倫理学概論 I 第9回
どちらにすべきか決められない:葛藤

●規範的判断がきっぱり決められない
 前回まで、規範の根拠、すなわち「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」などといえる理由を問う倫理学(道徳哲学)の方法として、実践的三段論法を逆さにして「なぜ?」と問い、理由としての前提を明らかにするやり方を学びました。
 しかしながら現実にはそもそも、「〜はわるい」「〜はよい」「〜してはいけない」「〜してもよい」「〜すべきだ」「〜すべきではない」という判断(規範的判断)を、確信をもって下せない場合があります。その行為がよいのかわるいのか、それをしなければならないのかしなくてもよいのか、すべきなのかすべきでないのか、きっぱりと決められないという場合です。

●小前提の真偽が不確定な場合
 たとえば事例1で、新生児の脳内出血の治療を行うべきか、行うべきでないか、という(結論としての)判断を下しかねているという場面を考えてみましょう。ここで「どうすべきか決められない」という原因には、少なくとも二種類あると考えられます。
 そのひとつは、判断の根拠となる事実(小前提)に関して、その真偽がわからないか、決まらない、という場合です。たとえば、両親が治療後の新生児を養育する負担に耐えられないなら治療を行うべきでなく、耐えられるなら治療を行うべきだ、と(大前提として)考えているが、実際に耐えられるかどうか(小前提の真偽)が不明ならば、治療を行うべきだとも、治療を行うべきでないとも判断できません。
 しかしながら、この場合には、100%真偽が確定するわけではないにしても、「耐えられる」と「耐えられない」のどちらの可能性がより高いかが定まっていけば、暫定的な判断を下すことができます。このように、規範的判断を明瞭に決められない原因が、小前提である事実命題の真偽が不確定であることにあるなら、小前提の真偽をさらに詳しく調べていき確定的事実により近づければ、規範的判断も次第に決まってくることになります。

●相容れない原理に基づいている場合
 これに対してもうひとつの場合は、事実に関する根拠(小前提)の真偽は明らかだが、治療すべきという判断と治療すべきでないという判断が、それぞれ別の原理(それ以上さかのぼれない大前提)に基づいており、その原理どうしが互いに相容れない、という場合です。
 この場合、複数の規範的判断の間でどれが正しいのか明瞭にならず、ある判断が正しいとすれば他の規範的判断は正しくない、という状況が生じています。こうした状況は「葛藤(dilemma、ジレンマ)」と呼ばれます。
 葛藤が生じる原因は、複数の原理が存在し、しかもそれらが互いに相容れない、という事態にあります。これはいったい、どのような事態でしょうか。

●多元主義
 規範的判断を根拠づけるそれ以上さかのぼれない原理は、たったひとつであるとは限りません。複数の原理が、それぞれ、他の原理に根拠づけられることなく、並存している場合もあります(もし他の原理に根拠づけられているなら、それはじつは「原理」ではありません)。
 このように、《複数の原理のどれもが正しいことがある》と考える立場を、原理に関する「多元主義」といいます。
 これに対し、《正しい原理はひとつに絞られる》と考える立場は「一元主義」です。多元主義と一元主義は「それ以上さかのぼれない原理はひとつなのか複数なのか」という問題をめぐって対立します。

*なお、多元主義とよく混同される立場に「相対主義」があります。「相対主義」とは《正しい原理は人(社会、文化、時代)によってすべて変わり、変わらない原理は存在しない》と考える立場のことです。相対主義は、《人(社会、文化、時代)を通して変わらない正しい原理がある》と考える「絶対主義」に対立します。つまり、相対主義と絶対主義は「原理の妥当性は絶対的なのか相対的なのか」という問題をめぐって対立しています。
 多元主義と相対主義は、問題にしている論点が異なるので、必ずしも重なりません。多元主義と相対主義をめぐる立場としては、多元主義か一元主義か、相対主義か絶対主義か、の組み合わせで、2×2=4通りの立場がありえます。
 第一に、《正しい原理はひとつで、人(社会、文化、時代)を通して変わらない》と考える「一元主義的絶対主義」があります。
 第二に、《複数の原理が、人(社会、文化、時代)を通して変わらず正しい》と考えるのは「多元主義的絶対主義」です。
 第三に、《正しい原理は人(社会、文化、時代)によって変わるが、それぞれの人(社会、文化、時代)ごとに正しい原理はひとつに絞られる》と考えるなら「一元主義的相対主義」になります。
 第四に、《正しい原理は人(社会、文化、時代)によって変わり、しかもそれぞれの人(社会、文化、時代)にとって正しい原理は複数ある》と考えるのが「多元主義的相対主義」です。

●多元主義が現れる場合
 たとえば、事例1をめぐる討論で、「両親の意思に反してでも治療を行うべきだ」という側に立つ理由として、
 (A) 救命できる患者は死なせてはならないから。
というものが出されたとします。
 また、「治療を行うべきではない」という側に立つ理由として、
 (B) 両親の意志を尊重すべきだから。
 (C-1) 両親に大きな負担をかけることになるから。詳しくいえば、
  (C-1-i) 治療費が高額になり経済的負担が大きいから。
  (C-1-ii) 非常に重い知的障害児を育て介護しなければならない負担が大きいから。
 (C-2) 治療を行って延命してもさらに心臓治療を行う必要があり、新生児本人にかかる負担が大きいから。
 (C-3) 重い後遺症が残れば、社会に大きな負担をかけるから。
 (D) 他者とコミュニケーションがとれないのでは生きていてもしかたがないから。
というものが出されたとします。
 このうち、理由(A) に対しては、「なぜ救命できる患者を死なせてはならないのか?」と問うことができます。この問いに対しては、たとえば「死を回避するために全力を尽くすべきだから」(大前提)という理由と、「救命できる患者を死なせないのは、死を回避するために全力を尽くすことだから」(小前提)という理由を示すことができます。ここで、「なぜ死を回避するために全力を尽くすべきなのか?」と問われたなら、たとえば「生きていることは大切にすべきだから」(大前提)という理由と、「死を回避するために全力を尽くすことは、生きていることを大切にすることだから」(小前提)という理由を示すことができるでしょう。さらに「なぜ生きていることは大切にすべきなのか?」と問われれば、もはや「それは大切なことじゃないのか?!」と開き直るしかないかもしれません。もしそうであるなら、「生きていることは大切にすべきだ」という理由が、「治療すべきだ」という規範的判断の、それ以上さかのぼれない理由、つまり原理であることになります。
 同様に (B) について理由づけの連鎖をたどっていくと「両親の意志を尊重すべきなのは、患者である新生児の利益を誰かが代弁すべきで、代弁者としては新生児のことを最もよく理解できるはずの親が最もふさわしいからである。また、新生児の利益を誰かが代弁すべきなのは、医療においては一般に、患者の利益を最大にするよう行為すべきであり、この利益は本来は患者本人の表明によるべきだが、新生児は自らの利益を表明できないから」ということになり、最終的には「患者本人の利益を最大にすべきだ」という理由(原理)に行き着くように思われます。
 また、(C-1)、(C-2)、(C-3) についてさらに理由を問うなら、最終的には「誰であれ、過大な負担を強いられるべきでないから」という理由(原理)に至るでしょう。さらに、(D) の「他者とコミュニケーションがとれないのでは生きていてもしかたがない」という理由は、それ自体で原理とみることができます。
 このようにして、この仮想討論から、
A. 生きていることは大切にすべきだ
B. 患者本人の利益を最大にすべきだ
C. 誰であれ、過大な負担を強いられるべきでない
D. 他者とコミュニケーションがとれないのでは生きていてもしかたがない
という四つの原理を見出すことができたとします。

 この場合、「両親の意思に反してでも治療を行うべきだ」という主張は、Aの「生きていることは大切にすべきだ」という唯一の原理によって根拠づけられています。すなわち、この例では「治療を行うべきだ」という結論は、一元主義的に根拠づけられています。
 これに対し「治療を行うべきではない」という主張は、最終的な理由としてB・C・Dという三つのそれぞれ独立した原理によって根拠づけられています。この三つの原理をみな正しいと考えているか、あるいは少なくともふたつの原理は正しいと考えているなら*、こちらの立場は多元主義になります。

*Bの「患者本人の利益を最大にすべきだ」という原理と、Cの「誰であれ、過大な負担を強いられるべきでない」という原理は、誰かに過大な負担を強いなくても患者本人の利益を最大にすることは可能なので、両立させることができます。BとDも、生きるのをやめれば、患者は他者とのコミュニケーションがとれないという苦しみから解放され、患者本人の利益にかなう、と考える場合は両立します。CとDについても、他者とのコミュニケーションがとれず生きるのをやめても、誰かに過大な負担をかけることには必ずしもならないので、両立します。さらに、BとCとDは、他者とコミュニケーションがとれず生きるのをやめることが、患者本人の利益にかない、誰かに過大な負担をかけることもない、という場合には、三つ同時に両立します。

 もっとも、「治療を行うべきではない」派のなかには、B・C・Dいずれかひとつの原理だけを正しいとみなし、他の原理は正しくないと考える人もいるかもしれません。そういう人は一元主義に立っています。
 要するに、「行うべきだ」「行うべきでない」どちらの主張を行うとしても、それ以上さかのぼれない大前提である原理はひとつであると考えるなら一元主義であり、複数の原理に根拠づけられているなら多元主義ということになります。

●多元主義と葛藤
 以上の仮想討論では、原理B・C・Dのいずれも、結論としては「治療を行うべきでない」という同じ規範的判断を基礎づけていますので、B・C・Dの複数の原理が多元的に並立しているけれど、「治療を行うべきでない」という結論に関して葛藤は生じていません。また、原理Aは一元的に「治療を行うべきだ」という結論を基礎づけているので、この結論に関しても葛藤は生じません。
 しかしながら、たとえば、原理Aと、それと相容れない原理Bや原理Cや原理D(のひとつないし複数)が、どちらも正しいと考えたならば、原理Aが基礎づける「治療を行うべきだ」という結論(規範的判断)と、B・C・Dが基礎づける「治療を行うべきでない」という結論(規範的判断)の間で、葛藤が生じてしまいます。
 たとえば原理A「生きていることは大切にすべきだ」と、原理B「患者本人の利益を最大にすべきだ」は、生きていることを大切にすることと患者本人の利益を最大にすることとが両立する多くの状況においては、どちらも原理として対立せず並立するように見えますので、AとBを多元主義的に両方とも正しい原理とみなしているでしょう。しかし、生きていることを大切にすることと患者本人の利益を最大にすることとが両立しない、事例1のような厳しい状況に置かれると、原理Aと原理Bが相容れないことが明らかになり、実践的三段論法の結論である規範的判断としても、治療を行うべきなのか行うべきでないのか決められない、葛藤に陥ることになります。

●葛藤を解消するには
 つまり、葛藤は、どれも正しく、しかも両立する(相容れる)と、ふだん考えていた複数の原理が、じつは相容れないことが明らかになる状況において生じます。
 その場合、どちらか一方によって他方を根拠づけ、根拠づけたほうを原理、根拠づけられたほうを規則ととらえることができるなら、葛藤は解消します。上の例ではたとえば原理Aと原理Bについて、《患者本人の利益は生きていなければ生じない》と原理AによってBを根拠づけ、Bは原理Aから導き出される規則であると考えるか、あるいは逆に《生きることを大切にするのは患者本人の利益を最大にするためであり、生きることが患者本人の利益を損なう場合は生きるのをやめたほうがいい》とBによってAを根拠づけ、Aは原理Bから導き出される規則であると考えるか、どちらかの途をとるなら、葛藤から逃れることができます。しかし、そのようにどちらか一方によって他方を根拠づけることができず、どちらも原理であり、しかも相容れない、と考える場合には、実践的三段論法の結論である「治療を行うべきだ」と「治療を行うべきでない」のどちらの規範的判断が正しいのかも、決めることができません。
 このように、相容れない規範的判断が、両立しない複数の(ほんとうに、それ以上さかのぼれない)原理に根拠づけられている場合には、葛藤を解消することはできません。*

*ただし、今回のテキストの最初のほうの「●小前提の真偽が不確定な場合」で述べたように、実践的三段論法の結論である具体的な規範的判断に関しては、大前提である原理と組み合わされていた小前提である事実判断の真偽を調べることで、決めかねている結論のどちらが正しいのかわかってくることがあります。
 たとえば事例1をめぐる上記の仮想討論では、里親や施設や公的福祉サービスが利用できるので両親に過大な負担がかかることはない、といえれば、小前提「両親に過大な負担がかかる」は間違っている(偽である)ことになります。また、事例1の新生児と同様の診断が下されていたが、治療後、実際には他者と十分にコミュニケーションがとれるように成長した例を挙げ、主治医の将来に関する診断は確実とはいえないという証拠として示せば、小前提「コミュニケーションがとれるようにはならない」は偽であることになります。さらに、治療しないで死ぬことのほうが患者本人の利益に反するといえれば、小前提「治療し生かすことは患者本人の利益を損なう」も偽であることになります。すると、「治療を行うべきでない」という理由として挙げられていた事実判断(小前提)はすべて偽であるから、結論である「治療を行うべきでない」は間違いで「治療を行うべきだ」のみが正しいといえるでしょう。

●明瞭な規範的判断が下せなくても
 もっとも、結論である規範的判断がきっぱりと決められないこと自体は、不自然なことではありません。むしろ現実には、(小前提である)事実の真偽が不明確なためか、あるいは相容れない複数の(それ以上さかのぼれない大前提である)原理によって根拠づけられているために、規範的判断がきっぱりと下せない問題が少なくありません。「規範の問題には正解がない」とか「倫理学は答えがない学問だ」などとしばしば言われるのもそのためでしょう。
 しかし、明瞭な一つの規範的判断が下せないからといって、「わからないものはわからない」と投げ出してしまうのではなく、事実の真偽を、確からしさも含めて詳しく調べていくこと、および、原理のように思われる複数の大前提のうち、どれがほんとうにそれ以上さかのぼれない原理なのか、ということを探求することを通じ、より明瞭な規範的判断に、少しずつ近づいていく努力を怠らないことが重要です。なぜなら、現実の世界や人生は、簡単には解決できないが「わからない」といって放り出すわけにもいかない規範的な課題に満ちあふれており、それらに取り組まずに生きていくことはできないからです。


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