第2次大戦期に行われた医学犯罪でも,ほとんどが隠蔽された日本の場合と異なり、国際的な戦犯裁判にかけられたのがナチス・ドイツの医学犯罪である。
 連合国は戦後ニュルンベルク国際軍事裁判でナチス・ドイツを裁いたが、米国が単独で担当した事件の第一法廷(被告に医師が多かったため「医師裁判」とも呼ばれる)は、障害者や強制収容所のユダヤ人・ポーランド人・ロシア人・ロマ(ジプシー)の人々などを犠牲にした、医学実験や抹殺政策を扱った。
 検察団が告発し、法廷によって事実認定されたのは以下のような事柄である (Taylor 1946; Mitscherlich & Mielke 1960=2001)。

・低圧実験:
戦闘機の操縦士が、どこまで高空の低い気圧に耐えられるか、また高空からパラシュートで脱出して降下するとどうなるかを調べるため、1942年3月頃から5月中旬までダッハウ強制収容所で、被験者を気密室に入れ高度2万mに匹敵する低気圧にさらし、約70人から80人を死亡させた。

・長時間冷却実験:
パラシュートで脱出し厳寒の海に着水した飛行士を低体温状態から蘇生させる方法を調べるために、1942年の8月頃から1943年の5月頃にかけてダッハウ強制収容所で、被験者を氷水に浸けたり、冬の戸外に裸でさらしたりし、約80人から90人の被験者を死亡させた。

・海水飲用実験:
海難し救命ボートに乗った兵士が海水で生き延びる方法を探るために、1944年7月にダッハウ強制収容所で、被験者を4群に分け、(1)全く水分を与えない、(2)通常の海水を飲ませる、(3)塩味を隠しだけの海水を飲ませる、(4)塩分を除去した海水を飲ませる、という条件を強いて実験し結果を比較した。

・発疹チフス感染実験:
1942年1月頃から4月頃、1943年4月から6月頃、 1944年3月から6月初め、および1944年11月から12月にブヘンヴァルト強制収容所で、また1943年秋から1945年にかけてナツヴァイラー強制収容所で、ワクチンや治療薬開発のために発疹チフスに感染させた。ブヘンヴァルトでは計481人が感染させられ、383人が発病し、97人が死亡。ナツヴァイラーでは計111人が感染させられ、41人が死亡した。

・肝炎ウイルス研究:
独ソ戦で多くの発病者が出た伝染性肝炎のワクチン開発のため、1943年7月頃から1945年1月までザクセンハウゼン強制収容所で、被収容者に肝炎ウイルスを接種し感染させた。

・スルフォンアミド治療実験:
スルフォンアミドの治療効果を確かめるため、1942年7月から8月にかけてラフェンスブリュック強制収容所で、被験者の足を切開してガス壊疽の病原体を単独または木くずやガラス片と共に擦り込んだ後に、スルフォンアミドで治療した。

・骨の再生および移植実験:
1942年9月頃から1943年12月頃にラフェンスブリュック強制収容所で、女性の被収容者から腓骨や肩胛骨などを摘出して、再生するかどうか調べたり、他者への移植を試みたりした。

・毒ガス実験:
1939年9月から1945年4月まで、ザクセンハウゼン、ナツヴァイラー、シュトルートホーフなどの強制収容所で、毒ガスであるイペリット(マスタードガス)の被害に対する治療法を開発する実験が行われた。被験者は毒ガスの液体を肌に塗られただけでなく、数日後に細菌を患部に植え付けられた場合もあり、火傷、高熱、壊疽、敗血症などに苦しみ、多くの死者が出た。ナツヴァイラーのガス室ではホスゲンの実験も行われている。被験者の傷や回復の様子は毎日写真に撮られ、死亡者は解剖された。

・ユダヤ人の頭蓋骨収集:
アウシュヴィッツ強制収容所からユダヤ人被収容者112人がシュトラスブルク(ストラスブール)に近いシュトルートホーフ強制収容所に運ばれ、写真を撮られ、人体各部分を計測された後に毒ガスで殺害された。死体はシュトラスブルク帝国大学に送られて解剖され、さまざまな検査や臓器の計測が行われたあと、標本として保存された。

・障害者・患者の「安楽死」:
1939年9月から1945年4月まで、ドイツおよび占領地各地で、7万人以上の障害者・高齢者・末期患者・先天性障害児などをガスや注射で殺害した。

・断種実験:
ロシア人・ポーランド人・ユダヤ人その他の人々を、本人に気づかれず安い費用で大勢断種できる簡便な方法を開発するため、アウシュヴィッツ、ラフェンスブリュックほかの強制収容所で、1941年3月頃から1945年1月頃まで、数千人のロシア人・ポーランド人・ユダヤ人等に、X線照射や手術や薬剤投与を行った。

 1947年8月20日に下された判決は、7人の被告(うち医師が4人)に絞首刑、5人に終身刑、4人に禁固10年から20年、をそれぞれ言い渡し、7人の被告を無罪とした。
 だが、絞首刑は執行されたものの、東西冷戦の緊張が高まるなか1951年1月末に、終身刑および禁固刑は減刑された。

 また、この判決は、人体実験が満たすべき条件を10項目にわたって明文化した。その内容は、
(1)被験者の自発的な同意が絶対に欠かせないこと、
(2)他の方法では得られない社会的成果があること、
(3)自然経過と動物実験の知見に基づくこと、
(4)不必要な身体的・心理的苦痛を避けること、
(5)死や障害を引き起こすと事前に予測される実験は行ってはならないこと、
(6)危険の大きさが実験のもたらす利益を上回らないこと、
(7)適切な準備と設備があること、
(8)科学的に資格のある実験者が行うこと、
(9)被験者はいつでも自由に実験から離脱できること、
(10)傷害や障害や死が生じる場合は即座に実験を中止すること、
である。これは今日「ニュルンベルク・コード」と呼ばれ、医学研究倫理の古典となっている。

文献
Annas, G. J. & Grodin, M. A. (eds.), 1992, The Nazi Doctors and the Nuremberg Code: Human Rights in Human Experimentation, Oxford University Press.
Mitscherlich, A. & Mielke F., 1960, Medizin ohne Menschlichkeit, Fischer. (=2001、金森誠也・安藤勉訳『人間性なき医学──ナチスと人体実験』ビイング・ネット・プレス)
Taylor, T., 1946, "Opening Statement of the Prosecution, December 9, 1946," In: Trials of War Criminals Before the Nuremberg Military Tribunals Under Control Law 10, Vol.1, Superintendent of Documents, U.S. Government Printing Office, 1950; Military Tribunal, Case 1, United States v. Karl Brandt et al., October 1946-April 1949: 27-74. Reprinted in Annas & Grodin 1992: 67-93.

資料:1999年度大阪市立大学インターネット講座
第3回 ナチス・ドイツの人体実験とニュルンベルク・コード


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