倫理学概論 II 第8回
 正当化③ 社会契約説

●社会契約説が「正当化」の理論であるとはどういうことか?
:「なぜ、その統治(国、政府)や社会原理が正しいといえるのか?」(「権利問題」)についてを説明する理論であって、「実際に(歴史上)どうだったか?」(「事実問題」)を説明する理論ではない。
たとえば、
「人間は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたのか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる
(ルソー『社会契約論』第1編第1章冒頭、桑原武夫・前川貞次郎訳、岩波文庫、p.15。強調は土屋)
 ホッブズ、ロック、ルソーらは、国ないし政府の正当性を、人々の間の自発的な約束(契約)によって説明しようとした。すなわち、国や政府は、人々が自分の生命や財産などを守るために、暴力などを放棄することをお互いに約束したことから作られた、と考えられる場合にのみ正当なものといえるのであって、そうでない場合には正当なものとはいえないのだ、と主張した。
 これは、そのような約束がすでに人々の間でなされていると考えない限り、国や政府は正当性を持ちえないのだ、という主張であって、歴史上のどこかの時点で実際にそのような約束が明示的になされたという事実を実証する主張ではない。したがって、そういう歴史的事実を発見することができなくても、彼らの主張は否定されるわけではない。

●統治や社会原理の正当化を行う社会契約説は、個々の規範的判断の正当化は行わないのか?
 社会契約説は、国や政府、あるいは特定の社会原理(道徳的・倫理的原理)の正当性を説明するにあたって、「人々はそれぞれ生命や財産を保全する=自分の利益ないし幸福を追い求める」ということを前提にしている。「なぜ国や政府や特定の社会原理は正しいのか?」という問いに対し「それらが各人の生命や財産を保全するための手段であり、各人の利益や幸福を確保するという目的を達成するからだ」と回答する。すなわち、社会契約説は、国や政府や特定の社会原理の正しさを説明する際に、普遍的利己主義に依拠している。さらに社会契約説は、国や法・規則は一人ひとりの利益や幸福を実現するために定められ、定められた以上はそれに従うので、規則利己主義の一形態とみなすこともできよう。
 ただし、第一に、自分の利益や幸福を著しく損なう場合には国や法・規則に従う必要はないと考える(革命権を肯定する)ので、徹底した規則利己主義とみなすことはできない。また第二に、人々が社会契約を結び合うのは、自分の利益ないし幸福を最大化させようという積極的(野心的)な理由からではなく、各自の生命(ホッブズ)や「固有権 property」(ロック。財産だけでなく「生命」「健康」「自由」も含む)を保全するという消極的(防衛的)な理由からであるから、利己主義でも「消極的(防衛的)な利己主義」である。

●Thomas Hobbes, Leviathan: or the Matter, Forme and Power of A Commonwealth Ecclesiastical and Civil, 1651.(以下、引用は水田洋訳『リヴァイアサン』岩波文庫[全4冊]による。原文の大文字=邦訳の太字は太字で、原文のイタリック=邦訳の傍点は下線で示す)

・自然権、自然状態、自然法
 ホッブズは、人は自分自身の生命を維持するために合理的なあらゆることを行う自由(自然権)をもっていると考えた。ホッブズの自然権は、他者を傷つけたりすることまで認める。また、自然状態においては、何かを正しいとか正しくないと判断する基準になる規範が存在しないので、何をしても不正とはいえない。
 だが、そのような自然状態は「各人の各人に対する戦争状態」であり、人々は常に他者から襲われる恐怖と死におびえ、安心して暮らせず、農業や工業のような生産活動も行えない。そこで人々は理性(ホッブズにおいては、自分自身の生命を維持するための方法を見出す能力)に従って、「平和を求め、それに従え」「可能なあらゆる方法によって、自分自身を守れ」「平和に必要な範囲で自然権を放棄せよ」「結ばれた契約は履行すべし」「他者の恩恵には報いよ」「自分以外の人々に順応せよ」「過去の罪を悔い改め許容を求める者は許せ」「報復は過去の悪ではなく将来の善の大きさを考えて行え」「傲慢であるな」「うぬぼれるな」「尊大であるな」「人を裁く際は公平に扱え」「公共の物を平等に用いよ」「共有できない物はくじ引きで所有者を決めよ」「平和の仲介者の安全を確保せよ」「仲裁者の判決には従え」「何人も自分の裁判官にはなれない」「不公平な扱いを避けられない者は裁判官になれない」「裁判の際には証人を求めよ」というような「自然法」を見出すことになる。

「自然は人びとを、心身の諸能力において平等につくった」(第13章、訳書第1巻p.207)
「能力のこの平等から、われわれの目的を達成することについての、希望の平等が生じる。したがって、もしだれかふたりが同一のものごとを意欲し、それにもかかわらず、ふたりがともにそれを享受することができないとすると、かれらはたがいに敵となる。そして、かれらの目的(それは主としてかれら自身の保存であり、ときにはかれらの歓楽だけである)への途上において、たがいに相手をほろぼすか屈服させるかしようと努力する」(同p.208)
「われわれは、人間の本性のなかに、三つの主要な、あらそいの原因を見いだす。第一は競争、第二は不信、第三は誇りである」(同上)
「これによってあきらかなのは、人びとが、かれらすべてを威圧しておく共通の権力なしに、生活しているときには、かれらは戦争とよばれる状態にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということである。すなわち、戦争は、たんに戦闘あるいは闘争行為にあるのではなく、戦闘によってあらそおうという意志が十分に知られている一連の時間にある」(同pp.210-211)
「[そのような戦争の時代においては]継続的な恐怖と暴力による死の危険があり、それで人間の生活は、孤独でまずしく、つらく残忍でみじかい」(同p.211)
「各人の各人に対するこの戦争から、なにごとも不正ではありえないということもまた、帰結される。正邪と正不正の観念は、そこには存在の余地をもたない。共通の権力がないところには、法はなく、法がないところには、不正はない。[中略]そこには所有も支配もなく、私のものあなたのものとの区別もなくて、各人が獲得しうるものだけが、しかもかれがそれを保持しうるかぎり、かれのものなのである」(同p.213)

自然の権利[自然権]とは、各人が、かれ自身の自然すなわちかれ自身の生命を維持するために、かれ自身の意志するとおりに、かれ自身の力を使用することについて、各人がもっている自由であり、したがって、かれ自身の判断力と理性において、かれがそれに対する最適な手段と考えるであろうような、どんなことでもおこなう自由である」(第14章、訳書第1巻p.216)
自然の法[自然法]とは、理性によって発見された戒律すなわち一般法則であって、かれの生命にとって破壊的であること、あるいはそれを維持する手段を除去するようなことを、おこなうのを禁じられ、また、それをもっともよく維持しうるとかれが考えることを、回避するのを禁じられる」(同上)
「[戦争状態である自然状態においては]各人はあらゆるものに、相互の身体に対してさえ、権利を持つのである」(同p.217)
「『各人は、平和を獲得する希望があるかぎり、それにむかって努力すべきであり、そして、かれがそれを獲得できないときには、かれは戦争のあらゆる援助と利点を、もとめかつ利用していい』というのが、理性の戒律すなわち一般法則である」(同上)
「この基本的な自然法から、ひきだされるのは、つぎの第二の法である。『人は、平和と自己防衛のためにかれが必要だとおもうかぎり、他の人びともまたそうであるばあいには、すべてのものに対するこの権利を、すすんですてるべきであり、他の人びとに対しては、かれらがかれ自身に対してもつことをかれがゆるすであろうのとおなじおおきさの、自由をもつことで満足すべきである。』」(同p.218)

・権利の放棄と契約
「ある人のあるものに対する権利放棄するとは、他人がそのものに対する自分の権利からえる便益を、さまたげる自由すてることである」(同上)
「権利は、たんにそれを放置することによってか、あるいは、それを他人に譲渡することによって、除去される。[中略]人がどちらかのやりかたで、かれの権利をすてたり与えたりするならば、そのばあいにかれは、そういう権利の譲渡または放棄をうけた相手の人びとが、その権利の便益をえるのをさまたげないように、義務づけられるあるいは拘束されるといわれる」(同上)
「権利の相互的な譲渡は、人びとが契約 Contract とよぶものである」(同p.221)
「契約者の一方が、かれの側では契約されたものをひきわたして、相手を、ある決定された時間ののちにかれのなすべきことを履行するまで放任し、その期間は信頼しておくということも、ありうる。そしてこのばあいは、かれにとってのこの契約は、協定 Pact または信約 Covenant とよばれる」(同p.222)
「当事者のいずれもが現在は履行せず、相互に信頼するという、信約がむすばれるとすれば、まったくの自然の状態(それは各人の各人に対する戦争の状態である)においては、なにかもっともな疑いがあれば、それは無効となる。しかし、もし双方のうえに、履行を強制するのに十分な権利と強力をもった共通の権力が設定されていれば、それは無効ではない」(同p.226)
「まったくの自然の状態で、恐怖によってむすばれた信約は、義務的である」(同p.229)
「力に対して、力によって私自身を防衛しないという信約は、つねに無効である。なぜなら(私がまえにしめしておいたように)だれでも、自分自身を死と傷害と投獄(それらを回避することが、どんな権利を放置するについても唯一の目的である)からすくうという権利を、譲渡または放置することはできないからであり、したがって、力に抵抗しないという約束は、どんな信約においても、なんの権利も譲渡しないし、義務づけもしない。[中略]なぜなら、人間は本性によって、抵抗しないことによる確実な現在の死というおおきな害悪よりも、むしろ、抵抗による死の危険というちいさな害悪を、えらぶものだからである」(同pp.230-231)
不正義 Injustice の定義は、信約の不履行にほかならない」(同p.236)
「しかし、相互信頼による信約は、いずれかの側に不履行についてのおそれがあれば(まえの章でいわれていたように)無効であるから、正義の起源は信約の成立ではあっても、そういうおそれの原因が除去されるまでは、そこには、じっさいには、なにも不正義はありえない。その除去は、人びとが戦争という自然状態にあるあいだは、おこなわれえないのである」(同pp.236-237)
自分のものがないところ、すなわち所有権がないところでは、なにも不正義はなく、強制権力がなにも樹立されていないところ、すなわちコモン-ウェルスがないところでは、所有はない。すべての人がすべてのものに対して、権利をもつのだからである」(同p.237)

・人格理論——主権者と人民の意思
人格 Person とは、『かれのことばまたは行為が、かれ自身のものとみなされるか、あるいはそれらのことばまたは行為が帰せられる他人または他のもののことばまたは行為を、真実にまたは擬制的に代表するものとみなされる』人のことである」(第16章、訳書第1巻p.260)
「それらがかれのものとみなされるならば、そのばあいにかれは、自然的人格とよばれる。そして、それらがある他人のことばと行為を代表するものとみなされるならば、そのばあいには、かれは仮想の、または人為的な人格である」(同上)
「人為的人格のうちのあるものは、かれらのことばと行為が、かれらが代表するものに帰属する。そしてそのばあい、その行為は行為者〔役者〕であって、かれのことばと行為が帰属するものは、本人であり、こういうばあいに、行為者は、本人の権威によって行為するのである」(同、p.261)
「権威とは、つねに、なにかの行為をする権利のことだと理解され、そして、権利によってなされるとは、その権利を持つものの委任または許可によって、なされるということだと、理解される。/このことから、つぎのことがでてくる。行為者が権威にもとづいて信約するときは、かれはそれによって本人を、本人自身が信約したのとおなじく拘束し、それのあらゆる帰結に、おなじくかれを従属させる」(同pp.261-262)
「人間の群衆 a Multitude of men は、かれらがひとりの人、あるいはひとつの人格によって、代表されるときに、ひとつの人格とされる。だからそれは、その群衆のなかの各人の個別的な同意によって、おこなわれる。なぜなら、人格をひとつにするのは、代表者の統一性であって、代表されるものの統一性ではないからである」(同p.265)

・コモン-ウェルス(国)の形成
 自然法は、自分自身の生命を維持するための各自のいわば《戦略》にすぎないので、確実な平和をもたらすものではなく、人々は相変わらず、いつ他者に襲われるかもしれない戦争状態に留まっている。そこで人々は、自然権をお互いに放棄するという契約を結びあうとともに、一人の個人ないし合議体に、放棄した自然権を集中的に譲渡して、自然法を明文化し執行させる力を持たせる。こうして成立するのが「コモン-ウェルス」であり、自然権の譲渡先である個人ないし合議体(ホッブズは権力の分立は内乱の元になるので、個人である国王が望ましいと考えた)が統治者となる。
 このようにホッブズの場合は、自然権を放棄する契約を人々がお互い同士結び、それを破る《抜け駆け》を誰にも許さないよう、統治者に見張ってもらうようにする。その際、契約は人々相互の間にのみ結ばれており、統治者自身は契約の当事者ではないので、契約には縛られない。ただし、コモン-ウェルスは「人為的人格」であり、「行為者 actor(役者)」としての統治者は、あくまで「本人 author(著者、作者)」である人民の意思の代行者であるから、統治者と人民の間で意思の齟齬は起こらないはずだ。また、自分自身の生命を維持することこそ人々が自然権を放棄しコモン-ウェルスを作った目的にほかならないのだから、自分の身体を防衛する権利は常に人民に残されている。

「自然の諸法が、なにかの権力の威嚇なしに、それ自身だけで、まもられるようになるということは、われわれのうまれつきの諸情念に反する」(第17章、訳書第2巻pp.27-28)
「諸信約は、剣をともなわなければ、語にすぎないし、人の安全を保障する強さをまったくもたない」(同p.28)
「かれらを外国人の侵入や相互の侵害から防衛し、それによってかれらの安全を保証して、かれらが自己の勤労と土地の産物によって自己をやしない、満足して生活できるようにするという、このような能力のある共通の権力を樹立するための、ただひとつの道は、かれらのすべての権力と強さを、ひとりの人間に与え、または、多数意見によってすべての意志をひとつの意志とすることができるような、人びとのひとつの合議体に与えることであって、そのことは、つぎのようにいうのとおなじである。すなわち、ひとりの人間または人びとの合議体を任命して、自分たちの人格をになわせ、また、こうして各人の人格をになうものが、共通の平和と安全に関することがらについて、みずから行為し、あるいは他人に行為させるあらゆることを、各人は自己のものとし、かつ、かれがその本人であることを承認し、そして、ここにおいて各人は、かれらの意志をかれの意志に、かれらの判断をかれの判断に、したがわせる、ということである。これは同意や和合以上のものであり、それは、同一人格による、かれらすべての真の統一であって、この統一は、各人が各人にむかってつぎのようにいうかのような、各人対各人の信約によってつくられる。すなわち、『私は、この人、また人びとの合議体を権威づけ Authorize、それに自己を統治する私の権利を、与えるが、それはあなたもおなじようにして、あなたの権利をかれに与え、かれのすべての行為を権威づけるという、条件においてである』。このことがおこなわれると、こうして一人格に統一された群衆は、コモン-ウェルス、ラテン語ではキウィタスとよばれる。これが、あの偉大なリヴァイアサン、むしろ(もっと敬虔にいえば)あの可死の神 Mortall God の、生成であり、われわれは不死の Immortall 神のもとで、われわれの平和と防衛についてこの可死の神のおかげをこうむっているのである」(同pp.32-33)
「[コモン-ウェルスを定義するならば]『ひとつの人格であって、かれの諸行為については、一大群衆がそのなかの各人の相互の信約によって、かれらの各人のすべてを、それらの行為の本人としたのであり、それは、この人格が、かれらの平和と共同防衛に好都合だと考えるところにしたがって、かれらすべての強さと手段を利用しうるようにするためである』。/そして、この人格をになうものは、主権者とよばれ、主権者権力 Soveraigne Power をもつといわれるのであり、他のすべてのものは、かれの臣民である」(同p.34)
「この主権者権力の獲得は、二つの道によっておこなわれる。ひとつは、自然的な力によるものであって、子供たちが服従を拒否すればかれらを破滅させうることにより、人が、自分の子供たちとさらにその子供たちとを、かれの統治に服従させる、というばあいがそれであり、また、戦争によって、かれの敵を、かれの意志への服従を条件として生命をたすけることによって、そうさせるばあいがそれである。もうひとつは、人びとがかれら自身のあいだで協定して、ある人または人びとの合議体に、すべての他人に対して保護してくれることを信頼して、意志的に服従するばあいである。この後者は、政治的コモン-ウェルスまたは設立 Institution によるコモン-ウェルスと、よばれるものであり、そして前者は、獲得 Acquisition によるコモン-ウェルスと、よばれうる」(同p.34)

・設立によるコモン-ウェルスと主権者の権利
「ひとつのコモン-ウェルスが、設立されたといわれるのは、人びとの群衆の、各人と各人とが、つぎのように協定し信約するばあいである。すなわち、かれらすべての人格を表現 Present する権利(いいかえれば、かれらの代表 Representative となること)を、多数派が、どのまたは人びとの合議体に与えるとしても、それに反対して投票したものも賛成して投票したものと同じく、各人は、かれらのあいだで平和に生活し、他の人びとに対して保護してもらうために、その人または人びとの合議体のすべての行為や判断を、それらをちょうどかれ自身のものであるかのように、権威づける、ということである」(第18章、訳書第2巻p.36)
「かれらすべての人格をになうという権利が、かれらが主権者とするその人に与えられるのは、かれら相互の信約によってだけであり、かれらのうちのだれかとその人との信約によってではないのだから、主権者の側においては、信約破棄は生じえない。そして、その結果、かれの臣民のうちのだれも、剥奪のためのどんな口実によっても、かれの臣従から自由とされえない。主権者とされる人が、あらかじめかれの臣民たちと、どんな信約をもむすばないことは、あきらかである」(同p.38)
「多数派が同意の投票により、ひとつの主権者を宣告したのであるから、そのばあいには、不同意のものも他のものに同意しなければならない。すなわち、かれは、かれ〔主権者〕がおこなうすべての行為をみとめることに満足すべきであり、そうしなければ、他の者によってほろぼされるのが正当なのである。なぜならば、もしかれが意志的に、合議した人びとの集合体にくわわったならば、かれはそのことによって、多数派がさだめることをまもる意志を、十分に宣告した(したがって暗黙のうちに信約した)のであって、それゆえに、もしかれが、それをまもることを拒否したり、かれらの諸布告のどれかに抗議したりするならば、かれは自分の信約に反したことをおこなうのであり、したがって不正におこなうのである」(同p.40)
「この[コモン-ウェルスの]設立において、各臣民は、設立された主権者のすべての行為と判断の本人なのであるから、したがって、後者がなにをしようとも、それは、かれの臣民のうちのだれに対しても、侵害ではありえないし、またかれは、臣民のうちのだれからも、不正義という非難をうけるべきではない。[中略]各個人は、主権者がおこなうすべてのことの本人なのであり、したがって、自分の主権者からうけた侵害について不平をいうものは、かれ自身が本人であることがらについて不平をいうわけである」(同p.41)
「いまいったこと[上の内容]の結果として、主権者権力をもつものはだれでも、正当には、ころされるとか、そのほかのやりかたで、かれの臣民によって処罰されることはありえない」(同上)
「主権者に属するのは、各人が、かれの同胞臣民のだれからもさまたげられずに、享受しうる財貨は何であり、おこないうる行為は何であるかを、かれらが知りうるような諸規則を規定する、権力のすべてである。そして、人びとが所有権 Propriety とよぶものはこれなのである」(同p.43)
「すべての人は、コモン-ウェルスの設立よりまえには、かれが自分の維持にとって必要だとおもう、あらゆるものに対する権利とどんなことでもする権利、そのためにはだれでも屈従させ、きずつけ、ころす権利を、有したのであって、そしてこれが、各コモン-ウェルスにおいて行使される、あの処罰の権利の基礎なのである。[中略]それは、かれ[主権者]に与えられたのではなくて、かれに、しかもかれだけに、のこされたのであり、そして、(自然法によってかれに対してさだめられた制限をのぞいて)、まったくの自然状態、各人のその隣人に対する戦争の状態においてとおなじく、完全なものとして、のこされたのである」(第28章、訳書第2巻p.226)

・獲得によるコモン-ウェルス
獲得 acquisition によるコモン-ウェルスとは、主権者権力が強力によって獲得されるコモン-ウェルスである。そして、強力によって獲得されるとは、人びとが個別的に、あるいはおおくのものがいっしょに多数意見 plurality of voyces によって、死や枷 bonds への恐怖にもとづいて、かれらの生命と自由を手中ににぎる人または合議体の、すべての行為を権威づけるというばあいである」(第20章、訳書第2巻p.70)
「自分たちの主権者をえらぶ人びとは、相互の恐怖によってそうするのであって、かれらが設立するその人に対する恐怖によってではないのだが、いまのばあいには、かれらは、自分たちがおそれるその人に、臣従するのである」(同上)
「しかし、主権の諸権利と諸帰結は、両者[設立によるコモン-ウェルスと獲得によるコモン-ウェルス]においてひとしい。かれ[主権者]の権力は、かれの同意なしにには他人に譲渡されえない。かれはそれを没収されえない。かれは、かれの臣民のだれからも、侵害の非難をうけえない」(同p.71)
「支配は二つのやり方によって、すなわち、生殖 Generation によって、および征服によって、獲得される。生殖による支配の権利とは、親がかれの子供たちに対してもつもので、父権的とよばれる。そしてそれは、親が子供をつくったためにかれに対する支配を有するかのようにして、生殖からひきだされるのではなく、明言された、あるいは他の十分な証拠によって宣告された、子供の同意からひきだされる」(同pp.71-72)
「征服や戦争の勝利によって獲得された支配は[中略]専制的 Despoticall とよぶものであって、それは、召使に対する主人の支配である。そしてこの支配は、敗北者が当面する死の打撃をさけるために、明言されたことばや、そのほかの意志の十分なしるしをもって、つぎのように信約するときに、勝利者によって獲得される。その信約とは、かれの生命と身体の自由とがかれに与えられているかぎり、勝利者は、おもいどおりにそれを使用することができるというのである。そして、このような信約ができてからは、敗北者は召使 Servant なのであり、それ以前はそうではない。[中略]だから、敗北者を支配する権利を与えるのは、勝利ではなく、かれ自身の信約である」(同pp.74-75)
「ようするに、父権的および専制的な二つの支配の諸権利と諸帰結はともに、設立による主権のそれと、まったくおなじであり、その理由もおなじである」(同p.76)

・臣民の自衛権
「私はまえに、第14章で、自分の身体を防衛しないという諸信約は無効であることを示した。したがって、
もし主権者が、ある人に対して(正当に有罪とされたものであっても)、かれ自身をころしたり、きずつけたり不具にしたりせよと命じ、あるいは、かれをおそう人びとに抵抗するなと命じ、あるいは、食物や空気や薬やその他の、それなしにはかれが生活しえないものの、使用をやめろと命じるならば、それでもその人は、したがわない自由をもつのである」(第21章、訳書第2巻p.96)
「だれも、ことばそのものによって、自分や他のだれかをころすように拘束されはしない。[中略]われわれの従順拒否が、主権をさだめることの目的を破壊するならば、そのばあいには拒否の自由はなく、そうでなければ拒否の自由がある」(同p.97)
「他人を防衛してコモン-ウェルスの剣に抵抗する自由は、その他人に罪があるかないかにかかわらず、だれももたない。[中略]しかしながら、多数の人びとがいっしょに、すでに主権者権力に対して不正な抵抗をしたり、ある重大な罪をおかしたりして、そのために、かれらのおのおのは死を予期する、というばあいに、かれらはいっしょに結合し、たがいに援助し防衛しあう自由を、もたないであろうか。たしかにかれらはもつ。というのは、かれらは、かれらの生命を防衛するにすぎず、それは、罪のあるものも、ないものとおなじようになしうることだからである」(同p.98)
「[戦争で捕虜になったりして、外国に対し臣従した場合]人がもし、獄や枷にとらえられたり、かれの身体の自由を信用にもとづいて与えられなかったりするならば、かれは信約によって臣従すべく拘束されるものとは、理解されえない。したがって、できるなら、どんな手段によって逃亡してもいいのである」(同p.101)
「もし君主が、かれ自身とその世つぎたちとの双方について、主権を廃棄するならば、かれの臣民たちは、自然の絶対的自由に復帰する」(同pp.101-102)
「人がもし、当面の死の脅威によって、法に反する事実をなすように強制されるならば、かれは全面的に免罪される。どんな法でも、人を、かれ自身の維持を放棄するように、義務づけることはできないからである」(第27章、訳書第2巻p.214)
「コモン-ウェルスをつくるにさいして、各人は、他人を防衛する権利を放棄するが、かれ自身を放棄する権利をではない」(第28章、訳書第2巻p.225)

●ジョン・ロック『統治二論』(John Locke, Two Treatises of Gorvernment, 1690)後編の概略
 ロックはホッブズの理論的枠組みを継承しつつ、独自の変更を加えた。ロックにおいて自然状態は、神が世界に定めた自然法が効力をもって支配する平和な状態をさす。そこでは「すべての人間は平等で独立しているのだから、何人も他人の生命、健康、自由、あるいは所有物を侵害すべきではない」(『統治二論』後編第2章第6節、岩波文庫p.298)ということが、ただちに理性(ロックにおいては、神の自らの計画を達成させるために人間に与えた知性的能力)によって知られている。
 人々がおおむね平等である間は、敵意による侵害が行われ戦争状態に陥っても、この自然法が各人の手によって執行される(自然法に反し他者の生命や健康や財産を害する者は各人によって処罰される)ので、やがて平和な状態に復帰する。
 だが、自然状態において平和は、相互処罰や報復によってかろうじて保たれているだけだ。自分の身体の労働によって得られる所有物については、腐敗させたり荒廃させたりすることなく利用し尽くせる量が限度と定められる。しかし、腐敗することのない貨幣によって所有が増大し、人々の間の不平等が大きくなると、力のある者の暴力を相互処罰だけで抑えることは難しくなり、戦争状態から平和な状態に復帰しにくくなる。そこで人々は、力のある者をも抑えることができる公共的な権力を、社会契約によって作る。
 その際にロックは、ホッブズのように人々の自然権のほとんどを一気に統治者に集中させるのではなく、まず、人々からなる共同体を作り、そこに「立法権力」(立法府、議会)を立てて法(憲法、基本法)を作る。つまり、統治者をいきなり立てるのではなく、まず共同体を作り、共同体が従う法を定める。次に、この法に則り、共同体から「執行権力」(今日の言葉では「行政権」に相当)を、統治者に信託する。したがって、最高の権力は、執行権者である統治者にではなく、立法府にある。ただ、常設でない立法府の招集権は執行権者がもつなど、立法府と執行権者の間には、権力の一定の相互抑制関係もみられる。
 このように、ロックの社会契約説の枠組みでは、人々はまず相互の社会契約により共同体を形成し、共同体は法の作成を「立法権力」(立法府)に信託し、さらに「執行権力」である統治者に法の執行が信託される。立法府や統治者が共同体の信託に反した場合には、立法府や統治者と人民共同体との関係は自然状態に戻ってしまうから、人民共同体には、信託に反した立法府や統治者を、自然法に則り排除ないし変更する権利(抵抗権)がある。この点が、人民の意思とそれを「代理」する主権者の意思は齟齬を起こさないから、人民は生命を脅かされる場合を除いて主権者に抵抗することはない、とするホッブズと異なる。

●ジョン・ロールズによる、2つの社会原理の正当化の概要
(John Rawls, A Theory of Justice, The Belknap Press of Harvard University Press, 1971, revised edition, 1999. 1999年版の訳は川本隆史・福間聡・神島裕子訳『正義論』改訂版、紀伊國屋書店)
 現代の社会契約説は、ゲーム理論や経済学の成果を取り入れて、より洗練された形態をとるようになっている。たとえば、ジョン・ロールズは1971年に出版された『正義の理論』の中で、利己主義的人間が社会を形成する原理を選択する状況として、社会階層やジェンダー、人種などによる不平等が反映されないように、自分がこれから形成される社会の中でどんな地位につくか一切わからない(「無知のベール」のかかった)仮想的状態を設定する。その状態で選択されるに違いない社会原理を、ロールズは以下のように表現した(A Theory of Justice, The Belknap Press of Harvard University Press, 1971, p.60)。

 1.各人は、他者の同じような自由と両立する限りでの最も広範囲の基本的な自由に対して、平等な権利をもつべきである。
 2.社会的および経済的不平等は、次の二つの条件をともに満たさなければならない。
  (a) あらゆる人々の利益になると合理的に期待できること。
  (b) すべての人に開かれた職務や地位に付随したものであること。

1の原理(第一原理)は、他者の自由を侵害しない限り、すべての人は平等に、基本的な自由をもつということだ。また、2の原理(第二原理)は、社会的経済的な不平等が認めうるのは、それが (b) 公正な機会均等を達成するための手段となり、かつ (a) 全ての人、とりわけ具体的には社会の中で最も不遇な人々の利益になる場合だけである、ということを述べている。(b)の条件は「機会均等原理」、(a)の条件は「格差原理」と呼ばれる。
 ロールズによると、第一原理は第二原理よりも、そして、第二原理の中では(b)の機会均等原理が(a)の格差原理よりも、優先される(先に達成が図られる)という「辞書的順序」がある。また、2の(a)の「格差原理」は、1960年代から1970年代にかけて米国で盛り上がりを見せた公民権運動の成果として、アフリカ系米国人に大学の入学枠を確保するなどの「アファーマティヴ・アクション(積極的是正措置)」に理論的裏付けを与えたものと解釈されている。

*のちにロールズはこれらの社会原理の「最終的な」「完全な言明」を以下のように記述している(A Theory of Justice, Revised Edition, The Belknap Press of Harvard University Press, 1999, p.266[川本隆史ほか訳『正義論・改訂版』紀伊國屋書店、2010年、pp.402。ただし訳文は邦訳を改変した])。

第一原理
各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な体系全体に対する対等な権利をもつべきである。ただし最も広範な体系全体といっても、すべての人の自由の同様[に広範]な体系全体と、両立可能なものでなければならない。

第二原理
社会的・経済的不平等は、次の二つの条件をともに満たさなければならない。
(a) そうした不平等が、正義にかなった貯蓄原理を排することなく、最も不遇な人々の最大の利益に資すること。
(b) 公正な機会均等の諸条件のもとで、すべての人に開かれている職務と地位に付随する[ものだけに不平等がとどまる]こと。


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