倫理学概論 II 第6回
正当化② 帰結主義(2) 功利主義 (b)行為功利主義と規則功利主義

●行為功利主義(行為公益主義)と規則功利主義(規則公益主義)をめぐる論点の概略
 功利主義(公益主義)は、常識的には行ってはいけないとされている行為、たとえば人のものを盗むことや人をだますことや人を殺すことをも、もしそれによって本当に全体の効用(公益)が最大になるのなら、行うべきだと判定する。嘘をつくことで関係者全員の幸福の総量が最大になるのならば嘘をついたほうがいいことになるし、厄介者を殺すことで関係者全員の不幸の総量が最小になるのであれば殺したほうがいい。一つ一つの行為の是非だけを問題にする限り、このような嘘や厄介者の殺害を、功利主義(公益主義)は禁止しない。
 しかし、このような功利主義(公益主義)の捉え方は不適切であると考える学者たちもいる。彼らによると、功利主義(公益主義)とは、このように個人や組織の一つ一つの行為の是非を判断するための学説なのではなく、むしろ法律や政策など、社会のさまざまな《ルール》の是非を判断するための学説である。「人のものを盗んではいけない」とか「人をだましてはいけない」とか「人を殺してはいけない」といった《ルール》や、国や自治体の施策や企業の活動方針などについて、その是非を考える場合にこそ《総量としての「みんな(関係者全員)の利益・幸福」を最大にするのがよい》という功利主義(公益主義)が用いられるべきなのだ。そして、いったんそのような《ルール》や政策が定められたら、一つ一つの行為や活動の是非はこうした《ルール》や方針に照らし合わせて判断されるべきであって、直接に《総量としての「みんな(関係者全員)の利益・幸福」を最大にするのがよい》という功利主義(公益主義)の原理に照らし合わせて判断するべきではない、という。
 このような功利主義(公益主義)の解釈は「規則功利主義(規則公益主義)」と呼ばれる。また、一つ一つの行為に功利主義原理(公益主義原理)が直接適用されると考える解釈は「行為功利主義(行為公益主義)」と呼ばれる。
 たしかにベンタムやミルなどの古典的功利主義者(古典的公益主義者)たちは法律や政策の改革を目指していたので、彼らの功利主義(公益主義)は規則功利主義(規則公益主義)であったと解釈したほうが妥当かもしれない。
 しかし、規則功利主義(規則公益主義)は、一つ一つの行為に関しては、義務論者のように《ルール》を厳格に適用する。明らかに全体の効用(公益)を増大させると思われる場合でさえ、《ルール》に照らして非である場合は行うべきでないと判定する。
 このように規則功利主義(規則公益主義)と行為功利主義(行為公益主義)はどちらも一長一短があるので、どちらの解釈をとるべきか功利主義(公益主義)者の間でも論争が続いている。

●行為(行動)功利主義 act-utilitarianism
「自分がとることのできるさまざまな行動のどれがこの世における悪にまさる最大量の善を産み出すであろうか、もしくは産み出すらしいか、ということをみてとるように努力して決めるべきである」と主張する
(W. K. フランケナ『倫理学』改訂版、培風館、1975年、p.60)
…「この状況でこの行動をがすればそれは悪にまさる善の一般的な量にどのような結果を与えるか」を問う(同、p.60)
 その行為の間接的影響は考慮しなければならない:「他人に手本を示すとかその他の点で、ある行為が他人の行為や実践、あるいは彼らによる現行規則の遵守になんらかの影響を及ぼす可能性があるとすれば、そのような影響はなんでもさきの行為の結果の中に含めなければならない」(同、pp.60-61)

●一般的(普遍的)功利主義 general utilitarianism
この種の状況でこの種の行動を各人がすれば」(同、p.60)
「だれもがこのような場合にしかじかのことを行ったとしたら」(同、p.64)
「もし万人がこのような場合に同じように行動したとしたら」(同上)、
「それは悪にまさる善の一般的な量にどのような結果を与えるか」を問う(同、p.60)
…「ある行為が私の状況で私が行えば正しいものであれば、それと直接関連する点で似ている状況に置かれた誰が行っても正しい」(同、p.65)という原理に訴える
★ある行為の是非について、その行為を「万人が行なった場合の帰結」について効用計算を行う。
 あくまで「行為」について効用計算する点は上述の行為功利主義と共通するが、個々の行為だけの影響ではなく、その行為を万人が広く行なった場合の影響について効用計算する点が、行為功利主義と異なる。
 いっぽう、規則を定めるわけではない点で、規則功利主義とも異なる。

●規則功利主義 rule-utilitarianism
 規則(ルール)が道徳の中心に位置すると考える点では義務論と共通
 しかし、規則を選択するに当たっては「どの規則が万人に対する最大の一般的善を促進するであろうか」(同、p.66)を問うべきだと考える点で、義務論とは異なる
 また、どの行為が効用を最大化するかではなくて、どの規則が効用を最大化するかを問う点で、行為功利主義とは異なる
「規則功利主義者にとっては、真実を語れ、というような規則に従うことは——問題の個別的状況で真実を語ることが善である結果にならないときでさえも——単に、この規則があることが非常に有用である、という理由だけで正しいこともありうる」(同、p.67)

●規則功利主義のさまざまなバージョン
・素朴規則功利主義 primitive-rule-utilitarianism:一般的功利主義の効用計算に基づいて規則を定める
・現実的規則功利主義 actual-rule-utilitarianism:一般に認められているかあるいは現行の道徳的規則が、最大の一般的善を実現するか実現するための必要条件であると仮定した上で、それらに一致する行為が正しい、と主張する(同、p.68)
★その仮定は真であるか?
・理想的規則功利主義 ideal-rule-utilitarianism:普遍的にそれに一致ないし受容すれば効用を最大化すると考えられる一群の規則に従うことを求める

●功利主義と利己主義の関係
 もし「各人に自分の利益のみを最大化するように行為させれば、関係者全体の利益の総量も最大化する(関係者全体の利益の総量を最大化させるには、各人に自分の利益のみを最大化するように行為させればよい)」と考えて普遍的利己主義を主張するならば、それは功利主義の目標を達成させるための手段として普遍的利己主義を用いていることになる。すなわち、規則功利主義の「規則」として、普遍的利己主義を採用することになる。それは生粋の利己主義ではない。
 生粋の利己主義は、各人の利益を最大化させること以外の最終目標を設定しない。関係者全体の利益を最大化させるかどうかは、利己主義者にとっては最終的にはどうでもいいことである。利己主義は、関係者全体の利益の最大化について、最終的な目標としては考慮しない。
 したがって利己主義は、各人が自分の最大の利益を追求することで、関係者や社会の利益が最大になるように、競争のルールを設計しようとすることはない。後述する社会契約も、生粋の利己主義者にとっては、最終的に、自分の利益を最大化するための手段にすぎないのであって、社会全体の利益を最大化するための手段ではない。「そうすればみんな(関係者全員)の利益になる」からではなく、あくまで最終的には「そうすれば自分にとって利益になる」からこそ、そうすべきだ、というのが利己主義である。


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