日本による医学犯罪のうちの「研究(人体実験)」は、その目的に応じて、
1) 疾患の解明(科学的知識の獲得)
2) 治療法の開発
3) 兵器の開発
に分けられる。それぞれの例を以下に示す。


1) 疾患の解明(科学的知識の獲得)

 石井機関の医学者たちは新たな科学的知識を獲得するために人間を実験材料にし殺害した。こうした致死的研究の主なものとしては、細菌学的研究と生理学的研究がある。細菌学的研究には、疾患がどのようにして起こり、どのような経過をたどるのかを調べ、病原体を突き止めるための人為的感染実験が含まれる。生理学的研究には、厳寒、高空での銃創、食塩の過剰摂取、水や蒸留水のみの飲用などの条件下で人間の身体がどのような反応を示すのかを調べるため、そうした条件を人為的に引き起こす実験が含まれる。また、満洲医科大学においては「新鮮な北支那人の脳」を用いた人類学的・解剖学的研究が行われた。

A. 細菌学的研究

 北里研究所の笠原四郎は軍属として数年間731部隊に滞在して研究を行った。1942年8月から1945年3月まで731部隊長を務めた北野政次らと共著で、流行性出血熱の病原体を確定したとの論文を1944年に発表したが、そこには以下のような記述がある。

北満トゲダニ203疋を磨砕し食塩水乳剤となし之を猿の大腿皮下に注射した。此の初代猿は接種後19日に至り39.4℃の発熱があり中程度に感染したのであるが、此の発熱時の血液を以て接種した第2世代猿は潜伏期12日で発熱し尿蛋白陽性を示し剖検により定型的流行性出血熱腎を証明したのである。【中略】

発熱極期(病勢極期の意ではない)に剖検すれば本疾患に特異的な解剖所見として我々が強調している流行性出血熱腎を検出した験しがない、【中略】然しかかる時期の腎・肝・脾こそ感染力は絶大なのである。之に反し下熱期或は体温がまったく平熱に復してから剖検すると茲に甫めて流行性出血熱腎は認められるのであるが、かかる病変顕著の諸臓器は既に感染力を消失していることを学んだ。
(笠原ほか 1944: 3-4)

「発熱極期……に剖検」「平熱に復してから剖検」したということは、解剖された時にこの「猿」は生きていたということになる。しかしながら、この「猿」はじつはヒトのことである。というのは、サルの平熱はヒトよりも高く、39.4℃はサルにとっては「発熱」ではなく平熱だからである。しかも笠原らは別の論文で、オナガザルは発熱するが著しい流行性出血熱腎にはならないし、タイワンザルはあまり発熱しないと書いている。つまり実験用のサルの場合は、発熱と流行性出血熱腎の両方を同時に示すことはない。こうしたことから、笠原らが人間を実験材料とし、しかも生体解剖したことは明らかである (常石 1981)。笠原自身、1985年にインタビューに答えてそのことを認めている。

私の仕事はもうすでに注射によって感染させられた患者の、血液のサンプルの抽出を監督することでした。患者は普通37度台の微熱を出します。これらのサンプルは私の所属している班とは何の関係もない他の班の隊員によって第二のスパイに注射されます。この注射によって二世代目の患者が出血熱に感染します。その症状で、我々は感染を確認できるわけです。
 ごく稀に流行性出血熱で患者が死ぬことがありました。普通はみんな回復するんです。ごくごく稀ではありますが、解剖をしたくてたまらない軍医が重体者や臨終の状態にある患者にモルヒネを打つという噂を聞いたことがあります。【中略】
 私が1942(昭和17)年、再び部隊に戻った時はもうすでに進行中だった北野さんや軍医たちの実験に参加しなければなりませんでした。つまり、人間に、スパイに注射をして感染させるということです。これは命令の結果であり、従わねばなりませんでした。
 私は、私のしたことを非常に心苦しく思います。私は間違ったことをやったと思います。わずか数回のことではありましたが、人体実験の結果スパイが死んでしまった時……私は非常に悲しかった。それでいつも私は石井部隊の講堂で供養祭をやっていました。部隊の兵隊の中に僧職の者がいましたから。……そのくらい私は動揺していました。おそらく石井部隊の中でそういう供養祭をやったりしたのは私だけだったと思います。
(Williams & Wallace 1989, pp. 39-40. 西里訳 2003: 37-38.)

 元軍医少佐で、戦後は大阪で開業した池田苗夫は、1960年代後半になって、731部隊で行った流行性出血熱に関する実験について論文を書いている (池田 1967)。「昭和16【1941】年の総致命率は15%」であった流行性出血熱について、1942年「黒河陸軍病院長の許可を得て、有志2名の内1名には臀筋内に桜庭【金之助。日本人軍人】患者の有熱期の血液10mlを注射し、他の1名には同患者の血液5.0mlを上腕皮下に注射を試み」(同 340) て感染させ、この病気が感染性であることを確認した。同時に池田は、シラミを患者の血を吸わせて「毒化シラミ」とし「その毒化シラミを有志被検者2名に附着吸血せしめたるに、いずれも、明かに、本病に感染発症した」(池田 1968: 129)。後に池田はインタビューに答えて、実験台になった「有志」とは「苦力」であり、731部隊に連れて行って治療し孫呉に帰したと述べ、「僕のやった実験では誰も死んどらん。全部で7人発病したけど、1人も死んどらん」と主張している (朝野&常石 1985: 96)。

 しかしながら池田は、破傷風に関する研究では明らかに被験者を殺している。破傷風にかかった患者の筋クロナキシー [時値。神経や筋肉組織の興奮性の指標。興奮に必要な最小強度の2倍の強さの有効電気刺激の最小持続時間 (ステッドマン医学大辞典)] を測定するために、被験者14人に対して、破傷風の毒素ないし芽胞を接種した。症例の説明に際し「死亡の直前」「死の直前」という表現が見られることから、これらの被験者は全員死亡したと思われるが、その前に池田らは「咬筋鼻筋、眼輪筋、胸鎖乳頭筋、潤背筋、肋間筋、前脛骨筋、腓腸筋等」について、それぞれクロナキシーを測定している (池田&荒木: 46-47)。

 生物兵器の開発に当たっては、被験者の50%に感染を引き起こす病原体の最小量「MID50」を知ることが重要である。3番目に来日した米軍調査官であるN. H. フェルのレポートには、日本の研究者が確かめた、炭疽、ペスト、チフス、パラチフスAおよびB、赤痢、コレラ、鼻疽に関するMID50が記載されている (Fell 1947)。これらのデータは、人間に実際に投与してみなければ得られない。
 たとえばフェルは炭疽に関して次のように記している。

(a) 感染あるいは致死量
 MID50は皮下注射の場合は人間も馬も10mgと決定された。経口的には人間ではそれは50mgだった。
(b) 直接感染
 用いられた病原体を含んだ溶液、潜伏期および発病後の経過についてのデータがある。死体解剖の所見もかなり詳細なものである。
【中略】
(f) 噴霧実験
 実験の代表的なものは、10立方メートルのガラスの部屋に人間を4人入れ、1mgm/cc溶液300ccをふつうの消毒用の噴霧器で噴霧するものであった。粒子の大きさの決定はしなかったが、4人のうち2人が皮膚に病巣ができ、そのため炭疽病になった。
(Fell 1947. 常石編訳 1984: 426-428)

 ペストについては以下のようにある。

(a) 感染あるいは致死量
 MID50は皮下注射では10-6mg、そして経口的には0.1mgであるとわかった。菌を5mgm/m3含んだ空気を10秒間吸うと、80%が感染した。
(b) 直接感染
 潜伏期はふつう3日から5日で、死は発熱から3日から7日のうちに訪れる。人為的にペストに感染させられ死亡した例の大部分においては、死の3日前に肺炎を起こし、ついで高い感染力を示すのが一般的な経過だった。
(Fell 1947. 常石編訳 1984: 428)

 そのほか、コレラに関しては「経口的なMID50は、しめった病原体で10-4mgで、分離されたばかりの病原体と糞便の混合物で10-6mgだった。これで感染した人間は約半数が5日以内に死亡した」(Fell 1947. 常石編訳 1984: 430)。鼻疽の噴霧実験については「室内で行われた一連の実験は非常に大きな成果を得た。ある試験では1gの乾燥した菌を小さなガラス箱に入れ、ファンで撹拌した。箱から出ているゴムのチューブを3人の被験者の鼻に押し込んだ。3人とも推定0.1mgを吸いこみ感染した」とある (Fell 1947. 常石編訳 1984: 431)。

 捕らえられた人々に対する実験は石井機関だけでなく「満洲医科大学」でも行われている。満洲医科大学は南満洲鉄道株式会社(満鉄)が経営する、当時「満洲」随一の医科大学であった。その皮膚科泌尿器科教室の田崎亀夫は1936年に発表した論文で「人體實験」として鼠蹊リンパ肉芽腫症の病原体を含む乳液を「死刑前の匪賊」に皮下注射して経過を観察している (田崎 1936: 790)。この被験者は「接種後2週間ニシテ死刑ヲ執行」された。後述する満洲医大の解剖学教室で行われていた研究を鑑みても「死刑囚」を医学実験に用いることは稀ではなかったと思われる。

B. 生理学的研究

 京都帝国大学医学部で講師を務めていた吉村寿人は、1938年に上司の正路倫之助教授から731部隊へ行くよう命じられた。吉村は1945年の敗戦までそこに残り、捕らえられていた人々を用いて凍傷の研究を行った。ハバロフスク裁判で、多くの石井機関の隊員が吉村の凍傷研究の凄惨さを証言している。たとえば731部隊の憲兵班の曹長であった倉員サトルは、訊問に答えて次のように述べた。

……生キタ人間ヲ使用スル実験ヲ私ガ初メテ見タノハ、1940年12月ノコトデアリマス。第一部員デアル吉村研究員ガ此ノ実験ヲ私ニ見セテ呉レマシタ。此ノ実験ハ、監獄ノ実験室デ行ワレテイタノデアリマス。
 私ガ監獄ノ実験室ニ立寄リマシタ時、其処ニハ長椅子ニ5人ノ中国人ノ被実験者ガ坐ッテイマシタガ、此等ノ中国人ノ中2人ニハ、指ガ全ク欠ケ、彼等ノ手ハ黒クナッテイマシタ。三人ノ手ニハ骨ガ見エテイマシタ。指ハ有ルニハ有リマシタガ、骨ダケガ残ッテイマシタ。私ガ吉村ノ話シカラ知ッタ所ニヨリマスト、是レハ、彼等ニ対シテ、凍傷実験ヲシタ結果デアリマシタ。
(公判書類 1950: 480)

 731部隊の印刷部員の上園直二は、1980年代にインタビューに答えている。

2人の白系ロシア人の男性が零下40度から50度の冷凍室の中に素裸で入れられていました。研究者たちが彼らが死んでいく過程をフィルムに撮影していました。彼らはもがき苦しんでお互いの体に爪をめり込ませていました。
(Williams & Wallace 1989: 44. 西里訳 2003: 40)

 吉村自身は1941年にハルビンで凍傷に関する講演を行っているが、こうした凄惨な実験については何も述べていない(吉村 1941)。
戦後になって吉村は同僚と連名で3つの英文論文を日本生理学会発行の英文雑誌に投稿し、凍傷実験研究の一部を発表している (Yoshimura & IIda 1950-51, Yoshimura & IIda 1951-52, Yoshimura, IIda & Koishi 1951-52) が、吉村らが論文の末尾に、論文の概略は日本生理学会の第21回(1942年)と第22回(1943年)の年次大会で口頭発表したと注記している (Yoshimura & IIda 1950-51: 159, Yoshimura & IIda 1951-52: 185) ことから、これらの英文論文の内容が731部隊での凄惨な実験の成果だとわかる。
 これらの論文は指先を氷水などにさらした場合の皮膚温の変化などについて報告しているが、実験対象については、ある箇所では「約100人の男性(工場労働者、学生、兵士および労働者)に実験が行われた」(Yoshimura & IIda 1950-51: 149) と述べている。別の箇所では「約100人の、15歳から74歳までの苦力と、7歳から14歳までの児童に対して、氷水に対する反応を調べた」(Yoshimura & IIda 1951-52, pp. 177-178)「6歳未満の子供には詳細な研究を行えなかったが、赤ん坊を観察できた例もある」と述べ、生後3日目の新生児のデータを説明している。さらに「性別による反応の違いに関しては、オロチョン族の被験者を観察することから概略のみを得た。/反応の性差については、子供の時はほとんど差がないものの、大人になると、女性は男性よりもわずかに低い」と書いている (Yoshimura & IIda 1951-52: 178-179)。
 吉村は戦後、いったん京都大学に戻ったのち、正路が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移り、やがて京都府立医科大学の教授になって、学長まで務めた。昭和天皇は1978年「環境適応学」の先駆的業績を挙げたとの理由で、吉村に勲三等旭日章を授与した (Williams & Wallace 1989: 238. 西里訳 2003: 269)。

 捕らえられた中国人を用いた凍傷実験は731部隊以外でも行われている。大同陸軍病院の谷村一治軍医少佐は、他の軍医将校10名とともに総勢56人の「冬季衛生研究班」を組織して、1941年1月31日から2月11日にかけて内蒙古で、凍傷、テントでの手術、止血、輸血などについて研究する野外演習を行った (冬季衛生研究班 1941)。彼らは8人の中国人を「生體」すなわち実験材料として「携行」している。2月6日早朝、谷村らは6人の被験者に対し、濡れた靴下や手袋をはめさせる、泥酔させる、空腹にさせる、アトロピンを投与する、などの条件下で凍傷実験を行った。極秘とされたその報告書は1970年代後半に東京の古書店で発見され、1995年に復刻版として出版されているが、これらの凍傷実験についてスケッチや写真入りで詳細に説明している。実験材料とされた8人の中国人は他の実験や手術の対象となり、最後には生体解剖されて殺されるか、銃殺された。報告書はこれらの中国人の姓名を記しているばかりでなく、彼らの逃亡を防ぐ指示や、殺害の記録や、その霊を弔った「生體慰霊祭」のプログラムや、そこでの谷村の弔辞まで収録している (同上)。

 731部隊の運転手であった越定男は、高空で空中戦の末、銃創を負ったパイロットが、落下傘で脱出して低圧にさらされた時にどうなるかを調べる実験について、戦後証言している。機外に脱出すると気圧が低いので銃創の傷口が開いてしまう。そこで、低圧室に被験者を入れ、鉄板で胴体や急所を防御した上で、生ゴムの壁越しに銃撃して手足に傷を負わせる。生ゴムは銃撃によって穴が空くが、その穴はゴムが収縮するのですぐに閉じ、低圧を保つことができる。そうして殺傷率を調べたという (高杉 1984: 46)。

 同じく731部隊の秦正氏は、1954年9月7日、中華人民共和国の戦犯取り調べに対する自筆供述調書で「1945年1月頃、第一部吉村班の武藤技師は、中国愛国者1名に大量の食塩を服用させたのち、毎日若干量の血液を採取して基礎代謝を測定し、その結果、食塩の増加によって基礎代謝が亢進するという事実を確認した」と述べている (江田ほか編訳『人体実験』1991: 92)。

 1935年から1936年にかけて背陰河の東郷部隊に傭人として勤めた栗原義雄は、水だけを飲ませる耐久実験について、以下のように述べている。

自分は、軍属の菅原敏さんの下で水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると「大人、味のある水を飲ませてくれ」と訴えました。45日間生きた人は「左光亜(サコウア)」という名前の医者でした。彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね。
(常石 1994: 162)

 新京(現在の長春)憲兵隊本部特高課の情報班員伍長であった小美野義利は、1954年9月8日、中国の戦犯取り調べに際して次のように自筆供述書を書いている。

1940年9月中旬、新京憲兵隊長憲兵大佐近藤新八の命令により、新京憲兵分隊の逮捕したいわゆる違法窃盗犯の中国人労働者三名(男)を、特高主任・憲兵少尉小林藤平治の指揮で同僚の太田・桐原軍曹、山垣内通訳、憲兵隊司令部軍医大尉小笠原武、衛生曹長戸上と協力して、分隊拘留所から新京郊外南嶺の日本軍演習場附近のすでに穴の掘ってあった場所に連行した。小笠原はそのうちの一名の被害者にたいして静脈空気注射および毒薬実験をおこなったが、数分後にも効果はあらわれず、異常反応もみられなかった。そこで小笠原の暗示を受けた小林は、私に「斬れ」と命令した。そのとき私と他の同僚は近くに立って被害者を監視していたが、命令を受けて、ただちに持っていた日本刀で前述の三人の首をつづけざまに切り落とした。その後、小笠原は準備していた器具をつかって被害者一名の死体をつるし、胸部と腹部を切開し、約一時間ほどの検査をし、肝臓を取りだした。
(江田ほか編訳『生体解剖』1991: 15)

C. 人類学的・解剖学的研究

 満洲医科大学の解剖学教室の医学者たちは「死後数時間を出でずして採取せる最も新鮮にして健康なる北支那人成人男性脳」(五十嵐 1944: 35[315]) を用いて、解剖学的・人類学的研究論文を量産している (Suzuki et al. 1942、大野 1942、竹中 1943、Terui et al. 1943、竹中 1944、五十嵐 1944、Terui 1944 など)。当時、解剖学教室の実験手をしていた張不卿は1954年6月29日、中国の戦犯裁判に向けた証拠集めに際して、これらの脳は中国人を生体解剖することで得られたと告発している。張によると、1942年秋から43年春にかけて満州医大の解剖室で5回前後の生体解剖が行われた。被害者は全部で約25名で、1回は3人、他の1回は7人、別の1回は12人、それ以外の2回は2人から3人が解剖された。すべて男性で年齢は30-40歳くらい。国籍は中国人だけでなく、朝鮮人1名、ドイツ籍の者1人、ロシア人5〜6人も含まれていたという (江田ほか編訳『生体解剖』1991: 19-22)。また、それらが生体解剖であることがわかるのは、鮮血が解剖室の床に流れていたことと、ホルマリン保存された通常の解剖用遺体と異なり、遺体の肌の色も生体に近かったことからだという。
 解剖学教室の主任教授だった鈴木直吉自身、論文の脚注に軍医への謝辞を述べている (Suzuki et al. 1942: 140) ことから、少なくともこれらの解剖が軍との密接な協力の下に行われたことがわかる。論文に用いられた脳の切片標本は、現在、満洲医大のキャンパスを使用している中国医科大学に保管されている。


2) 治療法の開発

 石井機関等で行われた非人道的研究の第2のカテゴリーは、治療法の開発である。これには、ワクチンの開発、病院および戦場における手術法の開発、止血法の開発、輸血法(代用血液の使用や異種輸血を含む)の開発が含まれる。

A. ワクチン開発

 ワクチンは患者の命を救うだけでなく、生物兵器を使用する際に味方の兵士がやられないようにするために必要である。米軍の調査官フェルは炭疽、ペスト、コレラに対する免疫実験について記している。炭疽については「加熱ワクチンは効果がなく、弱毒化した胞子ワクチンは経口MID量の4倍の数の菌に対して完全な免疫を与えることがわかった。しかし、人に生きた胞子ワクチンを与えたところ、ひどい副作用を起こし、緊急時以外には使えない、と結論された」と書く (Fell 1947. 常石編訳 1984: 427)。ペストについては「ワクチン作りには病原性のない菌株3系統が使用された。このワクチンはMIDの千倍量の皮下注射に対して、50%の有効性を示した。非病原性菌株のアセトンエキスは免疫効果をかなり弱めた」(Fell 1947. 常石編訳 1984: 428)。コレラについては「加熱およびホルマリンで死菌にして作ったワクチンはどちらも役に立たなかった。しかし6500キロサイクルの超音波を30分間当てて作ったワクチンはわずか3人に対してだが完全な成果を収めた。このときMID量の約1万倍の菌を投与していた」(Fell 1947. 常石編訳 1984: 431)。

 731部隊の少年隊員であった篠塚良雄(旧姓・田村)は2004年に出版した著書で次のように述べている。

 七三一部隊では、当時、ペストのエンベロープ(被膜)ワクチンを開発していたのですが、【中略】
 私が所属している柄沢班でも、細菌の毒力をテストするという名のもとに、五人の中国人を使って、人体実験と生体解剖を行いました。
 まず、五人の採血をおこない、免疫価を測定しました。
 翌日、そのうちの四名に、四種類のペストの予防注射液(ワクチン)を注射しました。比較用の対象者一名には、ワクチンを注射しないのです。
 一週間後、再度、ワクチンを注射しました。
 一カ月後、五名全員に、菌数計算をしたペスト菌液一ccを注射しました。この注射によって、五名は重症のペストにかかりました。【中略】
 ワクチンなしでペスト菌を注射されたその男性は、そのために一番最初に感染しました。そして二、三日後には、高い熱が出て顔色が青くなり、その翌日くらいには瀕死の状態で顔が黒っぽく変わっていきました。
「マルタ」の管理をしている特別班の隊員によって、この男性はまだ息のある状態で裸のまま担架に乗せられ、私たちが待機している解剖室に運ばれてきました。
 全身をゴムの防菌衣に包んだ細田軍医中尉が、解剖台の男の体を洗うように私に命じました。【中略】
 細田中尉が、胸に聴診器を当てて心音を聞きました。
 その聴診器が男性の体を離れると同時に、大山軍医少佐から「はじめよう」の命令が出ました。
(篠塚&高柳 2004: 78-82)

こうして篠塚の上司たちは被験者を生きながらにして解剖し臓器を標本として採取した。篠塚は、友人の少年隊員であった平川三雄もまた、ペストに感染した時に、軍医たちによって生体解剖されたと証言している (篠塚&高柳 2004: 88-96)。

 食塩の過剰摂取実験について述べた秦正氏は1954年、中国の戦犯取り調べに際して「1945年1月頃、[731部隊の]第一部軍医少佐高橋正彦は3名の愛国者にペスト菌を注射し、重症の肺ペストと腺ペストに感染させたのち、日本製のサルファ剤を使用して『治療』をおこない、結局死亡させた」と自筆供述調書に書いている (江田ほか編訳『人体実験』1991: 92)。

 神奈川県立衛生試験所の研究員だった山内豊紀は、彼の上司と共に、超音波でウイルスを弱毒化して作る「超音波ワクチン」の研究を行った。この研究は石井の目に止まり、1938年に山内らは石井に雇われる。彼らの論文の1つは石井機関の中枢である陸軍軍医学校防疫研究室の紀要に掲載されている (渡邊ほか 1939)。山内らは1939年6月に731部隊へ派遣され、1940年5月には特別監獄に収容されていた20人の中国人にコレラワクチンの実験を行ったと、中国の戦犯取り調べに対する自筆供述調書(1951年11月4日付)で述べている (江田ほか編訳『人体実験』1991: 96-97)。この中国人たちがどんな人たちなのか監督者の1人に尋ねたところ「匪賊だ。みんな死刑判決を受けた奴らで、部隊が勝手に捕まえてきたんじゃない。軍司令部の許可を得て外部から死刑犯を連れてきたんだ。そんなことに興味を持たないで、きちんと仕事をすればいいんだ」といわれたという。実験内容は次のようなものであった。

超音波ワクチンを予防接種したのは計8人、陸軍軍医学校でつくったコレラ・ワクチンを注射したのは計8人、未処理者(対照用)が4人で、いずれも二、三十歳の中国人であった。この人たちはみな、石井部隊が管理する第七、八棟の監房に収容されていた。【中略】人体実験における感染方法は、前述したとおり、接種した16人と予防接種をしていない4人に、生菌を混ぜた牛乳を飲ませるというものだった。感染用の細菌は石井部隊が保管していたいわゆる「細菌兵器」で、1000分の1グラムで致死量に達する毒力を有していた。このときの感染量は500分の1グラムで、目的は猛毒のコレラ菌を予防しうる効果的なコレラ・ワクチンをつくること、敵側に猛毒のコレラ菌を散布して細菌戦をおこなうことであった。
 人体実験の結果は、超音波ワクチンの効力がとくに優れていることを証明するものだった。超音波ワクチンを接種した人は皆元気で、1人だけ軽い頭痛と腹痛を覚えたが、三日めには回復した。しかし軍医学校製のワクチンを注射した人は、その多くが下痢をし、うち3名は重症、1名が死亡した。対照用の4人はいずれも発病し、三日めに全員死亡した。石井四郎は超音波ワクチンに効果があると知って、われわれに大量に生産するよう命令した。
(江田ほか編訳『人体実験』1991: 96-97)

 731部隊の軍属であった古都は、ハバロフスク裁判の証人尋問で、チフスワクチンの実験について以下のように述べている。

……其レハ、1943年末ノコトデアリマス。ワクチンノ効力ヲ試験スル為ニ、実験材料トシテ50名ノ中国人ト満州人ガ使用サレマシタ。始メ、此等50名ニ予防注射ヲヤリマシタガ、或ル囚人ニハ、一回、他ノ者ニハ二回宛ト言ッタ工合ニ区分シテ注射ヲヤリマシタ。亦、或ル者ニハ、夫々異ナッタ量ノワクチンヲ注射シ、此等50名ノ中ノ一部ニハ、全然ワクチン注射ヲシマセンデシタ。
 斯ウシテ、此等50名ハ、五ツノ各組ニ分ケラレ、全員ニ、チブス菌デ汚染シタ水ヲ強制的ニ飲マセタ後、予防注射ノ有無、其ノ回数ト量ニヨッテ、夫々ノ場合、此ノ病原菌ガドンナ効力ヲ示スカヲ観察シマシタ。【中略】
 大部分ノ者ハ、チブスニ罹リマシタ。何%カ、確カニハ覚エテイマセンガ、トニ角12名カ13名ガ死ニマシタ。【中略】
 私ハ、コンナ感染実験ヲモウ一ツ知ッテイマス。其レハ、1944年末カ1945年ノ初メノコトデ当時モ同様ノ方法デ感染ガ行ワレマシタ。
(公判書類 1950: 462-463)

 人間を材料としたワクチン実験は、満洲医科大学でも行われた。後に石井を継いで731部隊の隊長を務めた北野政次は、満洲医大の微生物学教室教授であったとき同僚と共に執筆した未発表論文に「われわれは臨江地方で10人の志願者と3人の死刑囚を使って人体実験を行った。【中略】われわれが実験に使った人体は、発疹チフスにかかったことがなく、かつその他の急性的熱性病にもかかったことのない32歳から74歳までの健康な男性であった」と記しているという (北野 未発表。この論文は北野自身が自分の他の論文で参照文献として挙げているもので、戦後中国で発見され、中国語に抄訳されて公表された。その後原本は北京に送られたらしいが、現在は所在不明となっている)。13人の被験者のうち2人の死刑囚(「宗某」74歳、「曹某」66歳)に対してはワクチンを接種せずにチフス菌を注射し、残りの11人にはワクチンを接種してから1か月後にチフス菌を注射した。「宗某」は11日目に発熱し、16日目に「処置」された。「曹某」は13日目に発熱、19日目に発汗して37度に下がったところで「処置」されている。ワクチン接種された11人では、5人が発病し、うち1人が「処置」された。この「処置」とは生体解剖を意味すると考えられている。

B. 手術法の開発

 新しい手術法を開発するために、捕らえられた人々に対して致死的な実験手術が行われた。ここでは文書に記録されている2つの研究(手術実験)を取り上げる。その1つは、捕虜となった米軍機の搭乗員を対象に九州帝国大学で行われた一連の実験手術である。もう1つは、先述した「冬季衛生研究班」が内蒙古で行った、戦場での手術法の開発である。

 1945年の5月から6月にかけて、九州帝国大学医学部第一外科の石山福二郎教授、西部軍司令部付偕行社病院詰見習医官小森拓見習軍医、それに石山教授の弟子である第一外科医局員らが、西部軍に撃墜された米軍B29の搭乗員捕虜に手術実験を行って殺害した。西部軍はこれら捕らえた搭乗員を処刑することにしたが、実験材料として使ってもよいと、小森軍医と石山教授の手に委ねたのである。1945年5月17日、石山教授らは2人の捕虜の片肺を全摘出する。2人の捕虜のうち1人は、搭乗機から脱出し地上に降りた際に住民に撃たれた散弾が肺の近くに残っていたが、もう1人はまったく無傷だった。5月22日には、捕虜2名のうち1名に、胃全摘手術と、大動脈を圧迫して止血し心停止させた後の開胸心マッサージと、心臓手術を行った。残る1名は上腹部を切開し、胆嚢を摘出、肝臓の片葉を切除している。5月25日には1名の捕虜に脳手術(三叉神経遮断)を行った。6月2日には捕虜3名のうち、1名には右股動脈から約500ccを採血したのち代用血液約300ccを注射。1名には肺縦隔手術を実施。残る1名には胆嚢摘出、代用血液200cc注射、肝臓切除、開胸心臓マッサージ、心筋切開および縫合、大動脈圧迫止血を行っている。こうして計8名の捕虜が実験材料にされ殺された (SCAP: Legal Section 1940-48)。

 戦後GHQは、この一連の実験手術による殺害を捕虜虐待として、横浜で行われた戦犯裁判で裁いた。小森見習軍医は1945年6月の福岡大空襲の際に焼夷弾の直撃を受けて重傷を負い、翌月に死亡していた。石山教授は拘置所に収監されたが、取り調べ中の1946年7月に獄中で自殺した。1948年8月28日に下された横浜裁判の判決は、2人の西部軍幹部と3人の医学部教官を絞首刑、1人の軍幹部と2人の医師を終身刑、5人の軍幹部と8人の医師と看護婦長1人を重労働刑とした。しかしながら、朝鮮戦争が勃発したことにより減刑が行われ、結局死刑に処せられた被告はなかった。

 この事件に関して、実験手術が行われた解剖実習室の管理責任者として罪を問われた平光吾一・解剖学第2講座教授は、服役終了後に以下のように書いている。

……私は石山教授の「手術」が恐らく二つの目的から行われたのではなかろうか、と考えた。一つは軍陣医学を進めるためのものであり、他の一つは在来の外科医学では研究未到達な面を解明することにおいたということである。
 血漿の代りに塩水の注射が可能かどうかとの実験を行ったということだが、これは戦争医学にどうしても欠くことの出来ない要請なのである。戦争医学の課題は輸血面の解決にあるといってもよいと思う。血漿の無い、または、不足がちの戦場で、輸血を必要とする患者にどの程度まで、代用血漿に当てられた塩水を注入することができるか、これは人体の場合、約二リットル位までは可能だろうという極めて曖昧な答えしか、当時は得られていなかった。
 また、心臓、脳、全肺切除手術などは、今日でこそ各方面の外科医が行っているが、十数年前の当時では、検事の論告通り「世紀の大手術」であった。と同時に、この三点は外科医学の最大の研究課題でもあった。たとえば、肺手術だ。成形手術より更に望ましい肺の切除方法を、より効果的に進めるための人体手術は、外科医ならどうしてもやって見たい問題だったと思う。
 検事は、法廷で「この事件は何も学問的に価値のあることは行っておらず、徒らに捕虜を虐殺した」と論じている。しかし事実は、肺臓全摘出とか、現在行われている方法の心臓手術の研究、さらに癲癇療法のための脳切開など、当時の外科医が願望した外科療法の課題に、石山教授は文字通り世紀のメスを振ったのである。彼のとった手段はやり過ぎだったとしても、決して捕虜を徒殺したわけではなかった。たゞ惜しむらくは、その手術に関する記録を全く残しておかなかったことである。第二次大戦中ドイツのブラントという博士は、石山氏と同じく捕虜に対する実験手術を行ない、その助手と共に絞首刑に処せられたが、彼はそのときの研究記録一切を残していた。そのため、戦後のドイツ外科医学は、それによって大いに向上したという例があるからである。また、古い話だが動脈の中には空気、静脈には血液が流れているという定説に対して、動脈にも血液が流れていることを発見して一六二八年に発表したイギリス人、ウィリアム・ハーヴェーも家畜の生体解剖からはじめて、矢張り敵側の捕虜負傷者を戦争中に生体解剖をしたらしいのである。
 医学の進歩は、その歴史を省みる時、このような戦争中の機会を利用してなされていることが多いのだ。生体解剖それ自体の行為は勿論許されるべきものではない。しかし、その許されざる手術を敢えて犯した勇気ある石山教授が、自殺前せめて一片の研究記録なりとも遺しておいてくれたら、医学の進歩にどれ程役立ったことだろうか。犠牲者の霊も幾分なりとも浮かばれたであろう。
(平光 1957: 207-208)

この文章からは、致死的な研究も結果をきちんと残せば正当化の余地があるという医学者の論理が窺われる。

 大同陸軍病院の谷村一治軍医少佐らは、先述した内蒙古での「冬季衛生研究」において、戦場での手術法を開発するための実験手術を行った。それは「創ノ開放治療ノ能否及程度」に関する「野外ニ於ケル試験」と、「手術創ノ観察」「開腹術経過観察」等の「天幕内ニ於ケル生体試験」の2種類で、いずれも「生体ヲ以テスル試験」であった (冬季衛生研究班 1941: 11)。1941年2月4日「手術用天幕内部ノ応急装備ヲ施シ開腹術(腸切除側々吻合術)ヲ生体(第一号)ニ施行」した後、経過を観察した (同: 22-23)。翌2月5日には「手術創ノ経過観察ノ為生体三号ヲ使用シ左大腿切断手術創、右大腿切創第一期縫合創、左下腹部皮膚切除開放創ヲ作ル」(同: 24-25)。「生体七号」には「左上膊軟部貫通銃創」と「右大腿軟部貫通銃創」の、「生体六号」には「左腹腰部貫通銃創」と「左胸背部貫通銃創」の、それぞれ「第一線処置研究」を行っている (同: 50)。2月6日には「生体ヲ用ヒテノ第一線外科的処置」として「生体五号」に「左膝膕動脈」や「右下腿筋切創」の鉗子止血を行った後「右臀部軟部貫通銃創」の切除を行った (同: 51-52)。2月7日には「生体八号」を用いて「右胸部穿透性貫通銃創」の処置法の研究を行っている (同: 52)。

C. 止血法の実験

 谷村らは同時にさまざまな止血法の実験を行っている。2月5日、銃創治療実験を受けたばかりの「生体六号」と「生体七号」に対し、前者に「上膊介達止血」、後者に「大腿介達止血」を行う (冬季衛生研究班 1941: 51)。翌6日には「生体五号」を「手術用天幕内ニテ左膝膕部露出後野外ニ搬出」し「左膝膕動脈各種鉗子止血」「右下腿屈筋切創鉗子止血」を実施 (同: 51-52)。2月8日には同じ「生体五号」の上膊部を「螺旋止血帯」や「平紐」を用いて、防寒外套や軍衣など服装の条件をさまざまに変えて止血している (同: 53-54)。

D. 輸血実験

 谷村らはまた輸血実験も行った。2月5日「生体一号三号」に「輸血並ニ常温リンゲル液静脈注射」を行う (冬季衛生研究班 1941: 25)。2月7日には、魔法瓶に保存しておいた「保存血」、外気にさらして凍結させた「凍血」、および羊の血液の、3種類の輸血実験を実施 (同: 29)。翌8日には「屍体心臓血ノ輸血」(同: 30) を行っているが、この「屍体心臓血」は、前日深夜24時に「生体八号」を銃殺することによって得られたものであった(「生体処置 明日第二部ニ於テ屍血必要ナル為二十四時第一部ニヨリ生体第八号ヲ銃殺ニ処ス」同: 29)。

 731部隊では、供血者と受血者の血液型が異なる輸血実験が行われている。それは、池田苗夫元軍医少佐が1966年に『大阪保険医新聞』に投稿した以下のような文章からわかる。池田自身は「私の経験」をどこで得たのか記していないが、このような実験が行えた場所としては731部隊以外には考えにくい。

私の経験では、A型給血者をO型受血者に100cc輸血例に於て、輸血前脈拍87、体温35.4度、30分後体温38.6度軽い戦慄60分後脈拍106、体温39.4度、2時間後37.7度、3時間後恢復した。またAB型給血者をO型受血者に120cc輸血した場合には1時間後両下肢冷感ならびに倦怠感を訴えた。AB型給血者をB型受血者に100cc輸血した場合には何等副作用らしきものを認めなかった。
(池田 1966)

 九州帝国大学医学部で行われた米軍捕虜に対する実験手術の際には、当時、代用血液として研究中だった、殺菌し希釈した海水を輸液する実験が行われている。1945年5月17日に行われた2名の捕虜に対する片肺摘出手術においては、散弾が肺の近くに残っていた捕虜の手術の際に、約2000ccの代用血液を注射した。6月2日の手術では、1人の捕虜の右股動脈から約500ccを採血した後、代用血液約300ccを注射し、他の1名には胆嚢摘出の際に200cc注射の代用血液を注射している (SCAP: Legal Section 1940-48)。


3) 兵器開発

 研究(人体実験)の第3のカテゴリーは、兵器開発のために人を対象として行われたものである。ただし、このカテゴリーの研究は、基本的には人を救うことを目的としていた前2者の研究とは異なり、人を効率的に確実に殺傷することを目的としている。石井機関の医師たちは人間を対象に生物兵器や化学兵器の実験を行って、彼らを殺害した。

A. 生物兵器実験

 米軍調査官のN・H・フェルはさまざまな生物兵器実験について詳細に報告している。炭疽菌を詰めた爆弾の実験に関しては以下のように述べている。

 実戦試験の細部を含めすべての一覧表がある。大部分の場合、人間は杭に縛りつけられ、ヘルメットとよろいをつけていた。地上で爆発するものあるいは飛行機から投下され一定時間後に爆発するよう時限信管のついたものなど、各種の爆弾が実験された。【中略】日本軍は炭疽の実戦試験に不満足だった。しかし、ある試験では15人の被験者のうち、6人が爆発の傷が原因で死亡し、4人が爆弾の破片で感染した(4人のうち3人が死亡した)。別のより力の大きい爆弾(「宇治」)を使った試験では、10人のうち6人の血液中に菌の存在が確認され、このうちの4人は呼吸器からの感染と考えられた。この4人は全員死亡した。しかしこれら4人は、いっせいに爆発した9個の爆弾のどれかとわずか25メートルしか離れていなかった。
(Fell 1947. 常石編訳 1984: 427)

 この描写は、ハバロフスク裁判や中華人民共和国の戦犯裁判における日本の将校や兵士たちの供述と一致する。たとえば731部隊で生物兵器を製造していた柄澤十三夫軍医少佐は、ハバロフスク裁判において次のように証言している。

私ハ、安達駅ノ特設実験場デ野外ノ条件下ニ於ケル人間ノ感染実験ニ2度参加シマシタ。コノ実験ノタメニ、特設実験場ニ連レテコラレタ10名ノ被実験者ガ使用サレマシタ。コレラノ人々ノ感染ノタメニハ、被実験者カラ50米ノ所ニアッタ榴散爆弾ガ使用サレマシタ。此ノ実験ノ結果、一部ノ被実験者ハ感染サレマシタ。彼等ニ対シテ或ル措置ガ施サレタ後、彼等ハ部隊ニ連レテ行カレマシタガ、其ノ後、私ハ、罹炭疽シタ被実験者ガ死亡シタコトヲ報告カラ知リマシタ。(公判書類 1950: 322)

 731部隊林口支部長であった榊原秀夫は、中華人民共和国の戦犯裁判における供述の中で、同様の実験について述べている (滝谷 1989: 109-110)。同じく731部隊の秦正氏も1954年、戦犯裁判に向けた取り調べの中で、こうした実験を撮影した映画を見たと証言している (江田ほか編訳『人体実験』 1991: 91-92)。

 ペストの生物兵器開発について、フェルは詳細に報告している。

(d) 爆弾試験
 最も成功を収めた3回ないし4回の試験の結果の概要を以下に記す(これら試験では、人間の周囲の地面上の菌の集まり具合を測定するため、菌の数を数えた)。
【中略】
爆弾試験全体の結論は次の通りだった。すなわちペスト爆弾は不安定で満足のいく生物兵器ではないが、ノミを使ってペストを流行させることははるかに実用的である。
 (e) 噴霧実験
 結果としてこの方法は非常に効果的だった。すなわち部屋の中に人間を閉じこめて行っても、また低い高度で飛行機から菌を噴霧して浴びせてもともに有効だった。各種試験に使われた人間の30ないし100パーセントが感染し、死亡率は少なくとも60パーセントに達した。
 (f) 安定性
 ペスト菌を液状で、あるいは乾燥することで安定化することはできなかった。
 (g) ペストノミ
 ノミの繁殖とそれをネズミによってペストに感染させる方法について多くの研究が行われた。何キログラムものふつうのノミ(1グラムで約3000匹)の生産方法と、それに見合った感染方法の開発が行われた。このノミの研究は詳細な記録が残っており、すばらしいものである。
 ペストノミは最上の条件下では30日間生存し、その間感染力を保持することがわかった。また1人につきノミ1匹が刺せば感染するのがふつうであることも判明した。1平方m当たりノミが20匹いる部屋で人間を自由に動かしたところ、10人中6人が感染し、うち4人が死亡した。
 爆弾試験は磁器製の爆弾「宇治」を使って行われた。【中略】人間10人が閉じこめられている10平方mの部屋で爆発させたところ、ノミの80%は死ななかった。10人のうち8人がノミに刺され感染し、8人のうち6人が死亡した。
(Fell 1947. 常石編訳 1984: 428-429)

 731部隊の製造部長であった川島清軍医少将は、ハバロフスク裁判の訊問調書で、ペスト菌兵器の実験について次のように述べている。

1941年6月私ハ他ノ部隊員ト共ニ、安達駅附近ノ部隊実験場ニ於ケルペスト蚤ヲ以テ充填セル爆弾ノ試験ニ参加シマシタ。同実験ニヨリ、柱ニ縛リ付ケラレタ10名乃至15名ノ囚人ニ対スル細菌爆弾ノ作用ガ試験セラレタノデアリマス。此ノ実験ニ当ッテハ、合計10箇以上ノ爆弾ガ飛行機ヨリ投下セラレマシタ
(公判書類 1950: 77)

 川島の部下であった柄澤十三夫も、以下のように口述している。

二度目ハ、1944年ノ春デシタ。コレハ、ペスト菌ノ使用實験デアリマシタ。方法ハ呼吸器ヲ通ジテノ感染デアリマシタ。被實験者ハ、炭疽菌ノ實験ノ際ト同ジ様ニ取扱レマシタ。【中略】被實験者カラ10米ノ所ニ試験管ガ置カレ、ソノ中ニハペスト菌デ汚染サレタ液體ガ入ツテイマシタ。コノ試験管ハ爆破セシメラレマシタガ、私ノ知ツテイル所デハ、コノ實験ノ結果、感染ハ成功セズ、伝染病菌ハ呼吸器ヲ通ジテ浸透シナカッタコトガ明ラカニサレマシタ。(公判書類 1950: 323)

 フェルは鼻疽の爆弾実験についても報告している。

 試験は1回だけ人間10人と馬10頭を使って行われた。馬3頭と人間1人が感染したが、地上での病原体の雲の集中度あるいは密度についてはなんのデータもない。
(Fell 1947. 常石編訳 1984: 431)

 安達実験場で行われたガス壊疽の兵器開発については、西俊英軍医中佐がハバロフスク裁判の訊問調書で次のように述べる。

第七三一部隊長ノ命令デ、1945年1月私ハ安達駅ニ赴キマシタ。ココデ私ハ第二部長碇ト二木研究員ノ指導下ニ、ガス壊疽菌ニヨル感染實験ガ如何ニ行ワレテイタカヲ見マシタ。此ノ為ニ囚人ガ10人使用サレテイマシタ。此等ノ人々ハ柱ニ面ト向ッテ縛リツケラレ、相互ノ間隔ハ5乃至10メートルデシタ。囚人ノ頭ハ鉄帽デ、胴体ハ楯デ夫々覆ワレテイマシタ。
 身体ハ全部覆イ隠サレ、只臀部ガ露出サレテイマシタ。感染ノ為ニ約100メートルノ所デ電流ニヨッテ榴散爆弾ガ爆発セシメラレマシタ。10人共全部露出部分ニ負傷シマシタ。【中略】……彼等ハ、10人全部負傷シ、ガス壊疽ニ感染サレテ死亡シタト語リマシタ。
(公判書類 1950: 355)

B. 化学兵器ないし毒物の実験

 石井機関においては生物兵器だけでなく化学兵器や毒物の開発実験も行われた。それは、731部隊をはじめとする石井機関の各施設が、生物兵器の研究所兼製造プラントであるだけでなく、陸軍における人体実験施設として機能していたことを物語っている。

「加茂部隊」すなわち731部隊における化学兵器実験に関する報告書が戦後発見され、復刻出版されている。それによると、昭和15年9月7日から10日にかけて「砲四門」(600発) と「榴八門」(600発) による「きい弾」(イペリットガス弾)の射撃実験が行われた。 実験場を3つの地域に分け、第一地域は野砲換算にして1haあたり100発分の計1800発分を、射撃15分・休み15分・射撃10分の計40分間に発射した。第二地域は野砲換算200発分/ha、計3200発分、第三地域は野砲換算200発分/ha、計3200発分を発射している。被験者は地域内の野砲偽掩体や壕や休息所や観測所などに配置され、イペリットガスにさらされたが、その状況については下記のように記されている。

第一地域陣地ニ配置セルモノハ無帽満服下着上靴ヲ着用セシメ無装面トス
第二地域陣地ニテハ無帽夏軍衣袴上靴ヲ着用セシメ無装面者三名、装面者三名トス
第三地域陣地ニ配置セルモノハ夏軍衣袴ヲ着用セシメ無装面者二名装面者三名トス
き弾射撃後四時間、十二時間、二十四時間、二日、三日或ハ五日後ニ於ケル一般症状(神経障碍ヲ伴フモノヲ含ム)皮膚症状、眼部、呼吸器、消化器ニ於ケル症状経過ヲ観察セリ
尚水疱内容液ノ人体接種試験、血液像竝屎尿検査ヲ実施セリ
(加茂部隊: 復刻版 4-5)

また、5人の被験者に、イペリットやルイサイトの水溶液の「原水」や、木炭や「除砒剤」で「除毒」した水を飲ませたり、点眼したりした。3名には水疱の内容液を皮下注射している。実験台にされた人々の総数は20名だが、重複して被験させられた人があり、延べ数は30例と記載されている。

 陸軍省医務局医事課に勤務していた金原節三軍医大佐の『陸軍業務日誌摘録』には、1939年4月21日、陸軍科学研究所の近藤[治三郎?]軍医中佐が陸軍省で行った「満州における特殊試験報告」についての記録がある (金原: 前編、その1のイ. 吉見・伊香 1993: 19-20)。これは、イペリット、ルイサイト、ホスゲン、青酸などの致死性ガスや、クシャミ性ガス、催涙ガスなどの実験報告であり、陸軍科学研究所、関東軍技術部化学兵器班、および731部隊が協同して行ったものと思われる。それによると「茶1号」(青酸ガス) については「4−6分間にて人事不省となる。人とモルモットは同一なる故、モルモットを携行すれば可なり。95式なれば5分間にて可。事前に運動せしめおけば奏効一層確実」。糜爛性ガス(イペリット、ルイサイト)の漂白粉による消毒については「30秒以内に処理せざれば効なし。直接皮膚を消毒すれば熱をおこし火傷を起す。乾布にて清拭するも効なし」。ガスの使用法については「雨下は効なし。放射は短時間に大量を要す」。そして、これらの化学兵器の可能性についての意見として「茶1号は所望の成績を得べし」とされている。

 同年10月16日、近藤中佐は「化学戦に対する基礎的研究成績の発表」と称する報告を行った。金原日誌にあるメモは以下の通り。

(イ) 黄1号丙撒毒
 仏暁撒毒2時間後無防護侵入。3〜5時間後戦闘行動不能となり最後致死。
 軽防護侵入。15時間で戦闘不能。一ヶ月以上の治療を要す(軽症は戦闘妨害)
(ロ) 仏暁撒毒6時間無防護の時。5時間で戦闘不能となる。
 軽防護10〜15時間。戦闘不能。一ヶ月以上治療を要す(軽症は戦闘妨害)
(ハ) 仏暁撒毒 無防護 26時間戦闘妨害
(同上)

(イ) で述べられているのは、未明に不凍性イペリット(黄1号丙)を撒き、2時間後に防毒マスクや防護服なしに被験者を汚染地域に進入させたところ、3時間から5時間後に「戦闘行動」ができない状態になって、最後は死亡した。これに対し、軽い防護装備で進入させた場合は「戦闘不能」になるまで15時間を要したが、被験者が中毒から回復するまで1か月以上の治療が必要になった、ということである。(イ) (ロ) では条件を変えた場合の被験者の被害状況が述べられている。そのほか、ガス雨下については、不凍性イペリットやルイサイトは「毎m2【平方m】5gr以下では戦闘に支障なし」。青酸ガス吸入試験については「5万濃度5分間人事不省、10,000[濃度]16分間人事不省。皮膚吸入の影響大なり」とある (同上)。

 同様に、参謀本部作戦課に務めていた井本熊男中佐は、1942年11月19日の「業務日誌」に、「茶の研究」と題して以下のような記載を行っている。これは関東軍化学部と731部隊が中国東北部で行ったものと推測される。なお、文中の「チビ」とは、液体の青酸を詰めた丸いビンで、手投げで用いるものである。

1000m正面ニ50kgノ噴射キヲ25m間隔ニ置キ17.5屯ヲ使用シ縦深2粁ニ亘リ致死効力ヲ出セリ、更ニ2粁ニ亘リ半死効果アリ
濃度1500ミリg1立方米ニテ、2分ヲ以テ致死効果発揚ス
 「チビ」
 火焔発射キ
 火砲(15H以上効果アル?)
 爆弾(50瓩以上効果アリ)−茶9kg
 放射
要スルニ今直チニ実用ニナルモノナシ
困メテ困難也、日本技術ハ少シツキツメタル所迄研究シ置ク必要アリ
(井本: 第22巻. 吉見・伊香 1993: 20)

 731部隊大連支部のある元研究員は、1982年5月にインタビューに答えて、青酸ガスの人体実験について次のように述べている。

彼らは516部隊が新たに開発したガス爆弾を海拉爾で人体実験しました。100人ほどのマルタが使われましたが、たった1人を除いて全員殺されました。彼らの死体は、10体から20体ずつトラックで病理解剖のため病理学者たちがテントを設営した哈爾阿爾山という所まで運ばれました。私は解剖には参加しませんでした。解剖をやったのは岡本博士です。私はテントの外で待っていて、解剖された死体の様々な臓器から抽出した血液を試験管に入れたものを受け取って、海拉爾の陸軍病院で血液中の青酸の量を調べました。
(Williams & Wallace 1989: 46-47. 西里訳 2003: 42-43)

 ハバロフスク裁判では、100部隊の三友一男軍曹が、松井経孝研究員を補助して人間を用いた毒物実験を行ったと証言している。「1944年8月−9月、私ハ研究員タル松井経孝ノ指導ノ下ニ、第100部隊内ニ於テロシア人及ビ中国人ノ囚人7−8名ニ対スル実験ヲ行イ、是等ノ生キタ人間ヲ使用シテ毒薬ノ効力ヲ試験シマシタ。即チ、私ハ是等ノ毒薬ヲ食物ニ混入シ、之ヲ以上ノ囚人達ニ与エタノデアリマス」(公判書類 1950: 109)。この「毒薬」とは、チョウセンアサガオ、ヘロイン、バクタル、ヒマシの種子であった。「二週間ニ亘ッテ各被実験者ニ毒剤ヲ盛ッタ此ノヨウナ食事ガ5−6回支給サレマシタ。汁ニハ主トシテ朝鮮朝顔ヲ混入シ、粥ニハヘロイン、煙草ニハヘロイントバクタルヲ混入シタト思イマス。朝鮮朝顔ヲ混入シタ汁ヲ与エラレタ被実験者ハ30分乃至1時間後ニハ眠ニ落チ5時間眠リ続ケマシタ。/被実験者ハ皆、二週間後ニハ彼等ニ対シテ行ワレタ実験ノ後衰弱シ、実験ノ役ニハ立タナクナリマシタ」(同: 408-409)。最後には「松井ハ私ニ、青酸加里ノ注射ニヨッテ此ノロシア人ヲ殺害スル様命ジマシタ。注射後此ノロシア人ハ即死シマシタ。/私ハ又、私ガ実験ニ使用シタ囚人3名ヲ憲兵ガ銃殺シタ時ニ臨場シマシタ……」(同:109)。

 陸軍第九技術研究所(登戸研究所)の伴繁雄技術少佐は、2001年に出版された手記の中で、昭和16年5月上旬、参謀本部の命により、登戸研究所の9名が南京の中支那防疫給水部へ出張したことを下記のように書いている。出張の目的は、新たに開発された毒物「アセトン・シアン・ヒドリン(青酸ニトリール)」の人に対する殺傷力(毒力)を決定するための試験を行うことであった。

この実験にあたって篠田【鐐、登戸研究所】所長は、関東軍防疫給水部(昭和十六年八月から秘匿名・満州第七三一部隊に改称)の石井四郎部隊長(当時軍医少将)と参謀本部で接触し、実験への協力に快諾を得ていた。関東軍防疫給水部は日本軍の極秘細菌戦部隊として設けられたが、薬理部門では青酸化合物などの研究も行われていたからである。【中略】実験期間は約一週間を見込み、実験者は同【中支那】防疫給水部の軍医で、実験には登戸研究所からの出張員が立ち会うというものだった。実験対象者は中国軍捕虜または、一般死刑囚約十五、六名、とされた。【中略】
 実験のねらいは、青酸ニトリールを中心に、致死量の決定、症状の観察、青酸カリとの比較などだった。経口(嚥下)と注射の二方法で行われた実験の結果は、予想していた通りで、青酸ニトリールと青酸カリは、服用後死亡に至るまで大体同様の経過と解剖所見が得られた。また、注射が最もよく効果を現し、これは皮下注射でよかったことも分かった。
 青酸ニトリールの致死量は大体1CC1グラム)で、二、三分で微効が現れ、三十分で完全に死に至った。しかし、体質、性別、年齢などによって死亡までに二、三時間から十数時間を要した例もあり、正確に特定はできなかった。しかし、青酸カリに比べわずか効果が現れる時間が長いが、青酸カリと同じく超即効性であることには変わりがなかった。
(伴 2001: 81-82)

伴はこの手記をしたためて間もない1993年11月に87歳で他界したが、この実験について以下のように付け加えている。

捕虜・死刑囚に対して行われたとはいえ、非人道的な悲惨な人体実験が行われたのである。戦争の暗黒面としてこれまで闇の中に葬り去られてきたが、いまこのいまわしい事実を明らかにしたいと書き綴った。いまは、歴史の空白を埋め、実験の対象となった人々の冥福を祈り、平和を心から願う気持ちである。
(同上)


文献一覧

*著者名のアルファベット順。なお、文中では引用ないし参照箇所を(著者名 出版年: ページ)と略記した。引用文中の【 】は土屋による補足である。

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伴繁雄『陸軍登戸研究所の真実』芙蓉書房出版、2001.
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参考資料

1999年度大阪市立大学インターネット講座「人体実験の倫理学」第4回 日本軍による人体実験

日本生命倫理学会第20回年次大会(2008年11月29日、九州大学医学部)
大会企画シンポジウム1「戦争と研究倫理」報告
「戦時下における医学研究倫理──戦争は倫理を転倒させるのか」スライド


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