倫理学概論 II 第9回
起源の説明① 共同体主義

●アリストテレス『ニコマコス倫理学』(引用文は高田三郎訳、岩波文庫による)
「人間は本性上市民社会的[原語はポリティコン=ポリス的]なものにできている」(1097b10)
「国家が(まったくの人為ではなくて)自然にもとづく存在の一つであることは明らかである。また人間がその自然の本性において国家をもつ(ポリス的)動物であることも明らかである。そして国家をもたない者があるとすれば、もしそれが偶然によるのではなくて、生まれつき自然にそうなのだとしたら、それは人間として劣性のものであるか、あるいは人間以上の何ものかである」(『政治学』1253a、田中美知太郎ほか訳『世界の名著8 アリストテレス』中央公論社、pp.68-69)
「愛(ピリア)は『正』(ディカイオン)のかかわると同じことがらにかかわり、『正』の見出だされると同じひとびとのあいだにおいて見出だされるように思われる。すなわち、いかなる共同体(コイノーニア)においても一定の『正』が存在するが、そこにはまた一定の『愛』が存在すると考えられる」(1159b20)
「種々の共同体は、すべて国[ポリス]という共同体の一部分であるように思われる。[中略]国以外のもろもろの共同体は特殊な部分的な仕方で功益を希求するものでしかない。[中略]国という共同体は目前の功益をではなくして、われわれの生活全体に即してのそれを希求している」(1160a)
「よきひとたらんがためには、うるわしき育成や習慣づけを与えられること、そしてそれに基づいてよき営みのうちに生きてゆき、みずからすすんでする行為たると、然らざるとを問わず、あしき行為はおよそこれをなさないでゆくようにすることが必要であるとするならば、こういったことの実現のためには、ひとびとの生活が何らかの知性(ヌース)によって律せられ、強権を有するただしい指令によって律せられるのでなくてはならぬ。ところで、家父の戒告は強権性を有せず、強制力を持たないのであり、総じて、だから、単一な人間の戒告はこれと同様でしかない。君主とか何らかそういった位置にあるひとの場合は別であるが——。これに反して、法律というものは、何らかの知慮とか知性とかに発する言葉であるとともに、強制的な力を有している」(1180a10-20)

●Alasdair MacIntyre, After Virtue: A Study in Moral Theory, University of Notre Dame Press, 1981 (2nd edition, 1984).
(篠崎榮訳『美徳なき時代』みすず書房、1993年[第2版の訳]。以下、引用は邦訳による。強調は邦訳では傍点。〔 〕は邦訳による補足、[ ]は土屋による補足)

・道徳に関する言説は、歴史的文脈の中で初めて理解されうる
「私たちの道徳的言説を形成している、これらすべての多種多様な概念は、もともとは理論と実践のより大きな全体の中にしっくりと収まっていたのだ[中略]そうした全体の中でそれらの概念は、今では失われた文脈が供給する役割・機能を享受していた」 (p.12)
「〈学問として哲学をする人たちの専門化した注意を現在引きつけているいくつかの問題の根源と、私たちの日常の社会的・実践的生活にとって中心的ないくつかの問題の根源とは、同一のものである〉[中略]〈これら一組の問題の他方を理解しなければ、一方を解決することはおろか理解することもできない〉」(p.45)
「私のテーゼの鍵となる部分とは、〈近代の道徳発言と実践は、それ以前の過去からの断片化した残存物の繋ぎ合わせとしてのみ理解されうる〉ということ、そして〈その残存物が近代の道徳理論家たちに対して生みだした解決できない諸問題は、この点が十分に理解されるまでは解決できないままであろう〉ということであった」(p.136)
「〈少なくとも道徳哲学の主題——道徳哲学者が探究する評価的・規範的な諸概念、格率、論証、判断——を見出すことができるのは、特定の社会集団の歴史的な生に具体化され、歴史的存在の特質を示す諸特徴をもつもののところ以外にはない〉」(p.324)
「道徳哲学は、いくらそれより多くを達成することを願っても、実際には常にある特定の社会的・文化的立脚点にたつ道徳を明瞭に述べるだけである」「道徳哲学とはまずもって、特定の道徳がなす合理的な忠誠への要求を、あからさまに表明したものである。そしてこのことこそ、道徳の歴史と道徳哲学の歴史が単一の歴史であることの理由なのだ}(p.327)

・徳 virtue(アレテー、卓越性 excellence)は共同体(社会)を離れてはありえない
「英雄社会における諸徳についての説明は、その社会構造での脈絡からそれらの徳を分離したならば、決して十分なものとはなりえないのである。それは、英雄社会の構造についての説明が、英雄的諸徳についての説明を含まない場合に、どれも十分なものになりえないのと同様である。[中略]そもそも、一揃いの社会的絆しかないのである。それと区別されたものとしての道徳はまだ存在していない。評価的な問いは、社会的事実についての問いなのである」(p.151)
「[アテナイの人間にとっては]諸徳について彼が理解するということは、彼が自分の共同体の生活を疑問視し、あれこれの実践や政策が正しいかどうかを問うことのできる基準を実際に手に入れることである。にもかかわらず彼は、諸徳についての自分の理解をもっているのは、その共同体の一員であることが自分にそのような理解を与えているからに他ならない、ということも認めているのだ。その〔アテナイという〕都市は、保護者・親・教師である。たとえその都市から学んだものが、そこでの生活のあれこれの特質を疑問視することに導くとしても。こうして、善い市民であること善い人間であることとの関係についての問いが中心的となり、人間に——ギリシア人だけでなく異邦人にも——可能な実践の多様性についての知識は、その問いを問うにあたって、事実的背景を供給したのである」(pp.163-164)
「[プラトンとアリストテレスとアクィナスの]これら三人すべてが共有している前提条件は、〈ある宇宙秩序が存在し、それが、人間の生という全体的に調和のとれた枠組の中に各々の徳を位置づける〉である。道徳の領域における真理は、道徳判断がこの枠組の秩序に適合することに存するのである。
 それとは鋭い対照を示す近代的な伝統があり、それが奉ずるところでは、〈人間にとっての諸善はきわめて多様で異質なものなので、それらの追求は単一の道徳秩序ではどんな中でも調停されえず、したがって、そうした調停を試みる他のすべての組合せに対する一組の諸善の覇権を強めるかするいかなる社会秩序も、人間の条件を締めつける装置、それもまず確実に全体主義的な装置に転化する運命にある〉ということだ。これは、アイザイア・バーリン卿が熱心に力説してきた見解である。そしてその先駆けは、先に注目したように、ウェーバーの著作の中にある」(pp.175-176)
「古代・中世の多くの世界でも、個人が同定・構成されるのは、その人のもつ役割のいくつかにおいて、またそれらを通してであること、そうした役割とは、人間に特有の諸善がその中で、またそこを介してのみ達成されうる共同体に個人を結びつけていることである。私が世界と向き合うのは、この家族、この世帯、この一族、この部族、この都市、この民族、この王国の一員としてなのである。これらを離れた『私』など存在しない。[中略]私は私の身体であり、私の身体は社会的なものである。すなわち、明確な社会的同一性をもってこの共同体の中でこの両親のもとに生まれたものである」(p.211)
「内的な諸善とは、実際、卓越しようとする競争の結果であるが、その諸善に特徴的なことは、それらの達成がその実践に参加する共同体の全体にとっての善であるという点である」(p.234)
「ある実践に入ることは、同時代の実践者たちとの関係にとどまらず、私たちに先行してその実践に従事した人々、特にその業績によって当の実践の範囲を現在の地点にまで拡張した人々との関係に入ることである。そうすると、実践において私が直面し、そこから学ばなければならないものは、その伝統の業績と、言うまでもなくその伝統の権威とである」(p.238)
「実践がその全一性(integrity)を保持できるかどうかは、その実践の社会的担い手である制度的諸形態を維持するにあたっての諸徳の行使のされ方、またその可能性に懸かっている」(p.240)
「この段階で重要なことは、すでに到来している新たな暗黒時代を乗り越えて、礼節と知的・道徳的生活を内部で支えられる地域的状態の共同体を建設することである」(pp.320-321)

・人生の統一性の喪失
「それぞれの人生を一つの全体として、つまり統一体として眺めようと今の時代に試みるならば、この試みは、その性格上、諸徳に適切なテロス[目的]を提供することになるが、それとともに二つの異なった種類の障害——一つは社会的、他は哲学的な——に出くわすことになる。社会的障害の由来は、近代が各々の人生を、それ自身の規範と行動様式をもつ多様な切片へと分割する事態にある」(p.250)
「哲学的障害は二つの別個の傾向に由来している。一つは、そこだけではないが主に分析哲学に採り入れられたもの、もう一つは、社会学の理論と実存主義の両者で処を得ているものである。前者は、人間の行為を原子論的に考え、複雑な行為と相互行為を単純な構成要素を基に分析する傾向である。[中略]
 同様に、人生の統一性というものは、個人とその人が演じる役割との間で、また個々の人生での様々な役割——そして準役割——の演出の間で鋭い分離がなされると、私たちに見えなくなってしまう。[中略]その結果、人生は単なる関連のない挿話の連続としてしか現れなくなる」(p.250)

・物語を語ること
「ギリシア、中世、ルネサンスといった文化すべてにおいて、道徳的な思考と行為は、私が先に古典的と呼んだ枠組の何らかの形態に従って組み立てられているので、道徳教育の主要な方法は物語を語ることである」(p.148)
「一つの中心的なテーゼがここで姿を現し始める。〈人間はその行為と実践において、虚構においてと同様、本質的に物語を語る動物(story-telling animal)である〉とのテーゼである。ただし人間は、本質的に真理に就こうとする物語の語り手であるのではなく、自分の歴史をとおしてそうした語り手になっていくのである。[中略]私たちが人間の社会に仲間入りするということは、一つか複数の負わされた役回り——私たちが選り抜かれて与えられた役割のこと——をもってなのであり、その役回りが何であるかを学んで初めて、どのように他の人々は私たちに応答するか、そしてその人たちに対する私たちの応答はどのように説明されるのが適切か、を理解できるのだ」(p.265)
「私の人生の物語は常に、私の同一性の源である諸共同体の物語の中に埋め込まれているからである。私は過去を伴って生まれたのだ。とすれば、個人主義者の流儀でもって私自身をその過去から引き離そうとすることは、私の現在の諸関係を不具にすることである。歴史的同一性を所有することは、とりもなおさず社会的同一性を所有することに合致するからだ」(p.271)

・アリストテレス的伝統
「〈一方で〔1〕三世紀にわたる道徳哲学と一世紀にわたる社会科学の努力にもかかわらず、依然として私たちは、自由主義的個人主義者の観点についての何らかの首尾一貫した合理的に擁護可能な言明を欠いているが、他方で〔2〕アリストテレス的伝統は、私たちの道徳的・社会的態度とコミットメントに理解可能性と合理性を回復する仕方で述べ直されうる〉」(p.116)
「ほとんど繰り返す必要のないことだが、〈アリストテレス的な道徳伝統こそ、支持者たちがその認識論的・道徳的資材に対し合理的にいって高度の確信をもつ資格がある、私たちの所有する最善の事例の伝統である〉」

★マッキンタイアは、メタ倫理学(規範の言葉すなわち「〜するのはよい/わるい」「〜すべきだ/すべきでない」「〜しなければならない/しなくてもよい」等の意味を探究する言語哲学)における情緒主義(「よい/わるい」「すべきだ/すべきでない」等はその発話者の好悪[好み]の表現にほかならない、と考えるメタ倫理学の理論)や、政治哲学における自由主義(とくに米国におけるロールズなどのリベラリズム)を批判するが、実のところその批判対象は、個人的相対主義(規範は個人によって異なる、と考える立場)である。すなわち共同体主義は「個人個人が抱いている規範はじつはその個人の属する共同体の歴史や文化に依存している」と主張することで個人的相対主義を否定する。
 しかしながら共同体主義は、共同体ごとの文化相対主義に陥る。共同体主義の批判を受けて、リベラリズムが近代西洋の伝統に根ざしていることは、後期のロールズも認めていた。すなわち、自由主義もその理念を共有する共同体を前提にしている。だが、そうすると、共同体を越える規範は存在しないことになる。
 共同体主義の洞察をふまえるならば、相対主義を越える普遍主義(人類全体に共通の規範が存在する、と考える立場)は、人類全体を一つの共同体と見立てることによってしか、擁護できない。
→人類全体に共通の規範は本当に存在するか?それはいかにして存在しうるか?
…この問いへの一つの回答は、進化論的倫理学(ヒトは規範を持ったがゆえに生物種として生き残ってきた、と考える立場)に見出すことができる。


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