THE FOLLOWING INFORMATION IS TYPED MOSTLY IN JAPANESE; FOR ENGLISH USERS, SKIP AND READ AS YOU LIKE

日本学術振興会 平成9〜11年度科学研究費補助金による基盤研究(C)(2)報告書
A Report for the 1997-1999 Science/Humanities Promotion Project [Fundamental Studies (C)(2)], sponsored by the Japan Society for Promotion of Science (JSPS)

1.研究課題名 (project title):インターネットは文学表現をどのように変えるか(In What Form and Substance Literature Can be Changed by the Internet)
2.課題番号(project serial number) :094610491
3.研究代表者 (project chair):
古賀哲男 KOGA Tetsuo(大阪市立大学文学部 助教授Osaka City U., Assoc. Prof. )
4.研究分担者 (other project teammates):
荒木映子 ARAKI Eiko(大阪市立大学文学部 教授 Osaka City U., Prof.)
菱川英一 HISHIKAWA Eiichi(神戸大学文学部 助教授 Kobe U., Assoc. Prof.)
田口哲也 TAGUCHI Tetsuya(同志社大学言語文化教育研究センター 教授 Doshisha U., Prof.)
5.研究代表者連絡先 (address of project chair):
〒558-8585 大阪市住吉区杉本3−3−138 大阪市立大学文学部
Osaka City University, Faculty of Literature, 3-3-138, Sugimoto, Sumiyoshi-ku, Osaka 558-8585
TEL 06-6605-2437(研究室 office); FAX 06-6605-2357(文学部事務adm.office) email: koga@lit.osaka-cu.ac.jp URL: http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~koga/index.htm
────────────────────────────────────────[概要] インターネットというサイバー・メディアの力が文学表現という活字メディアをどのように変質させるか、を明らかにし、今日の前衛文学が実際にインターネット上で創作されている過程を追うことにより、文学のテクノロジー化を理論化する。
(Summary)
The aim of our project is to explore and theorize on the following questions regarding the intricate relationship between our literary activities and the mediating technology, now cybernated and digitalized. Those questions are briefly: 1) How can such an electronic media as the Internet transform our print culture which has traditionally fostered our literacy and literary arts? 2) Why do we have to think doubly mediated/estranged from our primary "nature," when compared with our ancient forebears? In other words, even before the Gutenberg revolution, has language both as a tool of communication and as a mediating technology really become a source of power for our human beings? 3) When in our contemporary computer age we feed on the cybernetic media so naturally, does such an avant-garde way of language use by the language poets really become a "radical artifice"(Perloff) of its own, to effect an opposition to the media-controlled mass society? Indeed when our cultural memory of human history evaporate as a result of almost "transparent" technology-effects in speed and distance (call it a Baudrillardian postmodernity), we must begin to suspect our human identity really as a great Nothingness or a SF image of another hyperdigitized intelligence of its own.
研究目的 (The Aim of Our Project)
<研究背景>
研究代表者および研究分担者の共通する研究領域は英米の現代詩であり、特に代表者の古賀は米国の前衛文学・前衛理論を、また、分担者もそれぞれ、 英国の世紀末から今世紀初頭にかける文化表象(荒木)、英米現代詩の詩学理論および言語学的分析(菱川)、英語圏の国際的文芸交流(田口)と多分に共通した研究テーマを抱く研究チームである。チームのうち、三名は所属する日本アメリカ文学会関西支部が主催するシンポジウム「情報化・メディア時代における言葉の可能性」(平成8年9月、大阪市立大学)において講師を務め、意見交換を行った。特に代表者はシンポウムの司会を務める過程で他の研究分担者の従来の関心を統合し、よりダイナミックな研究目的を創出することとなった。既に「人文科学とコンピュータ」の重点領域研究に着手している菱川は人文科学のために、新たなデータベース開発を進めている。また、田口も所属の同志社大学においてコンピュータ支援による文学研究の開発チームに加わり、高度なコンピュータ支援教育に携わっている。尚、同氏は2年に及ぶ在外研究により、英語圏における文芸交流の現場を検証し、海外の作家・研究者相互のインターネットによる創作・意見交換についてより包括的な認識を得ている。さらに代表者および分担者 (荒木)の所属する大阪市立大学は平成8年10月に日本有数の学術情報総合センターを開設しており、キャンパスLAN化のみならず、海外の研究者・機関と直接インターネットによる情報交信・文化交流を恒常化し、われわれの研究基盤を整備することとなった。
(Its Background)
This project started in a academic symposium "The Possibility of Words in the Highly Mediated Age of Information" (1996, Osaka City University), where the three of our teammates, Hishikawa, Taguchi and Koga, got together to discuss the relationship between the advanced technology and the avantgarde literary arts. Hishikawa has been one of the forerunner theorists and practitioners of the hypermedia, now engaging in the special research project on the interrelation between the humanities and the computer. Taguchi has also been engaged in the university's program of computer-assisted education, with his academic background of international art mediator. Koga, acting as a coordinator, presented a paper on the recent avantgarde literary movement called "language poetry," which shows a typical repercussion of cybernetic media. And Araki, a colleague of Koga at OCU, has joined the project for her interest of mediated subjectivity in post-romantic literary arts.

<研究目的>
われわれの専門研究者チームが目標とするのは単にコミュニケーション・ツールとしてのインターネットがそれを使う人間の文芸をいかに変容させるか、といった概念的・一般的な問題提起ではない。むしろ、インターネットというサイバー・メディアの力が文学表現という活字メディアをどのように変質させうるか、という半ば現実に起こりつつある現象を扱うことによって、文学自身のテクノロジーの変貌を暴き出すことにある。つまり、現実に変容しつつある文芸表現の内実を先端メディアの変革力との関係で捉えることによって、これまで戦争体験や疎外された個人といった状況的な問題意識や古い文学手法の改変といった審美的価値基準によって文学の内実を語ってきた態度を、極めてラディカルに「変える」ことを意味する。今世紀後半に顕著となった社会的・文化的特性であるポストモダニティはインターネットというような先端メディアのもつ力によってますます増幅し、今日のほぼ充溢するメディア統制社会を生み出した。今日の文学的前衛主義も従ってそのようなメディアと巧みに絡み合う現象として出現することになる。特に60年代以後の対抗文化が育てた(反)資本主義的芸術、修正 主義的歴史意識、ニュー・サイエンス、エコロジーといった現象は、メディア=表現媒体の概念によって一般大衆教育をいかに行いうるか、という使命を持ったものとして浮上する。これらの問題意識をより包括的・具体的に理論化するのがわれわれの研究目的である。
(Its Present Perspective)
The main thesis of our project is to theorize on the technology of contemporary literary expressions, as contrasted by the use of advanced technology of cybernetic media. This is to rethink the way in which we are doubly mediated by the literary expressions which are themselves heavily influenced and extrapolated by the presence of electronic media. The so-called "postmodern" literature and culture have hitherto been characterized by their mediatedness, which are nonetheless the tokens of human creativity. Since the alternative way to survive this modern mediatedness has been manifested in the various literary and artistic expressions of counter-culture, we also draw several contrastive examples from (anti-)capitalistic arts, revisionist historicism, "new age" holism, and ecological movements. And today's avantgarde literary experiments in its media-controlled society will be then given a due critical reassessment.

<研究の独創性および予想される結果と意義>

日本国内におけるポストモダニズム論およびメディア論の大半が未だ高度産業技術社会論の枠組みに縛られていると思われるため、よりグローバルな前衛芸術表現やメディア芸術が志向している文化ネットワークの意義(文化の創造、社会のイデオロギー生産がメディアに依拠する点)を徹底して理論化することにより、その成果は例えば、Masao Miyoshi & H. D. Harootunian, eds., Postmodernism and Japan (1989)が示唆するような学際的研究に結実されることを期待している。
(Its Future Perspective)
Our theorization on the contemporary avant-garde literary arts will effect a rethinking of any post-industrial sociological views of technocracy. Since our emphasis is to theorize on the global network of avant-garde artists and media collaborators, who actually outgrow any humanized sociological unit in their highly transformative model or protocol for the next century, more inter-disciplinary concerns may be created. Indeed the creation of culture or any ideology cannot be made now without this consciousness of world-wide technologization of media.

<基礎的な理論化にむけての共通認識・問題設定>(Common Agenda for Theorization)

1. <線形的なテクストと非線形的なハイパーテクストの関係について>
(Linear Texts and Non-linear and Hyper Texts, How They Relate to Each Other)
従来の「線形的」(linear)(「閉じた」「固定した」「連続的な」を含む)テクストと「非線形的」(non-linear)(「開いた」「流動的な」「非連続的な」を含む)ハイパーテクストとの関係を理論化する。長畑<http://lang.nagoya-u.ac.jp/~nagahata/tokutei95paper.htm>が指摘する以下の問題点を考察する。 i)新しいエクリチュールの獲得 ii)自由な作品発表の場の獲得 iii)読者のネットワーク環境による詩作品の形態的多様性(作品の受容形態の不安定) iv)機械的環境へのアクセスの不平等
Cf. Paul Delany and George P. Landow,eds. Hypermedia and Literary Studies (MIT, 1991)Michael Joyce, "Notes toward an Unwritten Non-Linear Electronic Text, 'The Ends of Print Culture'(a work in progress)'," _Postmodern Culture_v.2 n.1 (Sept., 1991)
(以上の問題設定は<別紙>報告書の第1章で扱われる。)

2.<並行法概念による詩テクストの処理の進む方向について>
(Parallelism as Poetic Text Processing Theory)
菱川が報告する研究内容について、その有効性について議論する。特に以下の点について考察する。 i)「並行法」(parallelism)の概念の有効性 ii)コンコーダンス作成プロセスの理解、あるいはコンコーダンス活用法について iii)コンコーダンスによって読みとられた線形的テクストと非線形的ハイパーテクスト化された文字情報の関係 iv)例えば、ハイパーテクスト化されたPoundを読むプロセスの特徴・問題点、等
(以上の問題設定は当研究の発展的なテーマとして分担者の個人研究に託される。)

3.<多文化主義の時代における文化理解の方法・問題点について>
(Multi-culturalism and Its Mechanism of Cultural Decoding)
Perloffが問題にする架空の被曝者詩人アラキ・ヤスサダの受容のあり方について考察する。特に以下の点について議論する。i)作者の主体性をいかに考えるか。Foucault的立場と匿名の開かれた(ハイパー)テクストの関係(ロマン派的個性(originality)神話の消滅、など) ii)文学行為の政治性の意味(positionalityとempowermentに関する)iii)「連歌」と「新しい文」(Silliman 1987)の関係 iv)オリエンタリズムの問題
(以上の問題設定は既に長畑に言及があるが、今回の報告書では言及せず、今後の発展的テーマとする。)

4.<自己を書くという自伝的行為の実験的側面について>
(Self-Reflexivity and Its Experimentation)
荒木(1996)が提起するモダニズム文学の自己言及性について同一テクストへの自己再帰性が孕むテクスト内部での照応関係とテクスト外的な要素への遡及可能性について理論化する。特にプレ(プロト)・モダニズムからポスト・モダニズムに至る過程での主体の再帰性(reflexivity)や脱構築性を議論の題材とする。
(以上の問題設定は<別紙>報告書の第3章で扱われる。)

5.<ポストモダンなテクスト形態とは?>

(How Open The Form of Postmodern Text)

(この問題設定は<別紙>報告書第4章(2)で言及があるが、今後の発展的テーマとする。)

6.<ポストモダニティの波及効果>
(Repercussion Effects of Avantgarde Arts on the Popular Culture)
前衛実験の大衆文化への複製効果について
(以上の問題設定は<別紙>報告書の第4章で部分的に扱われるが、今後の発展的テーマとする。)

7.<ビート詩・対抗文化の遺産について>

(On the Legacy of the Beat Poetry and the Counter-Culture)

(以上の問題設定は<別紙>報告書の第2章で扱われる。)

平成9年度の研究実績の概要(Report in Brief: 1997)

研究代表者・古賀は、研究テーマについての総合的なレビューを受け、理論化の方向性を確定するために、平成9年11月21日より30日まで米国Stanford大学にて Marjorie Perloff教授と懇談を行った。懇談内容は主としてポストモダニズム理論およびアヴァンギャルド芸術(言語詩)についてであるが、その詳しい内容はパーロフ教授との懇談を参照されたい。尚、発表論文@の一部内容は当研究の出発点であるシンポジウム「Shall We Dance?―現代詩の復権:情報化・メディア時代における言葉の可能性とは?」(1996)の報告Aとなっている。
分担者・荒木は『生と死のレトリック―エリオットとイエイツ』(英宝社、1996)で明らかにした立場を、よりテクスト分析の観点から再考しており、その具体的な成果は発表論文Bの基本的主張(自伝と墓碑銘における自己表象の比喩形式)に現れている。
分担者・菱川は電子ネットワーク上での詩の創作を調べる過程で、幾つかの興味深い事例を発見した。その一つは日本の伝統的な連歌に似た創作手法の共同執筆であり、そこではある詩人の書いたT行に別の詩人が別の行を繋げるという方法によって、行間に微妙な緊張関係が生成し、このことはネットワーク理論のみならず、詩の並行法理論 (cf. http://www.lit.kobe-u.ac.jp/^hishika/^tokutei.htm)にとっても重要な意義をもつ。発表論文Cでは、二人の詩人間の微妙な影響関係を辿る作業においてこの種の共同創作の理論化を行っている。
分担者・田口は60年代のビート詩の再評価を分析するなかで、ビート詩人相互のネットワークの基盤を歴史的に跡づけている(発表論文DEF)。特に日本と、アメリカの交流史を中心に、ネットワーク生成の原理、その精神的背景を論じている。
Koga has finished his interview with Prof. M. Perloff, dealing with the general issues of postmodern situation of mediated arts (Stanford University, Nov. 21-30, 1997). See @A below.
Araki has published her work on the textual analysis on the mediated figuration. See B.
Hishikawa has theorized on the electronic relay creation technique in his work. See C.
Taguchi has theorized on the networking among the Beat writers. See DEF
.
平成10年度の研究実績の概要 (Report in Brief: 1998)

研究代表者・古賀は、研究テーマについての総合的なレビュー(平成9年11月21日より30日まで米国Stanford大学にて Marjorie Perloff教授と懇談)を行った成果を、ホームページにて報告した(平成11年3月更新)。また、平成10年12月18日の東京・浜離宮朝日小ホールにおけるシンポジウム「日中国際芸術祭」に出席し、平成11年度に予定している中国・北京における国際学会の準備となるべき知見を得た。
分担者・荒木は、コンピュータ文化から逆照射して、印刷と声の文化について、伝達手段、発信者との関係等の視点から、理論化を検討中で、その成果の一端は、執筆中の「声とペルソナ---dramatic monologue再考」(仮題)に発表予定である。
分担者・菱川は既に発表済みの詩の「平行法」の具体的な実例をEzra Poundの詩において(ヘブライ詩の観点から)検証する作業を学会発表した(日本パウンド学会、平成10年10月31日、関西大学)。尚、現在、上記北京における国際学会での発表にむけて、Poundの試論にとって重要な意味を持つFenollosaの詩学をヘブライ詩の原理と対比して検討すべく、準備中でもある。
分担者・田口は昨年からの研究の続行として日本と、アメリカの交流史を中心に、ネットワーク生成の原理、その精神的背景を論じてた論文「ビート・ジェネレーションとアメリカ社会」Gを完成した。 また、その実践として、白石かずこの詩作品をジョン・ソルト氏と共訳し、『Sheep's Afternoon』(指月社)〔業績H〕として出版した。
Koga has made his interview public at his home page; attended the Chino-Japan Academic Art Festival (Tokyo, Dec. 18, 1998) for a preparation to the Beijing conference in 1999.
Araki has finished an essay called "Voice and Personae" (to be published soon).
Hishikawa has presented a thesis on parallelism at Japan Pound Society Annual Convention (Kansai Univ., Oct. 31, 1998), which is to be developed at the Beijing International Ezra Pound Conference.
Taguchi has progressed his research on the networking among the Japan-US poets in his papers and his book of translation. See GH.

平成11年度の研究実績の概要 (Report in Brief: 1999)

研究代表者・古賀は北京における国際パウンド学会に出席し、その報告記を学会誌において掲載した(当初計画していた研究チーム全員による成果発表は都合により実現しなかったが、報告会により研究の包括的進展に寄与した)。尚、最終報告書を取りまとめた(別紙参照J)。研究分担者の概要も別紙を参照(業績Iを追加)。
Koga and his teammates have finally submitted their report (see I, the attached papers). Though the full presentation of research project by all members at the Beijing International Ezra Pound Conference has not been materialized, the reportage has been submitted to an academic periodical by the project chair. For full report, see the attached papers.
研究発表業績一覧 (Works Presented for the Project)

@古賀, 哲男, 「アメリカ戦後詩の死角:今日の文学研究とは?(覚え書きその2)」(『人文研究』【大阪市立大学文学部紀要】48・11(1996):13-32).
A古賀, 哲男,「ミニ・シンポジウム『Shall We Dance?---現代詩の復権』報告」(『関西アメリカ文学』【日本アメリカ文学会関西支部会報】34 (1997): 72-73
B荒木, 映子,「顔を与えること、奪うこと---リファテールとド・マン」(『人文研究』【大阪市立大学文学部紀要】49・7(1997):119-131).
C菱川, 英一, 「1911年・ギーセンの夏---パウンドとフォード」(Kobe Miscellany【神戸大学英米文学会会誌】21 (1996): 79-94)
D田口, 哲也, "Politics of the English Landscape"(The City and the Country, ed. by Jurgen Kamn 【ドイツ・Die Blaue Eure社刊論集】1997:19-30).
E田口, 哲也, 「A Loser in the Rain: Alan Blessdale's Story of Yosser Hughes」(『同志社大学英語英文学研究』【同志社大学人文学会会誌】68 (1997): 239-257)
F田口, 哲也, 「The Winter of Discount and the Decline of Trade Union in Britain」(『同志社大学英語英文学研究』【同志社大学人文学会会誌】69 (1998): 133-150)
G田口, 哲也, 「The Working Class Audience of Rock Music, Liverpool in the 1960s」(『言語文化』【同志社大学言語文化学会会誌】1・2 (1998): 293-313).
H田口, 哲也 / ジョン・ソルト(共訳), 白石かずこ(著),『Sheep's Afternoon』【東京・指月社刊詩集】(1997, ページ番号なし、約30ページ)
I荒木, 映子. 「声とペルソナ-----dramatic monologue再考」(内田能嗣編『英語・英米文学のエートスとパトス』【大阪教育図書, 2000印刷中】)
J古賀哲男、他『インターネットは文学表現をどのように変えるか-----現代前衛英米詩とメディアの関係の一考察-----』(科研最終報告書)[別紙]

[別紙] インターネットは文学表現をどのように変えるか
−−−現代前衛英米詩とメディアの関係の一考察−−−
【科研[基盤研究(C)(2)]最終報告書】
In What Form and Substance Literature Can be Changed by the Internet: An Essay on the Interrelation between Contemporary Avant-garde English Poetry and the Media
【Final Report for 1997-99 Science/Humanities Promotion Project [Fundamental Studies (C)(2)], Sponsored by the Japan Society for Promotion of Science (JSPS)】
<序>
この報告書は、その挑戦的な題目を網羅的に論ずることをその目的にしていない。何故なら、ネットの各局部に現れる「メディア化された」(media-biased)*1現代文芸、とりわけ、前衛的な(英米)現代詩の諸相を網羅的に取り上げることはその文書化されたスペースからいっても、対象とすべき範囲の広さからいっても、非現実的であるからである。また、この報告書は当初は日本語で記述されるであろうから、その国際的な表現水準が危ぶまれるために、敢えて欧米での同様な議論の大半が前提とする議論の市場流通性を主眼としていないのも事実である。
さらに以下の断片的考察は、インターネット上における現代前衛詩の実験という極めて限られた題材を出発点にして文学表現の変質を考察するという趣旨であるが、その一般的な意味はおそらく、わずかばかりの余剰効果であり、その波及効果は全くの未知数であろう。
このような否定的弁明を述べる理由は、我々の3年間の研究の成果が当初の希望的抱負とは裏腹に僅少であるということのみによるのではない。むしろ、テクノロジー、メディアに席巻される世界が今日の芸術家にとって、極めて否定的な意味合いを持つことを確信するに至ったからであり、この否定性こそが多くのメディアと対峙する芸術家を駆り立てるものとなっているからである。トマス・ピンチョン (Thomas Pynchon)のいう「ラッダイト的衝動」*2こそが、実に表面的にはメディアとうまく渡り合っているように見える作家にも、共通して現れる要因である。
既に当初の「研究目的」にも書いた「インターネットというサイバー・メディアの力が文学表現という活字メディアをどのように変質させうるか」という問題設定はこの時点で反古にされたといってよい。なぜなら、今日われわれの扱う前衛現代詩を支配する意識はもはや「どのように変質させうるか」という段階を通過し、否応なしにサイバー・メディアの力による「変質」がその恒常的な「体質」として認識されうる状況、換言すれば、活字メディアという概念自体がすでにインターネットをも含む電子化された「サイバー・メデイア」(cyber-media)*1に内包されるという構造の到来である。
これは単なる言語的な修辞ではない。なぜなら、われわれが研究の過程で遭遇した数々の前衛芸術家たちが、一様に口をそろえて発するのは「作者の死」(death of the author)*2のみならず、「人間の死」(death of the man)、つまり、人間性の喪失という問題をを抱えた作者個性の消失という状況であるからだ。従って「これまで戦争体験や疎外された個人といった状況的な問題意識や古い文学手法の改変といった審美的な価値基準によって文学の内実を語ってきた態度を、極めてラディカルに『変える』ことを意味する」という説明も、専ら、否定的な意味合いにおいて語られねばならない。もはや、意図的に「変える」のではなく、現代のメディア統制社会では、そのような文学的・審美的立場は「変わらざるを得ない」のであって、「戦争」さえも巨大なメディア現象として出現し、*3また、「疎外された個人」という概念もすべて管理・均質化され、消費されうる「ライティング」の一痕跡(trace)としてしか現象しない大衆消費社会にあっては、おそらく、そのようなメディア統制社会に立ち向かうべき英雄的な芸術家像は、実際の創作においては、単なるカリカチャー(揶揄)の対象にすぎなくなってしまうのだ。おまけに、「古い文学手法の改変」というような様式的問題が、もはや今日のメディア芸術にあてはまらないのは、いくら、チャット・リレー が古代の連歌形式に類似したり、ネットによる共同創作がこれまた、中世の巨大なパリンプセスト(書き直し可能な写本)に酷似するとはいえ、基本的に今日のコンピュータ・ネット芸術が「自動記述」(automatic writing)を前提としているため、その「匿名性」(anonymity)および「機械性」(automatism)は作者の個性を消去する方向に働くことはあっても、増大はしない。*4
要するに、われわれが注目する前衛芸術家の意図どおりに、というべきか、あるいは、一般的なメディア芸術の理解と裏腹に、というべきか、今日のインターネットを介した前衛芸術、その一領域である前衛現代詩に現れる文学表現は、その「否定性」(negativity)あるいは「対抗性」(counteractivity)ゆえに重要である、と予め、結論づけたい。それは、個々の芸術家がメディアやテクノロジーに抵抗を示しているということではなく(むしろ、大いにツールとしての利便性やメディアの特性を最大限に利用している)、最終的な意味がサイバーなテクノロジー・電子メディアの根本的な存在理由・支配的価値を転覆し、無効にしようとすることにあると観ぜられるからである。
すでにわれわれが<研究の独創性および予想される結果と意義>の項目で指摘した「よりグローバルな前衛芸術表現やメディア芸術が志向している文化ネットワークの意義(文化の創造、社会のイデオロギー生産がメディアに依拠する点)」は従って、以下のように書き換えられねばならない。つまり、「よりグローバルな前衛芸術表現やメディア芸術が志向している文化ネットワークの意義(真の文化の創造、社会のイデオロギー生産が、今日の支配的なメディアには依拠せず、むしろ、それを転覆しようと試みる過程において成立する点)」と。 (古賀)
第1章: インターネットにおける前衛詩の実験:サンプルおよび理論化

(Chapter 1 The Experiment of Avant-garde Poetry on the Internet: Samples and Theories)

〔以下の見本は主として、Charles Bernsteinが主宰するサイトElectric Poetry Center (EPC): <http://wings.baffalo.edu/epc/>および菱川英一氏に収録されたサイト集を題材として得られた文学表現のサンプルを理論化するものである。尚、以下のサンプルは著作権上の問題もあり、その一部をコピー印刷せざるを得ず、また、HTML言語の性質上、活字媒体として印刷することはあまり意味がないので、専ら、2000年3月現在での主要なサイトを提示するにとどめる。〕

T 見本 (Samples)

見本その1は Charles Bernsteinの視覚詩(visual poetry)3篇 "cannot cross," "littoral," "veil"である。第4章(2)の議論でいう「通常の線的な語りがいかに遮られているか」を例証する補助的なサンプルとなるであろう。
見本その2は Susan Howeの詩の音声ファイルを示した頁であるが、これは "Line Break"というプロジェクトの一環であり、「いかに詩人たちが<声>をサイバー化することにより、新たな方法で詩のマルチメディア性を活用しているか」を例証するサンプルとなろう(ただし、この報告書では音声ファイルは扱えないのでそういった方向性を示唆するにとどめる)。
見本その3は Annie Abrahamの "being human"という動態詩 (kinetic poetry)のサンプルであるが、これも活字コピーしたものでは画面上に動いていく詩のあり方を示せないが、そのような方向性を示すにとどめる。
主要サイト[場所]一覧のサイト一覧は菱川英一氏のホームページ に掲載のサイトの一部である。
U 理論化: 線形テクストと非線形テクストとの関係 (Theories: Relations between Linear and Non-linear Texts)
本章は以上のサンプルを基として線形テクスト(linear text)と非線形テクスト(nonlinear text, hypertext)とが、インターネットが一般的となった現在のメディア状況において、どのような関係を構築しつつあるのかについて、考察を試みる。*1この問題について筆者が現時点で到達している結論はつぎの通りである。
まず、インターネットは非線形テクストの詩作(composition)テクノロジーを数年間という短い間に普及せしめた。*2そして、その技術が可能にした産物(product)が一般に普及するのには、時間はほとんどかからなかった。つまり、そのテクノロジーの成果は瞬時に世界に届いたのである。それを享受するのにいっさいの予備的専門知識等は必要ない。インターネットのもたらしたものは、かくして、新しい詩作テクノロジーの急速な普及と、その享受の即時性という、加速度的な変化である。
つぎに、新しいテクノロジーによるにもかかわらず、そのテクストの本質的拠り所は「連鎖」にある。「一方の端にふれたら、他の端がゆらいだ」とチェーホフの「学生」が感じた、あの連鎖である。「非線形」とは一見矛盾するかに見えるこの連鎖は、伝統的な概念で捉えられる(線形的)連鎖と、その本質は同じくするものの、そのモードが違う。つまり、つながり方が違うのである。新しい連鎖は「見えざるもの」と確かにつながる、その点が従来の連鎖と違う。つながる相手はいまは目に見えないが、望めば直ちにつながる。従来の連鎖においては、連鎖を成り立たせるものとして物理的連続性、すなわち時空の連続が必要であった。新しい連鎖においては時空の連続は必要なく、ただ同じ電脳空間(cyber-space)という仮想的空間にあることだけが必要条件である。その空間にいるときには、見えざるものと確かにつながっているという「連鎖の感覚」が存在する。
さいごに、この新しい連鎖の形は、新しい詩の構造をもたらす。確かにつながってはいるものの、相手の姿が見えない結合形態は、詩の基本的構成原理である並行法に微妙なゆらぎを与える。詩の並行構造が distich(二行連句)によって成るとすれば、stich A とペアをなす stich B の存在は不可欠である。ところが、この新しい連鎖様式では、stich B の存在はほぼ確実であるものの、目に見えない。さらに、潜在的可能性として、その stich B はべつの stich C につながっているかもしれない。まれな場合には、stich Bが失われていることもある。かくして、2点を焦点とする楕円構造的世界観をもっていた並行法の世界像がゆらぎ始める。*1
このような新しい連鎖様式の萌芽はすでに14世紀のダンテにあったが、20世紀に入って、「モダニスト」パウンドやエリオットが明確に意識し始め、ついに21世紀を迎えようとするときになって、インターネット・テクノロジーに加速された結果、それと意識されないほど日常的な様式となっている。*2
しかし、現下の状態で最大の問題点は、それが仮想空間に支えられて成立しているということである。<序>にいう「活字メディアという概念自体がすでにインターネットをも含む電子化された『サイバー・メディア』に内包される」事態である。その構造は実はあるヴェクトルを隠し持っている。「作者の個性を消去する方向」である。
これに対抗して、「メディアの支配」を転覆しようとするアーティストは、一体どのような戦略を立てうるだろうか。「言語詩人」の試みや「インターネット外の詩人のネットワーク」、「モダニズム文学の自己言及性が孕むテクスト内外への照応」については他の章で扱われるであろうから、ここではそれ以外の戦略について触れる。
どのような空間に支えられるのであれ、「連鎖」そのものが存在するのは疑いようがないと確信する詩人は、仕掛けを作品内に埋め込む。それはパウンドの言葉を借りればある種の「裂け目」(crannies)である。*3ほとんど目につかないほどの継ぎ目のほころび、しかし見る者が見ればしかと確認できるテクスト間のつなぎ目の乱れ。言葉には現れないそこに、詩人個人が刻印される。「連鎖」そのものは成立しているのであるが、なぜこれとこれがつながっているかの真の理由は「秘義」または「秘技」として存在する。テクストとして顕在化していないのであるから、ここはメディアに支配されることがない。(菱川)
第2章 インターネット上の前衛詩の実験に対抗するネットワーク:現代アメリカ詩人たちの "Conjunction"(接合関係) (Chapter 2 Networking against the Avant-garde Experimentations on the Internet, or "Conjunctions" among the Modern American Poets)
テクノロジーの発達は文学の表現様式を変えてきた。言語そのものがテクノロジーの一部であるとする説もあるが、ここでは言語以外のテクノロジーの発達が、文学の表現様式をどのように変えてきたか、変えつつあるか、また、今後どのように変えていくかについて、専らアメリカの現代詩を具体例にして考察していく。
タイポグラフィーの実験はタイプライターの普及がなかったなら考えにくいことであるが、例えば e. e. カミングズの詩が絵画的であると断言するのはいささか短絡的である。確かにタイポグラフィーの効果によって詩の視覚的な要素を高めたことは確かであるが、カミングズの主題が19世紀以来の自由主義・個人主義の文学の延長線上にあることは否定のしようがなく、自由な個人の内面を彼が歌おうとする以上、彼の表現の根幹にはホイットマン以来の口語性(=交互性)が強く残っている。しかしながら、いったんタイプライターによって口語自由詩を表現していく過程において、詩人の本来の意図とは無関係に独立した詩の絵画的・デザイン的効果が生み出されていく。カミングズや、あるいはT.S. エリオット、エズラ・パウンドのようないわゆるハイモダニズムの詩人たちが一様にこのような呪縛から逃れることができなかったのは、彼らが芸術家のコミュニティーの創設よりも、例えば出版を通した間接的なかたちでの芸術の受容をあくまで重視していたからである。パウンドはラパロでインフォーマルなアカデミアを主催していた時期があった。その生徒のひとりであった詩人で、後に The New Directions を創設することになる James Laughlin はこの "Ezuversity" の ”カリキュラム”を面白おかしく回想しているが*1、パウンドの強烈な個性と学識とウイットを同等の力量でもって受けとめることはほとんど誰にも不可能だった。
1950年代後半から起こった新しい波はこのような出版を媒介とする少数の芸術家エリートと多数の読者という一方的な関係を打破し、双方向的な芸術の受容によって新しい芸術運動を起こそうというものであった。ビートニックがもっとも有名になったが、オルソンやクリーリーなどのいわゆるブラックマウンテン派の詩人たちや、ケネス・レクスロスなどを中心としたサンフランシスコ派の詩人たちが複雑に絡み合って50年から70年代にかけてアメリカ詩は活性化していった。グレイハウンド(長距離バス)、郵便、電話の3つを例に挙げてこの時代に起こった変化を考えてみよう。
グレイハウンドは安価な移動手段として、いまでも飛行機を利用できない層に重宝されている。ビートの中心はもともとニューヨークで、ウイリアム・バロウズ、グレゴリー・コーソ、ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグなどのいわゆるコア・メンバーたちは保守的な詩人・文学者たちと違って東海岸に安住せず、西海岸や、やがては日本、インド、モロッコなどにも足を伸ばして、自分たちの詩のコミュニティーを建設していく。特に、サンフランシスコ派の詩人たちとの交流がなければビートはセンセーショナルなデビューを迎えなかったのではないかとさえ思われるほどだ。ギンズバーグの1975年の詩集、Sad Dust Glories: Poems during Work Summer in Woods (Berkeley, The Workingmans Press) は「1974年の夏、ギンズバーグがシエラネバダ山中の、ゲイリー・スナイダーの住居近くに土地を求め、そこで自力で小屋を建てるために労働した、その過程で生まれた詩編である。」*1この冒頭の詩編を諏訪優氏は次のように訳している。
グレイハウンド長距離バスに乗って
ダナー峠を越える以上に
寂しいことは ありはしない
スーパーハイウエイ80を
トラッキーを通って レノへ
二十歳の頃
コンクリートの上を走りながら
あの頃は
氷でおおわれたキャッスル・ピークを
思い焦がれていた
(「若き日の手帖」*2)

キャッスルピークはコロラド州にある4千メートルを越す山であるが、詩人がコンクリートで固められたニューヨークを相対化し、同時にその対極としてのアメリカの大自然をも相対化することができたのは、皮肉にもグレイハウンドのお陰であった。

この肉体の移動を容易に可能にした長距離バスの発達に加えて、アメリカ詩人たちの活動を活発にしたのが郵便である。アメリカはとてつもなく広い。ラジオやテレビがヨーロッパよりもアメリカでいち早く大衆性を獲得したのは、この広大な大地におけるコミュニケーションのあり方を考えれば納得できるはずである。ニューヨークのような大都市を除くと、例えば最寄りのショッピング・モールやスーパーマーケットまで車を30分から1時間走らせなくてはならない町がほとんどだ。さらに、ある商品や情報を効率的に流通させるためにはどうしてもネットワークが必要になってくる。遠隔輸送、遠隔通信、ネットワーク、さらにはそのネットワークを成立させるためのスタンダードが必要で、振り返ってみると20世紀後半のアメリカ文明はこの4つのコンセプトを中心に異常な発達をみせ、さらにその発達がアメリカの外側にまで拡張されたというのが実状である。自動車、飛行機、電報・電話、巨大なテレビ塔によって繋がれたテレビのネットワーク放送、ケーブルテレビ、そして今、インターネットの時代を迎えている。
郵便による情報交換は文学、特に詩のように比較的分量が少なく、エソテリック(秘教的)で、共時的なメディアにとっては理想的な手段であったと言える。「アメリカン・ポエトリー・リビュー」は新聞の体裁になっているが、これを書店などで購入する読者はほとんどいないであろう。郵送による直接購読が講読層の中心で、しかもその中には実作者が相当数を占めている。「アメリカン・ポエトリー・リビュー」には作品やエッセイ以上に、詩集、リトルマガジンなどの広告媒体が占める割合が大きく、いわばブレッティンボード(掲示板)の役割を果たしている。これはいわば氷山の一角であって、この種のメディアは相当数に上る。このようなアナログ的なネットワークの存在はインターネット上のネットワークと少なくとも同等かあるいはそれ以上の影響をアメリカの詩壇に与えているといっても過言ではない。というのもカジュアルさがこの種のネットワークの浮沈の鍵を握っているからだ。クエンティン・タランティーノはタイプが打てないので、初期のヒット作品の脚本をフェルトペンで書いたという逸話が残っているが、タランティーノ言わせると、これだと友達の家でもどこでも、立 ってでも、寝ころんでも書けるというのだ。タランティーノが口語性を重視するストーリーテラーであるとういうのはすでに定説だが、カジュアルさと口語性はまさにアメリカ詩の生命線である。ローレンス・ファーレンゲッティのシティーライツ社の文庫本は文字道理ポケットに入る、せいぜい1ドルそこらの値段の本であった。彼らは路上で、カフェで、キャンプ場で詩が読まれることを目指したのである。
このようなカジュアルな詩人のネットワークの最近の例としてカルフォルニア州ファイロ (Philo) で「出版」されている "AM HERE FORUM" がある。これは詩人がそれぞれ勝手に自分の作品の頁をエディターに送り付け、エディターはそれをゼロックスして、表と裏に簡単な表紙を付け、連絡先とエディトリアルを付けて、ステイプラーで留めただけの「雑誌」である。まるで日本の学級便りのような体裁であるが、寄稿者の顔ぶれはすごい。手元にある1992年の3月号にはウイル・インマン(Will Inman)、ロニー・バーク(Ronnie Burk)、チャールズ・ポッツ(Charles Potts)、アントラー(Antler)、チャールズ・ブコウスキー(Charles Bukowski)、アイラ・コーエン(Ira Cohen)、R. デイビッド・ダール(R. David Dahl)、スティーヴ・ミュア(Steve Muir)、ジョン・ソルト(John Solt)などの名前が見える。非常にオープンな詩誌で、寄稿者はたいてい自分の住所、あるいは電話番号、ファックス番号を記しているので、読者が簡単にコンタクトを取れるようになっている。この号はたまたま湾岸戦争特集であったが、湾岸戦争特集といえば、日本の『鳩よ!』が同様の特集を編み話題になった。『鳩よ!』には17人の日本詩人と、28人の海外からの詩人の寄稿を得たが、海外の詩人からの寄稿が日本の商業誌にかくも短期間に可能になったのは、日本側からの寄稿者であった白石かずこが、電話やファックスによって彼女のネットワーク上の詩人たちに連絡を取ったからであった。つまり、ファックスの存在がなければ、海外からの寄稿は極端に脆弱なものになったのは間違いない。白石かずこの作品はレクスロスやギンズバーグによって英訳されているが、彼女がアメリカ詩人たちのカジュアルなネットワークの方法を彼らとの交流を通して学びとったことは間違いない。
さて電話であるが、ここにひとつ興味深い事実がある。前述したように、アメリカの広さはアメリカに住んだ者でないと理解できない類のもので、文明批評の元祖のひとりであるカナダの学者マーシャル・マクルーハンなどは、日本やヨーロッパの人間には北アメリカの空間感覚を理解できないだろうとまで言った。広漠たる海のように広がる大地のなかに点在する人間をテクノロジーが繋ぐようになってアメリカは初めて大国に変身していったが、現在の情報スーパーハイウェイの前には航空機の国内線が、テレビのネットワークが、そして電話網がすでに網の目のように張り巡らされていたのである。E- メイルが普及するまでは電話のネットワークがコミュニケーションの主力であった。レナード・コーエン(Leonard Cohen)は英国BBC制作の特集番組のインタビューの中で*1、ジュディー・コリンズ(Judy Collins)に後にヒット曲となる「スーザン」を初めて歌って聴かせたのは電話口であったと回想しているが、北アメリカの人間は電話のビジネス以外の様々な使い方を知っていた。ところでアメリカ合衆国で電話がすべて自動化されて、番号のみを回せば相手方に通じるようになるのは1964年のことであった。「現在のようにダイヤル通話が普及するまでは、電話というのは、交換手に相手の番号を伝えて繋いでもらうのが普通で、64年までは交換局のある地名と番号を交換手に告げていたのだ。従って、地名を廃止して局番を採用し、すべて数字による通話を始めるとアメリカの電話会社 (ATT) が通告したときには反対運動が起こったほどである。日本人のほとんどはダイヤル通話になってから電話を利用し始めたので、ダイヤル通話以前のアメリカの「電話文化」の中で育った人々の ATT の通告に対するショックは理解しにくいかもしれない。それは日本でいうと、例えば烏丸今出川という言い方を廃止して、すべて7桁の郵便番号で住所を表示せよというのに似ている。」*2
以上、グレイハウンド、郵便、電話の3つの例を挙げてアメリカ詩人たちのネットワークについて考えてきたが、口語性(=交互性)、カジュアルなコミュニケーション、移動(モビリティー)などが彼らのコミュニティー形成の中心をなす概念であることが理解できる。これは同時に極めてアモルファス(無定型)なアメリカ文明の裏返しであることにも気付くはずである。ギンズバーグとケルアックの「西進」がきっかけになって起こったビートの高揚はさらにその後全世界的に展開していくことになる。タンジール、カルカッタ、京都などはニューヨーク、サンフランシスコ、バークレーと同じようなアメリカ現代詩の拠点となっていくのである。最後に現在のアメリカ詩人たちのネットワークのあり方を簡単に紹介してこの項を終えたい。
インターネットの時代を迎えた今、アメリカの詩人たちは積極的にサイバー・ネットワークを利用している。サイバー・ネットワークの最大の利点は双方向性もさることながら、ポエトリー・リーディングの場がそのまま提供できるという点である。ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジには幾つもスタジオができ、FMステイションがそのままインターネット上に乗るようになった。またかつて入手しにくかったリトル・マガジンもオンラインで見ることができるようになった。しかしながら、アメリカ詩人たちは、かつてギンズバーグがグレイハウンドに乗って西海岸を目指したように、またファーレンゲッティのシティーライツから出ていたポケット版の詩集をカタログ販売のように郵便を使ってダイレクト・メールで購入したように、そしてレナード・コーエンが自作の曲を電話口で歌ってみせたように、あくまで主体性を失わず、インターネットをツールとしてより便利に利用しようとしているように思える。ギンズバーグもバロウズも死んでしまったが、例えばオハイオ州デイトンで発行されている Nexus のような詩誌はビートニックの伝統を見事に受け継いで、オープンで、カジュアルで、口語性を基本とした詩のコミュニティーのネットワークを死守している。政治・経済の面から言うと、アメリカは透明性と公開性を武器にして世界から資本、技術、人材を集め、市場を世界に広げていったのだが、詩の世界においてもそのカジュアルな双方向性が世界中から才能を集めるネットワークのノッドを量産する環境をなお維持していると言えよう。 (田口)
第3章 声と表象、或いはメディア史における認識論的展開
(Chapter 3 Voices and Representation, or the Cognitive Turn in the Media History)
ヒュー・ケナーは、グーテンベルグの印刷革命により文学の創造は潜在的にストイックな行為になったと述べたが(Hugh Kenner, 1974)、それは、生き生きとした声を奪われ、テクストに固定化され閉ざされた言葉の限界を言い当てたものだった。マクルーハン(Marshall McLuhan) やオング(Walter J. Ong) は口承文化( オラリティ) から文字の文化(リテラシー) への変化がいかに人間の意識を変貌させたかをあざやかに示したが、彼らは、コンピューター( エレクトロニクス) の出現が、言葉と空間とのかかわりをさらに深めると同時に、二次的な声の文化を生み出すことをも予見していた。今日では、活字以後の新しいメディアがどのような変化をもたらすのか、人間性は崩壊させられるのかどうか、といった議論が活発化している。
詩人の自己表現という視点から、これら三つの文化( 声→文字→コンピューター) のパラダイム・シフトをながめてみるのが、私の関心事である。まず、口承文化の時代には、詩人は自分が持っている伝統的なテーマや決まり文句の蓄えの中からひょいとつまみ出し、竪琴のひびきにのせて歌ったのであり、文字で書き記されるようになってからのような、推敲や"textual framework" の中での思考方法とは無縁であった。声の文化に基づく世界とアルファベットによりつくられた世界との間には認識論的断絶があり、全く異なった精神空間がひろがっていることがすでに指摘されている。口承詩人は音と拍子に促されて舌を動かされているようなもので、近代的な意味での自己意識を持つ詩人であろうはずがなかった。詩が文字に書きつけられるようになっても、口承文化の影響は残り、たとえば、中世のトゥルバドゥールは、恋愛詩を歌っても、自分の体験を歌っているのではなく、「まことの愛」という常套に従って、ある高貴な女性の美しさを賛美したり、女性のつれなさを嘆いたりした。その歌い方も高度に公式化され、常套句や繰り返しを魔術的に使い、洗練された芸術作品を作りだしたのであった。著者のオーソリティーもオリジナリティーという概念も成立のしようがない時代であった。宮廷風恋愛の叙情詩においては、貴婦人を礼賛する内容であっても、苦悩を歌う( 男性の) 詩人の技と忍耐の方に重きが置かれていたので、言葉の巧みな紡ぎだし手としての自覚はあったと考えられる。いずれにしろ、印刷文化が浸透するまでの声に基づく文化には、翼を持った言葉のはかなさ以上に強靱な生命力を感じずにはいられない。
詩人が一個人としての自己を意識するようになるのは、文字によってものを考える精神が生まれてからであった。西洋文学史的には、ロマン派の叙情詩において、詩人はかつてないほど「個性」をそなえた「私」として登場し、「私」に関する感情や考えを吐露することに関心を向け始めたのである。宗教的告白を離れて、自分に関する真実を読者にさらけ出そうとする自伝が盛んに書かれるようになったのもこの時期である。自伝が勃興する原因は、啓蒙主義運動、産業革命、ブルジョワジーの社会的台頭等十八世紀の文化的発展にあるとされるが、その淵源には、印刷文化による認識論的転回があったことは間違いなかろう。しかし、ロマン派が創出した自己はきわめて脆弱なもので、ほんものの自己と仮面との二重性に悩むことになってしまう。そして、モダニストの詩人においては、自己のアイデンティティの問題がほとんどクリシェのように現れるようになるのである。
『生と死のレトリック―自己を書くエリオットとイェイツ―』(1996)では、「非個性」や「仮面」を希求するという、自己否定的方法によって、逆説的に二人のモダニスト詩人が自己のアイデンティティの追求をはかったことを論じたものである。これを理論化する際に、ポール・ド・マン(Paul de Mann)が指摘した、自伝と墓碑銘が含む活喩法(prosopopoeia=to make a face) の脱構築的構造―「顔を与えること」が「顔を消すこと」(defacement=脱比喩化) になるという― に触れ、この構造がエリオットとイェイツに見られると考えて、これを「生と死のレトリック」と名付けたのであった。今の時点で考えると、「ディフェイス」は今日のコンピューター・リテラシーが提起する問題を先取りしているように思えてくる。つまり、言葉が情報の単位となり、抽象的な概念操作によりメッセージが届けられるところには、主観的な意味の入る余地がなく、人間の顔や表情が全く欠けた人工物が生産されるからである。「顔がない(ディフェイス) 」ところに「インターフェイス」が可能かどうか、認識論的断絶が克服できるかどうか、がこれからの課題になるのではなかろうか。
また、「声とペルソナ―dramatic monologue再考―」(業績I)では、ロマン派の自己表白がモダニズムの自己隠蔽に移行するきっかけとなったと考えられる劇的独白の手法について論じたものである。これはエリオットにも見られるし、ブラウニングやテニソン等のヴィクトリア朝の詩人が盛んに使った手法である。詩人自身か詩人に近いペルソナに自分の経験を語らせるというロマン派の告白形式とは対照的に、詩人とはしばしば全く異なった個性的な人物を語り手として設定し、特異な経験や出来事を語らせ、それによってその人物の性格や思想を読者に開いていくというものである。ペルソナによる劇的独白は、誰か聞き手を想定して呼びかけていて、声の文化が持つ対話性を取り戻したとも考えられる。しかし、それと共に、現代詩はますます、主観的な詩の発生源を覆い隠して、客観性を装うようになったのである。
まとめていうと、口承文化の時代においては、詩人は人間の経験を歌っているということを歌った。文字の使用が始まってもこの伝統は続いた。ところが、ロマン派の頃から、古典主義への反措定からか、あるいはラングボ−ム(Robert langbaum) によれば、啓蒙主義が個人を客観的価値から引き離してしまったために、詩人は主観的にならざるを得なくなった。個人性や独自性というロマン派の詩学は、孤立主義的な印刷文化の産物である。現代詩が非個性や仮面の美学を求めるのは、「影響の不安」のない声の文化への回帰願望と言えるかもしれない。そして、今日の電子メディアにおいて、二次的な声の文化が優勢になるのか、あるいは情報機械が圧倒するのか、そして詩はどう変わっていくのか、変化を見守りながら、研究を続けなければならない。 (荒木)
第4章 脱近代、脱サイエンス、脱人間化へ、対抗的テクノロジーの思想
(Chapter 4 Toward Demodernization, Descienticism, and Dehumanization, or
the Idea of Counter-technology)
テーマが抱える問題を再理論化してみたいと思う。 尚、この章の表題が意味しているのは、今日の前衛詩がいかに表面的にはインターネットというようなメディアを取り込んだように見えながら、実は近代的な思想である科学テクノロジーを越えようとし(脱近代)、そのような超克のあり方が通常の分析的な「知」(サイエンス)の解体およびその一般的な表象であるテクノロジー解体の方向にむかうものであり(脱サイエンス)、さらに自らの身体性(表象性)によって非人間的テクノロジーの解体あるいは新たな人間観を記入するための解体行為に向かうものであるか(脱人間化)という対抗的思想を表明するか、である。
様々なレベルで議論が多岐にわたってくるともう一度、基本的な用語・概念で再定義することが必要となってくると思われる。以下の議論は概念的に見えるかもしれないが、今一度基本的な再定義を目指すものである。
(1)再理論化:文学・テクノロジー・人間
ここでわれわれは、「文学」「テクノロジー」「人間」という三者をめぐる寓話を意図したリチャード・ポイリエの議論*1を援用する。この議論はわれわれの目指すメディア芸術の「脱人間化」という議論への橋渡しである。

1)「人間」(大衆)は自らがそこに対象化され、「使用」されてはきたが、長らく「文学」(前衛芸術)を読む(体験する)ことは出来なかった。近代以降の大衆社会ではしかしながら、識字率の上昇によって、「大衆」は「文学」に対し、新たな影響を行使し始める。それも(純粋・前衛)文芸を「読まない」という皮肉な過程である。大衆教育もその帰結からいってこの現象を追認している(純粋・大衆文芸のあいだの乖離)。

2)(前衛)文学はその難解さによって、一般大衆読者を排除している。それは「文学」内の政治的理由による。特に、モダニスト文芸がその形式的諸要素により、つまり「難解さ」によって達成しようとしたのは、大衆読者の出現によって失われた「感受性の伝統」(世紀末より20世紀初頭にかけての芸術至上主義的価値観)を取り戻そうとしたことである。「文学」内においてこの価値観の蔓延は「文学」を非大衆的・エリート的なものにした。

3)「人間」(大衆)を生み出した「テクノロジー」は第二次世界大戦後、「文学」を放逐し、テクノロジー自らを顕在化させる社会を生み出した。つまり、インターネットというテクノロジーの普及はその民主主義的イデオロギーからいっても、反大衆的な「文学」を抹消させる効果をもつ。逆に「文学」は「人間」に対し、テクノロジーが及ぼす影響・帰結を語っている(T. Pynchonの『重力の虹』(1973)は「文学」でなく、「メディア」に支配された世界での人間の状況を告発している)。

4)「文学」は自らの理想(自然・実在)の喪失を「テクノロジー」に表象されるもののせいにしてきた。搾取的な支配関係や資本主義的悪弊も形を変え、そのような「反」文学的表象とされてきた。これは「文学内部のテクノロジー」の思想にも関与し、言語や理性というテクノロジー的要素を語る際の哲学的意味に敷衍されうる。

5)「文学」行為のテクノロジー性は、テクノロジー本来の作用(適応化・取り込み・自動性といった諸要素)の類推を免れえず、過去の「文学」さえ今日の「文学」にとって一つのテクノロジー(利用価値のある技術)として現象する。いわば、サイエンスの基本である分析的方法の普遍化が「文学」行為自体にも働く。

6)過去一世紀の間に起こった重要なことのうちに、何が「自然・本質」(nature)か、「伝統」か、「人間的」か、という内実の変質である。従って、今日の電子メディアの形のテクノロジーによって真に脅かされているのは、「文学」総体ではなく、(文学)言語における対話行為(テクノロジー)のメカニズムである。

7)文学それ自身の価値に直結する特質とは、テレビ映像のような明瞭なイメージを提示することを拒むことである。それはテレビ(ヴィデオ)映像が決して提供することのない、言葉との格闘(対話行為)による言語の不明瞭化(複雑化)である。

以上の7つの断片的引用・要約は、ポイリエの高度に専門的な批評を粗雑に加工するものであるが、基本的な主張を大幅にねじ曲げるものではないと思われる。そこで以下、われわれが題目とする前衛詩を例に取りながら、具体的に、再定義・再理論化を試みてみたい。

まず、1および2の主張であるが、これは(前衛)文学が専門化した特定の読者しか持たず、(一般)大衆の関心から乖離している点を「文学」「人間」双方の側から定式化したものである。 言語という普遍的な「テクノロジー」に媒介されつつも、しかしながら、「文学」の本質がそのような言語文化のなかで極めて「偏った」構築物であるという主張である。これには、近年のポストモダン文学(とりわけ「アヴァンポップ」 "avant-pop"と呼ばれるジャンル)が文学の前衛的要素と大衆文芸的要素をうまく結合させたものとして必ずしも一般大衆読者を排除していないという主張や、そもそも「文学」の中核を担うべき小説ジャンルの成立が中流階層的大衆読者の登場を前提としているという議論からも、強力な反対意見が提示されるであろう。
しかし、ここでポイリエのいう「文学」とは言語に対する「人間」の特別な努力を要する、言語および人生に対するある規律的な形であって、それはスポーツや園芸という他の行為に匹敵し、従って、その定義からして大衆的行為ではないとされる。
3の主張は1および2の主張の帰結である「文学」の内向化・自己目的化と深く係わっている。今日のメディア統制社会ではそのように自己目的化した「文学」は無視できうるマイノリティとなるという。さらにメディアによる情報化・社会文化のグローバライゼーションに伴って純粋な固有文化の維持は困難になり、またメディアによって「文学」の基盤である一定の識字能力(literacy)さえも不要になるという危惧は、しかしながら、あまり現実的なものと思えない。コンピュータ・リテラシーはおそらく、「文学」に対するリテラシーとは別個に想定されねばならないからである。
従って、4、5、6の主張もコンピュータに表象されるテクノロジーの分析性・サイエンス化の認識として否定的なものとして働く一方で、それらに対抗する文学のテクノロジーの可能性を主張するものとなる。7の主張もそういった明晰な分析性に対抗する曖昧化・不明瞭化の戦略を説くものである。
ここで以上の主張の妥当性をある文化人類学者と情報科学者との対話における発言に対照させてみて、その「対抗的」な戦略としての文学テクノロジーを考えてみたい。

樺山紘一: 日本を含めて高度産業化社会の中で、ますますインターネットを含めてメディアが高度化し世界的なグローバルなバーチャルコミュニティーができあがる。その中で果たして先ほど考えた個人というのがどうやってこのメディア化社会の中で生きていくことができるのでしょうか。
西垣通: これは非常に本質的な問題で、簡単に答えるのはむずかしい。私はこれまで基本的には、モダニゼーションの限界をいろいろ批判してきました。にもかかわらず、薄っぺらなポストモダン風潮の中で、今では西欧的な意味のモダンというものをきちんと位置づけないといけないとも考えています。反動的だといわれてしまうと困りますが、モダンを立て直す作業の中で、それこそインディアンだとか、アフリカの諸部族だとか、日本の昔の人たちなんかが持っていた豊かなコスモロジーを生かしていかなくてはならない。妙なオカルト信仰に堕落せずにいかに新しいモダンというものを作っていくか。そのためには、ある意味で客観的であり、冷静なまなざしがなくてはならないだろうと思います。とはいえ、具体的にどうすればよいかというと. . . 。
樺山: 私も困っていますが、このインターネット社会の中で、ある個人がどこかによりどころを求めるためのチャンネルをあけておかなければいけない。

一つは身体性だと思います。こういう電脳化社会の中でも、人間の感性とか精神とかいった事柄に物事の核心を追い求めるというのが、近代社会なり近代精神の一種のルールだった。つまりデカルトが心身二元論を立てて以来、この問題を解くのは心身の心のほうだとみた。したがって心を豊かに耕して、想像力を滋養したり、あるいは倫理的な判断力を磨きあげたり、あるいは知的能力をより磨きあげることによって、起こり得る危険を察知するとか、個人を救済できる、電脳化社会の中でも救済できると考えてきたけど、ここには自ずから限界がある。そのとき個人が依拠すべきチャンネルがべつにあるとすれば、やはり、身体性、体だろう。
今では、身体そのものがバーチャル化されて、自分の体でありながら自分の体ではない。たとえば病院に行くとたくさんの検査があって、ディスプレーの上に自分の体の内部が写し出され、それが動いてみたり、時には病気になってみたりする。ほとんどコンピュータ・グラフィックスだ。体はきわめてバーチャル化されるけれど、しかしそのもとにあるのは自分の体であって、その体も単に生きた肉体を持っている体という一般命題をこえて、耳があって、目があって、お臍があって、性器があって、それぞれが固有の知覚原理と行動原理を持っている。その身体の具体性をもう一度読み返すところに、一つ拠点を求めなければいけないんだろうと思います。

西垣: そうですね。武道とか踊りがいま着目されているのも、やはり身体性ということに感づき始めたからでしょう。結局いままでコンピュータというのは、身体から遠く離れたところにあったわけですね。

コンピュータというのは、身体をふくめて物事を統合的に扱うというよりは、物事を分析しアルゴリズムとして組み合わせることを可能にしたツールですよね。だから基本的にいうと、その行き先というのは、分析的推論メカニズムの集積体としての人工知能になってしまいます。*1
結論的にいうと、コンピュータに代表されるサイバー・メディアの力を非人間的な人工知能に向かう機械(記号)であると感覚することと、人間・生物のもつ身体性を普遍的な情報メディアに対峙する「固有な」知覚メディアであると認識すること、の両者を理論化する必要があるということではないか。これは人工知能という思想や「身体性」とは何であるのか、そして言語にとっての表象性という問題を内包する。
例えば、サイボーグ化した身体の延長として、今日の前衛芸術を捉えるとすれば、そこに現れる「反サイエンス」「反テクノロジー」の思想はどのような意味を持つのであろうか。あるいは「身体性」、つまり、直接的な知覚、を人工化・テクノロジー化に対抗する媒体としての「自然」と捉えるならば、現実再現的なメディア(テレビ映像などを通じての仮想現実)の限界こそが、「脱人間化」に対抗する最後の砦なのだろうか。あるいはさらに、そもそも機械の人間化であるべきサイボーグ(サイバー・メディア)が「脱人間化」を促進するといえるのだろうか。なるほど、仮想現実というシミュレートされた環境がその大半はまだ実験段階にあるとはいえ、コンピュータ・グラフィックスやテーマパーク、電子博物館等の実験はわれわれの現実感覚に微妙な影響を与えている。
文化的統一をネットワークという思想で行いつつあるインターネットが文化多元主義(multi-culturalism)を取り込み、ローカルな文化・民族・風習をそれぞれ反映しつつも、最終的に情報ハイウェイとして統合していくプロセスは、やはり、テクノロジーの力を象徴していると思われるが、これを従来の価値のヒエラルキー崩壊に結びつく平等化・均等化として歓迎する(又は嘆く)態度にはもう一つの側面がある。それは、既にアメリカにおいて「文化識字能力」(cultural literacy)を単なる文化的トピックスの広がりの表面を撫でるだけの読み書き能力として捉えざるをえない事情が示している問題であり、それは同時に文化における普遍的価値の崩壊・消失が新たなる再編・創造へ向かう契機となる自由を意味する点である。さらにこれはわれわれの唱えるインターネットの「否定性」「対抗性」と結びつく。
つまり、最終的にテクノロジーの非人間性によって人間の生み出した芸術が「脱」人間化され、そして同時に新たに「再」人間化されるというプロセスこそが近年の前衛芸術の特質である。また以下で検証するように、「身体性」をその中心的な思想として「対抗的」テクノロジーを生み出そうとする人間の営為(これは言語芸術の場合、言語の豊かな「マルチメディア的」表象性によって言語の純粋な記号的・ツール的使用に対抗するプロセス)の重要性を主張したい。
従って以下の考察は、上記の再理論化を例証するためにも、ある前衛詩を例にとり、その言語の身体性、表象性を対抗的なテクノロジー創出として捉える試みである。
(2)言語の身体性、その対抗的思想: 近年の前衛詩を例にとって
まず、80年代以降のアメリカの詩の状況でもっとも注目され、話題になった一群の詩「言語詩」(Language Poetry)*1に影響を与えた主要詩人のひとり、アシュベリ(John Ashbery, 1927-)の詩の表象性・メディア性を考えてみたい。以下の引用は90年代初頭の長篇詩『流れ図』(Flow Chart, 1991)の冒頭部分である。
Still in the published city but not yet
overtaken by a new form of despair, I ask
the diagram: is it the foretaste of pain
it might easily be? Or an emptiness
so sudden it leaves the girders
whanging in the absence of wind,
the sky milk-blue and astringent? We know life is so busy
but a larger activity shroud it, and this is something
we can never feel, except occasionally, in small signs
put up to warn us and as soon expunged, in part
or wholly*2.
発刊された都市にいながら、しかし、いまだ
絶望の新たなる形に襲われてはおらず、わたしは図表に
尋ねる、これはいともたやすくそうなりうる
苦痛の前触れなのか、と。あるいは空虚が
あまりにも急にやってきてガードルを
風もないのにバンバン鳴らせ、
空をミルク・ブルーに渋くさせるのか。人生はかくも忙しいと
分かってはいるが、より大きな行動が人生を覆い、そして
決して感じられはしないが、ただ時折、小さな看板に現れ、
警告を発しては、ほどなくその一部もしくは
その全体が抹殺されるのだ。

スペースの関係でごく一部しか引用・議論できないが、既にこの印刷され、固定したテクストには、しかしながら、その表現内容に現代のメディア・テクノロジー社会に対する異議申し立て、あるいはそれに対抗する文学テクノロジーとしての意図的な意味の攪乱、通常の散文的「透明な」自然言語(それはメディアで流通する言語でもある)の転覆が企てられている。もう少し丁寧にそのディテールをみよう。

まず冒頭の "published city"という公共メディア化された都市という設定は、それが単なるテクノロジーの陰鬱な暗喩である以上に、「わたし」にとって「絶望」の「前触れ」を予感させるものであり、また、「空虚」を体現するものとなっている。何故なのか。おそらく詩人は大都市の非人間的な相貌の中において、ある種の神秘性・超自然な啓示の瞬間を待っているためであろうか。続く「より大きな行動」が何を指すか、あるいは「決して感じられはしない」が「小さな看板に現れ、警告を発する」ものとは何なのか。詩の解釈として、以上の問いは上記引用に続く「河の神」"the river god"の象徴性へと向かわせるものであるが、ここでわれわれはメディア化された都市とその「図表」"the diagram"という描写の意味と、また、「ガードルを風もないのにバンバンと鳴らせ、空をミルク・ブルーに渋くさせる」超自然的現象の意味を考察せねばならない。
結論的に言って、このような主題の方向が既に既存のメディア・テクノロジーに対し、その否定性を表明することになっている。もちろん、ここには19世紀のロマン派以来の詩と科学の2元論を基礎とした込み入った表象に関する意見をみることが出来る。以下の続く詩行にはテクノロジーに対抗する超神秘的存在への言及に続けて詩の言語についての自己言及があるが、これはまさしく外的なテクノロジーに対抗する文学テクノロジーの主張である。
Sad grows the river god as he oars past us
downstream without our knowing him: for if, he reasons,
he can be overlooked, then to know him would be to eat him,
ingest the name he carries through time to set down
finally, on a strand of rotted hulks. And those who sense something
squeamish in his arrival know enough not to look up
from the page they are reading, the plaited lines that extend
like a bronze chain into eternity.
It seems I was reading something;
I have forgotten the sense of it or what the small
role of the central poem made me want to feel. No matter.
The words, distant now, and mitred, glint. Yet no one
ever escapes the forest of agony and pleasure that keeps them
in a solution that has become permanent through inertia. . . . (3 - 4)
河の神は嘆き泣かしむ、われらがかれを知らぬ間に
傍らを下流へと漕ぎゆかんとして。なぜなら、かれが思うに、もし
自分が見過ごされうるならば、己を知ることが己を食らうことになる、
時を越え、その名を摂取し、ついには
腐った船体のある浜辺へと打ち上げられることになる、と。そしてかれの到着に
なにがしか胸がつかえる思いをする者は、読みかけのページから
目を上げないだけの分別はある、行が組みつほぐれず
ブロンズの鎖のように永遠に伸びているのだから。
どうやら、わたしはなにかを読んでいたようだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そんな感覚は忘れていた、つまり、中心的な詩が
わたしに感じさせようとした役割のことなどは。まあ、いい。
言葉は、今となっては遠く、ミトラを纏って光っている。しかし、どの一つも
無気力によって言葉が恒久的に溶解する苦悩と快楽の森を逃れたためしはない。
「河の神」という超自然な形象を持ち出す意図は「河」の流れが伝統的に「時」の流れを暗喩することに由来するクロノス神によって現代は支配されていることを示そうとするものだが、T. S. エリオットや ハート・クレインといったモダニスト詩人の作品*1(「中心的な詩」)に引喩しながらの詩的形象は最終的に読書行為、つまり、以上のイメージの提示が既に書物によって媒介されていた事実の認識に導く。従って「言葉は、今となっては遠く、ミトラを纏って光っている」という詩行が意味する媒体としての言語の、言うなれば、マルチメディア性の指摘である。しかし問題なのはそのような言葉のマルチメディア的可能性に言及しながらも、それが「苦悩と快楽の森」という身体性を逃れえないという認識である。この表現に込められた意味は単にそれが体験としての人生の「森」の象徴性によってより大きな意味を付与されるということ以上に、「無気力」によって「溶解」させられる「苦悩」や「快楽」というような、一定の言語の意味の攪乱である。
このような意図的な意味の攪乱は「言語詩人」の作品においてはより恒常的な特徴となる。以下のバーンスタイン (Charles Bernstein, 1950-)の作品「仮想現実」("Virtual Reality")はより前衛的な手法の典型的な例であろう。一見、ナンセンス詩とも見受けられる言葉の配置がどのような意味を持ちうるのか、詩の前半3節を考えてみる。
Swear
there is a sombrero
of illicit
desquamation
(composition).
I forgot to
get the
potatoes but the lakehouse
(ladle)
is spent
asunder. Gorgeous
gullibility −
or,
the origin
of testiness
(testimony).
Laura
does the laundry, Larry
lifts lacunas.
Such that
details commission of
misjudgement over 30-day
intervals.*1
チカッテイウガ
よこしまに
剥離する
ソンブレロがある
(構図として)。
ポテトを
手にいれる
のを忘れたが、湖の家は
(ひしゃくの形をして)
使い古され
バラバラになった。豪華なほど
だまされやすい−
あるいは、
短気の
起源だ。
(証拠でもある)。
ローラが、
ランドリーをし、ラリーが
ラクーナをリフトする。
そのようなものが
詳述するのは30日間も空いた
判断ミスの委任状
となる。

以上で問題となるのは、詩の伝達する「意味」が英語という媒体におけるマルチメディア性(記号的な意味と音声的効果)に多くを依存しているということだろう。おそらく通常の散文的「意味」を辿ろうとしても日本語訳に見出されるように、それは一義的ではなく多重な意味を内包する。例えば、冒頭の強調された語 "Swear"は、命令文における動詞と考えてよいのか、「わたし」が省略されているのか、なぜ、イタリックになっているのか、また、"illicit / desquamation"というおよそ通常の透明な散文的意味をなさない(「よこしまな」「剥離」とは?)形容のメキシコ風帽子(ソンブレロ)の存在とは何であるのか、さらに括弧で言われる "composition" (「構図」「創作」「合成」「植字」「和解」等の意味を持つ)とは何なのか、最初の一節を「読もう」としてもそう簡単に読解できないはずである。まさにこれ自体、「よこしまな意味の剥離を暗喩する帽子の存在」というような言語の自己言及と考えられうるテクストの提示は、おそらく、読者の解釈次第ではいかようにも変化する、まさに、ハイパーテクスト的な性質を意味していると思われる。

従来の伝統的な詩の解釈方法では到底、一貫した「意味」を抽出できないテクストとは、コミュニケーション・ツールとしての言語の役割に対する対抗を意味するばかりか、過去の文学的テクノロジー自体に対する反逆、対抗の姿勢である。いわゆる言語の象徴性に詩芸術の基盤をおいてきたロマン主義的方法に対する反逆であり、同時に古典的諧謔の方法をも反古にする意識的な言語の断片化の試み、そしてメディアとしての言語自体を解体しようとする意識は、当然、語り手(発話者)たる詩人の声をメディア化し、非人間的なものにしようとする試みとも思われる。もちろん、個々の詩人の特徴は消し難く、詩のエクリチュールに存在するが、総体として、この種の前衛的な言語使用は豊かな人間的「声」に媒介されているというよりは、やはり、サイバー・メディアとしてのコンピュータ・テクノロジーに媒介された言語にその多くを負っているために、新たなる戦略として、以上のような断続的・解体的な言語使用を行っており、そしてそこでの詩人の創作行為とは、まさに、言語が自然言語として「意味」を形成する働き(音の繋がりによる類推作用)を遮断しようとする意味の寸断化・攪乱の 方法である。そしてそのような行為が暗に意図する思想とは、例えば、バーンスタインの作品のタイトルである「仮想現実」がそのような自然な言語の使用に依らない気持ち悪さ(あるいは、気持ちよさ)に依存するというメッセージではないだろうか。*1 (古賀)
結語:インターネットは文学表現をどのように変えないか、或いは言語表現のテクノロジー性を認識しつつ、人間的な身体性、そのマルチメディア性を表現することの大切さ
既に<序>で述べたように、インターネットを含むサイバー・メディア化された文芸表現はその活力を視覚的・聴覚的によりマルチメディア化された領域において発揮しているが、基本的な「文学」表現としての存在理由をむしろ、そのようなメディア・テクノロジーに対抗するような言語的仕掛けを考案することにより主張していると考えられる。言語媒体としての形が電子的に様々に「媒介」されうる可能性は言語本来の媒介性を逆に意識化させる。つまり、詩人(作者)が読者に伝えたい人間的な経験の広がりが言葉という記号の限界のなかで表現されることにより、音声や視覚的情報を言語的記号の枠外に「暗示」させ、「比喩」することによって、言語芸術として自立的な立場を確保するという戦略である。
第1章では、活字媒体による報告という極めて制約された形ではあるが、インターネット上の実験のサンプルを提出した。また、理論化においては非線形的テキストの本質を「新しい連鎖様式」として意味づけることにより、特にその連鎖が作者によって半ば意図された「裂け目」によって巧みに操られる手法であることが述べられている。また同時にインターネットという仮想現実空間におけるそのような連鎖の仮構(暫定)性、ひいては作者の自己もそのように仮構され、共同制作されるべき虚構的な自己(独自的な個性の消去)という問題も指摘している。
第2章では、むしろインターネットの連鎖性・ネットワークという共同性の前史をグレイハウンド、郵便、電話に辿り、特にビート派の詩人たち独自のネットワーク、小雑誌に依る作品発表の意義を考察した。これは大きな政府・国家による政治的軍事的通信手段に対抗する手段としての小さな個人のPC間のネットワーク、草の根的なインターネットの起源を考えることになり、実にインターネットの発展がビートのような対抗文化の中にあることの意義を今日のインターネット文化に認めることである。つまり、表現「手段」としてのインターネット利用の意味である。それは「オープンで、カジュアルで、口語性を基本とした詩のコミュニティーのネットワーク」の意味でもある。
第3章では、より歴史的な経緯において、詩人の「声」に現れる自己表現がいかに文化的に媒介・表象されてきたか(声による口承文化→文字による活字文化→コンピュータによる電脳文化)を跡づける幅広い考察である。モダニズム以降に文芸的手法としての「没個性」や「仮面」といった問題が言語の(脱構築的)比喩構造と結びついているという指摘が、実はコンピュータにおける双方向性(インターフェイス)という問題へと通じるのであるが、これは作者の没個性という戦略が(ロマン派的な孤高の作為的な主体性構築による)共同体からの疎外意識からの脱却になりうる、と主張することになる。大衆化社会が出現した19世紀後半からの社会において社会変革をも目論む想像的な共同体は一部詩人たち芸術家の意識の中に芽生えたものであって、それは極めて神秘的な主体を構築する詩人の戦略において現れた。従って今日のインターネット時代の「声」の表象はコンピュータにより加工されうるマルチメディア的形象として現出することにより、その双方向的なコミュニケーションの在り方が逆に作者の仮構された「人格」を規定し、かつ自由に操る方向へと進化させたと見るべきであろう 。
第4章の主張によれば、このように虚構化された人間的「声」のメッセージがその機械的環境において脱人間化される、あるいは近代的な「知」のパラダイムの解体に向かうようなアニミズム(脱身体的霊魂主義)が復活しうる、という思想的文脈において創造的な

詩人主体は、まさに言語の身体性に依拠しつつ、そのような非人間化のプロセスに対抗すべき言語手段の構築を目指していると結論づけている。リチャード・ポイリエおよび横山紘一・西垣通両氏の意見を援用しつつ展開する議論の骨子は、もはや近代的人間にとっての「身体性」であった「自然」や「現実」が失われ、全て虚構化した「仮想現実」になったしまった以上、言語芸術の素材であるべき言語の身体性にのみ、そのような自然言語化され透明化されたテクノロジー信仰に対抗する術はない、というものである。このような「再理論化」を具体的に説明するものとして、ジョン・アシュベリとチャールズ・バーンスタインという二人のアメリカ詩人の作品が論じられているが、これは本来、巻末添付資料の「業績」で参照されるべき内容を敢えて取り込んだものである。尚、この章の結論的主張は研究代表者の個人的観測でありながら、同時に他の共同研究者の意見にも通底するものとなっている。 (古賀)

【主要参考文献一覧】

(第1章)
Barrett, Edward, ed. Text, Context, and Hypertext. MIT P, 1988
Bear, Richard. "Text, Reader, Reading," http://darkwing.uoregon.edu/~rbear/text.html (since 12 September 1997)
Bush, Vannever. "As We May Think," Atlantic Monthly. September 1945.
菱川, 英一.「Hypertext と人間の思考」,AX Quarterly Report. 第6号, 1990
McAleese, Ray. Hypertext: Theory into Practice. Blackwell Scientific Publications, 1989
奥出, 直人.「ハイパーメディアライブラリとライティング2」.

『現代思想』1989年11月号.

Raymond, Darrell R & Frank Wm. Tompa. "Hypertext and the Oxford English Dictionary," Communications of the ACM. July 1988.

(第2章)
Abbott, Steve, "Talking to the Flowers: An Interview with Allen Ginsberg." Poetry Flash.

No. 141. December 1984.

油本, 達夫.「古沢氏安二郎訳・ギンズバーグ『咆哮』の後書きについて」及び

古沢安二郎、「『咆哮』覚えがき -- "Honi soit qui mal y pense"--」. North Beach Quarterly. Vol.3, No.1.

Cull, Nicholas John. Selling War. Oxford: Oxford University Press, 1995.
Cohen, Leonard. Songs form the Life of Leonard Cohen. Sony Music Entertainment, 1988.
Foster, Edward Halsey. Understanding the Beats. Columbia, South Carolina:

University of South Carolina University, 1992.

Gibson, Morgan. "Allen Ginsberg in Kyoto, November 2-3, 1988." Kyoto Review.

No. 22. Spring 1989.

Ginsberg, Allen. "What the East Means to Me -- A Lecture at Kyoto Seika University,

November 2, 1988." Kyoto Review. No. 22. Spring 1989.

-------------------. Sad Dust Glories: Poems during Work Summer in Woods.

Berkeley: The Workingmans Press, 1975.

畑中, 伸介.「The Jack Kerouac Conference ノオト」. Will. No.5. Spring 1983.
ハンビー, アロンゾ・L. 「二〇世紀アメリカの戦争と社会」、小川晃一・石垣博美編『戦 争とアメリカ社会』. 木鐸社、1985年.
片桐, ユズル, 訳・編. 「ほんやら洞のケネス・レクスロス----一九七五年一月一五日----」、 『木野評論』(昭和五八年三月二十日)第十四号.
黒田, 維理. 「<ジャック読本 "JACK'S BOOK"」. Will. No. 1. Winter 1981.
Laughlin, James. The Master of Those Who Know: Ezra Pound.

San Francisco: City Lights, 1986.

新倉, 俊一. 『アメリカ詩論----同一性の歌----』. 篠崎書林、昭和50年.
Rexroth, Kenneth. The Alternative Society: Essays from the Other World.

New York: Herder and Herder, 1970.

----------------------. In Defense of the Earth. New York: New Directions, 1956.
諏訪, 優. 「ジャック・ケルアックとアメリカ」、『第三文明』. 1981年3月号.
---------. 『悲しき花粉の輝き』. 東京:昭森社、昭和53年.
田口, 哲也. 「アーマンド・E・シンガー教授のアーモスト巡り」、『同志社時報』. No.106, 1998.
Talese, Gay. Thy Neighbour's Wife. London: Pan Books, 1981.
Third Rail. No. 6 (1984).
Tonkinson, Carole, ed. Big Sky Mind: Buddhism and the Beat Generation.

London: Thorsons, 1995.

(第3章)
荒木, 映子『生と死のレトリック-----自己を書くエリオットとイェイツ』. 英宝社、1996.
de Man, Paul. "Autobiography As De-Facement" The Rhetoric of Romanticism.

New York:Columbia UP, 1984.

イリイチ, イバン.『生きる思想―反= 教育/ 技術/ 生命』. 桜井直文 監訳. 藤原書店、1991.
Kenner, Hugh. The Stoic Comedian: Fraubert, Joyice and Beckett. Berkeley:

U of California P, 1974.

キットラー, フリードリヒ. 『グラモフォン・フィルム・タイプライター』. 石光泰夫・ 石光 輝子訳. 筑摩書房、1999.
Langbaum, Robert. The Poetry of Experience: The Dramatic Monologue in Modern Literary Tradition. U of Chicago P, 1957;1985.
McLuhan, Herbert Marshall. The Gutenberg Galaxy: The Making of Typographic Man.

U of Toronto P, 1962.

オング, W.J. 『声の文化と文字の文化』. 桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳. 藤原書店、1991.

(Walter J.Ong, Orality and Literacy: The Technology of the Word [1982]).

サンダース, バリー. 『本が死ぬところ暴力が生まれる―電子メディア時代における人間 性の崩壊―』. 杉本卓訳. 新曜社、1998.

(第4章および序論)
浅田, 彰, 編『マルチメディア社会と変容する文化』NTT出版, 1991.
Bolter, J.D. Writing Space: The Computer, Hypertext, and the History of Writing (1991) 黒崎政男他訳『ライティング・スペース−電子テキスト時代のエクリチュール−』 産能図書、1994.
Delany, Paul and George P. Landow. Hypermedia and Literary Studies. MIT, 1991.
榎本, 正樹. 『文学するコンピュータ』彩流社、1998.
上岡, 伸雄. 『ヴァーチャル・フィクション----マルチメディア時代のアメリカ文学』

国書刊行会、1998.

キットラー、フリードリヒ. 『ドラキュラの遺言---ソフトウェアなど存在しない』.

原 克他訳. 産業図書、1998.

インターコミュニケーションセンター、編『INTERCOMMUNICATIONS』NTT出版.
日本記号学会,(編). 『文化のインターフェイス』. 東海大学出版会、1988.
Swerdlow, Joel L. "The Power of Writing." National Geographic. Vol. 196, No.2: 110-132.
巽, 孝之、編『身体の未来』. トレヴィル、1998.