倫理学概論 II 第7回
正当化② 帰結主義(2) 功利主義 (c)総量説と平均効用説、先行存在説

●[功利主義に関する] 総量説 total view [of utilitarianism]:最大化すべきなのは選択の影響を受ける関係者の利益・幸福を合算した「総量」であり、それだけを考慮すればよい
→総量を最大化するのであれば、どんな選択も認められる

●平均効用説:最大化すべきなのは関係者1人ひとりの利益・幸福の「平均値」であり、総量ではない
→たとえ総量を最大化するとしても、平均値を下げてしまうような選択は認められない

●総量説と平均効用説の対立点
・[問題になっているのが一つ一つの行為であれ、《ルール》の採用であれ]その選択によって、関係者の人数が変わらない場合は、総量説も平均効用説も同じ結論に至る(関係者1人ひとりの利益・幸福の平均値=総量÷人数[平均値×人数=総量]であるから)。
 すなわち、平均値を高めることと総量を増大させることが両立するならば、対立はない

・だが、関係者を増やすことによって総量を増大させようとする(たとえば「産めよ増やせよ」政策を取り、政策開始時点の平均値よりも幸福量が減る国民を大幅に増やす)選択は、総量は確かに増大しても、1人当たりの効用の平均値は下がってしまう場合がある。
 そのような選択は、総量説では認めるが、平均効用説では認めない

・逆に、関係者を減らすことによって1人当たりの効用の平均値を高めようとする(たとえば産児制限をして人口を減少させ、たとえ国民全体の幸福の総量が減少しても、1人当たりの幸福量の平均値を高めようとする)選択は、総量を減少させてしまう場合がある。
 そのような選択を、平均効用説では認めるが、総量説では認めない

→(関係者の)人数はとても少ないが平均的には非常に幸福(幸福の総量は少ないが平均値は高い)なのと、平均すれば少ししか幸福でない人が非常にたくさんいる(幸福の平均値は低いが総量は多い)のと、どちらがよい(まし)か?
 前者のほうがよい(まし)というのが平均効用説、後者の方がよい(まし)というのが総量説

*もちろん、いずれもあくまで平均値の話であって、各人の実際の幸福量は多寡の違いがある。すなわち、効用の総量の最大化を目指す総量説ばかりでなく、平均値の最大化を目指す平均効用説でも、とても幸福な人がいる一方でとても不幸な人がいるという不公平(格差)は容認してしまう

●先行存在説 prior existence view:ある選択の是非を検討する際、効用計算において考慮する「関係者」とは、その選択を行う前から存在するか、または、その是非を検討している当該の選択にはかかわりなく関係者となる者だけに限る

●先行存在説と総量説の対立点
「置き換え可能性 replaceability」:利益・幸福の量が少ない(ないし減少させる)存在を、利益・幸福の量が多い(ないし増大させる)存在に置き換える(利益・幸福の少ない存在を消去し、代わりに、利益・幸福の多い存在を生み出す)ことができる(その存在を別の存在に置き換えても利益・幸福の総量を減少させない[変わらないか増大させる]と考えられる場合に、置き換えることを認める)という考え方
→総量説では置き換え可能性を認めるが、先行存在説では認めない。

*たとえば、
 身ごもった胎児に障害があると出生前検査でわかったら中絶し、妊娠し直して障害のない子を産む
 未婚で身ごもったので中絶し、結婚して家庭を持ったら妊娠し直す
 経済的に余裕がないときに身ごもった胎児を中絶し、経済的に安定してから妊娠し直す
といった選択を認めるか認めないか

★どんな存在(生きもの)ならば「置き換え可能」といえるか(=どんな存在は「かけがえのない」存在か)?
 また、そういえるのはなぜか?
:胚、胎児、新生児、子ども、成人、身体障害者、精神障害者、うつ病患者、植物状態の患者、脳死状態の患者、...
 人間、動物、昆虫、...

★ある存在(生きもの)について「利益・幸福が少ない」とか「幸せにできそうもない」とか「不幸にしてしまいそう」と断言できるか?そういう予測や評価は正しいのか?
「障害者は不幸だ」「ひとり親の子は不幸だ」「貧乏は不幸だ」といった偏見に基づいて決めつけているのかも?
→置き換え可能性を認めるかどうかの問題ではなく、効用は実際のところどうなのか、という問題

●先行存在説の問題点
 その選択によって生まれるか生まれないかが決まる存在を「関係者」に含めない(その利益・幸福を効用計算に入れない)先行存在説をとるとすれば、その選択をすべきか否かの評価は、現時点で存在する関係者の利益・幸福のみの効用計算によって決められるという、常識には合致しない事態が生じる。
 たとえば、上の例で、中絶ではなく、「いま妊娠したら、子どもは障害をもつことになる/ひとり親の子になる/経済的に余裕のない家庭に育つことになる」などという予測のもとに避妊をすべきかどうか判断するときには、避妊した場合には生まれてこないが避妊しない場合には生まれてくる子や、避妊した場合にあとで生む子などの利益・幸福を考慮することが重要になるはずだが、先行存在説を採ると、それらのまだ生まれていない子については考慮できない。避妊すべきかどうかは、いま存在している人々(女性、パートナー、すでに育てている子どもなど)の利益・幸福だけを考慮して決められることになる。

●功利主義(公益主義)全般の主な問題点
(1) 少数者の犠牲の問題
 効用計算により関係者全員の効用(公益)が総量として最大になるとしても、必ずしも全員が利益や幸福を得るとは限らない。個人や組織のある行為により、大部分の人は利益や幸福を得るけれど、一部の人は損をしたり不幸になる、ということがありうる。しかし、その場合でも功利主義(公益主義)は、総量としての効用(公益)を最も大きくするなら、その行為をするのがよい、と判定する。功利主義(公益主義)では、誰も損をしたり不幸にならないが全体の効用(公益)は最大にならない選択肢よりも、一部の人が損をしたり不幸になるが全体の効用(公益)は最大になる選択肢のほうが、望ましいのだ。
 このように、全体の効用(公益)を最大化するためなら少数者の犠牲もしかたがない、と考えるのが功利主義(公益主義)である。もっとも、全体の効用(公益)を低下させてしまうほど「犠牲」になる少数者の損害や不幸が大きければ、功利主義(公益主義)であっても少数者が「犠牲」になることは認めない。しかし、少数者の損害や不幸がかなり大きくても、それを補って余りある効用(公益)の増大が確実に見込まれるなら、功利主義(公益主義)は少数者の「犠牲」を容認してしまう。少数者の「犠牲」をけっして容認してはいけないという判断は、功利主義(公益主義)そのものの考え方からは出てこない。

(2)「みんな(関係者全員)」とは誰か?
 功利主義(公益主義)における「みんな」とは、その効用を計算する行為の影響を受ける人(関係者)全員のことである。しかし「関係者」には、いったい誰までが含まれ、誰からは含まれないのか。
 法律や政策など、組織や社会の《ルール》について効用計算を行う「規則功利主義(規則公益主義)」の場合は、その《ルール》の適用範囲がある程度明確であるから、その《ルール》が適用される全員が「みんな(関係者全員)」になる。たとえば、国内にいる人に適用される法律については、国外にいる人は「みんな」の中には含まれない。
 しかし、個人や組織の一つ一つの行為についてその度ごとに効用計算を行う「行為功利主義(行為公益主義)」の場合は、「みんな(関係者全員)」の範囲を確定するのは難しい。というのは、その行為によって影響を受ける人の範囲は、行為を行う時点ではそれほど明確になっていないからだ。
 たとえば、事例1で、低体重で産まれた新生児の手術をするかしないかによって影響を受けることが明らかなのは、新生児本人と、医師や看護婦などの医療スタッフと、両親およびその親族である。そして、この関係者だけの範囲内では、新生児本人と両親に与える影響が最も大きく、両親は手術に反対しているので、手術を行うことで両親に与える不利益・不幸がとても大きいとみなし、効用計算(公益計算)の結果は「手術をしないほうがよい」ということになるかもしれない。
 しかし、この事例がマスコミに取り上げられたりして公になると、手術をするかしないかによって影響を受ける人の範囲は大きく広がる。このニュースを聞いた人の中には、手術しないことに抵抗を覚える人が少なくないかもしれないし、障害者の人たちが反対運動を起こすかもしれない。報道によって知った人々が感じる、手術をしないことへの抵抗感や、障害者の人たちの怒りは、一人ひとりの量を見れば、両親の利害よりずっと小さいかもしれないが、人数がとても多いので、総量にすると、両親の利害の量をしのぎ、効用計算(公益計算)の結果は「手術をしたほうがよい」に傾くかもしれない。このように、公になった場合にはこの事例を知ったすべての人が何らかの影響を受け「利害」をもつことになるから、「みんな」の範囲は直接の関係者の範囲を越える。
 しかも、このような場合に効用計算(公益計算)に入れる範囲を「直接の関係者」に限るのは、功利主義(公益主義)の趣旨にそぐわない。というのは、功利計算(公益計算)はあくまで現時点で影響を受けている人々全員を関係者とし計算に入れるからだ。功利主義(公益主義)は実際に影響を受ける人の利害を考慮するだけであって、影響を受ける人のうち誰の利害を取り上げるべきかという基準はもたない。
 また、事例1では、別の意味で「みんな」の範囲が問題になる。一番影響をうけるはずの新生児が、現時点では意志を表明できず、意識すらあるのかどうか、わからない。つまり、この新生児が現時点でどのような「利害」を持っているのかわからない。感覚的な快や苦に関する利害はあるかもしれないが、新生児が生きたいと思っているのか、そもそも「思っている」のか、ということすらわからない。とすると、この新生児の利害を、成人である両親や両親の親族や医療スタッフの利害と比べて、どのように効用計算に入れたらいいかわからない。
 功利主義(公益主義)者の中には、ピーター・シンガー(翻訳は『実践の倫理』昭和堂など)のように、ある存在者が利害を持つためには欲求をもつ必要があるから、欲求を持たない存在者は利害はもたず、効用計算(公益計算)において考慮する必要はない、と考える論者もいる。シンガーは、感覚を持つ動物は快苦に関する利害をもつから、動物虐待の是非の判断に当たっては動物自身の快苦に関する利害も効用計算(公益計算)に入れるべきだという一方で、生物学的にはヒトであっても、感覚すらもたない受精卵や脳死状態の人は、利害をいっさい持たないから効用計算(公益計算)において考慮する必要はない、という。また、事例1の新生児のように、感覚しかもっていない胎児や新生児や最重度の障害者や植物状態の人などの利害は、感覚をもつ動物の利害と同じように考慮すべきだ、という。
 こうしたシンガーらの考え方は、生物学的にヒトである存在はすべて同等に「人権」をもち尊重すべきだ、という考え方と対立する。

(3) 利益・幸福の比較は可能か?
 功利主義(公益主義)は、人々がそれぞれ感じている利益や幸福(快や苦、利害)を一つの共通の尺度によって測ることができ、相互に比較することができる、という前提の上に成り立つ。ある行為によってある人にもたらされる利益や幸福は、別の人にもたらされる利益や幸福に比べて、どのくらいの大きさであり、両者を合算した場合にどのくらいになるのか、ということが計算可能であるからこそ、さまざまな行為の選択肢の中から最適な行為を選ぶことができる。しかし、この前提は正しいのだろうか。
 たしかに、大まかな「どんぶり勘定」としては、そうした個人間の比較や効用計算(公益計算)は可能なように見える。そうでなければ、友達とケーキを切り分けるのも、高齢者や障害者へ支給する年金の額を決めるのも、いっさいできないことになる。しかし、緻密な計算が必要な微妙な事例になると、効用計算(公益計算)を行うのは困難になる。たとえば事例1でどうすべきかは効用計算(公益計算)だけでは決まらないし、現実の個々の政策にしても「みんな(関係者全員)」の範囲や利害の重みづけに関して大きな困難が伴うことが多い。したがって《人々の利益や幸福は共通の尺度によって測り比較することができる》という前提は、厳密な意味では、無理がある。
 この前提はむしろ、功利主義(公益主義)の果たし得ぬ「理想」と見るほうがいいかもしれない。功利主義(公益主義)は実のところ、大まかな「どんぶり勘定」の理論にとどまる。

(4) 利益・幸福と《感じられている》ことは、必ずしも望ましいものではない
 功利主義(公益主義)は「みんな(関係者全員)」が、利益(ないし不利益)・幸福(ないし不幸)と《感じている》ことを効用計算(公益計算)の対象とせざるを得ない。しかし、みんな(関係者全員)が利益・幸福と現在《感じている》ことは、長い目で見れば一時的な利益や幸福にすぎないかもしれないし、場合によっては他者を傷つけることによって得られたものかもしれない。また、他者のありかたが、自分の「こうあってほしい」「こうあるべきだ」という評価基準にそぐわない場合に不快や嫌悪を《感じている》こともある。
 同様のことは他の帰結主義についてもいえる。しかし利己主義において「長い目を持つ」立場に立てば、「最終的に」自分にとって利益や幸福になることは何か、ということに鑑みて、利益や幸福の内容も吟味される。だが、功利主義(公益主義)に「長い目を持つ」立場を導入しようとすると、何が「最終的に」その人の利益や幸福になるのかが各人によって様々なので、全体の効用(公益)を計算することが事実上不可能になる。そこで功利主義(公益主義)では「現時点で」人々が感じている利益や幸福の量をもとに効用計算(公益計算)を行うしかない。そして、功利主義(公益主義)それ自体には、一時的なものにすぎない利益・幸福や、他者を傷つけることで得られた利益・幸福や、他者のあり方についての不快や嫌悪を、効用計算(公益計算)から除外する基準がなく、他の利益・幸福と同じように計算に入れざるを得ない。
 たとえば、少数者への差別が蔓延している社会では、差別を助長する政策が社会全体の効用(公益)を最大にするかもしれない。差別される人々が少数しかおらず、差別したい人々が多数いるなら、効用計算(公益計算)の結果は、差別したい人々が差別することで得る利益・幸福の総量のほうが、差別を被る人々の不利益・不幸の総量を上回る可能性が高い。「差別しないほうが結局は社会全体の利益や幸福を最大化するだろう」と主張しても、効用計算(公益計算)は現時点の利益や幸福の量をもとに行われるため、人々の間に「差別はよくない」という意識が広まり差別することの不快や不利益を覚えるようになるまでは、差別的政策が支持され続けるだろう。
 現行の法律や政策が、少数の人々の利益や幸福ばかりを重んじ、多数の人々の利益や幸福につながっていない場合には、功利主義(公益主義)は社会を改革するための理論として大きな力を持つ。しかし逆に、現行の法律や政策が、社会の多数の人々の利益や幸福ばかりを重んじ、少数の人々の利益や幸福につながっていない場合には、功利主義(公益主義)は多数派の権益を護り、差別や格差を放置してしまうかもしれない。しかも、多数派の人々が少数派の人々を憎んだり虐げたりすることに利益や幸福を感じている場合、功利主義(公益主義)は少数派への憎悪に満ちた行為をけしかける反人道的な法律や政策を是認しかねない。
 もっとも、この問題については、憎悪したり虐待したり差別したり嫉妬したりすることで生じる快やそれらへの選好、および、他者のあり方についての不快や嫌悪を、「不合理」なものとして効用(公益)計算から除外する改良が提案されている。しかし、こうした改良の試みには、何をもって「不合理」とするのか、「合理的」とはそもそもどういうことなのか、という難問が待ち受けている。


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