倫理学概論 I 第10回
わかっているけどできない:無抑制

●なすべきことが決まっているのに、できない
 前回は、規範的判断を確信をもって下せない場合について考えました。しかし、規範的判断は確信をもって下せており、何をすることがよい(または、よくない)のか、すべきこと(または、すべきでないこと)は何か、何をしなければならない(または、してはならない)のか、はわかっているのだが、そうできない(または、そうしてしまう)ということもあります。いわば「わかっちゃいるけどできない(または、やめられない)」という場合です。こうした現象はなぜ、どのようにして生じており、どのようにすれば克服される(確信をもつ行為を実行できる[あるいは、抑制できる])のでしょうか。
 西洋の倫理学(道徳哲学)では、この問題を「無抑制(抑制のなさ、意志の弱さ)」(ギリシア語で「アクラシア」)と呼び、考察対象としてきました。今回は、その嚆矢となった古代ギリシアの議論、とくにアリストテレスの分析を紹介します。

●ソクラテスとプラトンの見解
「正しい行為は正しい知識に基づく」と考えるソクラテスやプラトンは、「正しい規範的判断を下せているのだが行為できない」という「無抑制」とは、正しい知識を一見もっているように見えて、じつはもってはいない、ということの表れと考えました。ソクラテスやプラトンにとっては、ほんとうに正しい知識をもっているなら正しい行為をするはずであり、「わかっちゃいるけどできない(または、やめられない)」というのは、じつは「わかっていない」だけなのです。このようにソクラテスやプラトンは、知識についてはもっている(知っている)かもっていない(知らない)かのどちらかしかないとし、「無抑制」は「無知」の一種であるとしました。

●アリストテレスの分析
 これに対し、「知っている」とか「知らない」とはどういうことなのかを、もっと丁寧に解明すべきだと考えたのがアリストテレスです。『ニコマコス倫理学』第7巻第3章で展開された彼の議論を以下にまとめます。

1. まず、なすべきことを「知っている」としても、必ずしもその知識を「働かせている(使っている)」とは限りません。知識をもちかつ働かせている(使っている)人には「無抑制」はありえませんが、もっているだけで働かせていない(使っていない)なら、「いちおう知ってはいるけど、できない(または、やめられない)」という事態が起こりえます。

2. また、「知っている」といっても、実践的三段論法の大前提である抽象的な規範的判断(たとえば「カロリーが高いものを食べるべきでない」)は知っているが、個別的・具体的な事実に関する判断(たとえば「目の前の菓子はカロリーが高い」)に関して知らない(目の前の菓子のカロリーが高いとは思わない)なら、具体的にすべきこと(目の前の菓子を食べないこと)はわかりません。すなわち、実践的三段論法の二つの前提のうち小前提に関して知らなければ、「知っているようで、じつは知らない」ということになります。

3. さらに、眠っているときや怒り狂っているときや酔っているときのように、疲労や激情や欲望によって身体の状態が平常でなくなっていれば、知ってはいても、その知識が「働かない[使われていない、発揮されていない]」ということがあります。たとえその状態で本人が「そんなこと知っとるわ」と語ったとしても、それは役者が台詞を言っているようなもので、知識はやはり働いていないのです。

4. 最後に、私たちは、すべき正しいこと(たとえば、目の前の菓子を食べないこと)はわかっていながら、それに反すること(目の前にある菓子を食べること)をすべきだという規範的判断に突き動かされてしまうことがあります。その場合、正しい規範的判断(「目の前の菓子を食べるべきでない」)に対立する不正な規範的判断(「目の前の菓子を食べるべきだ」)は、不適切な「カロリーが高いものを食べたい」という欲望からきた「カロリーが高いものを食べるべきだ」という大前提と、小前提としての「目の前の菓子はカロリーが高い」という事実に関する判断によって理由づけられます(もっとも、こうした理由づけはしばしば、目の前の菓子を食べてしまった後でなされるのですが)。この場合、正しい規範的判断(「目の前の菓子を食べるべきでない」)ではなく、不適切な欲望に突き動かされ不正な規範的判断(「目の前の菓子を食べるべきだ」)に従ってしまったので、「わかってはいるけどやめられない」という無抑制が生じています。

 以上の考察からアリストテレスは、不適切な欲望に基づく知識ではなく正しい知識をしっかり働かせられるよう、人間の生理および心理に関する探究も必要であるとします。彼によれば、人間の性質について知見を得た上で、ほんとうの意味で「わかっている」(知識が働いている[使われている、発揮されている])状態にすることが、無抑制を克服する途です。

 このように、アリストテレスもまた、無抑制は無知の一種であり、「わかっちゃいるけどできない(または、やめられない)」というのは、ほんとうの意味では「わかっていない」すなわち「知識が働いていない[使われていない、発揮されていない]」のだ、と考えました。
 しかしアリストテレスは、師プラトンやその師ともいえるソクラテスの考えをバージョンアップさせ、より視野の広い考察を行いました。すなわち、「知らない」ことの中身を問い、知識だけでなく不適切な欲望にも突き動かされる人間の姿を描き出したのです。


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