第2回 エズラ・パウンド
 
どうしてなのだろう。世紀末に近づくと、歴史に名を残すような大悦楽者が出現するのだ。世紀の大きい境目は、季節の分け目のマクロコスモスなのだろうか。木の芽の狂気、ホルモン異常分泌を時代そのものも持つのだろうか。今また陶酔エクスタシアの季節である。
 
このように、かつて高島誠は一風変わった著、『オルフェウスの首ーオーディオ・旅・山岳・英米詩のポリフォニー』(冬樹社、1990)の一章、「悦楽的オーディオのすすめ」(初出、『サブリーム』 1983年3月号)を始めた。彼は続けて言う、
 
十八世紀末にはかのカザノバがいた。前の世紀末にはオスカー・ワイルドがいた。その師、ウォルター・ペイターは名著『マリウス・エピュキリアン』を書き、初めてぼくらに悦楽とは何かを教えてくれたのだった。
 ペイターを読み、カザノバ、ワイルドの人生を調べ、ぼくらのオーディオを想うとき、この魅惑の機械装置が、まさに彼らの定義した悦楽ないし世紀末幻想の諸条件を満たすことに驚くのである。おそらく来世紀の文化人類学者や文明批評家たちは、二十世紀末のオーディオ狂を研究し、これは世紀末特有の悦楽機械であると、フッサールなどの現象学を援用しつつ証明することであろう。とくに日本に異常発達した悦楽に注目し、カザノバ、ワイルドの美学から、ウィーン世紀末はクリムト、エゴン・シーレのデコラティヴな表層性と日本の室町期からの江戸の浮世絵美学の伝統が、クリムトに行き、昭和日本にフィードバックされた、感性のNFBと断じるに違いない・・・ (162頁)
 
確かに、この高島の本は学問的な本ではない。「目次」をみると、「<序>オルフェウスの首」に続いて、「旅」のセクションでは南仏マントンやウィーン、コペンハーゲンへ山登りやオーディオ製造会社を訪ねる旅をしたり、「山岳」では「感覚的な静けさ感を表現するためコンポ評に頻繁に出てくる用語」(68頁)としての「S(ignal)/ N(oize)」あるいは「S(ilence)/ N(oize)」を切り口とするオーディオ狂的な(「ヒマラヤ遠征」を核とする)山岳論、そしてユニークなオーディオ論となっている「オルフェウスの首」、さらに「詩と音楽」と題した最終セクションではボブ・ディラン、ジョン・レノン、キース・ジャレット、黒人音楽としてのジャズ論、アメリカ現代詩論、とある。でも、この若くして急逝した秀英のチャールズ・オルソンを中心とする英米詩研究家は故・金関寿夫も畏敬した存在であり、西脇順三郎の弟子、鍵谷幸信に次ぐ、まさにカザノバ的エピキュリアンとして、日本の現代詩研究、あるいは海外詩紹介の一つの先鋒を形成していた(より学究的な研究者として、僭越ながら、当方に思い浮かぶ名前では、関東では長老格の新倉俊一を初めとして、沢崎順之介、徳永暢三、森田孟、そして原 成吉、江田孝臣、渡辺桃子、飯野友幸、富山俊英、長畑利明といった若手研究者、関西では昨年,急逝した長老格の三宅晶子や児玉実英、そして若手の鵜野ひろ子、菱川英一、田口哲也、それに同僚の荒木映子といった研究者がいるが、谷川俊太郎や長田弘、城戸朱理、北川透や瀬尾育生といった日本の詩人たちもある意味では英米詩研究の一翼を担っていると言える)
 
ところで、パウンドを論ずる前に、高島の本で最もアメリカ現代詩に関係する最後の二章、「ジャズとアメリカ現代詩」と「アメリカン・ナイチンゲールの歌」を以下、話題の中心とします。何故なら、どのようにアメリカ現代詩を考えるかは、おそらく今日パウンドをどう評価するかと密接に関わるであろうからです。
 
まず、「ジャズとアメリカ現代詩」ですが、高島は「モダニストたち」と題した最初の節を以下のように始めています。
 
 エズラ・パウンドから始まるとされる(ヒュー・ケナー)アメリカ・モダニズム詩人たちのジャズに対する意識はむろん低いものであった。ジャズないし、彼らがラグと呼んでいた低俗音楽が、今世紀芸術の一大ジャンルないし、アメリカの<客観的相関物>にまで育つとは思ってもいなかったろう。少なくともジャズ音楽の持つ神話、祝祭、告発、抵抗、破壊と創造、そして宗教と告白、肉体、舞踊、演劇性(しかも喜劇、ないし道化劇)の諸要素がまさにモダニストたちがヴィクトリアンと闘いつつ追求したポエジーの重層性と等価であったことを意識した詩人はいなかった。パウンドやエリオットたちにとってはアメリカは”半分野蛮な”(モーバリィ)ミソロジーを持たぬ国であり、彼らはもっぱらヨーロッパの”祭礼とロマンス”に目を奪われていた。母国のジャズの狂気が、方法的にモダニズムと同様の根を有し、<金の枝>に連なるとは思いもよらなかったであろう。
 にもかかわらず、詩人の感覚は土俗的なアメリカに生まれ育ったがゆえに、無意識のうちにジャズ的詩法をすでに掴み取っていた。<教訓詩>意識でスタートし、エズラ・パウンドによってロマンティックないし個人化した「荒地」にジャズは早くも投影されている。(275-76頁)
 
これに続けて、わたしたちも扱ったエリオットの「荒地」第二部「チェスのゲーム」の一部を引用し、その西脇訳における「シェイクスピヒーア的ジャズ」という名訳ぶりを指摘しています(因みに、わたしたちは「シェクスピヒーアまがいのぼろっ切れ」と常識的に訳した深瀬訳を参照しました)。*
     *ここでは西脇訳の方が正鵠と射ているでしょう。何故なら、"rag"="ragtime"という解釈の方がエリオットのこういう側面をうまく捉えています。
いずれにせよ、エリオットが「逆説的な意味でジャズの神髄を感じとっていた」(277頁)という指摘はエドワート・サイード(Edward Said, 1935-)などの近年の脱植民地主義的批評が明らかにするエリオットの新たな側面です。
 
ここでわたしが高島の文章に注目したいのは、以下でもそういったジャズ感覚をW・C・ウィリアムズやe・e・カミングズにも拾うような姿勢です。まさに直感的に(そして強引に)、ジョン・コルトレーンやマイルス・デイヴィスの60年代ジャズにむしろアメリカ現代詩の息吹を感じている点です。たしかに高島も証言するように、チック・コリアやマリオン・ブラウンといったジャズ奏者からカミングズのような詩が好きだという発言を聞くと、やはり、いかに詩と音楽が同等にアメリカの風土に根ざしたものであるかを考えざるをえません。
 
50年代のジョン・ベリマンやロバート・ロウエル、シルビア・プラスやアン・セックストンといった破滅的な告白詩人たちを一瞥する「最後のモダニストたち」や、ギンズバーグやスナイダーなどを扱う「ビート詩人たち」、さらにリロイ・ジョーンズ[別名、Amiri Baraka]といった「黒人詩人たち」、にジョン・コルトレーンの息吹を感じること。これは私も共有する60年代以降のアメリカ詩への一つの態度です。
 
一方、「アメリカン・ナイチンゲール」と題された章は女性詩の伝統を探る試みであります。「はかなしな小野の小山田つくりかねてをだにもきみはてをふれずや(「花をたづねてみばや」を折りこんである)(新勅撰集)といった女コトバがやはり英語の世界にも存在しているのに、アメリカ女性詩人の研究は男の文学史家のバイアスに毒され、なかなか本質を見せなかったのである」(289頁)というような主張には納得のいくものの、その多岐にわたる観察は、高島流の直感的裁断で論じられているために、興味深い詩史論となっていると同時に物議をかもし出す性格の評論であります(エミリィ・ブロンテに始まる英女流文学の伝統をウーマンリブ運動という観点から論じながら、他方で、男の編んだアメリカ詩史として、ウォルト・ホイットマンという「この草の葉詩人から、アメリカン・イディオムの詩人として、ウイリアム・カーロス・ウイリアムズ、さらにチャールズ・オルスンと三大巨星が連なり、ヨーロッパへ先祖帰りしたモダニズムの巨人たち、エズラ・パウンド、T・S・エリオット、十九世紀のエドガー・アラン・ポウ、さらに、ウォレス・スティブンズ、e・e・カミングズ、ハート・クレイン、ビート派のアレン・ギンズバーグ、ニューヨークのフランク・オハラ、ジョン・アッシュベリィオブジェクティズムのルイス・ズーコフスキーと、日本の少数研究者が手に負えないくらい質量的に豊饒である」という観察もなされています)。さらにダイアン・アーバスやシンディ・シャーマンという女性写真家とマン・レイのような男性写真家を較べ、「アメリカ詩を<鏡>の言語、つまり女コトバの芸としてとらえると、驚くべき文学史が姿を現わす」(291-92頁)として、最終的に(シェリル・ウォーカーの著『ナイチンゲールの宿命ー一九○○以前のアメリカ女性詩人とアメリカ文化』を引き合いに出し)、「ディキンソンもシルビア・プラスも、H・Dもマリアン・ムアも、エリザベス・ビショップも、エイドリアン・リッチも」、アメリカ女性の声を、いわば、「ナイチンゲールの声、舌を切られ永劫に女の性の哀しみを歌う鳥フィロメラの伝説」として捉え、「パウンド、ウィリアムズ、ハート・クレイン、スティブンズ、e・e・カミングズといったモダニズトたちの耳には、ガートルード・スタイン、H・D、エイミイ・ロウエル、ミナ・ロイといったナイチンゲールの声は、『はかなしな小野の小山田つくりかねてをだにもきみはてをふれずや』に<花>をたずねよ、として届いたのであり、花の宣(マニフェスト)の声であった」(298-99頁)と論じ、さらに、その最終段落では
 
 ガートルード・スタインの審美によってマチスやピカソ、パウンドと重なり、スタインの女コトバによって、e・e・カミングズは女装化したのである。スタインの定義によってヘミングウェイ、フィッツジェラルドたちはアイデンティティを得た。パウンドやウィリアムズのイメジ論に魅されてH・Dの作品が生まれたのでなく、H・Dの女コトバによって、二人はモダニズムへの三角関係を設立したのだった。男が起こしたかに見えるイマジズム運動がエイミィ・ロウエルによって奪われたのも、鏡の歌は女がもともとだからであろう。ポストモダニストのロバート・ロウエル、ないし裸の歌(ネイキッド・ポエトリ)の詩人たち、ビート詩人たちも、ブラック・マウンテン派の芸術家たちも、シルビア・プラスやデニーズ・レバトフ、エイドリアン・リッチといったナイチンゲール詩人の伝統に和声するアメリカンボイスと思える。ジャズシーンでいえば、エイブ・リンカンの叫びに和すマックス・ローチのパーカッションと等価であろう。女性詩の研究はシェリル・ウォーカーに負けてはいられないのだ。
                           (299頁)
 
と結んでいます。
 
以上の主張をみなさんはどう思いますか。まだアメリカ現代詩の講義が始まったばかりなのに、一度にその歴史を振り返るように詩人の名前がずらずらと出されても困る、というのが正直なところだと思います(私自身もこのような詩人の名前の羅列によってアメリカ詩史を考えることには、便利ではあっても、あまり賛成できるやり方ではありません)。ただ、高島の本の良いところはそういった主張をけっして疑似アカデミックにやっているのではなく、彼の直感にもとづいて、特にその「声(ヴォイス)」としての性格にこだわって論じている点です。
 
このあたりから、ようやくパウンドの話に移ります。そこでですが、私が考えるに、パウンド(Ezra Pound, 1885-1972)という詩人は、基本的に、ホイットマン(Walt Whitman, 1819-92)におそらく始まるであろうアメリカニズム(アメリカ語)の詩の伝統の新たなる拡大に寄与した二○世紀最大の詩人である。つまり、エリオットにしろ、スティーヴンズにしろ、わたしたちが既に垣間見てきた同世代のアメリカ詩人のうちで一番、「発声」ということの媒介的側面に敏感であったということだと思います。ここで私が「媒介的側面」というのは、他でもない、言語というメディア装置のことです。
 
そもそも、人間は、動物や鳥と同じく、「発声」を行います。しかし、動物や鳥の言語と違って、より複雑な文法体系や思考内容を有していると考えられるために*、
*こういった当たり前に思える知見に関する学問的考察は、少し古いですが、動物学者モリス(Desmond Morris)のManwatching [邦訳『マンウォッチングー人間の行動学』(小学館)](1977)やその行動主義的議論は今でも色褪せていないと思われる言語学者S・I・ハヤカワのLanguage in Thought and Action, 3rd. Edition [邦訳『思考と行動における言語』(岩波現代叢書)] (1972)等が参考となると思います。
人間の言語に関しては、言語学を初めとして、およそ多種多様な言語理論が存在しますが、パウンドはそういった言語理論家の一人でもあるのです。
 
パウンドには彼の教育者としての側面を雄弁に物語る書が幾つかありますが、そのうちの一冊、『詩学入門』(ABC of Reading, 1934)は詩人が考える教養とは何かを知る上で重要だと思います。この本は大きく二つのセクションに分かれていて、第一セクションでは、主として詩論、文学論、そして形而上的議論や創作論があり、第二セクションでは、過去の文学作品の標本が抜粋されています。なかでも第1章の以下の言葉は詩人のそれまで進んできた足取りやそれから進む方向を暗示していて興味深いものです(少し長い引用ですが、そこでの議論を概観しましょう。)
 
我々は科学と豊富な物質の時代に生きている。誰かが手で写す作業をわざわざしないかぎりいかなる本も複製されなかった時代に見合ったような、本に対する心配りと尊敬はもはや「時代の要請」や学問の保存に明らかに合致しない。[中略]
 科学的方法の文芸批評への応用を最初に明確な形で主張したのは、アーネスト・フェノロサの『漢字論』である。公式的な哲学思想が完全に侮蔑に値するということ、そして読者が私がここで述べていることを真に注意深く考えるならば、アメリカやイギリスにおける組織的な知的生活、一般的には大学であり、広くはその学識出版に関してであるが、それらに対し、最も辛辣な侮蔑が感じられ、またそれと同時にその全般的なくだらなさ、無能性が確として証拠づけられよう。これはとりもなおさず、フェノロサの評論を公表するにあたり私が遭遇した困難さの話によって示されうるのだ。[中略]
 [フェノロサ]は漢字を思想の伝達と登録の道具として説明しようとした。彼は事柄の根本に、つまり、漢字的思考において有効なるものと、西欧的思考や言語の大半において有効でないか誤解を招くものとの差異の根本に到達したのだ。
 彼の意味するところを最も簡単に述べるならば、以下のようになる。
 西欧において、もし諸君がある人に何かを定義するように求めたら、その人の定義は常に彼が完璧に知っている単純なことから逸れていき、次第により深い抽象化である未知の領域へと足を踏み入れてしまうであろう。[中略]
 抽象化の方法、あるいはより一般的な用語で事物を定義づける方法に対し、フェノロサは科学の方法を強調する。それは「哲学的議論」の方法とは異なった「詩の方法である」とされ、それは中国人が表意文字、すなわち、簡易化した絵文字において行っている方法である。
 歴史を遡れば、話し言葉と書き言葉があり、書き言葉には二つの種類、すなわち、音に基づいた言葉と視覚に基づいた言葉があることを諸君は知ることになろう。
 諸君は動物に対し、二三の単純な音と身振りで話しかける。レヴィ・ブリュール[Lucien Lévi-Bruhl, 1857-1939フランスの社会学者、主著:『未開社会の思惟』]のアフリカにおける未開社会の言語についての記述は物まねと身振りによって未だに束縛された言語の存在を記録している。
 エジプト人は音を再現するのに省略した絵をついに用いることになったが、中国人は今でも省略した絵を絵として使用している。つまり、漢字は音の絵とか、音を呼び起こす書記の記号となろうとはせず、事物の絵であり続けているのだ。すなわち、ある一定の位置や関係における事物や事物の結合を表している。漢字は事物や行為や状況や事物に関わる資質を意味するのだ。[中略]
 一つの段に当初の漢字を、もう一つの段に現在の「当用化された」記号を示す表においては、人間や木々や日の出に対する表意文字が、それぞれから、発展し、その「簡略な形をとる」、つまり、その絵の本質に還元されたものとなるかを誰もが理解できよう。従って:
 
  人 man
  木 tree
  日 sun
  東 sun tangled in the tree's branches, as
     at sunrise, meaning now the East.
                      (Faber版、17, 18, 19, 20-21)
 
以上の引用は詩人の直感的な形而上的議論を裁断する格好でつぎはぎ的に抜粋したものですが、その議論の中核を理解するにはある意味で十分だと思います。つまり、科学の時代において詩の言語も科学的でなければならない、それは漢字という表意文字の媒体にみるように、自然界の絵(イメージ)をそのまま写し取るような表現手段に学ぶところは大きいのだ、といったことであるようです*。
    *このような主張をパウンドはフェノロサの漢字論を紹介・注解する形でもっと徹底して行っています。詳しく知りたい人はアーネスト・フェノロサ=エズラ・パウンド芸術詩論『詩の媒体としての漢字考』(高田美一訳著、東京美術)[Ernest Fenollosa, The Chinese Written Character as a Medium for Poetry, ed. with a Foreword and Notes by Ezra Pound, New York: Arrow, 1936](ただし、パウンドの序文は Little Review, VI, 5-8 (Sept.-Dec. 1919)に発表)を読んでください。
ここで私たちが着目したいのは、このような主張の真偽ではなく、詩人パウンドが行った一大革命、そう、「イマジズム運動」との関わりです。
 
ジョン・プレス(John Press)という評論家の書いた本に『現代英詩の地図』(A Map of Modern English Verse)[Oxford Univ. Press, 1969]というのがありますが、私が知るかぎり、イマジズム運動についてはこの本における解説が最も丁寧で事実に即したものであると思われるので、以下、その本からさらに解題したいと思います。
 
この本はそもそもW・B・イエイツ以降の英国の詩の状況を「紹介」「批評」「詩作品」「文献案内」といった形で、イマジズム、パウンド、エリオット、D・H・ロレンス、ジョージア朝詩人、第一次世界大戦期の詩人、エディス・シトウェル、エドウィン・ミュアやロバート・グレイヴズ、W・H・オーデン、一九三○年代の詩人、ディラン・トマス、第二次世界大戦期および一九四○年代の詩人、「ムーヴメント」派と一九五○年代の詩人、といった具合に論じる詩史論ですが、なかでも第三章の「イマジズムと新しい詩」は特に英国におけるイマジズム運動生成の過程を知る上で貴重な証言が幾つか載っています。以下の引用はこういった詩史につきものの偏向的記述を回避しようとする極めて良心的な記述であると思われます。
 
イマジズムと新しい詩の歴史は、エズラ・パウンド、F・S・フリント、エイミィ・ロウエルといった幾らかの先導的な役者たちのあいだの競争や敵対関係によって分かり難くなった。一九一七年に没したT・E・ヒュームや、フォード・マードックス・フォードはこの詩の革命におけるパウンドとフリントの果たした役割の重要性について意見を異にしていた。さらにイマジズムは英米にまたがる運動であったので、この話に対するイギリスとアメリカの貢献度について若干国家主義的な情熱が議論に跡をとどめたのである。
                                (30頁)
 
そして以下でも詳細にその運動の生成過程が述べられています。すなわち、その「イマジスト」という名が 1912年にパウンドによって捏造されたこと、そのような詩がすでにヒュームなどによって 1908年当時で既に書かれつつあったこと、フリントが『エゴイスト』1915年5月1日号においてヒュームがそういった運動を指導していた旨を論じたこと、またフリント自身がフランス象徴詩を元に実質的にイマジズム運動を開始したこと、1939年にパウンドが発表した評論ではヒュームの役割を過小評価し、替わりにフォードを中心人物としたこと、しかし、フォードの役割はヒュームやフリント等に較べれば、小さかったこと、よって『イマジズム詞華集』(1930)においてフォード自身が生みの親であり、イマジズムはパウンドがウィンダム・ルイスと共に始めたヴォーティシズムの副産物だといっているが、それは眉唾物だということ、それにもかかわらず、イマジズムはある意味でパウンドの発明であり、彼の財産であること、つまり、1912年の夏にパウンドがH.D.(ヒルダ・ドゥーリットル)やリチャード・オールディングトンといった弟子たちと共にその理論化を練ったこと、1913年の春にはパウンドが有名なイマジズムの綱領とでもいうべき「二三の禁止事項」を発表したこと、そして 1914年には匿名で『デ・イマジスト』なる詞華集を編纂したこと、さらには、1914年の夏にはエイミィ・ロウエルがそれを乗っ取る形で『幾らかのイマジズム詩人』(1915, 1916, 1917)という三年越しの詞華集を編纂し、この時点でパウンドはイマジズム運動とは決別したこと、などです。
 
しかし、読者諸氏はこのような運動の経緯を読んでも、実際、イマジズム運動がどのような詩を生み出したかのか、パウンドのこの時期の具体的作品を見てみなければ、納得しないでしょう。そこで、パウンド自身そのような詩の典型として書いた、「地下鉄の駅で」"In a Station of the Metro" (1913)と題した二行詩をみてみましょう。
 
  The apparition of these faces in the crowd;
  Petals on a wet, black bough.
 
  人混みのなかのさまざまな顔のまぼろし
  濡れた黒い枝の花びら
             (新倉俊一訳『エズラ・パウンド詩集』[小沢書店]26頁)
 
この詩を載せた 1913年6月の第一の説明では、パリのラ・コンコルドで地下鉄駅を降りた時、薄暗いプラット・フォームから明るい車内の子供や女性の顔が突如次々に見え、その一瞬の感銘を詩にしようと終日苦心した結果、一年後にようやく俳句的な二行の詩にまとめることができた旨を語っていますが、1914年9月の詩論「ヴォーティシズム」においては「単一のイメージの詩」という具合により精巧な詩論になっています。いずれにせよ、このような詩は当時としては新しい形であったに違いありません。
 
ここで詩を丁寧に何度も口ずさんでその音楽を読む癖を身につけた私たちはこのようなあまりに短い詩を前にして少しばかり困るのです。繰り返すといっても二行詩だし、俳句のようにイメージだけで自立している、というのはそれだけのものか、と思ってしまいます。でも通り過ぎる前にちょっと待ってください。
 
詩的言語の視覚的な重要性について述べた詩人のエッセイを少しでも憶えている人は、ここに現代詩の一つの方向を見出すかもしれません。そうです。イメージだけで自立し、何ら音楽的連想や観念的連想をもたない(ようにみえる)詩の面白さとはなんなのか、ということです。
 
でも、「古池や、蛙飛び込む水の音」にしても「夏草や、強者どもが夢の跡」にしても、その象徴的表現はそういった表現が規定する厳密なイメージ内容だけに留まるものではありません。古い苔むす池に,おそらく緑ガエルのような小さな蛙がポッチャと飛び込んだ瞬間を捉えたイメージは、それが象徴とするような侘び(ワビ)や寂(サビ)といった茶道や禅のような文化伝統や、後者には盛者必滅といった仏教思想が現れているはずでしょうから、パウンドの短い詩にもそれなりの象徴的内容が託されていると見ていいと思います。
 
例えば、"the apparition"という最初の単語の意味にしても、それが単に「幽霊」というような(シェイクスピアの『ハムレット』では亡き王の亡霊を "the apparition"という語で言い表しています[1.1.28])暗い北欧的なイメージであるよりは、光り輝くなかの「まぼろし」といった幻影という意味で、パウンドが愛した南仏やイタリアの文化伝統、例えば、カーニヴァルにおける仮面を被った人々の様子を考えて良いかもしれません。それと「濡れた黒い枝の花びら」というイメージに託された不思議な非実在性です。(こういったことは必ずしも一定の意見の一致を見るというよりは、やはり、読者の自由に任されていると思われます。)
 
おそらく、詩の技法としては一見結びつかないものの「並置」による異化効果というべきものが大事なのだと思われます。しかし、もっとイマジズムの本質を理解するには、理論家パウンドのものよりも、彼自身が模範的イマジズム詩人として推したH.D.の作品、例えば、「山の精」"Oread"(1916)を見てみた方がよいでしょう。
 
  Whirl up, sea -
  Whirl your pointed pines,
  Splash your great pines
  On our rocks,
  Hurl your green over us,
  Cover us with your pools of fir.
 
  巻きあがれ、海よ、
  おまえの尖った松を巻きあがらせよ、
  おまえの大きな松を
  われらの岩の上で飛沫をあげさせよ、
  おまえの緑をわれらの上に放り投げよ、
  おまえの樅の溜まりでわれらを覆え。
 
これはなんとも一風変わった風景詩になっています。しかも、樹海に体現するオレイアスという山の精に命令を下すという設定だけで構成されています。どうですか。詩を読むことで、樹海を吹き抜ける風や自然のイメージのみで成り立つ言語の新鮮さが伝わってくるでしょうか。
 
H.D.という詩人はもともとギリシア神話を題材にした形象詩が得意でしたし、そういった題材に神話的な物語詩を作ったり、さらに反戦的内容を盛り込むなどしていきますが、この時期の彼女の詩にはたしかに一世を風靡するだけの純粋さがあるように思います。
 
ところで一時は彼女と婚約していたパウンドにとって、この時期、つまり、彼のロンドン時代(1909-1919)ほどに目まぐるしくも旺盛な活動時期はなかったでしょう。なにしろ、それまではいかにも破天荒だが、平凡な大学教師の人生であったからです。というのも、アイダホ州ヘイリーという田舎町に生まれ、4歳で父の仕事の関係でフィラデルフィアに移り、16歳でペンシルヴァニア大学にラテン語の試験を受けて入学し、他大学に編入した後も、母校の大学院でプロヴァンス文学を専攻し(H. D.とはこの時代に婚約していたが、父親の反対で破談)、その後インディアナ州の大学に外国語講師として赴任。ある晩、ショーガールを泊めたかどで四ヶ月で解雇。そして二十三歳にて家畜運搬船で大西洋・ジブラルタル海峡を通り、ベネツィアに辿り着く。そして詩人イェイツに合うためにロンドンに渡る・・・という経緯だったのです。しかし、ロンドンに着いてからは、自費出版した一冊の詩集『消えた微光に』A Lume Spento (1908)を携え、大詩人との念願の会見を行い、意気投合した大詩人イェイツとは、後にフェノロサの遺稿をもとに彼が訳した能の本の序文を書いてもらい、好評を博します。またヒュームのグループに加わり、前述したイマジズム運動を展開します。その間にも詩集『仮面』Persona (1909)、評論集『ロマンスの精神』The Spirit of Romance (1910)、詩集『カンツォーニ』Canzoni (1911)、訳詩集『グィード・カヴァルカンティ』Sonnets and Ballads of Guido Cavalcanti (1912)、詩集『当意即妙』Ripostes (1912)等の出版。また、1912年に創刊されたアメリカの詩誌「ポエトリー」の海外編集者の仕事、1914年にはイェイツの女友達の娘ドロシー・シェイクスピアと結婚。同年、ウィンダム・ルイスと「ブラースト」を創刊。エリオットと親交を結び、翌年にはフェノロサの手稿をもとに漢詩英訳集『中国』Cathay(1915)を出版。さらに先述したフェノロサの手稿をもとにした能の翻訳『日本の貴族演劇』Certain Noble Plays of Japan (1916)や詩集『大祓』Lustra (1917)の出版。さらに評論集『パヴァーヌス・アンド・ディヴィジョンズ』Pavannes and Divisions (1918)やその後の大作である『詩章(キャントウズ)』の第1章から第3章までを含む詩集『キア・パウペル・アマヴィ』Quia Pauper Amavi (1919)などを出版。そして詩集『ヒュー・セルウィン・モーバリ』Hugh Selwyn Mauberley (1920)を出版してロンドンを去って、パリに移住、という具合に目も回るような活動ぶりです。
 
ここで以上の経緯を詩人自身、「ヒュー・セルウィン・モーバリ」詩篇のなかで説明しています。
 
       HUGH SELWYN MAUBERLEY
         (Contacs and Life)
 
  "VOCAT ÆSTUS IN UMBRAM," Nemesianus, Ec. IV.
  E. P. ODE POUR L'ELECTION DE SON
  SEPULCHRE
 
  For three years, out of key with his time,
  He strove to resuscitate the dead art
  Of poetry; to maintain "the sublime"
  In the old sense. Wrong from the start
 
  No, hardly, but seeing he had been born
  In a half savage country, out of date:
  Bent resolutely on wringing lilies from the acorn;
  Capaneus; trout for factitious bait;
 
  "Iδμεν γαρ τοι πανθ' οσ' ενι Tροιη
  Caught in the unstopped ear;
  Giving the rocks small lee-way
  The chopped seas held him, therefore, that year.
 
  His true Penelope was Flaubert,
  He fished by obstinate isles:
  Observed the elegance of Circe's hair
  Rather than the mottoes on sun-dials,
 
  Unaffected by "the march of events,"
  He passed from men's memory in l'an trentuniesme
  De son eage; the case presents
  No adjunct to the Muses' diadem.
              (Selected Poems 1908-1959 [London: Faber, 1975], p.98)
 
  ヒュー・セルウィン・モーバリ詩篇
      (生涯と交友)
 
  「暑さは木陰に招く」ネメシアーヌス「牧歌」四
  「わが墓をたてるために」
   E・Pのオード
 
  三年もかれの時代と調子はずれに
  死んだ詩の芸術を生き返らそうとつとめた    
  昔どおりの「崇高」を保とうとして
  最初からまちがいだった
 
  いや、そうでもない。かれが時代おくれの
  野蛮にちかい国 に生まれたのを思うと
  団栗(どんぐり)から百合をもごうと
  熱中したカパネウス、疑似(にせ)の餌にかかった鱒だ
 
  「われらはトロイでのすべての苦しみを知るゆえに
  という歌声を、ふさがない耳で聞いて
  岩礁からすれすれに
  荒れた波がかれをとどめたあの年は
 
  かれの本当のペネロペーはフロベール だった
  頑な島々でかれは釣をした
  日時計に刻まれた格言よりも
  キルケーの髪の美しさにみとれて
 
  「事件の成りゆき」にまったく無縁に
  三十のとき
  ひとびとの記憶から忘れられた
  かれの事件は ミューズの頭飾りになにも付け足さない
 
訳注)題名「ヒュー・セルウィン・モーバリ」 一九二○年刊。T・S・エリオットの詩の人物J・アルフレッド・プルーフロックと同じく架空の審美主義的詩人。
献辞 ローマの宮廷詩人の引用「この連作は歴然とロンドンへの訣別なので、アメリカ版の場合には読者は読みとばしてさしつかえない」(ニュー・ディレクション版原注)。
本文 古い自己を葬る自嘲の歌ロンサールの「頌歌(オード)」(四の五)にちなんでつけられたもの。
 ダンテ「煉獄篇」第一歌七行。パウンドがロンドンで過ごした最初の三年間を指す(『大祓』の執筆は一九一三ー一六年)。
 アメリカ。
 テーベを攻めた七人の一人で、不遜のためにゼウスに罰せられた。
 『オデュッセイア』第十二巻一八九行、セイレーンの誘惑の歌。
 フロベール(一八二一ー八○)は近代文学スタイルの完成者。「頑な島々」はイギリスをさす。
 フランソワ・ヴィヨンの『遺言集』が刊行されたときの彼の推定年齢(パウンドは自分を彼になぞらえて、他の版では三十一歳─本詩制作時のパウンドの齢─としている)。
     (以上、訳注を含め、訳文は新倉訳『エズラ・パウンド詩集』39-42頁) 
 
さあ、いよいよ「難解な」現代詩の真骨頂ということで、いかがですか?やれ、古代ローマの詩人やら、プロヴァンスの詩人への言及とで、意図的に言いたい内容をはぐらかしているんとちゃうか? と勘ぐりたくなりますよね。
 
実はある意味では、そう、はぐらかしです。パウンドがこのような詩を書き始めたとき、イギリスではジョージア王朝(ジョージ五世)時代[1910-20]の詩人といって、ふやけたロマン派的叙情詩を書く人たちが多く(パウンド自身も出発点は、ブラウニング Robert Browning [1812-1889]のようなヴィクトリア朝の詩人の詩です)、アメリカでも「お上品な伝統」というヴィクトリア朝的なロマン主義を奉じる「ハーヴァード詩人」が同様に、なんとも甘ったるくも退廃的な世紀末的審美主義の詩を書いていましたので、そのような蒙昧な叙情の詩は彼は書きたくなかった。そこで十八世紀の古典主義時代の詩人を真似て、韻律は破格ながらも、現代的リズムをもった短い行数連の詩形式を選んだ。結果はなんとも見かけは古典主義的だが、イメージや韻律の面では斬新なモダニズムの詩ができた、ということです。
 
先ほどのイマジズムの二行詩といい、このような警句(エピグラム)の寄せ集めのような詩といい、絵画におけるキュビズムやフォーヴィズムを取り入れた感があります。実際、現代詩の現代絵画との関係は想像以上に複雑な血縁関係をもっていると思われますが、パウンド自身はそのような立体派運動のひとつ、「渦巻き主義(ヴォーティシズム)」を画家のウィンダム・ルイス Wyndam Lewis [1882-1957]と共に始めていますし、自分の頭像を造らせた若い一人のフランス人現代彫刻家ゴーディエ・ジャレスカ Gaudier Brzeska [1891-1915]についての回想録もあります。いずれにせよ、詩と絵画がともにモダニズムという芸術運動を形作っていたという意味で、パウンドの詩をそのような絵画表現とあわせてみるべきでしょう。
 
今回は各方面に影響を与えた大詩人パウンドということもあって、講義が少し長くなりそうですが、最後までつき合うだけの気力・体力があるでしょうか?(ここでいつものコーヒー・ブレイクの時間です!)
 
さきほどの「ヒュー・セルウィン・モーバリ」の詩に戻りましょう。こういったギリシア語やラテン語を含み、いろんな言及内容を含む詩というのはどのように読めば、詩として面白く読めるのか?そうです。エリオットの「荒地」の場合もそうでしたが、ある意味でそういった難解な詩行は飛ばして普通に判る英語の詩行に集中して読む、という手がありましたよね(これはもちろん、いわゆる詩の裏攻略的な読みで、正攻法ではありません)。でもこの詩ではそういったことをあまりしなくても詩の「内容」は把握できます。
 
その「内容」とは、詩人自身になぞらえたモーバリという詩人がみずからの墓碑を建てるために自分の三十年間を振り返り、いかに自分が時代と齟齬をきたし、様々な誘惑に屈しながらも、みずからの信念とする芸術観を打ち立てようとしたかを語っているものです。しかし、そんな散文的「内容」をオディッセウス神話にかけて語ることにどのような意味があるのでしょうか。
 
ここでも英詩の意味の半分はその音にある、という私たちの読みのモットーを思い出してください。特にパウンドのような意図的に英詩に固有なリズムをラテン語の詩のようなリズムに置き換えようとした作品においては、その韻律の意味が問題となります。
 
  x  /   /  x  x / x x / x
  For three years, out of key with his time
  x  /  x x / x x  /  / 
  He strove to resuscitate the dead art
  x  /   x /  /  x x /
  Of poetry; to maintain "the sublime"
  x  x /  /    /  x x  /
  In the old sense. Wrong from the start
 
以上のスキャンションは正確なものでなく、あくまで大まかなリズムを把握するためのものですが、若干でも、歌うようなリズム、それは多音節の語にみられるラテン語の詩に特徴的なアレクサンドリア風リズム(12音節からなる詩行で、短長(アイアムビック)や長短(トロッケイク)6脚を含む、長ったらしいが、優美で滑らかなリズムを奏でる)に似た詩行となっていることが判るでしょうか。これはもっと英詩本来の基本である短長5歩格(アイアムビック・ペンタミーター)といわれるリズムとは異なるものです。つまり、この時点で既にリズムの上でもパウンドの詩は英詩の伝統に反旗を翻しているのです。次の連も急に転調したり、破格なリズムで安定はしていません。
 
   /  /  x  x  / x x   /
  No, hardly, but seeing he had been born
  x x / /x x  /  x  x /
  In a half savage country, out of date;
   /  / x  x  / x  /   x  x  /
  Bent resolutely on wringing lilies from the acorn;
   / x x  /  x x / x  /
  Capaneus; trout for factitious bait;
 
エリオットの永遠的時間を瞑想した「バーント・ノートン」の詩の冒頭、
 
  Time present and time past
  Are both perhaps present in time futurte
  And time future contained in time past.
 
の規則的なリズムと較べてみてください。音楽で喩えるなら、弦楽四重奏曲のように一定の規則的旋律が繰り返され、そのそれぞれの弦楽器の奏でる輻輳する旋律の微妙な差異に美しさを感じるのが、エリオットの『四つの四重奏』の魅力なら、パウンドの上記の詩のリズムはタンバリンに合わせて歌うカンツォーネのような歌曲、あるいは古代楽器を使いつつもシェーンベルク(Arnold Schönberg, 1874-1951) のような現代音楽を演奏するといった観があります。
 
上記の引用の「ヒュー・セルウィン・モーバリ」については一応のまとまりまでその詩が風刺している内容を見ておかねば、この疑似叙事詩がテーマとする当時の英国文壇事情などが判りませんので、以下、本文と訳文を挙げておきます(丁寧には解説いたしませんので、各自でどこで誰のことを揶揄っているか、などチェックしておいてください)。
 
  II
  The age demanded an image
  Of its accelerated grimace,
  Something for the modern stage,
  Not, at any rate, an Attic grace;
 
  Not, not certainly, the obscure reveries
  Of the inward gaze;
  Better mendacities
  Than the classics in paraphrase!
 
  The "age demanded" chiefly a mold in plaster,
  Made with no loss of time,
  A prose kinema, not, not assuredly, alabaster
  Of the "sculpture" of rhyme.
 
  時代はもとめた
  一段と増した苦悩のイメージを
  いまの舞台に合ったものを
  とにかく アテネの優雅ではなかった
 
  心の奥をぼんやり
  みとれる幻想では むろんなかった
  読み易くまとめた古典より
  まやかしの方がましだった!
 
  もっぱら「時代がもとめた」
  のは粗製乱造の石膏細工とか
  散文の映画で、決して雪花石膏(アラバスター)とか
  詩の「彫刻」ではなかった
 
  III
  The tea-rose tea-gown, etc.
  Supplants the mousseline of Cos,
  The pianola "replaces"
  Sappho's barbitos.
 
  Christ follows Dionysus,
  Phallic and ambrosial
  Made way for macerations;
  Caliban casts out Ariel.
 
  All things are a flowing,
  Sage Heracleitus says;
  But a tawdry cheapness
  Shall outlast our days.
 
  Even the Christian beauty
  Defects after Samothrace;
  We see το καλον
  Decreed in the market place.
 
  Faun's flesh is not to us,
  Nor the saint's vision.
  We have the press for wafer;
  Franchise for circumcision.
 
  All men, in law, are equals.
  Free of Pisistratus,
  We choose a knave or an eunuch
  To rule over us.
 
  O bright Apollo,
  τιν' ανδρα, τιν' ηδρωα, τινα θεον,
  What god, man or hero
  Shall I place a tin wreath upon!
 
  ティー・ローズの茶会服(ティー・ガウン)などが
  コスのモスリンを凌ぎ
  自動ピアノ(ピアノーラ)が
  サッフォーの竪琴(リラ)に「取り替わる」
 
  キリストがディオニュソスのあとをつぎ
  男根崇拝と神
  節食の美容に道をゆずる
  キャリバンがエリアル を追いだそうとする
 
  「すべては流れる」
  と賢者ヘラクレートス は言う
  だがけばけばしい安っぽさは
  われわれの時代のあとも続くだろう
 
  キリスト教の美でさえも
  サモトラケー にならって損なわれる
  「美」が市場で決められるのを
  われわれは見る
 
  あの半人半羊神(フォーヌ)のからだ
  聖者の幻もわれわれにはない
  聖餐のパンの代わりに新聞が
  割礼の代わりに選挙権があるだけだ
 
  法律ですべてのひとは平等だ
  ピーシストラースの暴政から自由になり
  悪党や宦官を
  じぶんの支配者に選ぶのだ
 
  おお かがやくアポロン
  「ティン・アンドラ、ティン・エロア、ティン・セオン」  
  (どんな英雄や、人間や、神に)
  錫(ティン)の花冠を飾ったらいいんだ! 
 
訳注)1 淡黄色(一八一○年に移植されたバラの名にちなむ)。
2 ギリシアのコス島(プロペルティウスが歌っている)。
3 古代ギリシアの抒情詩人。
4 シェイクスピア『嵐』に登場する妖怪と善き精。
5 古代ギリシアの哲学者。
6 ルーブルにある「翼のある勝利の女神」像の出土地で昔ディオニュソス崇拝が盛んだった。「美」を表すギリシア語の「トー・カロン」が化粧品の名に当時使われた。
7 アテネの暴君。
8 ピンダロスの「オリンパスの頌歌」(二の二)。次行の英語原文では順が逆になっている。
 
  IV
  These fought in any case,
  and some believing,
          pro domo, in any case. . .
 
  Some quick to arm,
  some for adventure,
  some from fear or weakness,
  some for love of slaughter, in imagination,
  learning later. . .
  some in fear, learning love of slaughter;
 
  Died some, pro patria,
          non "dulce" non "et decor" . . .
  walked eye-deep in hell
  believing in old men's lies, then unbelieving
  came home, home to a lie,
  home to many deceits,
  home to old lies and new infamy;
  usury age-old and age-thick
  and liars in public places.
 
  Daring as never before, wastage as never before.
  Young blood and high blood,
  fair cheeks, and fine bodies;
 
  fortitude as never before
  frankness as never before,
  disillusions as never told in the old days,
  hysterias, trench confessions,
  laughter out of dead bellies.
 
  このひとびとは戦った なにはともあれ
  ある者は信じた
       「祖国のために(プロ・ドモ)」なにはともあれ
 
  ある者は武器が好きで
  ある者は冒険をもとめて
  ある者は弱さをおそれて
  ある者は非難をおそれて
  ある者は想像で人殺しを好んで
  あとで悟った
  ある者は人殺しが好きになったのをおそれて
  ある者は「愛国のために(プロ・パトリア)」死んだ
         「安らか(ドルス)」でも「また名誉(エ・デコルム)」でもなく
  地獄に眼まで浸かって歩いた
  老人たちの嘘を信じ、やがては信じるのをやめて
  別の嘘に帰ってきた
  多くのごまかしに
  古い嘘と新しい破廉恥に
  昔からずっと絶えたことのない利子
  公共の場所での嘘つきのもとに
 
  かつてない勇気 かつてない浪費
  若い血と気高い血
  美しい頬とみごとなからだ
 
  かつてない毅然さ
 
  かつてない率直さ
  昔は語られたこともないような幻滅
  ヒステリー 塹壕のわめきちらす声
  死んだ腹から聞こえる笑い
 
訳注)1 第一次世界大戦の「英雄」たち。
2 キケロの詩句。
3 ホラティウスの「頌歌」(三の二)。
4 『詩篇』のなかには、この「利子」を攻撃した絶唱がある(第四十五篇)。
 
  V
  There died a myriad,
  And of the best, among them,
  For an old bitch gone in the teeth,
  For a botched civilization,
 
  Charm, smiling at the good mouth,
  Quick eyes gone under earth's lid,
 
  For two gross of broken statues,
  For a few thousand battered books.
         (Faber版、98-101頁)
 
  夥しいひとが死んだ
  しかもそのなかには最良のひとたちが
  歯の欠けたおいぼれ女のために
  つぎはぎだらけの文明のために
 
  美しい口もとでほほえむ凛々しさ
  大地の瞼のしたに閉ざされた元気な瞳が
 
  二、三百の壊れた彫像のために
  二、三千のぼろぼろの書物のために
 
訳注)1 一九一七年に戦死したT・E・ヒュームや一九一五年に戦死したルパート・ブルックとゴーディエ・ジャレスカなどを念頭に置いている。
       (新倉訳『エズラ・パウンド詩集』42-48頁)
 
詩の前半で時代の揶揄、そして後半で特に第一次世界大戦に散った文人仲間への哀悼の歌、という具合に、古典古代の詩人に言及しつつも、意外と軽いリズムで風刺や哀悼を行うという体裁に読者のなかにはなにか失望とも期待はずれともつかないような竜頭蛇尾の感じを憶える人もいると思います。ただ、この「ヒュー・セルウィン・モーバリ」という詩自体は、この後も、「青い瞳」"Yeux Glauques"、「シエナが私を作り、マレンマが私を滅ぼした」"Siena mi fe; Disfecemi Maremma" 、「ブレンボーム」"Brennbaum" 、「ニクソン氏」"Mr. Nixon"、「X」、「XT」、「XU」、「跋(一九一九年)」"Envoi (1919)"という具合に続くので、この時点で全体的な評価は下せないのです(さらに、「モーバリ(一九二○年)」"Mauberley (1920)"という後半を構成すべき詩連もあって複雑になっており[後者はロンドンに滞在し続ければ、どのような詩人になっているかというさらなる架空の話です]、また、これらの部分では十分あからさまに事件や人物を風刺する部分があるため、架空の詩人の半生を振り返るという設定自体が危うくなっている面は否めません)。
 
このあたりから、個々の詩人に対する褒貶というか、真価以前に、読む側の好き嫌いを考えざるをえない面がでてきます。果たしてパウンドの詩に対し、ここまでで「好き」になった人はいるでしょうか*。
   *パウンドの詩にもう少しでも触れたい、その全体像をつかみたい、という人は詩人の生誕百年を記念して日本で出版された論文集『エズラ・パウンド研究』(山口書店)や、最近出版された西脇順三郎とパウンドに関する新倉氏の本『詩人たちの世紀』(みすず書房)を是非、読んでください。レポートの対象としても十分にやりがいのある詩人です。
 
例えば、ハロルド・ブルームという批評家はリルケやイェイツ、トマス・ハーディやスティーヴンズといったロマン派的な詩人に較べ、エリオットやパウンドの詩はおそらく、二十世紀のカウリー (Abraham Cowley [1618-67])やクリーヴランド(John Cleveland [1613-58])といったマイナーな詩人となるかもしれないと言ったことがありますが、このような評価はあまり私たちのような初歩的な読者は気にすることはないでしょう。ただ、好き嫌いということであれば、どのような詩を良しとするかは個人の趣味に多分に左右されます。そこで私たちとしては、以下のような詩行をそのような壮大なる詩的世界への入り口を示すものとして読むことで、この詩人についての導入的な講義は終わりとします。
 
  CANTO I
 
  And then went down to the ship,
  Set keel to breakers, forth on the godly sea, and
  We set up mast and sail on that swart ship,
  Bore sheep aboard her, and our bodies also
  Heavy with weeping, so winds from sternward
  Bore us out onward with bellying canvas,
  Circe's this craft, the trim-coiled goddess.
  Then sat we amidships, wind jamming the tiller,
  Thus with stretched sail, we went over sea till day's end.
  Sun to his slumber, shadows o'er all the ocean,
  Came we then to the bounds of deepest water,
  To the Kimmerian lands, and peopled cities
  Covered with close-webbed mist, unpierced ever
  With glitter of sun-rays
  Nor with stars stretched, nor looking back from heaven
  Swartest night stretched over wretched men there.
  The ocean flowing backward, came we then to the place
  Aforesaid by Circe.
  Here did they rites, Perimedes and Eurylochus,
  And drawing sword from my hip
  I dug the ell-square pitkin;
  Poured we libations unto each the dead,
  First mead and then sweet wine, water mixed with white flour.
  Then prayed I many a prayer to the sickly death's-heads;
  As set in Ithaca, sterile bulls of the best
  For sacrifice, heaping the pyre with goods,
  A sheep to Tiresias only, black and a bell-sheep.
  Dark blood flowed in the foosse,
  Souls out of Erebus, cadaverous dead, of brides
  Of youths and of the old who had borne much;
  Souls stained with recent tears, girls tender,
  Men many, mauled with bronze lance heads,
  Battle spoil, bearing yet dreory arms,
  These many crowded about me; with shouting,
  Pallor upon me, cried to my men for more beasts;
  Slaughtered the herds, sheep slain of bronze;
  Poured ointment, cried to the gods,
  To Pluto the strong, and praised Proserpine;
  Unsheathed the narrow sword,
  I sat to keep off the impetuous impotent dead,
  Till I should hear Tiresias.
  Bur first Elpenor came, our friend Elpenor,
  Unburied, cast on the wide earth,
  Limbs that we left in the house of Circe,
  Unwept, unwrapped in sepulchre, since toils urged other.
  Pitiful spirit. And I cried in hurried speech:
  "Elpenor, how art thou come to this dark coast?
  "Cam'st thou afoot, outstripping seamen?"
      And he in heavy speech:
  "Ill fate and abundant wine. I slept in Circe's ingle.
  "Going down the long ladder unguarded,
  "I fell against the buttress,
  "Shattered the nape-nerve, the soul sought Avernus.
  "But thou, O King, I bid remember me, unwept, unburied,
  "Heap up mine arms, be tomb by sea-bord, and inscribed:
  "A man of no fortune, and with a name to come.
  "And set my oar up, that I swung mid fellows."
 
  And Anticlea came, whom I beat off, and then Tiresias Theban,
  Holding his golden wand, knew me, and spoke first:
  "A second time? why? man of ill star,
  "Facing the sunless dead and this joyless region?
  "Stand from the fosse, leave me my bloody bever
  "For soothsay."
      And I stepped back,
  And he strong with the blood, said then: "Odysseus
  "Shalt return through spiteful Neptune, over dark seas,
  "Lose all companions." Then Andreas Divus,
  In officina Wecheli, 1538, out of Homer.
  And he sailed, by Sirens and thence outward and away
  And unto Circe.
 
         Venerandam,
  In the Cretan's phrase, with the golden crown, Aphrodite,
  Cypri munimenta sortita est, mirthful, oricalchi, with golden
  Girdle and breast bands, thou with dark eyelids
  Bearing the golden bough of Argicida. So that:
                 (Faber版、113-115頁)
 
  第一篇
 
  それから船に降りていき
  砕ける波に船をつけて 聖なる海へ乗り出した
  その黒い船にマストと帆をそなえて
  羊の群を積み われわれもまた
  涙にくれて乗り込んだ すると船尾から吹きつける風が
  帆を孕ませ われわれを先へと運んでくれた
  これは美しい髪の女神キルケーの魔法のわざだ
  そこでわれわれは船の中に坐って 風は舵柄をとめ
  こうして帆を張ったまま 日の終わりまで海を渡っていった
  太陽は眠りにつき 暗い影が海面をおおい
  やがて深い流れの果てのキムメリオスの地に
  辿り着いた その死者たちの町は
  細かい蜘蛛の巣のような霧におおわれ
  陽の光りはついぞ貫くことなく
  空に満ちる星々も 大空から見返す光りもなく
  ただ真暗な夜がそのみじめな人たちの上に広がっていた
  水は逆流して やがてわれわれは
  あらかじめキルケーに告げられていた場所へと着いた
  ここでペリメーデースとエウリュロコスはいけにえを行い
  わたしも腰の剣を抜いて
  一キュービット四方の穴を掘った
  死者のひとりびとりに灌奠(かんてん)を注ぎ
  初めに蜂蜜酒 それから甘い葡萄酒や 白い麦粉と混ぜた水をやった
  そして力のない死者たちの頭に多くの祈りを捧げ
  イタケーに帰ったならば 最良のうまずめの牝牛を
  いけにえとし 宝物で火葬の山を積みあげ
  ティレシアースだけには 黒くて鈴のある一頭の羊を捧げようと約束した
  黒ずんだ血が溝に流れ
  常闇の国エルボスから青ざめた死者たちの霊魂が現われた
  花嫁や 若者や 多くの苦しみに耐えた老人たち
  はじめての悲しみのために涙に濡れた者ややさしい乙女たち
  あるいは青銅の槍尖で傷つき
  血まみれの武具をいまなお身につけている戦死者など
  これら大勢の霊魂がわたしを取り巻き 声をあげて
  わたしを蒼白にし 部下たちにもっと多くのいけにえを求めた
  われわれは青銅の剣で羊を殺し
  膏油をそそいで神々に祈った
  威力ある冥府の王プルートーンにたいし それからペルセポネーも崇めた
  鋭い剣を放って
  ティレシアースが語るのを聞くまでは
  性急で力のない死者たちを近づけぬように座り込んだ
  だが最初にエルペーノールが現われた
  われわれの親しき友エルペーノールは
  広大な大地に打ち捨てられたまま葬られもせず
  多の仕事に追われて 嘆くことも墓に納めもせずに
  その遺骸をキルケーの館に残して来たのだ
  哀れな霊魂よ そこでわたしは急いでこう叫んだ
  「エルペノールよ おまえはどうして
  この暗い岸辺にやって来たのか
  歩いて来て 船の者たちを追い越したのか」
      すると重たい口を開いてこう答えた
  「不運と度を過ぎた飲酒のせいだ わたしはキルケーの炉端で眠っていた
  油断してながい梯子を踏み誤まり
  控壁(バットレス)に落ち
  首の骨を砕いて 魂は冥府に下った
  だが王よ 嘆かれも葬られもしなかったこのわたしをおぼえて
  どうかわたしの武具を高く積み 海の辺りに塚をつくりこのように刻んでください
  <不運にして ただ未来に名をもてる者>
  そしてまた 仲間とともに漕いだわたしの櫂を そこに立ててくださるように」
 
  それからアンティクレイアが現われたが わたしはこれを追い払った
  つぎにテーバイの人ティレシアースが
  黄金の笏をたずさえて現われると わたしを認めて語りかけた
  「二度目とは ああ 不幸な星の男よ
  なぜ陽の射さぬ死者と喜びなき地を訪れたのか
  いざ この溝より退いて わたしに血潮を与え
  予言する力を得させよ」
      そこでわたしは退いた
  やがて血を飲んで力を増し かれはこう語った「オデュッセウスよ
  恨み深いネプトゥーヌスの手で暗い海を渡り
  おまえはすべての部下を失って 故郷に帰るだろう」
  するとつぎにアンティクレイアが現われた
  安らかに眠るがいい ディーヴスよ
  ウェケルスの店から一五三八年にホーマーを訳した
  アンドレアス・ディーヴスのことだ
  それからかれはセイレーンの傍を過ぎ そこから遠ざかって
  キルケーのもとへと航海した
  クレーテー人の言葉で言えば「崇められるべき(ヴェネランドウム)」10黄金の冠をつけたアフロディーテよ11
  「キプロスを護るよう定められた(キュプリ・ムニメンタ・ソルティータ・エスト)」12笑いに満てる
  真鍮(オルカリ)の飾りと胸帯をつけた女神よ
  ヘルメスの金色の枝をもつ黒い瞼の女神よ。そうして
 
訳注)以下[冒頭から注8の部分まで]『オデュッセイア』第十一巻一ー一○四行の抄訳(「招魂」)。
 オデュッセウスとその部下たちを一年間引きとめた魔女。
 オデュッセウスの部下たち。
 予言者。
 プルートーンに地上から冥府に連れてこられたゼウスとデメテールの娘。
 オデュッセウスの部下。
 オデュッセウスの亡母。
 海神ポセイドーン。
 以上の『オデュッセイア』の英訳はディーヴスのラテン訳にもとづいている(ウェケルスはパリの出版業者)。
 美しい歌声で船乗りを誘惑する海の精。
10 ホーマーの「アフロディーテ賛歌」第二歌。
11 ヴィーナスに同じ。
12 「アフロディーテ賛歌」第五歌(アフロディーテはキプロスで豊饒の女神として崇められている)。
              (以上、新倉訳『エズラ・パウンド詩集』63-67頁)