第4回 ウォレス・スティーヴンズ
 
 THE IDEA OF ORDER AT KEY WEST
 
She sang beyond the genius of the sea.
The water never formed to mind or voice,
Like a body wholly body, fluttering
Its empty sleeves; and yet its mimic motion
Made constant cry, caused constantly a cry,
That was not ours although we understood,
Inhuman, of the veritable ocean.
(Collected Poems, p.128[CP 128])
 
  キィ・ウェストでの秩序の観念
 
彼女は海の守護霊を超えて歌った。
海水はついぞ心にも声にもならず、
胴体だけの身体に似て、虚ろな袖を
はためかす。が、その物真似ぶりは
絶えざる叫び声をあげ、絶えず叫び声を
我らのものでなくとも我らに分かる
人間離れした、正真なる大海の叫び声をあげていた。
 
詩人の第二詩集『秩序の観念』Ideas of Order (1936)を代表する詩「キィ・ウェストでの秩序の観念」 "The Idea of Order at Key West"(創作推定年1934年)をまず、扱います。キィ・ウェスト島はフロリダ半島にある米国最南端の島でスティーヴンズは出張や冬の避寒を兼ねて定期的にこの島を訪れていました(現在はマイアミからセブン・マイル・ブリッヂなどを経て車で行けますし、当時は鉄道もありましたが、詩人は半島から船で行き来していたようです)。第一詩集『足踏みオルガン(ハーモニアム)』Harmonium (1923)にはこの地や米国深南部(ディープ・サウス)を歌う一連の詩群がありますが、例えば、以下のような詩行があります。
 
The lines are straight and swift between the stars.
The night is not the cradle that they cry,
The criers, undulating the deep-oceaned phrase.
The lines are much too dark and much too sharp. . . .
――――"Stars at Tallapoosa" (1922) (CP 71)
 
星間を結ぶ線は束の間の直線で現れる。
夜は彼らが叫び求める揺りかごではないが、
叫ぶ者たちは深き大海のことばを波打たせるのだ。
星線はあまりに暗く、あまりに鋭い・・・
「タラブーザ[ジョージア州]でみる星」
 
Barque of phosphor
On the palmy beach,
 
Move outward into heaven,
Into the alabasters
And night blues.
 
Foam and cloud are one.
Sultry moon-monsters
Are dissolving. . . .
――――"Fabliau of Florida" (1919) (CP 23)
 
棕櫚の浜辺で
燐光で光る帆柱は
 
石膏色と夜の青の
天空に向かって
大きく動いている。
 
泡と雲は一つだ。
蒸し暑い月の怪物が
溶けていく。
「フロリダの滑稽詩」
 
In the sea, Biscayne, there prinks
The young emerald, evening star,
Good light for drunkards, poets, widows,
And ladies soon to be married.
 
By this light the salty fishes
Arch in the sea like tree-branches,
Going in many directions
Up and down . . . .
――――"Homunculus et La Belle Étoile" (1919) (CP 25) 
 
ビスケイン湾[マイアミ沖]では
若々しいエメララルドの宵の明星が輝き、
酔っぱらい、詩人、寡婦、
もうすぐ結婚する淑女にとっての良い明かりとなる。
 
この光の下で塩っぽい魚が
木の枝のように弧をなして
上下に、数多の方向に
飛び跳ねる・・・
     「小人と麗しい星」
 
. . . The dreadful sundry of this world,
The Cuban, Polodowsky,
The Mexican women,
The negro undertaker
Killing the time between corpses
Fishing for crayfish . . .
Virgin of boorish births,
 
Swiftly in the nights,
In the porches of Key West,
Behind the bougainvilleas,
After the guitar is asleep,
Lasciviously as the wind,
You come tormenting,
Insatiable,
 
When you might sit,
A scholar of darkness,
Sequestered over the sea,
Wearing a clear tiara
Of red and blue and red,
Sparkling, solitary, still,
In the high sea-shadow. . . .
――――"O Florida, Venereal Soil" (1922) (CP 47-48)
 
・・・この世の恐るべき雑多なもの、たとえば、
キューバ人のポロドウスキィ、
メキシコの女たち、
死体の間の暇を
ザリガニ釣りをしてつぶす
黒人の葬儀屋、それに
田舎生まれの生娘たち
 
夜ごと、束の間ではあるが、
キィ・ウェストの入り口で
ブーゲンビリアの木の後ろで
ギターが眠った後には
風にように好色に
満たされることなく、
君は悩みながらやってくるが、
 
暗闇の学者のごとく、
赤や青や赤に輝く
澄んだ王冠を被り、
ひとりでジッとして
高くまで伸びる影をなす
海を見渡しながら
引き籠って坐っているのだろうか。
    「おおフロリダ、性欲的土地よ」
 
以上の断片的引用からもフロリダ的世界がどのようなものであるかが推察されると思いますが、この「キィ・ウェストでの秩序の観念」ではまず、そのような場所に由来する象徴性が重要であると思われます。つまり、自身、副社長を勤めるハートフォード損害保険会社や自宅のある「ハートフォードでの秩序の観念」や、時折、美術展を観たりコンサートを聴きに行く「ニューヨークでの秩序の観念」、あるいは講演等で訪れるイェール大学のある「ニューヘイブンでの秩序の観念」等では達成することの出来ない意味あいが込められていると思われます(晩年の「ニューヘイブンでのありふれた夕方」という長編詩もありますが)。
 なるほど、キィ・ウェスト島は今ではゲイの島としても有名ですが、ヘミングウェイの晩年の家があり(ボクサーでもあった彼と、二メートルを越す巨体でもあった詩人はかつて[1936年]殴り合いになったことがあります [Peter Brazeau, ed. Parts of a World: Wallace Stevens Remembered, p.98]) 、畏友ロバート・フロストも訪れた場所ですが、それ以上に生涯訪れることのなかったヨーロッパの代替として詩人には存在したと考えられます(この点については、何故、彼が生涯、あれだけパリやローマといった旧世界に憧れた反面、決してパウンドやエリオットのように亡命的離脱を行ったり、ウィリアムズのように訪問することをしなかったのか、極めて重要な意味で謎です)。
 ただこの詩でこの熱帯常夏の島に寄せる詩人の想いは単に上記のようなフロリダ的官能世界への賛歌以上の意味もあると考えられます。何故なら、この詩が収録された詩集は実はそのような官能的世界への訣別を表明する「フロリダへさらば」"Farewell to Florida" (1936)という詩で始まるからです。その第一連は以下のようになっています。
 
Go on, high ship, since now, upon the shore,
The snake has left its skin upon the floor.
Key West sank downward under massive clouds
And silvers and greens spread over the sea. The moon
Is at the mast-head and the past is dead.
Her mind will never speak to me again.
I am free. High above the mast the moon
Rides clear of her mind and the waves make a refrain
Of this: that the snake has shed its skin upon
The floor. Go on through the darkness. The waves fly back.
(CP 117)
 
  高らかなる船よ、行け、今となっては、岸辺では
  蛇が浅瀬に抜け殻を捨てていったから。
  キィ・ウェストは、雲の巨塊の下に沈み、
  銀色と緑色が、海上に拡がる。月は
  マストの頂きにあり、過去は死物と化したのだ。
  彼女のこころは私に二度と語りかけてくれることはないだろう。
  自由になったのだ。マストの遙か上を、月は
  彼女のこころから離れて昇っていき、波は
  こう繰り返すー蛇は浅瀬に抜け殻を捨てていったのだ、と。
暗闇のなかを突き進め。波が逆巻き返す。
 
以下の連でも「私は彼女のこころにすっかり縛られていたのだ。椰子の木は熱かった、まるで灰の地面にいるように。わが寒冷の北部の音を保つ風をはらみ、その葉っぱが陰鬱な南部で鋭く鳴っているかのように。南部ー松と珊瑚と珊瑚海のある、彼女の南部、常に新鮮なキィ諸島にある、私のではない、彼女のふるさと。音楽を、珊瑚礁から聞こえてくる囁きを求める彼女の日々、彼女の、大洋に抱かれた夜々。私の目指す北部に帰り、不安を忘れ、白く晒す砂を忘れれば、どんなにか満たされるだろうか・・・」"Her mind had bound me round. The palms were hot / As if I lived in ashen ground, as if ./ The leaves in which the wind kept up its sound / From my North of cold whistled in a sepulchral South, / Her South of pine and coral and coraline sea, / Her home, not mine, in the ever-freshened Keys, / Her days, her oceanic nights, calling / For music, for whisperings from the reefs. / How content I shall be in the North to which I sail / And to feel sure and to forget the bleaching sand . . . " (CP 117)や「お天気次第のヨール帆船を私は憎んだ、淀みの下に海底や揺らめく回想の荒野を見せてくれはしたが。影一つ落とさない小屋の上に反り返る原色の花や、錆と骨、あの骨のような木々と砂と太陽の混じった葉っぱも私は憎んだ。こうして暗い甲板に立ち、さよならを言う感慨、そしてかの地が永久に去り、彼女のどんな言葉、どんな表情、どんな思いのなかでも、もう決して後を追ってこないと分かっているこの感慨、一度は彼女を愛しはしたが・・・」"I hated the weathery yawl from which the pools / Disclosed the sea floor and the wilderness / Of waving weeds. I hated the vivid blooms / Curled over the shadowless hut, the rust and bones, / The trees like bones and the laves half sand, half Sun. / To stand here on the deck in the dark and say / Farewell and to know that that land is forever gone / And that she will not follow in any word / Or look, nor ever again in thought, except / That I loved her once. . . " (CP 118)といった言葉にあるように、実にアンビヴァレント(両面価値的)な態度が問題となっている訳です。
 
話がすこし先走りすぎたきらいがありますので、ここでもう一度、「キィ・ウェストでの秩序の観念」に戻りましょう。
 まず、最初の一行 "She sang beyond the genius of the sea."を考えてみましょう。「彼女は海の守護霊を超えて歌った。」と訳しましたが、ここで問題となるのは "beyond"と "the genius"だと思われます。なぜ、「超えて」なのか。また、海の "genius loci"(地霊)でもある "the genius"(守護霊、自らの天分)とは一体何なのか。キィ・ウェスト島という場所が日常的な想像力に魔術をかけ、非日常としての純粋な瞑想を可能にするならば、大海という自然を前にしたより純粋な「秩序の観念」の意義は大きいと言わざるを得ません。損害保険の法律関係の業務や家庭・国家という日常的な現実世界における「秩序」がいかなるものであれ、そういった枠組みを超えた場所で想起されるべき秩序「の観念」こそがこの印象派的・純粋詩的な詩を特徴づけているはずです*。詩人はこの詩について以下のように述べています。
*最後から二番目の連にラモン・フェルナンデス(Ramon Fernandez, 1894-1944)という名前が出てきたりしますが(このメキシコ生まれの批評家は30年代に『パルチザン・レヴュー』などアメリカの批評誌でも翻訳されたフランスでのファシズム論争における美学論者であり、この時期に詩人が興味をもっていました)、ここでいう「純粋詩」も厳密には単にマラルメといったサンボリスト(象徴派)詩人のいうものよりはクローチェ(Benedetto Croce, 1866-1952)の美学論における純粋詩の概念に近いらしい。実にそこでの議論は私たちが「はじめに」で扱ったシェリーの詩にある「詩の擁護」に対する修正的な意見であるという人がいます[James Longenbach, Wallace Stevens: The Plain Sense of Things, pp.151-52, 161参照]。
 
  「キィ・ウェストでの秩序の観念」において人生はもはや偶然事ではない。人はめいめい己の秩序を自分のまわりの生活に持ち込むであろうし、一般的な秩序の観念はバークレィ卿*が個人的秩序の偶然の集まりと呼んだであろうものにすぎない。が、秩序というものは依然あるのだ。[中略] しかし、翻って考えると、人生は無関係のものの集合体であるというのは、めいめいが己の秩序を一般的秩序の一部として持ち込むというほどに、双方とも定まった哲学的命題でもあるまい。」(Letters, p.293)
     *George Berkeley (1685-1753)、イギリスの経験論哲学者。主観的観念論の代表。一切の物は感覚の結合にほかならず、物が存在するとは知覚されることにすぎないと主張。著「人知原理論」など。
 
さらには、次のようにも述べています。
 
  我々は今日起こっている変化を政治的社会的な変化に関わる経済的変化として考えている。つまり、そのような変化は政治的社会的な秩序という問題を提起するということだ。
   詩人がそのような問題と関わることは避けがたいが、この本[『秩序の観念』]はそれらを反映してはいるが、主として異なった性質の秩序に関与している。それは例えば、確立された観念を排除しようとして遭遇するときに個人が一般的な秩序の感覚に依存するということや、「キィ・ウェストでの秩序の観念」におけるように、個々の観念によって生み出される、詩人についての観念のような、秩序の観念、あるいは「昼食後の航海」におけるように、詩のように、いかなる芸術の実践からも生じる秩序の観念といったものである。
この本は本質的に純粋詩の本である。私の信ずるところでは、いかなる社会においても詩人はその社会の想像力の代表的存在となるべきである。『秩序の観念』は人生における想像力の働き、特に現在の生における想像の働きを例証しようとしている。つまり、生がより現実的になればなるほど、想像の刺激を生は必要とするということだ。  (Opus Posthumous, pp. 222-23)
 
以上のような詩人の説明が参考になるかどうかは分かりませんが、いずれにせよ、あまりに現実的な「秩序」ということに囚われてはこの詩の意図することに触れ得ないといった警告として受け取っておけばよいと思われます。
 ふたたび、引用の詩行に戻ります。くどいようですが、なぜ「彼女は海の守護霊を超えて歌った」と詩人は書いたのでしょう。これまでの回り道的な議論からして「彼女」(人間)は海(自然)に秩序を与えようとしている、あるいは彼女の歌う秩序は海のものとは異なる、それを超えた超越的なものである、などと一般化できそうです。(今までの私たちの詩の読み方からしてこのような概念化・抽象化は本意に反するものであり、あまりしてはならないと感じる方も多いでしょうが、逆にこのような抽象的意味を持ち込むことなく、それこそ、ひょっとして詩人のいう意味を考えなくてもよい「純粋詩」の枠組みで詩を読んでもあまり多くをえられないと思われます。)
 従って、続く「海水はついぞ心にも声にもならず、胴体だけの身体に似て、虚ろな袖を
はためかす」の意味も自然界の秩序(あるいは無秩序)が人間的な意味を生成しないと書かれてあるのは一応納得がいきます。しかし、気になるのは次で「その物真似ぶりは絶えざる叫び声をあげ、絶えず叫び声を我らのものでなくとも我らに分かる人間離れした、正真なる大海の叫び声をあげていた」という文の意味です。(このように詩行をばらして散文的意味だけ捨象すること自体も問題がありますが、ここではとりあえず、われわれ読者に納得のいく意味を探ることを優先させます。)
 なぜ、「我らのものでなくとも我らに分かる」"That was not ours although we understood"と限定があるのか。「人間離れした」と訳した "inhuman"なものである海水のざわめきは人間の眼や耳で把握できても人間的意味を生成しないという意味であるのでしょうか。これでも一応納得がいきますが、もはやここで散文的解釈の限界が見えてくるのではないか。つまり、そのような散文的意味だけにこだわれば、当然と思える内容ですが、その韻文的音の効果にもっと注意すれば、例えば、"its mimic motion /Made constant cry, caused constantly a cry. . ."といった反復的表現に込められた詩的表現が、[m]音の甘い響きと [c]音の厳しい音のせめぎ合いの中で、実は海水という自然表象が巧みな擬人化を伴って(「胴体だけの身体に似て、虚ろな袖をはためかす」等)極めて「人間的な」意味を生成していることです。
 第二連以下になるとこのような「彼女」(人間)と「海」(自然)の境界は微妙になっていきます。(意味のまとまりからも二連、三連、そして四連の一部をまとめて引用します。)
 
The sea was not a mask. No more was she.
The song and water were not medleyed sound
Even if what she sang was what she heard,
Since what she sang was uttered word by word.
It may be that in all her phrases stirred
The grinding water and the gasping wind;
But it was she and not the sea we heard.
 
For she was the maker of the song she sang,
The ever-hooded, tragic-gestured sea
Was merely a place by which she walked to sing.
Whose spirit is this? we said, because we knew
It was the spirit that we sought and knew
That we should ask this often as she sang.
 
If it was only the dark voice of the sea
That rose, or even colored by many waves;
If it was only the outer voice of sky
And cloud, of the sunken coral water-walled,
However clear, it would have been deep air,
The heaving speech of air, a summer sound
Repeated in a summer without end
And sound alone. But it was more than that,
More even than her voice , and ours, among
The meaningless plungings of water and the wind,
Theatrical distances, bronze shadows heaped
On high horizons, mountainous atmospheres
Of sky and sea.
(CP 128-29)
 
海は仮面ではなかった。ましてや彼女は仮面ではなかった。
たとえ彼女の歌ったのが、彼女の聞いたものであったにせよ、
彼女の歌ったことが一語一語発せられた以上、
歌と海水は混じり合った音ではなかった。
彼女の歌った語句の全てにおいて、砕け鳴る海と
喘ぐ風が騒いだのかもしれない。
それでも我々が聞いたのは彼女の声で海ではなかった。
 
かくいうも彼女の歌った歌の作り手は彼女に他ならなかったからだ。
相変わらず顔を覆い隠し、悲劇の身振りをする海は
たんに彼女がその浜辺を歩き歌を歌った場所にすぎなかった。
これは誰の霊なのか、と我々は問うた、なぜなら、
我々の探し求めるのは霊であり、彼女が歌うたびに
これを何度も問うべきだと分かっていたからだ。
 
もしそれが、隆起し、夥しい波に彩られた海の
暗い声にすぎなければ、
もしそれが、空と雲の、また水壁の内に沈める珊瑚の
外なる声にすぎなければ、
どんなにはっきり聞こえようと、
それは深い大気、大気の重い呻きの言葉、
夏に果てしなく繰り返される夏の音、
ただの音であったろう。だがそれ以上のものだったのだ、
海水や風の、意味をなさない突進や、
書き割りのような遠景、水平線に高く重なる青銅色の影や
空と海の山なす気圏の中にあって、
それは彼女の声以上のものでさえあった、
我々の声以上のものであったのだ。
   (加藤文彦・酒井信雄訳『場所のない描写』[60-64]参照)
 
以上の引用では、到底翻訳では伝えることの出来ない微妙な "she" と "sea"の音のせめぎ合い、言葉の掻き立てる海水のようなざわめき、どよめき、ぶつかり合い、まさにシェリーの「西風に寄せる歌」にあったような「大気の重い呻きの言葉」や「海水や風の、意味をなさない突進や、書き割りのような遠景、水平線に高く重なる青銅色の影や空と海の山なす気圏」と表現された内容によって極めて印象主義的な言葉の絵画となっていると思われます。散文的意味としては、そういった「意味をなさない」純粋な言葉の混沌である自然を「超えた」存在としての、「霊」"the spirit"という神的存在こそがこれら全てに秩序を与え、人間的意味を付与するものであると分かるわけですが、それにしても自然自体の擬人化された表情こそ、豊饒で雄弁です。従って、以下の引用で結局「彼女」の歌(詩)の存在の超越性、想像力の唯我論的性格、人間的意図の志向性の問題等が語られるとき、その定立し難い自然の流れに抗うかのような、極めて意図的、人工的な「秩序の観念」付与の行為、そういった意味付与行為のわざとらしさを感じるのは私だけでしょうか。
 
It was her voice that made
The sky acutest at its vanishing.
She measured to the hour its solitude.
She was the single artificer of the world
In which she sang. And when she sang, the sea,
Whatever self it had, became the self
That was her song, for she was the maker. Then we,
As we beheld her striding there alone,
Knew that there never was a world for her
Except the one she sang and, singing, made.
 
     夕闇に消えてゆくときにこそ
空を鮮烈の極みに仕立てたのは、彼女の声だった。
彼女は空の寂寥を時刻に釣合わせたのだ。
彼女は彼女がそこで歌った世界の唯一の工匠(たくみ)であった。
彼女が歌ったとき、海は、海自体どんなものであったにせよ、
それ自体彼女の歌となった。彼女が作り手だったではないか。そのとき
我われは、そこに独り悠然と歩く彼女を眺めるにつけ
思い知るのだーー彼女にとって世界とは、
彼女がそれを歌い、しかも歌いながら
作りあげた世界をおいて他になかったのだ。
            (加藤・酒井訳、62-63頁)
 
もしここで詩が終わっているのならば、人間的な歌に秘められた霊的存在の問題、あるいは詩の女神(ミューズ)の歌が秩序づける想像の世界の超越性、といった具合にまとめることが可能かと思いますが、この詩にはこのような一義的な意味づけをあきらかに読者に拒ませる詩行がついています。
 
  Ramon Fernandez, tell me, if you know,
  Why, when the singing ended and we turned
  Toward the town, tell why the glassy lights,
  The lights in the fishing boats at anchor there,
  As the night descended, tilting in the air,
  Mastered the night and portioned out the sea,
  Fixing emblazoned zones and fiery poles,
  Arranging, deepening, enchanting night.
 
  Oh! Blessed rage for order, pale Ramon,
  The maker's rage to order words of the sea,
  Words of the fragrant portals, dimly-starred,
  And of ourselves and of our origins,
  In ghostlier demarcations, keener sounds.
               (CP 130)
 
  ラモン・フェルナンデスよ、知っているなら教えてくれ、
  歌が終わり、我われが街のほうに向き直ったそのとき、
なぜ、ガラスを通したような光が
そこに舫う釣り船の灯りが、
夜の帳が降りるにつれ、空中に傾いたかと思うと、なぜ
輝ける地帯と火の柱とをそこここに据え、
夜を按配し、深め、魔法をかけて
支配し、海を配分したのか。
 
おお!秩序を求める何という激しい昂ぶりだ、青白いラモンよ、
海の言葉を、ほのかに星戴く匂やかな表玄関の言葉を、
我われ自身と我われの出自の言葉を、
一層霊妙な文節と鋭利な音で
秩序づけようとする作り手の激昂。
(同書、63-64頁)
 
なんともエクスタシー的言葉で夕闇から夜にかけて漁港に灯る光がさきほどの歌の幻影をかき消すかごとく、「輝ける地帯と火の柱とをそこここに据え」、つまり、夕日の残照が映える地帯を位置づける一方で、深々と帳が降りゆく「夜を按配し、深め、魔法をかけて支配し、海を配分した」と語られます。そしてさらには、以上の劇的な場面展開の余韻というべきか、詩人と読者の心には、おそらく永遠に懐柔することが人間には出来はしない自然の混沌的無秩序(しかし、実ははるかに秩序だった摂理でもあり、逆説的に人間界の秩序なき混沌を暗示しています)を前にして、自らの歌という人工的世界を秩序づけようとする激しい欲望を感じるわけです。特に最終連の
 
  . . .Words of the fragrant portals, dimly-starred,
  And of ourselves and of our origins,
  In ghostlier demarcations, keener sounds.
 
という表現には、人間の言葉がそもそも自然界のざわめきを模倣することから生じたといわんばかりの、「ほのかに星戴く匂やかな表玄関」(自然界と境界を接するであろう霊界[
死者の世界])や「我われ自身と我われの出自」(人類誕生以来依存してきた言葉という意思伝達の道具が形作る人間界)双方の表象が「一層霊妙な文節と鋭利な音で」という具合に、極めて人間の言葉と自然界の織りなす音の微妙な差異において「秩序づけようとする作り手の激昂」、つまり、我われのもつ人間感情の志向性となって語られていると思います。(9月末頃〆切の第一レポートの作成にかかっておられる[!??]受講生のみなさんには、例えば、この詩のもっと深くて多様な意味の拡がりを追求されることを期待します。)
 
では、後半の授業としてもう一つ、スティーヴンズの夏の詩をとりあげます。
 
    CREDENCES OF SUMMER
 
          T
  Now in midsummer come and all fools slaughtered
  And spring's infuriations over and a long way
  To the first autumnal inhalations, young broods
  Are in the grass, the roses are heavy with a weight
  Of fragrance and the mind lays by its trouble.
 
  Now the mind lays by its trouble and considers.
  The fidgets of remembrance come to this.
  This is the last day of a certain year
  Beyond which there is nothing left of time.
  It comes to this and the imagination's life.
 
  There is nothing more inscribed nor thought nor felt
  And this must comfort the heart's core against
  Its false disasters -- these fathers standing round,
  These mothers touching, speaking, being near,
  These lovers waiting in the soft dry grass.
 
夏の信用
  いま真夏がやってきてすべての馬鹿どもは屠殺され、
  春の激昂もおわり、秋を最初に吸い込むときまでは
  だいぶあり、若い雛たちは
  草むらのなかにおり、薔薇はずっしりとした香りで
  重たく、そしてこころは自らの問題を蓄える。
 
  いまやこころは自らの問題を蓄え、考える。
  回想のそわそわは要するにこうだ。
  つまり、今日はある年の最後の日であり、
  これを超えては時間は残されていない。
  要するに、こういったことと想像の生命の問題となる。
 
  ここにはこれ以上に多くを記され、思考され、感覚されたことはなく
  これこそが偽りの災厄に反対して気持ちの核を 
  慰めるものだ、そう、これらの父親たちはぐるりと立ちはだかり、
  母親たちは触れながら、話しかけながら、そばにいる、
  恋する者たちは柔らかい乾いた草の上で待っている。
 
U
Postpone the anatomy of summer, as
The physical pine, the metaphysical pine.
Let's see the very thing and nothing else.
Let's see it with the hottest fire of sight.
Burn everything not part of it to ash.
 
Trace the gold sun about the whitened sky
Without evasions by a single metaphor.
Look at it in its essential barrenness
And say this, this is the centre that I seek.
Fix it in an eternal foliage
 
And fill the foliage with arrested peace,
Joy of such permanence, right ignorance
Of change still possible. Exile desire
For what is not. This is barrenness
Of the fertile thing that can attain no more.
 
夏の解剖を延期せよ、形而下的な棕櫚、
形而上的な棕櫚といった。
そのもの本体だけを見て他を見るな。
それを視覚の最も熱き炎で見よ。
そのどの部分も灰に残ることなく燃やし尽くせ。
 
比喩一つなく、迂回することなく、
白くなった大空に黄金の太陽を跡づけよ。
その太陽を本質的な不毛さにおいて眺め、
これ、これこそが私の追い求めていたものだと言え。
永遠の茂みにおいてそれを固定し、
 
その茂みを差し押さえられた平和で満たすのだ、
かくなる永続性の悦び、いまだ可能なる変化を伴う
正しき無知。存在しないもののために
欲望を追放せよ。これこそ、もはやこれ以上
到達することの出来ない豊饒なるものの不毛さだ。
 
後半に扱う詩はあまり丁寧な解説をしませんので、その分、皆さんの主体的な読みに依存することになります。幾つかここまでの箇所についての質問です。
 1)「信用」と訳したタイトルの "credences"とはどのような意味で使われているのか。
 2)なぜ「すべての馬鹿どもは屠殺され」というような表現があるのか。
 3)なぜ「こころは自らの問題を蓄え、考える」のか。
このような問いを考えるだけでも詩がテーマとしている夏の想像に対する信頼にむけて近づくことになると思われます。では、もう少し詩を追いましょう。
 
V
It is the natural tower of all the world,
The point of survey, green's green apogee,
But a tower more precious than the view beyond,
A point of survey squatting like a throne,
Axis of everything, green's apogee
 
And happiest folk-land, mostly marriage-hymns.
It is the mountain on which the tower stands,
It is the final mountain. Here the sun,
Sleepless, inhales his proper air, and rests.
This is the refuge that the end creates.
 
It is the old man standing on the tower,
Who reads no book. His ruddy ancientness
Absorbes the ruddy summer and is appeased,
By an understanding that fulfils his age,
By a feeling capable of nothing more.
 
それは全世界のうちで唯一自然な塔だ、
測量点であり、最も緑なる遠地点だ、
が、塔はそこから眺める景色より貴重で、
玉座のように居座る測量点、
すべての軸、緑の遠地点で
 
たいていは婚礼の賛歌である最も幸せな保有地のものだ。
塔が立っているのはその山だ。
それは最後の山だ。ここで太陽は、
眠ることなく、自らに適した大気を吸い込み、休息する。
これは限界が生み出す隠れ家だ。
 
塔の上には老人が立っており、彼は
本を読まない。彼の赤らんだ古さは
赤らんだ夏を吸収し、自らの歳を
満たす理解によって、これ以上成しうる
ものがないという感覚によって和らいでいる。
 
        W
One of the limits of reality
Presents itself in Oley when the hay,
Baked through long days, is piled in mows. It is
A land too ripe for enigmas, too serene.
There the distant fails the clairvoyant eye
 
And the secondary senses of the ear
Swarm, not with secondary sounds, but choirs,
Not evocations but last choirs, last sounds
With nothing else compounded, carried full,
Pure rhetoric of language without words.
 
Things stop in that direction and since they stop
The direction stops and we accept what is
As good. The utmost must be good and is
And is our fortune and honey hived in the trees
And mingling of colors at a festival.
 
現実の限界点の一つは
オーレィにおいて干し草が長い日々を通じ、
焼かれて山積みになっているときに現出する。
そこは謎に満ちるにはあまりに豊饒な、あまりに静謐な土地だ。
そこでは距離が千里眼を駄目にし、
 
そして、耳の副次的な感覚は
副次的な音ではなく、合唱で、
喚起ではなく、最後の合唱、他のなにも
合成されることなく、十分に引き延ばされる最後の音、
言葉なき言語の純粋なる修辞で満ちているのだ。
 
物事はその方角において停止し、それらが停止する以上、
方角も停止し、われわれは現状を良きものとして
受け入れるのだ。究極のものは善であり、それは存在し、
われらの財産、木々のあいだの蜜蜂の巣に集められた蜜となり、
祭りの時に混ざり合う色となる。
                     
        X
One day enriches a year. One woman makes
The rest look down. One man becomes a race,
Lofty like him, like him perpetual.
Or do the other days enrich the one?
And is the queen humble as she seems to be,
 
The charitable majesty of her whole kin?
The bristling soldier, weather-foxed, who looms
In the sunshine is a filial form and one
Of the land's children, easily bone, its flesh,
Not fustian. The more than casual blue
 
Contains the year and other years and hymns
And people, without souvenir. The day
Enriches the year, not as embellishment.
Stripped of remembrance, it displays its strength --
The youth, the vital son, the heroic power.
 
一日が一年を豊かにする。一人の女が
残りの女を俯かせる。一人の男が種族となり、
彼のように高邁で、彼のように永続するのか、
それとも他の日々が一日を豊かにするのか。
そして女王は見かけどおり謙虚なのか、
 
彼女全体の親族を代表する慈悲ある威厳となるのか。
日向にぬっと現れる天候に困らされ、苛立つ兵士は
息子の形をして、その土地の子供たちの一人で
軽々と生まれ、その肉体も大げさではない。
さりげない青以上のものが
 
一年や多の年月や賛歌や人々を、記念品なしに
包み込むのだ。一日が一年を豊かにするのは、
決して装飾ではない。回想を剥ぎ取られ、
一日は自らの力、すなわち、若さ、
精気溢れる息子、英雄的力を示すのだ。
 
Y
The rock cannot be broken. It is the truth.
It rises from land and sea and covers them.
It is a mountain half way green and then,
The other immeasurable half, such rock
As placid air becomes. But it is not
 
A hermit's truth nor symbol in hermitage.
It is the visible rock, the audible,
The brilliant mercy of a sure repose,
On this present ground, the vividest repose,
Things certain sustaining us in certainty.
 
It is the rock of summer, the extreme,
A mountain luminous half way in bloom
And then half way in the extremest light
Of sapphires flashing from the central sky,
As if twelve princes sat before a king.
 
岩は壊れることはない。真実であるからだ。
陸地や海から立ちあがっては、それらを覆い尽くす。
それは途中まで緑で、それから
もう一方の計りがたい半分は落ち着いた大気となる
岩で出来た山である。しかし、それは
 
隠遁者の真実や、隠遁生活における象徴ではない。
それは目に見える岩であり、耳に聞こえるもので、
この現在の地面において、確実な休息のもつ
輝かしい慈悲、最も鮮やかな休息、
確実さにおいて我われを維持する確実性だ。
 
それは夏の岩、極限の、
半ばまで花咲き光り輝き、
それから、半分は中央の天空から
輝くサファイアの極限の光となった、
あたかも十二人の王子が国王の前にすわるかのようだ。
 
VII
Far in the woods they sang their unreal songs,
Secure. It was difficult to sing in face
Of the object. The singers had to avert themselves
Or else avert the object. Deep in the woods
They sang of summer in the common fields.
 
They sang desiring an object that was near,
In face of which desire no longer moved,
Nor made of itself that which it could not find . . .
Three times the concentred self takes hold, three times
The thrice concentred self, having possessed
 
The object, grips it in savage scrutiny,
Once to make captive, once to subjugate
Or yield to subjugation, once to proclaim
The meaning of the capture, this hard prize,
Fully made, fully apparent, fully found.
 
森の中遠くで彼らはこの世ならざる歌を歌う、
安心して。対象を前に歌うことは
困難だ。歌い手たちは自らを避るか、
対象を避けねばならない。森の奥深く
彼らはありふれた野原の夏を歌った。
 
彼らは近くにある対象を欲しながら歌った、
欲望がもはや動きもせず、あるいは欲望が
見つけることが出来ないものを生み出すようなことがないように・・・
三度、集中した自己は掴みかかり、三度
三回集中した自己は、その対象を
 
獲得し、獰猛にそれを精査し、
一度はそれを虜にし、一度はそれを
屈服させ、一度はその獲得の意味を
宣言する、この得難い賞金が
完全に得られ、完全に明らかとなり、完全に見つけられた意味を。
 
VIII
The trumpet of morning blows in the clouds and through
The sky. It is the visible announced,
It is the more than visible, the more
Than sharp, illustrious scene. The trumpet cries
This is the successor of the invisible.
 
This is its substitute in stratagems
Of the spirit. This, in sight and memory,
Must take its place, as what is possible
Replaces what is not. The resounding cry
Is like ten thousand tumblers tumbling down
 
To share the day. The trumpet supposes that
A mind exists, aware of division, aware
Of its cry as clarion, its diction's way
As that of a personage in a multitude:
Man's mind grown venerable in the unreal.
 
朝のトランペットが雲間に響き、空じゅうに
鳴り渡る。これは見えるものが宣言されたのだ、
見えるもの以上のものが、鋭く、
光り輝く場面以上のものが。トランペットが語るには、
これが見えざるものの後継者だということだ。
 
これは精神の策略の代替だ。これこそが、
視覚と記憶において、交代せねばならぬ、
可能なものがそうでないものに置き換わるように。
響き渡るトランペットの響きは一日の分け前に
あずかろうと起きあがる一万人の起きあがりこぼしのようだ。
 
トランペットの仮定するには
一つの精神が存在し、分裂を意識しながら、
その響きをラッパの響きのように意識しながら、
その用法を多数の人間に関わるものとして行う。
まさにこの世ならざるものにおいて弱くなった人間の心だ。
 
IX
Fly low, cock bright, and stop on a bean pole. Let
Your brown breast redden, while you wait for warmth.
With one eye watch the willow, motionless.
The gardener's cat is dead, the gardener gone
And last year's garden grows salacious weeds.
 
A complex of emotions fall apart,
In an abandoned spot. Soft, civil bird,
The decay that you regard: of the arranged
And of the spirit of the arranged, douceurs,
Tristesses, the fund of life and death, suave bush
 
And polished beast, this complex falls apart.
And on your bean pole, it may be, you detect
Another complex of other emotions, not
So soft, so civil, and you make a sound,
Which is not part of the listener's own sense.
 
輝く雄鳥よ、低く飛べ、そして豆の棹に止まるがよい。
日のぬくもりを待つ間、おまえの茶色の胸を赤くせよ。
片目でまんじりともしない柳の木を眺めよ。
庭師の猫は死んでしまった、庭師もいなくなって、
昨年の庭は淫らなぐらいに雑草がはびこった。
 
複雑な感情の集まりが、打ち捨てられた場所で
粉々になった。柔らかで慇懃な鳥よ、
汝が見る荒廃は、その配列された、
配列された精神のものであるが、優しさであり、
悲しさであり、生と死の基底であり、滑らかな藪と
 
磨かれた野獣であるのだが、こういった複雑さが粉々になる。
そして汝の豆の棹で、おそらくは、おまえは
別の感情からなる別の複雑さを探り当てるのだ。
あまり、柔らかでも慇懃でもない、そして汝は
聞き手自身の感覚の一部ではない音を立てるのだ。
 
X
The personae of summer play the characters
Of an inhuman author, who meditates
With the gold bugs, in blue meadows, late at night.
He does not hear his characters talk. He sees
Them mottled, in the moodiest costumes,
 
Of blue and yellow, sky and sun, belted
And knotted, sashed and seamed, half pales of red,
Half pales of green, appropriate habit for
The huge decorum, the manner of the time,
Part of the mottled mood of summer's whole,
 
In which the characters speak because they want
To speak, the fat, the roseate characters,
Free, for a moment, from malice and sudden cry,
Complete in a completed scene, speaking
Their parts as in a youthful happiness.
(CP 372-78)
 
夏の配役たちは人間離れした作者の
配役を演じる、彼は深夜に
青い緑地で黄金虫を伴って瞑想する。
彼は自分の配役たちが語るのを耳にしない。彼らが
最もむら気な衣装でまだらになって、
 
青空や太陽の、青や黄色で彩られ、ベルトをし、
結び紐され、帯をし縫い合わされ、半分赤みがかり、
半分緑がかり、巨大な礼儀作法、
時代の流儀に相応しく振る舞い、
夏の全体のまだらの雰囲気の一部となって
 
そこでは配役たちは自ら語りたいために語り、
太った血色の良い配役たちとして、
束の間ではあるが、悪意や突然の叫び声から自由に、
完璧な場面の完璧な様子で、若々しい幸せに
浸っているかのごとく、自らの役をこなすのだ。
 
この最後の連まで一応読み進めた人へ:「よく我慢されました!(拍手)」と共に一言。この詩人をもうかれこれ二十年以上研究している私が言うのも何ですが、スティーヴンズの詩は正直言って「難解」です。でもこれはエリオットやパウンドの詩が「難解」、つまり、ある歴史的な事象や神話的引喩が分からなければ、あまりその言及の意味がつかめない、といった難しさとも違います。あるいは、あまり扱いませんでしたが、ウィリアムズの詩に出てくる現実やそれが暗喩する事象が巨大であったり、その細部が如何様も解釈できるといった意味での「難解さ」とも違います。どちらかと言えば、次回扱うフロストに似ており、またその意味では一部のウィリアズムの詩の細部にも似ているのですが、詩が伝えようとしようとしていることがあまりに「濃密」というか、従って表現があまりに曖昧(多義的)であるので難しいのです。特にスティーヴンズの場合は、通常の論理を超えたような非論理、矛盾、様々に反響しあうアイロニーといった側面が現出することです。なんとか一応の論理をつかまえたと思った瞬間、でもそれはあきらかに言葉の上では非論理であるので、さらに想像上の「論理」が求められる。ですから、これはもうナンセンスの詩だという人も出て来たりします(Hugh Kenner, The Pound Era, p.516: "an Edward Lear poetics pushed to its limit.")
 しかし、「はじめに」で彼の「秋のオーロラ」2歌を扱った際に若干述べたように、その意味するところをいろいろと言葉の音や意味の多重な絡まりをほぐすように考えると、次第にある意味が生じるように出来ていると思われます。その意味ではいろいろと見慣れない単語を、例えば、OXFORD ENGLISH DICTIONARY というような大辞典で調べて正確に知ることも大事な反面、言葉の音に秘められた象徴的意味を探ることも大事だと思われます。どんな詩を読む際にも必要なこのような手順をスティーヴンズの詩ほどに意識的に確認させられることはないと思われます(それだけ、彼の詩の純度が高い、あるいは彼の詩は多かれ少なかれ、詩についての詩[メタポエトリー]だということが出来ます)。ですから、一応の訳はつけましたが、他の詩人ほどに参考にならないのではないでしょうか。
 
そこで以下は前出の新倉俊一氏による教科書的注釈本の注(NOTES)をそのまま引用しますので、自力で何とか意味づけをチャレンジしてください。Good Luck!!
 
CREDENCES OF SUMMER (TRANPORT OF SUMMER, 1947初出)
 Title: 現実の豊饒な季節としての夏の賛歌を意味する。Cf. 'At the time when that poem was written my feeling for the necessity of a final accord with reality was at its straongest: reality was the summer of the title of the bok in which the poem appeared.' (L-790)
 
Canto No., Stanza No.(lines)
I, 1(1-5): 季節のサイクルを象徴として使っている。夏はその他の季節の "false disasters" (l. 13)に対比されている。Cf. "The Motive for Metaphor"
III, 3 (27-8): right ignorance /Of change still possible エリオットの"still point of the turning world"に当たる(Four Quartets, Burnt Norton, IV).
III, 2 (36): fork-land (英史)民有地、公有地
IV, 2 (47): Oley スティーヴンズの生まれたペンシルヴァニア州 Readingの近くの渓谷. Cf. "It is a valley full of farms which was settled in part by Huguenots in the 17the century. An accord with realities is the nature of things there." (L790) この史は実際に近くの山(Mount Penn.)へ hikingに出かけたとき、塔の上から Oley をみた印象をもとにしているらしい。なお、WorthworthのExcursion (IX)にも、これと似た mountain, throne, old manなどのイメージが出てくる。
VI, 3 (81-5): 象徴派の密教的な現実逃避的な詩風と区別している。第Y篇全体のイメージについては、晩年の連作 "The Rock"を参照。
Y, 3 (90): As if twelve princess sat before a king Cf. "The sun-king, a Charlemagne surrounded by twelve peers." (Vendler, On Extended Wings, p.239)
VII, 2-3 (100-105): "shaping spirit"としての自我の作用に触れたもの、詩的想像力について作者は "its power to possess the moment it perceives" ([from the essay entitled "The Figure of the Youth as Viril Poet" in his Necessary Angel: Essays on Reality and the Imagination, p. 61) と述べており、"this hard prize" (106)はそのようなpresent momentをさしている。Cf. "The vital, arrogant, fatal, dominant X." ("The Motive for Metaphor")
VIII, 1 (107): the visible 可視的究極的現在の象徴としての夏。
IX, 1 (124-5): 古い詩情の衰退をさす。Cf. T. S. Eliot: "For last year's words belong to last year's language / And next year's words await another voice." ("Little Gidding," II, Four Quartets)
IX, 2 (129-30): "douceurs" (=sweet), "tristesses" (=sorrow)は、ロマン派や象徴派の好んだ詩情。
X, 1 (137): an inhuman author Cf. "We feel the obscurity of an order, A whole, /A knowledge. . ." ("Final Soliloquy of the Interior Paramour") Frank Doggettは、スティーヴンズには Whiteheadが Process and Reality のなかで説いているような "primordial divinity"に近い観念があると述べている (140)。
X, 3 (148-50) 夏の自己完結性、あるいは "transcendence"をさしている。それが絶対的なものでなくて "momentary" なところにこの詩人の現代性が見られる。
  (『ウォレス・スティーヴンズ』[現代英米文学セミナー双書7]山口書店より)