が経験した新潟水俣病という出来事を伝えることでもあった。「地域」を構成している阿賀野川や人々の暮らしの中に新潟水俣病という出来事は必ず照射されるからである。
水俣病の話は後世に語り継がねばならないことだと時がたつにつれて深く思う。二度と繰り返してはならないからである。その方法はいろいろあったいいはずだ。(旗野,1998.5.2)
新潟水俣病を語り伝えるための方法の一つが,旗野さんにとっては,「地域」を語るという行為であった。
2)運動にとっての「地域」
では,語られてきた「地域」とは,どのような性質をもち,運動にとってどのように効果的に作用してきたのであろうか。
患者たちの生活の基盤である「地域」は,阿賀野川流域あるいは安田町といった具体的な固有の空間である一方で,その空間を構成する自然や人々,人々の暮らしや文化という事柄は,人がある場所で生きる限り,必ず関わってくるものであるという点で,誰もが身近に感じやすい普遍的な要素である。新潟水俣病がもたらした身体的被害や差別の問題としてのみ取り上げられるとき,多くの人々にとって自分の生きる世界と結びつけて捉えることが難しいように思われるが,「地域」という切り口から新潟水俣病が語られるとき,日常の暮らしや自然,その地で受け継がれてきた文化や行事など「地域」を彩る事柄が,多くの人々に,安田町あるいは阿賀野川流域という場所に対する興味や関心,想像力をかきたてるための手段となる。そして,結果的に引き寄せられた人々はその場所の中に埋め込まれた新潟水俣病という出来事をも忘れ得ぬものとして記憶する。
例えば,患者の日常を撮った映画『阿賀に生きる』は,製作から12年がたった今もなお全国各地から上映の要請があり,
祖父に会いたくなった。だんだんああいうかけあいのできるようになって来た両親に会いたくなった。たのしかった。私も自分の場所でああやって生きてみたい。(
すごくよかったです。自分の両親の実家での正月の親類の集まりや,川での魚つりをなつかしく思いました。(後略)(
「生きる」という事を,改めて考え直した。東京のせわしない暮らしの中,なんだか生かされてるみたいだったから,この映画にははっとさせられた。私の田舎にもすこし似ていて,自分の祖母や祖父の姿と重なった。(後略)(
(以上,旗野(1993)より抜粋)
『阿賀に生きる』は,新潟水俣病患者を,決して病に苦しむ患者として描いたのではなく,阿賀野川とともに生きた生活者として描く。患者は新潟水俣病患者でありながら,見る者にとって,自分と最も親しい人々を想起させるような,身近な存在として捉えられる。その一方で,映画では新潟水俣病という彼らを襲った出来事について折々に触れる。身近な,想像可能な人々を苦しめることとなった新潟水俣病は,より鮮明に見る者に刻まれるのではないだろうか。
例えば,渡辺参治さんのCDの歌詞カードの冒頭に寄せられた文章には「参治さんには三つの病気がある。とにかく何よりも唄が大好きで朝から晩まで歌っていること。米寿を迎えても艶っぽい話には事欠かないこと。そして新潟水俣病の被害者であること。」とある。「三つの病気」で表象される参治さんは,新潟水俣病という一つの病気で表象されるよりも,より親しみやすい印象を出会った者にもたらす。参治さんの唄を多くの人々に聴いてもらいたいと思った里村さんは,ラジオ番組で,「祖父の背中で聞いた子守り唄のようです。阿賀野川を渡ってくる風の音のようです。」(里村,2004)と紹介した。そして,「参治さんという,仕事も,おなごしょとのお付き合いも,唄も一生懸命な,普通の人が,なぜ新潟水俣病に罹らなければならなかったのかを知りたい」(里村,2004)と思うようになり聞き書きを始めたのである。身近に感じられる存在の中に確認される新潟水俣病は,里村さんにとって,人ごとではない,重要な意味をもつ出来事として捉えられた。
また,「地域」を構成する重要な要素である阿賀野川という自然も,安田町の運動において,多くの出会いを生んだ。第二次訴訟の和解協定調印の日に行われた『それぞれの阿賀展』は,それぞれにとって愛すべき対象であった阿賀野川という自然が,人々を結びつけたものである。旗野さんは『それぞれの阿賀展』について次のように言う。
水俣病のみにとらわれず,阿賀をこよなく愛し,風景を撮り続けてきた写真家や画家,そして書家とそれぞれの表現をもって一堂に会したのである。(中略)長い間の裁判や運動の繰り返しの中で,被害者以外の「それぞれの阿賀」が私には見えずにきたが,地元スタッフをはじめ,母なる大河を誇らしげに表現する人たちと,問わず語りで川漁や川舟の自慢話をする被害者の思いは同じで,実は阿賀の文化運動だったと思う。(新潟日報,1997月12月10日)
阿賀野川を愛する人々との出会いは,安田町の新潟水俣病患者の運動が,被害者運動ではなく,被害者以外の人々と共有できる文化を発信してきた運動として位置づけられるようになった。2004年8月には,北海道常呂町11)で『阿賀に生きる』の上映会が行われた。安田町と常呂町が結ばれたきっかけは,どちらも川という共通の自然と,人々がそれぞれの町で川を大切にしながら生きてきたという共通の歴史が,両町にあったことである。
このように,
そして,残念ながら放っておけばいつのまにか変化したり,失われていったりする可能性のある「地域」を,旗野さんは,後世まで語り継がれるようにと記録を残した。映像や音声,文字など「地域」の記憶を閉じ込められた記録の数々は,時間と空間を超える。記録は半永久的に残り,また,空間を超えて持ち運びできる。その結果,より多くの人々に阿賀野川流域の豊かさを伝えることを可能にした。
3)「地域」とその表象
さらに,「私自身の阿賀野川に対する思いというのは,だからここで出会った人たちとのたくさんの思い出と切り離すことはできません。」(旗野,2004)と旗野さんが述べるように,「地域」は,そこに刻まれた様々な記憶を人々に想起させるものである。旗野さんが伝えてきた「地域」と後世に残るその記録には,新潟水俣病の記憶が必ず想起しうるものとして埋め込まれている。筆者はこの点において,
4)新たな運動の広がり
実際にそのような動きが,新潟水俣病の被害地域で起こっている。一つは,前述した渡辺参治さんの聞き書きをまとめたエッセイストである里村洋子さんが計画している新たな取り組みである。もう一つは,「
今回,旗野さんを通じてこれらの活動の主体である2組のインフォーマントを紹介してもらい,それぞれの活動についての現状や取り組むにあたっての意識について詳細を知るため,2004年11月12日10時から約1時間,里村さんのご自宅にてインタビューを実施した。また,2組目は「
里村さんは,20年前豊栄市の団地に暮らしはじめて間もない頃,新潟水俣病の女性と出会った。子どもの検診のため産婆として自宅を訪れた女性だった。当時里村さんが連載していた新聞記事に,彼女のことを写真付きで取り上げたとき,彼女が水俣病患者であるいうことはもちろん,名前も一切書かなかったにも関わらず,記事が掲載された後,どうして彼女のことを取り上げるのか,という抗議の電話が自宅にかかってきた。その経験は里村さんにその後,地元
「
Y おわりに
岡(2000)は,暴力的なある出来事について,出来事の当事者でない者が語ろうとすることの不可能性を認識した上でなお,出来事の記憶を分有するために,当事者でない者が出来事を語らねばならないとし,次のように主張する。
〈出来事〉の記憶は,他者によって,すなわち〈出来事〉の外部にある者たちによって分有されなければならない,何としても.集団的記憶,歴史の言説を構成するのは,〈出来事〉を体験することなく生き残った者たち,他者たちであるのだから.これらの者たちにその記憶が分有されなければ,〈出来事〉はなかったことにされてしまう.その〈出来事〉を生きた者たちの存在は,他者の記憶の彼方,「世界」の外部に抛擲され,歴史から忘却される.(岡,2000,75)
そして,「〈出来事〉の痕跡」と,「〈出来事〉に対する証言者」となるべき「〈出来事〉の外部にある者たち」を媒介するのは,「証言者」に先立つ「他者の声」である,と述べる。
同様に筆者は,新潟水俣病という出来事の記憶が,出来事の外部にある者によって「分有」されなければならないと考える。そのために,新潟水俣病という「〈出来事〉の痕跡」と,新潟水俣病という「〈出来事〉に対する証言者」を媒介する「他者の声」が必要である。では,「他者の声」とはなにか。
旗野さんが中心になって展開されてきた安田町の運動は,旗野さんが地元安田町の患者と信頼関係を築くことから始まった。患者と関わる中で,患者の日常を支えることの重要性を感じ,水俣病を越えて,様々な立場の人々とつながるための運動を行ってきた。運動によって,人や自然や文化など阿賀野川流域の財産として「地域」が語られた。しかも,それは時がたっても失われないように記録としても残された。筆者は,このように出来事の記憶が刻まれた「地域」が表象されることによって,「地域」が岡の言う「他者の声」となり得るのではないか,と考える。「地域」が他者によって表象されるとき,過去にそこで起こった出来事の記憶が刻まれるなら,「地域」は出来事の記憶をも伝えるものになるからである。たとえば,目の前を阿賀野川が悠々と流れているという,その風景。そこにはいつのまにか橋が架けられ,ダムがつくられ,川で魚をとる人は少なくなってしまっていたという,その現実。水や電気に不自由することのない,人々の日常。「地域」には新潟水俣病が見え隠れし,「地域」を語るという行為は新潟水俣病を避けられないはずである。
旗野さんの運動によって表象された「地域」は当事者であるかどうかに関わらず,より多くの人々と出来事を結びつけている。新潟水俣病という出来事の記憶が今後も共有され続ける可能性は,そこに存在し続け,それ自身が記憶する主体でもある「地域」,あるいは,意図的に残された「地域」と,そのような「地域」を表象し続けるという行為によって支えられていると言えるのではないだろうか。
(23,191字)
注
1) 関西訴訟最高裁判決の骨子は,国は1959年12月末にはチッソの工場排水について旧水質二法による規制権限を公使すべきであったし,熊本県も国と同様,漁業調整規則で規制権限を公使する義務があったため,1960年1月以降水俣病の被害を拡大させたのは違法であるとし,国・県には患者37人分の約7150万円の賠償責任があるというものであった。しかしながら,1959年12月末以前に転居した患者8名については,国・県の不作為と損害の因果関係は認められないとし,請求は棄却された。
2) 新潟県によって,1965年〜1967年にかけて,新潟水俣病被害者発見のために,行われた集団検診。第1次から第4次までの4つの調査から成り立っており,個別訪問調査,精密検査という段階を追って実施された。第2次調査まで阿賀野川河口14kmほどの横雲橋より下流域に調査区域が限定されたため,中上流域の患者の発見が遅れることになった。また精密検査の受診率も低かった。
3) 新潟県によって1970年〜1972年にかけて行われた集団検診。対象者は阿賀野川流域住民で「第1回一斉検診において川魚を摂取したと答えた者」及び「漁業従業者」であった。アンケート,現地での診察,精密検査という段階を追って実施された。第1回一斉検診を受診せず,この検診の対象とならなかった人々が2万人以上いると考えられている。
4) 例えば,研究論文としては成(2003)や,聞き書きとしては木野・山中(2001),ルポルタージュとしては池見(1996)などがある。
5) 地理学における社会運動論の展開については,香川(2004)に詳しい。「地域性」については淺野(1997,1999)や香川(2003)が事例研究を通して考察している。
6) 関(2003)は「教訓化」について,「ある集団や個人が,自分たちの経験と行為に社会的意味を見いだす」ことと,「その経験の外部にある者が知り,それによって行為を修正していく過程」という二つの意味で説明している。
7) 「せんとうじ」と読む。阿賀野川の川筋にある集落で,船頭が多く住んでいた。
8) 阿賀野川中上流域に暮らす3組の老夫婦の日常生活を撮ったドキュメンタリー。人々の川との関わりや阿賀野川の雄大な風景とともに,新潟水俣病の現実にも触れられている。佐藤真監督,小林茂撮影。1992年製作。第24回ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭にて銀賞を受賞など。
9) ツツガ虫に刺されないように,と祭られたお地蔵さん。刺されるとツツガ虫病という風土病にかかり,死にいたることもあったため,阿賀野川流域に住む人によって恐れられてきた。
10) 旗野さんは「その後の阿賀に生きる人たちはもちろん,黄泉の国からも芳男さんや遠藤さん,餅屋のジィちゃん,バァちゃんと前作の豪華俳優陣があの世とこの世から総出演してくれる不思議な映画となった。(中略)佐藤監督は眠くなる映画が目標のようだ。登場人物もあの世の人なのかこの世の人なのかよくわからない。最後の薪ストーブのコトコトと湯気のあげる鉄瓶のただただ長いシーンもこの世なのかあの世なのかわからない。」と評している(新潟日報,2004年4.24)。
11)
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参考映像資料
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参考記事
柏崎日報,2002年11月14日.
新潟日報,1995年12月12日.
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新潟日報,1997月12月10日.
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参考URL
http://zxp044.u-aizu.ac.jp/~ito/homebase.html
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