最終回:まとめ、あるいは多文化主義時代の詩
 
やっと一年間の講義の最後となりましたが、(数々の誤訳や誤謬を含め)あまり満足のいく内容ではなかったという危惧をひとまず棚上げし、90年代以降のアメリカ詩を論ずることで「まとめ」としたいと思います。
 
先回の「言語詩」という極めて実験的な前衛詩の後に(というか、それとは別の場所に)「詩」の所在を求めるとすれば、やはり、Sun & Moonというような小出版社でなく、伝統的な詩誌や大手の出版社、つまり、Poetry, American Poetry Review, The New Republic, The New York Review, The New Criterion, Partisan Reviewといった全国的な書評紙・文芸誌や Scribners, Norton, Random Houseといった大手の出版社、Oxford, Cambridge, Harvard, Princeton, Yaleといった大学出版局を見るべきなのでしょう。しかし、そういった大手の出版媒体のみでは今日の詩を語れないのもまた現実です。 Sulfar, Temblor, ACTS, How(ever)といったパルチザン的な小詩誌、New Directions, Anatheum, Sun & Moonといった中小の出版社、California, Wisconsin, Alabamaといった地方の大学出版局や National Poetry Foundationという財団出版局から出版する詩人もおり、それぞれに偏っていて常に一部の読者に対して定評ある詩人は存在するが、総体的・全体的に際立った人気や興奮を生み出す者を探すのは困難なのも事実です。現に Contemporary Literatureが最近特集した90年代の詩を巡る評論を読んでも、このような詩人間の偏った傾向を払拭することは出来ませんでした。それでも90年代はアメリカで大衆レベルにおける詩の人気が絶好調であった時期であり、クリントン政権の政策の一つであった芸術の大衆化が功を奏した時期でありました。ネルーダ(Pablo Neruda, 1904-73)をモデルとした95年の映画『イル・ポスティーノ』のヒットでも分かるように普通の人が誰でも詩を書き始めるといった現象が起こっています。しかし、詩の大衆化はあっても真に素晴らしい詩や詩人が誕生したかについては議論の分かれるところであります。
 
そこで以下の「見取り図」をご覧ください(大きな図になってしまいましたが、見開き両ページのつもりで、まず棒線から棒線までを左ページ、次の棒線から棒線までを右ページに配置するものとしてお読みください)。
 

在野派(あるいは文芸政治における左派)
前衛実験詩              口語自由詩 ( イメージ重視 ←

60s-70s
            ("Black Mountain"派) ("Deep Imagist"派)   ("Beat"派)
             Charles Olson     Robert Bly     Allen Ginsberg
            Robert Duncan    James Wright     Jack Kerouac
            Robert Creeley     James Dickey    Gary Snyder
           Edward Dorn     David Ignatow  Lawrence Ferlinghetti
           Denise Levertov   Galway Kinnel    Amiri Baraka
           Gregory Corso
                       (Bob Dylan)    Jack Spicer
 
80s-90s
("Language詩") ("視覚詩" / "音声詩" / "パフォーマンス詩")
Charles Bernstein Jackson Mac Low
Ron Silliman   Clark Coolidge
Bob Perelman   Hannah Weiner
Bruce Andrews  C. K. Williams
Lyn Hejinian   David Antin
Susan Howe    John Cage
 Joanna Drucker    (Laurie Anderson)
 Steve McCaffery       Jerome Rothenberg
Rae Armantrout
Ted Berrigan
Michael Palmer
  Leslie Scalapino

 

                 アカデミー派(あるいは文芸政治における右派)
 → 語り重視)                            韻律詩

60s-70s
 ("New York"派)
John Ashbery     William Stafford   Richard Wilbur
Frank O'Hara   Gwendolyn Brooks    James Merril
Kenneth Koch    Adrienne Rich    A. R. Ammons
James Schuyler    Audre Lorde     John Hollander
Barbara Guest    Louis Simpson    W. S. Merwin
Anthony Hecht     Nikki Giovanni  Stanley Kunitz
                    Mark Strand
 
80s-90s
           Alicia Ostriker  Robert Pinsky     ("新形式主義")
            Philip Levine  Richard Howard     Bruce Bawer
            Alan Williamson  Donald Justice
            Robert Hass    Donald Hall
            Rita Dove     Derek Walcott
             Charles Wright  Joseph Brodsky
             Diane Wakoski  Charles Simic
             James Tate     Louise Glück
           Maxine Kumin     Jorie Graham
            Li-Yong Lee     Frank Bidart
           Yusef Komunyakaa    Amy Clampitt
            Caroline Forché   Douglas Crase
             David Wojahn  Edward Hirsch
 

 
以上の「見取り図」は極めて便宜的・暫定的なものですが、私が注目している詩人たちの種分けです。スペースの取り方で一つ気づかれるのは、60年代・70年代では反体制的な反主流であったポストモダン詩とアカデミックな主流の詩が接近していたのに較べ、80年代・90年代では前衛モダニズムの復活のようなランゲージ派の登場によって従来の口語自由詩が退潮し、アカデミックな立場にしてもより形式に意識的な分極化が起こったということです。
 また、太字で示した詩人を第7回より扱ったわけですが、いかに一部の限られた詩人であるかということも分かります。例えば、60−70年代では、一言も触れなかった「ディープ・イマジスト」派や、ブラックマウンティン派・ビート・ニューヨーク派以外にも、あからさまなグループこそ結成していないが、著名な詩人はいたわけで、例えば、政治的主張は過激でも、より形式的に伝統的な立場に立つと目されるスタフォード、ブルックス、リッチ、ロード、シンプソン、ジョバンニや、もっとアカデミックであるが実験的形式もとったウィルバー、アモンズ、ホランダー、マーウィン、クーニッツ、ストランドを扱えなかったのは極めて遺憾です。
 そこで80−90年代になってからは、注目の「ランゲージ派」の幾人かを扱えたのはいいとしても、これだけでは当然片手落ちです。文学政治的には「右派」とも言える者たちのなかで、口語自由詩形の大衆詩を先導したと考えられるオストライカー、レヴァイン、ウィリアムソン、ハス、ダヴ、ライト等や、形式的にはより実験的でも政治的には保守的と考えられるピンスキー、ジャスティス、ホール、ウォルコット、ブロドスキー、シミック等の才能を無視することはできません。また、より若い世代の詩人についても同様です(なお、各グループ内での上下の配列にはあまり意味がありません。多少、年齢的な序列も関係しますが、むしろ極めて大雑把な注目度を意識した配列になっているはずです)。
 
本来なら、今日の詩的状況を展望すべく、上の図に現れた極めて「多文化な」詩人たちの詩を総体的に論じ、また特にその「多文化主義的」傾向を論じるべきですが、現時点でそのような準備が出来ておりませんので、以下たった一人の詩人の作品(それも二篇だけ)を選んで論じることにしたいと思います(従って、この選択は実に極めて恣意的・個人的なものであること、また、以下の論は著名な研究家 Helen Vendlerのものに導かれた極めて不十分な試みとならざるを得ないことを断っておきます)。
 
その前にここで、『ニューヨーカー』や『ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス』における詩の常任評論家でもあったヴェンドラー著書『魂は語るー近年の詩について』Soul Says: On Recent Poetry (Harvard Univ. Press, 1995)の前書きから叙情詩の基本的性格についての氏の意見を引用します。
 
・・・私にとって重要な詩とは、何物についての詩、あるいはほとんどの何物についての詩であってもよい。今まで決して積極的な意味で主題に惹きつけられたことはなかったからだ。つまり、男について書かれた詩よりも女について書かれた詩、都会について書かれた詩より自然の詩、形而上的な詩より政治的な詩により情熱的に反応したわけではない。私は都会で育ったが、キーツの「秋によせる歌」からスティーヴンズの「秋のオーロラ」にいたる私のお気に入りの詩はしばしば自然からの比喩を用いていたものだ。(ホプキンズからペギーにいたる)カトリック詩人同様、(ミルトンからクランピットにいたる)プロテスタント詩人や(ギンズバーグからゴールドバースにいたる)ユダヤ詩人も好んだ。ロマンス語系諸語しか読めはせず、原文では読めないが、現代で二人の欠くべからざる外国詩人は、パウル・ツェランとチェスウォー・ミウォッシュだ。私は白人だが、ラングストン・ヒューズやリータ・ダヴの詩なしでは済ませられない。また私はゲイ詩人も「普通の」詩人も共に扱ってきた。ここで私は場所や宗教や言語や民族性や人種や性的志向のことを持ちだしたが、これは今日、文学の書き物にかくも頻繁に現れるからで、文学をそのように種分けされた範疇に嫉妬深く占有化することが行われているからだ。
 まず、そのような範疇が儀式的に呼び起こされると、何故人びとが人種や階級や性差に対する自分たちの体験を複製する文学のみにしか反応できないと感じるのか、私には理解困難だ。「・・・を読むまで私にとって文学が意味をもったことはなかった」という出だしで始まり、ある女性から『ジェーン・エア』のような書名が、あるいはある黒人から『見えない人間』のような書名が続く話を多く耳にしてきた。しばらくして分かったのだが、このような説明は大概、小説の読者から発せられたということだ。私が最初にトニ・モリソンの話を聴いた時、彼女は自分が小説から小説へと「自分探しをしながら」渡り歩き、長い間、自分自身あるいは自分の物語を何処にも見つけられなかった旨を語った。それから、彼女が小説における黒人女性が描かれる様を見いだした時、彼女たちが犠牲となり、殺されたり、搾取されており、怒りを覚える事実であったことを語った。私は小説の読者でないので、自分に似た社会的に特定化された自己を探求するようなことはしたことがない。文学から得たいと私が考えるのは決して私の外的状況の鏡などではなかった。私が望んだのは、自分の感情の鏡であり、それを詩に見いだしたのだ。[中略]
 旧訳詩篇から「荒地」にいたる叙情詩は、私が十七才の時には、まさに魂の声そのものだった。これは、私が思うに、ジョリー・グラハムが彼女の詩の一つを「魂が語る」と呼んでいることを意味するが、この叙情詩についての論文集の題目に借用させてもらった所以である。叙情詩において、声は抽象的になる。その声は諸君にそれ自体について、つまり、それが黒人のものであるとか、老人のものであるとか、女性のものであるとか、宗教的独身者のものであるとかを語るのだ。しかし、たとえそれが黒人のものであってもボストンでなくアトランタ育ちだとか、老人のものであっても何歳ぐらいかとか、女性のものであっても結婚しているかどうかとか、宗教的独身者のものであってもいつその誓いを立てたかとかは通例語らないのだ。つまり、小説で声について読者が通常知る範囲を叙情詩の声については知らないのだ。詩においてはもしそれが社会的に特定的なものであったとしたら、読者の知ることは極めて限られたことになってしまうだろう。(こういった規則には例外もあるが、ここでは規則のみにこだわる。)[中略]
 自発的な伸びやかさ、白熱した強度、状況による予測不能性、つまり、遮断・覚醒・喘ぎといった突如として凍らせるような骨組み、切迫した誘惑的リズムといったものだが、これらが叙情詩の特徴となっている。が、もう一つ、もっと特徴的なことがあり、それは凝縮である。(スペンサーの「婚礼歌」以来)ある叙情詩は長さの点で、こういった主張も危うくなるが、彼の婚礼詩で扱われた一日がジョイスが『ユリシーズ』で扱った一日であることを悟るならば、叙情詩における凝縮は(特にそれがスペンサーのような脱線的長さをもつような詩人のものとなれば)極めてめざましいことだ・・・(pp. 1-5)
 
ヴェンドラー氏の叙情詩論はまだ続きますが、現代における詩を模索するわたしたちにとって、以上の意見は「詩とは何か」を改めて考えるうえでも一助となるのではないでしょうか。
 
次に彼女も推奨する幾人かの詩人のうちで一人だけ詩人を選んでその作品を読むことで「まとめ」としたいと思います。そこで、グラハム(Jorie Graham, 1950-)という詩人の「分裂」と題した詩を見てみましょう。この詩のあからさまな状況は、1963年にスタンリー・キューブリック監督『ロリータ』を見ていた「私」が映画館で「大統領が撃たれた」と叫びながら入ってきた一人の男によって映画を台無しにされる体験です。
 
FISSION
 
The real electric lights light upon the full-sized
screen
on which the greater-than-life-size girl appears,
almost nude on the lawn sprinklers on
voice-over her mother calling her name out loud
camera angle giving her lowered lids their full
expanse a desertas they rise
 
out of the shabby annihilation,
out of the possibility of never-having-been-seen,
and rise,
till the glance is let loose into the auditorium,
and the man who has just stopped in his tracks
looks down
for the first
 
time. Tick tock. It's the birth of the mercantile
dream (he looks down). It's the birth of
the dream called
new world (looks down). She lies there. A corridor of light
filled with dust
flows down from the booth to the screen.
Everyone in here wants to be taken off
 
somebody's list, wants to be placed on
somebody else's list.
Tick. It is 1963. The idea of history is being
overmaneuvered.
So that as the houselights come on midscene
not quite killing the picture which keeps flowing beneath,
 
a man comes running down the aisle
asking for our attention
Ladies and Gentlemen.
I watch the houselights lap against the other light the tunnel
of image-making dots licking the white sheet awake
a man, a girl, her desperate mother daisies growing in the
                   corner
 
I watch the light from our real place
suck the arm of screen-building lightr into itself
until the gesture of the magic forearm frays,
and the story up there grays, pales them almost lepers now,
saints, such
white on their flesh in
patches her thighs like receipts slapped down on a
slim silver tray,
 
her eyes as she lowers the heart-shaped shades,
as the glance glides over what used to be the open,
the free,
as the glance moves, pianissimo, over the glint of day,
over the sprinkler, the mother's voice shrieking like a grappling
hook,
the grass blades aflame with being-seen, here on the out-
 
skirts. . . . You can almost hear the click at the heart of
the silence
where the turnstile shuts and he's in our hero
the moment spoked,
our gaze on her fifteen-foot eyes,
the man hoarse now as he waves his arms,
as he screams to the booth to cut it, cut the sound,
and the sound is cut,
and her sun-barred shoulders are left to turn
 
soundless as they accompany
her neck, her face, the
looking-up.
Now the theater's skylight is opened and noon slides in.
I watch as it overpowers the electric lights,
whiting the story out one layer further
till it's just a smoldering of whites
where she sits up, and her stretch of flesh
is just a roiling up of graynesses,
vague stutterings of
light with motion in them, bits of moving zeros
 
in the infinite virtuality of light,
some likeness in it but not particulate,
a grave of possible shapes called likenesssee it?something
scrawling up there that could be skin or daylight or even
 
the expressway now that he's gotten her to leave with him
(it happened rather fast) (do you recall)
 
the man up front screaming the President's been shot, waving
his hat, slamming one hand flat
over the open
to somehow get
our attention,
 
in Dallas, behind him the scorcherwhite, grays,
   laying themselves across his face
him like a beggar in front of us, holding his hat
I don't recall what I did,
I don't recall what the right thing to do would be,
I wanted someone to love. . . .
 
There is a way she lay down on that lawn
to begin with,
in the heart of the sprinklers,
before the mother's call,
before the man's shadow laid itself down,
 
there is a way to not yet be wanted,
 
there is a way to lie there at twenty-four frames
per secondno faster
not at the speed of plot,
not at the speed of desire
the road outexpresswayhotelsmotels
no telling what we'll have to see next,
no telling what all we'll have to want next,
(right past the stunned rows of houses),
no telling what on earth we'll have to marry marry marry. . . .
 
Where the three lights merged:
where the image licked my small body from the front, the story
playing
 
all over my face my
forwardness,
where the electric lights took up the back and sides,
the unwavering houselights,
seasonless,
 
where the long thin arm of day came in from the top
to touch my head,
reaching down along my staring face
where they flared up around my body unable to
 
merge into each other
over my likeness,
slamming down one side of me, unquenchablehere static
 
there flaming
sifting grays into other grays
mixing the split second into the long haul
flanking meundressing something there where my
body is
though not my body
where they play on the field of my willingness,
 
where they kiss and brood, filtering each other to no avail,
all over my solo
appearance,
bits smoldering under the shadows I make
and aimlesslywhat we call freethere
 
the immobilism set in,
the being-in-place more alive than the being,
my father sobbing beside me, the man on the stage
screaming, the woman behind us starting to
pray,
the immobilism, the being-in-place more alive than
 
the being,
the squad car now faintly visible on the screen
starting the chase up,
all over my countenance,
the velvet armrest at my fingers, the dollar bill
 
in my hand,
choice the thing that wrecks the sensuous here the glorious
here
that wrecks the beauty,
choice the move that rips the wrappings of light, the
ever-tighter wrappings
 
of the layers of the
real: what is, what alsois, what might be that is,
what could have been that is, what
might have been that is, what I say that is,
what the words say that is,
what you imagine the words say that isDon't move, don't
 
wreck the shroud, don' t move
(from Region of Unlikeness [1991]; quoted from The Dream of the Unified Field: Selected Poems 1974-94 [Carcanet Press, 1996], pp. 99-103)
 
    現実の電灯が全画面のスクリーン上に
降り注ぎ、
  そこには実物大以上の少女が現れる、
芝生の上でほとんど裸だー散水機がつけっぱなしだー
  画面の外から母親が彼女の名を呼びー大声でー
カメラ角度によって彼女の見開いた瞼が大写し
  となるー砂漠だー両瞼は
 
むさ苦しい破壊の光景から起伏し、
  決して盗み見されたことのない可能性から
立ち上がるのだ、
その輝きは会場のなかにほどける、
そして追跡中の男が立ち止まり、
はじめて
見下ろしたのだ。チックタック。利益目的の
夢の誕生だ(男は見下ろすのだ)。それは
(見下ろされた)新世界
と呼ばれた夢の誕生だ。彼女は横になっている。埃に満ちた光の通路が
座席からスクリーンまで流れている。
ここにいる誰もが誘拐されたがっている
 
  値段表となって、誰もが他の誰かの値段表の上に
貼り付けられたがっているのだ。
チック。一九六三年だ。歴史の観念が今
出し抜かれそうになっている。
その結果、会場の照明がつきー上映中にだー
その下で流れゆく映画を全て台無しにするわけではないが、
 
一人の男が通路を走り降りて
私たちの注意を引こうとするー
みなさん、と。
私は会場の照明がもう一つの照明に重ね合わさるのを眺めるー幻像を
  構成する斑点のトンネルが覚醒した白幕を舐めていくー
一人の男、少女、途方にくれた母親ー角にヒナギクが咲いているー
 
  私は現実の場所より発せられた光が
スクリーンを作っている照明の袖を吸い込み、
  魔術のような前腕部分での喧噪や
その上の灰色や白っぽい部分での物語がー今となってはほとんどライ病患者となり
 
聖者の如く斑点状に肉体の上で
  白くなるー彼女の太股は薄い銀の盆に投げ出された領収書のようだ、
 
彼女の両眼はそのハート型の影を押し下げ、
  かつては開かれ、空いたままになっていた場所の上に滑るように視線が
注がれ、
  陽光の輝きの上に、一番軽やかに、滑っていき、
散水機の上を越えると、母親の声が掴もうとする鉤針のように
  甲高く響き、
盗み見されたことで草の葉が炎となり、このスカートのような
 
  郊外では・・・諸君はこの沈黙のなかでカチッという物音を聞くのだ、
 
そこでは回転木戸が閉まり、彼が入ってくるのだー我らが英雄のー
  瞬間がスポーク状になった、
彼女の十五フィートもある両眼にわれわれの眼差しが注がれる、
  彼は今では腕を振る際にしゃがれた声をあげ、
座席の方に対して叫ぶのだ、消してくれ、音を消してくれ、と、
  そして音が消され、
彼女の日光の筋のついた両肩が
 
音もなく翻り、彼女の首や顔や
上目遣いの表情がついてくる。
  今や劇場の天井窓が開けられ、正午の光が滑り込んでくる。
私はその光が電気照明を圧倒する様を眺めた、
  もう一段物語の層を白くする様を、
そこはただ白い煙となって
  彼女は起きあがり、肉体を伸ばすと
灰色部分の固まりとなり、
  そのなかにあいまいに
光がギクシャクして動き、動くゼロとなって
 
光の無限の仮想性の中に消える、
  その中ではある似顔となるが、特に粒子化してはいないのだ、
似顔と呼ばれる形の墓場だー見えるかしらーそこには
  何かが這い上がっていって皮膚や日光やはてまた
 
高速道となる、というのも彼は彼女に自分と連れ立たせたからだー
  (これはあっという間に起こってしまった)(思い起こせないくらいだ)ー
 
正面に立つ男はなにやら大統領が撃たれたと叫んでいる、彼の帽子を
  振りながら、片手を平たくして
空間を遮るようにして
  なんとか
われわれの注意を引こうとしている、
 
ダラスで、と言うが、彼の背後では焼け付く光がー白や灰色が
  彼の顔の上に拡がっているー
彼はわれわれの前では乞食のようだ、帽子をもってー
  私は彼が何をやったのか思い出せない、
その時、何をするのが正しいのかを、
  私は誰かを愛したかったのだ・・・
 
  まずそもそも彼女が芝生の上で、
散水機のあいだに
  横たわる仕草が変だ、
それから母親の呼び声、
  それから男の忍び寄る影、
 
なにかしら未だ欲情されていない仕方が変だ、
 
  秒速二十四コマ送りでそこに横たわる仕方が
変だーそれ以上速くならないなんてー
  それは筋書きの速度ではなく、
欲望の速度でもなくー
  それは外に通じる道路高速道ホテルモーテルといったもの
次に何が待ち受けているか分かりゃしない、
  次に何をわれわれ皆が欲しざるをえないかも、
(驚くほど長々と続く家々を越えたところでだ)、
  一体われわれが結婚して築くものが何かなんて分かりゃしないんだ・・・
 
三つの光が交わるところ、
  つまり、正面から私の小さな身体の上にも描かれた映像、私の顔一面に
 
演じられる物語、それと
  私の前のめりの姿勢、
そこには電気照明が背後と両脇を占め、
  季節感のない
動かない会場照明がある、
 
  そこには日光の長い薄い袖が頭上から射し、
私の頭を照らし、
  私の覗き込む顔の横に落ちるー
そこには照明が私の身体の回りで眩しく燃えるが
 
互いに混じり合って
  私の似顔の上に重なり合うことはない、
私の片側を止めどなく叩きつぶしながらーここでは静止して
 
あそこでは燃えあがっているー
灰色を他の灰色へとふるいをかけているー
  あっという間の瞬間を長い経路の中にかき混ぜているー
私の側面を攻撃するーそこで何かを脱がし、私の
身体は
と言っても実際の身体ではないがー
そこで照明の光は私の自発的意志が働く場の上で戯れるのだ、
 
そこでは彼らはキスをし、もの思いに耽り、互いに無駄に浸透しあい、
  私の単身の外見上に
拡がるのだ、
  私が作る影のしたで若干の煙が舞いあがるー
そして当て所なくーいわゆる自由にーそこに
 
現状維持主義が入りこむ、
  存在よりもっと生き生きとした場所内存在だ、
私の父はそばですすり泣き、舞台の上の男は
  叫びをあげ、私たちの背後の女性は
祈り始める、
  現状維持主義とは、存在よりもっと生き生きとした
 
場所内存在となるのだ、
いまや機動隊の車がかすかにスクリーン上に見え、
カー・チェイスを始める、
  それも私の顔の上でだ、
指先にはビロード製の肘掛けがあり、片手には
 
ドル札を私は握っている、
  この場の官能を、この場の栄光を破壊する選択肢
これは美を破壊するものだ、
  光の包装を、常にきつく包装される
 
現実の層を切り裂くという選択肢だ、
  この現実とは、すなわち、そこに存在するもの、それは同時に存在しうるもの、
すなわち、そこに存在しえたもの、つまり、
そこに存在したであろうもの、私が存在すると言うもの、
言葉が存在するというもの、
そのように言葉によって存在が仮想されているものとなるー動かないで、帳を
 
切り裂いては、ダメ、動いてはダメー
 
いかがですか。ナボコフ原作『ロリータ』の映画は少女と中年男のスキャンダラスな逃避行をみずみずしく描くものですが、父親とその映画を見に来ている「私」の体験もそれ以上に興味深い形而上的ドラマになっていると思われます。特に途中でケネディ大統領狙撃のニュースを告げる男の登場で中断され、明るくなる会場内に拡がる何ともリアルでありながら、ますます虚構化する映像の光の渦を読者もともに眺めながら、彼女の体験を追体験するわけです。「似顔」(類似)としか言えない光の渦や「場所内存在」と言及されるその場の臨場感は極めて哲学的な形而上性を表すものともなっています。また、行分けの仕方や一行の長さもこういった進行形の動作や状況をうまく反映するものと言えます。
 
もう一つグラハムの詩を読んでアメリカ現代詩がどういう形をとりうるかを見て終わりとします(この詩を最後に選んだ理由は第1回講義に引いたエリオット「荒地」の冒頭を覚えている人には分かってもらえるでしょうか)。
 
  THE VISIBLE WORLD
 
  I dig my hands into the absolute. The surface
                 breaks
  into shingled, grassed clusters; lifts.
  If I press, pick-in with fingers, pluck,
  I can unfold the loam. It is tender. It is a tender
  maneuver, hands making and unmaking promises.
  Diggers, forgetters. . . . A series of successive single instances . . .
  Frames of reference moving . . .
  The speed of light, down here, upthrown, my hands:
  bacteria, milky roots, pilgrimages of spores, deranged
                 and rippling
  mosses. What heat is this in me
  that would thaw time, making bits of instance
                 overlap
  shovel by shovelful my present a wind blowing through
                   this culture
  slogged and clutched-firm with decisions, overridings,
                  opportunities
  taken? . . . If I look carefully, there in my hand, if I
               break it apart without
  crumbling: husks, mossy beginnings and endings, ruffled
                   airy loambits,
  and the greasy silks of clay crushing the pinerot
                   in . . .
  Erasure. Tell me something and then take it back.
  Bring this pellucid moment here on this page now
                as on this patch
  Of soil, my property bring it up to the top and out
                    of
  sequence. Make it dumb again won't you? what
                   would it
  take? Leach the humidities out, the things that will
                   insist on
  making meaning. Parch it. It isn't hard: just take this
                     shovelful
  and spread it out, deranged, a vertigo of single
                  clots
  in full sun and you can, easy, decivilize it, un-
                  hinge it
  from its plot. Upthrown like this, I think you can
                 eventually
  abstract it. Do you wish to?
  Disentangled, it grows very very clear.
  Even the mud, the sticky lemon-colored clay
  hardens and then yields, crumbs.
  I can't say what it is then, but the golden-headed
              hallucination,
  mating, forgetting, speckling, inter-
             locking,
  will begin to be gone from it and then its glamourous
                    veil of
  echoes and muddy nostalgias will
  be gone. If I touch the slender new rootings they show me
                    how large I
  am, look at these fingers what a pilotI touch, I press
                    their slowest
  electricity. . . . What speed is it at?
  What speed am I at here, on my knees, as the sun traverses now
                    and just begins
  to touch my back. What speed where my fingers, under the
                     dark oaks,
  are suddenly touched, lit upso white as they move, the ray for
                       a moment
  on them alone in the small wood.
  White hands in the black-green glade,
  opening the muddy cartoon of the present, taking the tiny roots
                     of the moss
  apart, hired hands, curiosity's small army, so white
               in these greens
  make your revolution in the invisible temple,
  make your temple in the invisible
  revolutionI can't see the errands you run, hands gleaming
                for this instant longer
  like tinfoil at the bottom here of the tall
           whispering oaks . . .
  Listen, Boccioni the futurist says a galloping horse
                 has not four
  legs (it has twenty) and "at C there is no sequence
  because there is no time" ―and since
  at lightspeed, etc. (everything is simultaneous): my hands
  serrated with desires, shoved into these excavated
                    fates
  mauve, maroons, gutters of flecking golds
  my hands are living in myriad manifestations
               of light. . . .
  "All forms of imitation are to be despised."
  "All subjects previously used must be discarded."
  "At last we shall rush rapidly past objectiveness" . . .
  Oh enslavement, will you take these hands
           and hold them in
  for a time longer? Tops of the oaks, do you see my tiny
                  golden hands
  pushed, up the to the wrists,
  into the present? Star I can't see in daylight, young, light
                  and airy star
  I put the seed in. The beam moves on.
  (from Materialism [1993]; ibid., pp. 194-96)
 
  可視的世界
 
  私は絶対的なもののなかに両手を掘り入れる。表面は砕け、
  砂利や草生した塊が現れる。隆起物だ。
  もし押したり、指で突いたり、引き抜いたりするならば、
  その黒土を開くことができるのだ。それは柔らかい。柔らかい
仕草で、両手を使った約束のやり直しとなる。
掘る者たちは、忘れる者たちでもある・・・一連の連続する事例が・・・
参照枠が動いていくのだ・・・
ここ、土のなか、私の両手のなかでは、光の速度は隆起現象となり、
バクテリア、乳白色の根、巡礼者のような胚珠、攪乱され、波状の
苔の中で進む。シャベルで掘り返す毎に事例が部分的に重なり、
時を解凍させる私の熱とは、どのようなものかー私の現在とはこの
培養土を通じて吹く風となり、意志決定や優先事項や好機を
たゆまずしっかりと握りしめるものとなるのか・・・もし
手の中を注意深く眺めれば、もし細かい粒にすることなく崩すならば、
そこには穀皮や苔むした始まりと終わり、皺くちゃになって空気の入った
黒土や腐った松を押し潰す脂っこく絹のような粘土がある・・・
抹消だ。なにか喋って、それからそれを元に戻しておくれ。
この明晰な瞬間をもたらしておくれー私の財産であるこの土地の
区画の上におけるように、このページの上にーそれを一番上にして
一続きのものから離しておいてくれ。もう一度それを黙らせておくれーいいかいー
ややこしそうでも。執拗に意味を作ろうとするものごと、その水分を
絞り出しておくれ。カラカラにしておくれ。難しくはない。ただ、このシャベルを
使い、それを攪乱し、撒き散らかすだけだ。すると十分な陽の光のなかで
どんな一粒の土も旋回し、諸君は簡単にそれを野蛮な状態に戻すことができる、
その筋立てから蝶番を外すのだ。このようにして地中から放り上げられると、
遂にはそれを抽象化できるのだ。諸君はそう望むのか。
もつれが解かれると、それはとてもとても明瞭に育つ。
泥でさえ、あの粘りっこいレモン色をした粘土でさえ、
硬くなってその後、土を生み出すのだ。
私はそれが何であるのかを言うことは出来ないが、あの黄金頭の幻覚、
交尾し、忘却し、シミができ、互いに抜き差しならなくなることが
なくなり始め、それから反響の魅力的な覆いや泥臭い郷愁も
なくなってしまう。か細い新根に触れた時、いかに私が大きいかが
分かったのだ。これらの指を見よーなんという水先案内人だー私は触れ、その
最もゆっくりとした電気に押し当たる・・・そこでの速度はどうだ。
今や陽が横切り、私の背中に触れるとき、ここで膝をついている私の
速度はどうだ。暗い樫の木々の下で指が突然触れて明るくなる時の
速度はどうだー指があまりに白くなって動くので
小さな森では一瞬だけその上で光線となる。
深緑の林の中の白い両手は
現在の泥だらけの劇画を見開き、苔の小さな根っこを
引き離くが、これらの緑のなかではかくも白い好奇心の小隊だー
不可視の寺院で諸君の革命を起こせ、
不可視の革命のなかで諸君の
寺院を打ち立てろー私には諸君の用事が分からないのだ、両手がざわめく
樫の高木の根っこで銀紙のように一瞬でも長く光り輝いているとしても・・・
聞いておくれ、未来派画家のボッチョーニが言うには、疾走する馬は
四つ脚ではない(二十脚だ)ーまた「Cにおいては時間がないので
連鎖など存在しない」ー光の速度等では
(すべてが同時だ)からだ、つまり、私の両手は
欲望で鋸状となり、発掘された運命のなかへと押し進んでゆく
ーそれらは藤紫、栗色、斑の黄金の細い流れとなるー
私の両手は無数の光の顕現のなかで生きているのだ・・・
「すべての模倣の形は軽蔑すべきものだ。」
「すべての以前使用された主題は放擲されるべきだ。」
「遂に、われわれは過去の客観性を足早に越えていくことになろう」・・・
おお、隷属状態よ、汝はこれらの手を取って
しばらくの間しまっておいてくれないか。樫の木の先端よ、
私の小さな黄金の手が、袖まで
現在のなかに突っ込まれているのが見えるか。昼間の光では見えない若い星よ、
光と大気の星よ、私は種を埋めたのだ。光線が動き続ける。
 
お分かりのように、この詩は冒頭から、終始、「死んだ土地からライラックの木を生み出し、記憶と欲望を混ぜ合わせ、春雨で活気ない根っこを掻き乱す」(T・S・エリオット『荒地』第一部「死者の埋葬」)行為を自らの手で行おうとしています(もっとも、「ライラック」でなく、「樫の木」であり、「春雨」は降っておらず、「活気ない根っこ」というより、そこに神秘的な「光」がありますが)。「死んだ土地」とはエリオットにとっては第一次世界大戦で荒廃したヨーロッパの土地であったかもしれませんが、第二次世界大戦後のイタリアで育ち、パリのソルボンヌ大学で学んだ後に20代になってニューヨークへ移住したグラハムにとって、そういった象徴行為をもたらすべき「歴史」感覚は否応なしに旧世界のものでしょう。つまり、この詩で絶えず言及される「(黒)土」の比喩的意味の実体は、自らの幼少期を育んだイタリアの風土であると思われます。もちろん、現在はアイオワ大学で創作を教え、中西部アメリカの土壌に根ざしているという意味での「土」を考えても構いませんが*、
*彼女とのインタビュー記事ではガーデ二ングにも触れています(cf. "Jorie Graham: The Art of Poetry, Interviewed by Thomas Gardner," The Paris Review, 165 [Spring 2003])。
引用した選詩集に収録されたタイトルからだけでも、"San Sepolcro," "Reading Plato," "Scirocco," "The Age of Reason," "History," "Two Paintings by Gustav Klimt," "At Luca Signorelli's Resurrection of the Body" (以上、Erosion [1983]より)、"Self-Portrait as the Gesture between Them [Adam and Eve]," "Orpheus and Eurydice," "Self-Portrait as Apollo and Daphne," "Noli Me Tangere," "Imperialism" (以上、The End of Beauty [1097]より)、"From the New World," "Holy Shroud," "The Tree of Knowledge," "Short History of the West," "What is Called Thinking," "Act III, Sc. 2," "History," "The Phase after History," "Soul Says"(以上、Region of Unlikeness [1991]より)、"Notes on the Reality of the Self," "Notes on the Reality of the Self"[同題名], "Relativity: A Quartet," "The Dream of the Unified Field," "Manifest Destiny," "Opulence," "The Visible World," "The Surface"(以上、Materialism [1993]より)といった具合に、いかに歴史的・神話的・哲学的なタイトルやイタリア語・ラテン語のものが多いかをみれば、またその内容を垣間見ても、前者の「土」連想を想起する方が解釈として有効と思われます。
 
ヴェンドラー氏も上掲の Soul Says (1995)の3章("19: Mapping the Air: Adrienne Rich and Jorie Graham," "20: Married to Hurry and Grim Song: Jorie Graham's The End of Beauty," "21: Fin-de-Siècle Poetry: Jorie Graham") や The Given and the Made: Recent American Poetry (Faber, 1995)のグラハム論で解説していますが、詩人の伝記的事実(上記に加え、ユダヤ系アメリカ人画家の母親とアイルランド系アメリカ人作家の父親を親にもったこと、ローマのフランス式中高等学校(リセ)で古典教育を受けたこと、ニューヨーク大学でスコセッシ(Martin Scorcese, 1942-)と一緒に映画製作を勉強したり、詩人評論家の James Gulvin氏と結婚して一女をもうけ、アイオワ大創作学科の英文学教授であることなど)からも推測されうるように、西欧的歴史観に対する解釈が彼女の詩を解く鍵の一つになると思われます。例えば、先程の引用で以下の詩句に戻りましょう。
 
私はそれが何であるのかを言うことは出来ないが、あの黄金頭の幻覚、
交尾し、忘却し、シミができ、互いに抜き差しならなくなることが
なくなり始め、それから反響の魅力的な覆いや泥臭い郷愁も
なくなってしまう。か細い新根に触れた時、いかに私が大きいかが
分かったのだ。これらの指を見よーなんという水先案内人だー私は触れ、その
最もゆっくりとした電気に押し当たる・・・
 
そして原文はこうでした。
 
  I can't say what it is then, but the golden-headed
              hallucination,
  mating, forgetting, speckling, inter-
             locking,
  will begin to be gone from it and then its glamourous
                    veil of
  echoes and muddy nostalgias will
  be gone. If I touch the slender new rootings they show me
                    how large I
  am, look at these fingers what a pilotI touch, I press
                    their slowest
  electricity. . . .
 
もう講義時間があまりないので、ここで入念な読解を試みることはしませんが、例えば、以上の詩行、特に "its glamourous veil of / echoes and muddy nostalgias"と語られたものの実体をみなさんはどう捉えますか。「私はそれが何であるのかを言うことは出来ない」とあるのですが、「それ」とは、既に以前の「私の財産であるこの土地の区画の上におけるように、このページの上にーそれを一番上にして一続きのものから離しておいてくれ」という詩句からも分かるように、土のなかから掘り出された「それ」とは、実は冒頭の「絶対的なもの」なのです。冒頭の「私は絶対的なもののなかに両手を掘り入れる」があまりに抽象的な文章であるために、おそらく読者は以下の両手で土を掘り返す作業の鮮明さの方に引かれて「それ」の実体を極めて「可視的」なものと考えるわけですが、この神秘的な発掘作業は哲学的なものであり、その意味は歴史の意味の掘り返しであり、それも特に「あの黄金頭の幻覚、交尾し、忘却し、シミができ、互いに抜き差しならなくなることがなくなり始め、それから反響の魅力的な覆いや泥臭い郷愁もなくなってしまう」という箇所がおそらく言及しているであろう個人の人生史の喪失や再発見を通じて、いわば、時間を超えて存在する「絶対的なるもの」が語れれているように思われます。しかし、そういった「絶対的なるもの」の存在も、例えば、ヘーゲル(Friedrich Hegel, 1770-1831)の言う純粋な「絶対理性」の弁証法的作用というほどに確定的に実証できるとは思われません。まさにデリダ(Jacques Derrida, 1930-)の言う「ページの上」のエクリチュール的「痕跡」として、極めて現在的な、それ故に実在的なものでありそうです・・・
 
こういったことを語る詩が何故、世紀転換期に重要なのかは、おそらく詩が単に言葉の芸術であるだけでなく、人間の思想や自己表現の場として重要な役割を担っていることによるわけですが、今までもっぱら「アメリカ現代詩」の表層を追ってきたわれわれもそのようなより根源的な深層構造を考えて行かなくてはならないのだ、ということを述べて「まとめ」の言葉としたいと思います。
 
*      *      *
ここで、最後の講義の「番外編」として、今までの本講義(平成15年度大阪市立大学インターネット講座「アメリカ現代詩への招待」)に受講登録して頂いた受講生の方々のメール・リストでのやりとり[単なる自己紹介的なものは除外]を(その大半を当方の越権で多少編集して)以下に掲載いたします。通常の授業なら、「学生アンケート」という授業評価(自己評価)となりますが、インターネットという媒体の性格上、また、閉じたリスト内の情報とするには惜しい内容ですので、公開することにしました。発言して頂いた受講生のみなさま、どうもありがとうございました(なお、レポート発表者も含め、発言者はイニシアルのみの匿名とさせて頂き、また掲載順はほぼ四月からの発言順としております。また >>・・・<<記号で発言引用を、(>・・・<)記号で当方の発言・応答を示しました---T.K.)。
 
S・Nさん:スティーヴンズの「秋のオーロラ」の第2歌の解説を読みますと、なるほどなと思えてきます。「反復される言葉なり、リズムなり、イメージなりを辿ってゆく」ことにより「具体的なイメージが浮かび上がってくる」というのが詩の理解のためのヒントなのですね。しかし、"A cold wind chills the beach."という詩句の詩的意味を考えていますが、まだよくわかりません。 「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句の響きは好きです。これが、堀辰雄の作品の中では「云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉しい日々」の蘇りを象徴する契機となるべきもの、であるということを知ったのは私にとって大きな収穫です。短い詩句であれば、なんとなく自分勝手なイメージでとらえがちですが、文脈の中での意味を理解しようとするのが基本ですね。 ふだんは日本語の詩ですらも読むことがないので、まして外国語の詩となると難解に思えます。しかし、<言葉に美しさを見出し、その背後に一瞬たりとも「永遠の生命」を感じ>ることを強く希求していますので、アメリカ現代詩の魅力を少しでも多く味わうことのできるようになりたい思っています・・・
 
Y・Iさん:今回の「はじめに・・・」の講義の中で、ウォーレス スティーブンズ「秋のオーロラ」の「白さ」について、ちょっと自分よがりな感じかたをしました。「68歳の詩人が書いた白、年老いていく午後の白ではなく もっと以前の白・・・」 55歳の私自身、単に色の見え方ですが、白がはっきりした白ではなく、少し黄色みがかかった白に見えます。以前はくっきりとした色に見えたのになあと年を重ねたことが少し物悲しく、しょうがないことだなと あきらめに似た思いです。こんな思いも詩人の思いの中の一つにあったのだろうかなと勝手に想像しています・・・
 
T・Yさん: ・・・「舐めるような」内容だと付いていけないなと多少不安でしたが、取り敢えずは言葉の響きとイメージに酔えばいいとのことで、安心致しました。音読を心掛けて、ポップミュージックを楽しむように気軽に楽しみたいと思います。ところで、欧米や中東などでは、聴衆の前で詩を読み上げることがよく行われていると聞いたことがありますが、日本では俳句や短歌以外では読み上げはあまりメジャーではないように思います。これは、言語の違いによるものなのでしょうか?・・・ (>そうですね、アメリカでは少なくとも60年代あたりから詩の朗読会というのは盛んです。ロビン・ウィリアムズ主演のちょっと古めの映画、『今を生きる』(原題 THE DEAD POET SOCIETY)では50年代の堅苦しい詩の教え方(および教育法)に反乱して、ホイットマンを暗唱させ、朗読するという場面がありましたが。最近では日本でも詩の朗読会は「一部で」盛んに行われているらしい。活字文化自体の低迷で、昨年もNHKが夏に『詩のボクシング』という企画を放映してましたが。因みにそこでもコメンテイターの一人であった高橋源一郎の書いた『一億三千万人のための小説教室』(岩波新書)は詩に限らず、今日の文学状況を知る上で面白い試みだと思います。それと、斉藤美奈子の『文壇アイドル論』(岩波書店)もお勧めです---T.K.<)
 
M・Nさん: ポエジーは好きですが、日常は全く反対の散文的一色でして 最近は「失われた時を求めて」状態だったのですが、ご紹介いただいたシェリーの詩に、ちょっと勇気づけられました。いわく、「(厳しい)冬であるなら 春はそんなに先であろうか 冬に向かい合うことで、新しい芽吹きが促される」 "...... Be thou, Spirit fierce / My spirit! Be thou me, impetous one! / Drive my dead thoughts over the universe / Like withered leaves to quicken a new birth! / And, by the incantation of this verse,---"(力強く美しい韻)「おんみ、烈しい『精霊』よ、わたしの精神(こころ)となれ! 強烈なものよ、わたしとなれ! わたしのまさに消えんとする思想を 落ち葉のように  世界に駆けらせ 新生をもたらせよ!(星谷剛一訳)」 "Drive my dead thoughts over the universe" の部分、worldではなく、universeであるのは とても興味深いです。「世界に駆けらせ」drive〜over universe という意味合いと my dead thoughts over the universe という意味合いを掛けているのじゃないだろうかなどと素人の強み、好きなことを考えています。uviverseは語句の意味する領域の大きさからすれば、通常のworldなどに比べて遙かに大きな語だと思います。天地万物、森羅万象ーいわゆる 何もかも一切ガッサイ、すべてふくめての全体のような言葉だとすると、Spirit (それもimpetous one!)が my dead thoughts をdriveするのに over the universe というのは、あまりにソーダイすぎる様な気もして、thoughts over the universe がdeadしている私のをー森羅万象と断ち切れた私の思想ー枯葉の如くdriveせよ、と掛けているのじゃなかろうか?などとタワケたことを、初回から抜かしてしまいました・・・(イメージの連鎖) 竪琴-精霊が鳴らす-枯葉が落ちる-新生を促す-唇より詩- 予言のトランペット(黙示録)(>いえいえ、決してタワケタことではありませんよ。だって、シェリーのように革命思想をもっていたとされる詩人はこの世(world)なんかじゃなくて、もっと広くて深い宇宙(universe)に向かって、つまり、人々の精神に向かって叫んでいるのですから。これは >>竪琴-精霊が鳴らす-枯葉が落ちる-新生を促す-唇より詩- 予言のトランペット(黙示録<< という貴兄のイメージ連鎖が保証するところです。黙示録のような旧約世界は転生輪廻に似た救済のユダヤ思想を暗示していて、やはり、純粋に西欧的と言うより、ユダヤ思想を生んだアラブ世界に近いのでは???ピューリタンもイスラムもユダヤ教徒もいずれも宗教的に何処かで通じているような気もしますが、これこそ、まさに乱暴な素人の「戯けたこと」かもしれません。でも決して臆することなく、他の参加者の方もどんどん、発言してくださいね!(学問的な議論も大事ですが、直感という感性が詩の解釈では大事ですよ。)・・・「ヨハネの黙示録」は新約聖書でした。そこでの終末的ヴィジョンはイメージ的には似てますが、シェリーの再生の思想とは違います。それと仏教のような「転生輪廻」をユダヤ・キリスト教のいう「千年王国」的な救済思想に安易に結びつけることもできません。まあ、僕自身、いい加減なコメントをするときもありまので、あしからず。---T.K.<)
 
A・Nさん: シェリ−の詩について古賀先生からのメールについてレポートします・・・歴史的なことから述べると、イギリスが最も繁栄したVictoria女王の時代Thomas Love Peacockという小説家がいました。Peacockは詩歌の盛衰を鉄、金、銀、真鍮の4段階に分けて文化の進展とともに詩は衰退すると論じました。これに対し友人であったShelleyは"Defence of Poetry"を著して「詩人は社会的、道徳的力を持っており、詩人は歌う人であると同時に人の教師でないといけない」という主旨の論を展開しました。"Poets are the unacknowledged legislators of the world."はその論の有名な結びの言葉です。Aldous Huxleyの小説"Ape and Essence"にはその小説の構成上Shelleyの詩の引用が多いです。Huxleyは"Texts and Pretexts"のなかでは、「シェリーの詩の効果は累積的なもので、私はこの効果を蓄積する忍耐に欠けている」と言っていますが、"Ape and Essence"ではShelleyの詩に詠まれている詩人の直観的詩想を自分の思想の解説を援用するものとしています。Shelleyは革命思想をもっていたとされていますが、Huxleyの"Music at Night"の中では“The New Romanticism”において、「Shelleyは純粋な個人主義を信じ、ボルシェヴィキの人たちは純粋な集団主義を信じている。Shelleyの排他的観念論は人間の生物学的、経済学的明白な事実を無視している。Leninの排他的唯物論はそれに劣らず明白で根本的な人間の直接的、精神的経験という事実を無視している」ということが述べられています。しかし、詩の鑑賞には批評的な文章よりも純粋に言葉のニュアンスを感じ取る感性ののほうが大事だと思うので、"Ape and Essence"の中で引用されているShelleyの詩を挙げておきます。"That Light whose smile kindles the Universe, / That Beauty in which all things work and move, / That Benediction, which the eclipsing Curse / Of birth can quench not, that sustaining Love, / Which through the web of being blindly wove / By man and beast and earth and air and sea, / Burns bright or dim, as each are mirrors of / The fire for which all thirst, now beams on me, / Consuming the last clouds of cold mortality." これを一読して直感的に私が感じたことは、未来に対して人類の知的光明を垣間見るような気がするのです。今、イラクではついにアメリカ軍がバクダッドの大統領官邸を占拠しました。もうこれ以上イラクの人民たちもアメリカ人も双方とも犠牲になるのは見たくありません。イラクが平和のうちに政権が交代してバクダッドが解放されるように一筋の光明がさしてほしいものです。(>確かに、ピーコック(Thomas Love Peacock, 1785-1866)という詩人・小説家はシェリーの親友で遺稿執行人でした。ロンドン商人の息子として生まれましたが、商売に向いておらず、東インド会社に入った後も、風刺的な詩や小説を書きつつけ、「シェリー回想」という追悼文も書いています。まあ、歴史の進展が文芸の発展には繋がらないという想いは特にロマン派的の人たちには強かったのでしょう。>> Aldous Huxleyの小説"Ape and Essence"には・・・ということが述べられています。<< 空想科学小説『素晴らしき世界』(Brave New World, 1932)や貴兄の言及された評論『猿と本質』("Ape and Essence," 1948)などで有名なハクスリー(Aldous L. Huxley, 1894-1963)は、ダーウィンと親交があり、猿人類起源説を唱えた生物学者ハクスリー(Thomas H. Huxley, 1825-95)の孫にあたりますが、シェリーを言及していたとは! 僕自身はハックスレーを読んだ記憶ではただSF的だなあという程度のものでしたから、以上のご教示ありがとうございます。さっそく"Music at Night"を読んでみるつもりです。>>"That Light whose smile . . . cold mortality."<< 試訳してみました。「宇宙を暖める微笑みを振りまくあの光があり、 万物がそのなかで動き働くあの美があり、 覆い隠された出自の呪いによって 決して消されぬことのないあの祝福が あり、人間、動物、大地、大気、大海 のそばで、網のような存在のあいだを やみくもに動き、まばゆく微かに燃える あの長く続く愛があるのだ。そのどれもが 皆の求める焔の鏡となって、今や私に 微笑みかけ、冷たい死の最後の雲を燃やし尽くす >> 未来に対して人類の知的光明を垣間見るような気がするのです・・・バクダッドが解放されるように一筋の光明がさしてほしいものです<< 同感です---T.K<)
 
N・Kさん:・・・実のところ、アメリカ現代詩なんてさっぱり分からず、日本の詩さえちんぷんかんぷんなのですが、英語の勉強の延長のつもりで受講してみた次第です。ですが、シェリーの詩、スティーヴンズの詩を紙に書いて、先生の言われるように声に出して読んでみて、和訳と照らし合わせてみたりすると、文学としての英語にとても興味がわいて、なんだかどきどきしてきました。不思議な感じです。英英辞書とにらめっこしながら、一生懸命読んでみました。韻を踏んだり、奥底に意味をこめたり、詩というのは奥深いものなんですね・・・
 
Y・Kさん: ・・・学生時代よりアメリカ文学に関心があったのですが、専攻を変えることができず国際関係論で卒論を書きました。アメリカ文学を学びたいと真剣に検討しましたが、断念しました。そのことは夢としてしまい込むつもりでおりました。しかし、時間ができるとともに学びたいという気持ちが増してきました。そこて゛アメリカ文学史の入門書を買ってみたり、いくつか作品を読み始めています。そんなときにこの講座のことを知り、受講させていただくことになりました。大学ではイギリスの詩についてのクラスをひとつとったことがありますが、アメリカ詩に触れるのは初めてです。「声に出してよむ」ことが良いと書いてありましたが、本当にそのとおりだと思います。そのイギリス詩のクラスでもそのことを感じました。古い作品が多くて、言葉の意味をうまく捉えることができず苦労しました。でも声を出し、リズムを感じると不思議と詩の世界が頭の中で広がります。今回は現代詩なのでまた言葉の世界が違うと思いますが、詩と言葉というものを楽しみたいと思います・・・
 
N・Nさん: 1、「詩の擁護」末尾の解釈について この文は、第一感「詩人とは?」に対する一つの考えだと受け取り、それではと、いつものやり方で、「広辞苑」とCollinsの英英辞典をひいてみました。「詩人」と「詩」をみてみました。使われている言葉には、concentrated,hightened,suggesutive,imagination,creativity等がありました。「独断と偏見」で「詩人とはどういう人間か?」をランダムにあげてみると、独特の言語感覚、常人とは異なる物事の捉え方、鋭い感受性、豊かな情感、自己過信、誇大妄想、独りよがり、多様さ等が関わりのある言葉として浮かんできました。また「どういう人物は詩人でないか?」については、円満な人格者がまず浮かんできました。「詩人はこの世の認められていない立法者なのだ」は、およそ詩を学ぼうとするものは知らぬものはないほど有名な言葉だそうですが、かのマルクスが「社会主義運動の指導者になったであろう」と言った若きシェリーの「詩への想い・夢・期待」を表した言葉だと受け止めました。このあと、本屋で立ち読みした「シェリー詩集」の解説に、彼が明るく、人好きのする人物であったとあって、オヤオヤと思い、くるくるした目の大きな挿絵の顔に、意外な感じを受けました。「詩」は「死」と同じように非日常的なものであった自分にとって、これからどんな新しい出会いがあるのか楽しみにしています。・・・私は、勝手な独りよがりですが「アメリカ現代詩への招待」というタイトルをみて、まず最初の講義には、あの「9月11日」をうたった詩が出てくるのではと「期待」していました。取上げられる詩人はもう決まっているようですが、時々「脱線」して、「ニュース詩」(阿久悠)なども紹介していただければと願っています。
 
M・Nさん:宮沢賢治が、確か(「確か」と言う語は「不確かである」を常に後ろに引き連れているのですが)、『注文の多い料理店』かなにかの童話の前文で(手許になくうろ覚えですみません)、自分の書くことは、頭の中の思念の産物ではなく、森や林や畑の中で、自分に向かって語りかけてくることを、もうそうとしか思えぬ事を、書いているに過ぎないのだといった意味のことを言ってますが、出版の持ち込みに上京する前は、あの独特の、きらめきを放つ作品を、毎日100枚、月3000枚のペースで、何ヶ月も書き続けていたそうですが、どう考えてみても、才能とか技術とか或いは情熱といった観念でカバーできる域を超えていると、私には思えます。生み出した質と量を考えるなら、神懸かり状態と言ってよく、心象のスケッチと呼ぶところの『春と修羅』を初めて読んだときは、詩=個人の心情を謳うという(個人的で素朴な)思いこみが根底からひっくり返りました。 シェリーが詩人について言うところの、導師とか立法者とかとは、主導性の質において異なっているのですが、賢治においても人々に対する initiativeという点では、シェリーの形容は、賢治においても外れてはいないのではないでしょうか、ただ、賢治のそれは内に向かって、修羅の彼方に向かっているように思えますが。詩人が語っていながら、実は、詩人自身が発しているのではないのだ、といったようなシェリーの言葉のニュアンスは、一つは、このように賢治を思い浮かべてしまいます。 もうひとつは、まったく飛んでしまうのですが、ヘーゲルの歴史観です。歴史とは世界精神の自己実現の過程であるといったようなことを、遠い昔、初めて読んだ際はなんて抽象的、観念的、それこそ形而上的と、かなり失望したものでしたが、垢のついた経験と時間が個人の上に堆積していくに従って、記憶の底に沈んでしまうのではなく、逆に、時間の経過と共に、何故か、とてもリアルなものとして、私の中では、ぼうっとではありますが、光を放ち続けてきています。
 
N・Nさん:"Poets are the hierophants of an unapprehended inspiration, the mirrors / of the gigantic shadows which futurity casts upon the present, the words / which express what they understand not; the trupmets which sing to / battle, and feel not what they inspire: the influence which is moved not, / but moves. Poets are the unacknowledged legislators of the World." (意訳)「詩人とは感知されない霊感をもった導師であり、未来が現在に投じる巨大な影を映している。彼らの言葉は自分が理解せぬことを言い、あたかも戦闘ラッパのごとく、みずからが鼓舞することを感ずることはない。つまり、みずからは動せずして人を動かす力のようなもの。詩人はこの世の認められていない立法者なのだ。」この文章について、私はこれはシェリーにとって詩人のあるべき姿を述べた理想に過ぎず、現実ではないと思います。「自分が理解せぬことを言い」、「みずからが鼓舞することを感ずることはない」という箇所に疑問を覚えます。詩人が、炭鉱のカナリアのように、時代の雰囲気を鋭敏に反映して、本人も気づいていないことを表現しているということはありえると思います。しかしそれは詩の多義性というべきものでありましょう。詩人は、なにかを理解し、感じたからこそ表現するのだと私は考えます。
 
(>もう4月になってしまい、授業が(といっても実際の大学の授業が)始まって、いろいろバタバタしている昨今です。エリオットという詩人についての講義原稿を書いている最中でもありますが、時に忙しさから「トリップ」するようにと、映画館に足を運びます。特に期待していったわけではないのに、ル・コント監督の『歓楽街通り』というフランス映画を観ました。物語の復権と言うより、ファンタジーに似た物語へのノルタルジー。映画というフィクションでしかできない映像や言葉の魔術の密かなる楽しみ。 やっと気分が落ち着き、家路につきましたが。皆さんの趣味やリラックスの方法など書いておくってくださいね。そのうちに講義もはじめますから。M・Nさん、宮沢賢治やヘーゲルといった意外な結びつき、ありがとうございました。他の人も何でも結構です、このメールリストを「憩いの場」に出来たらと思ってます・・・---T.K.<)
 
M・Nさん:T. S. エリオットというか、英詩を読むのは初めてなのですが、シェリーの時もそうだったのですが、エリオットをご紹介いただき、読んでみて、言葉がとても力を持っていることに驚いています。なんかこう、促成栽培ではないレタスをかじってみて、「そうそう、レタスってこんな濃密な味だったんだ」って思い至るようなとでもたとえましょうか、poesyというものの力を感じます。"The Waste Land" 『荒地』 第一節の冒頭の紹介がありましたが、一見荒地サイドにあると思える、dead landや winterが 逆サイドにあって、April, spring rain, summer 等、成長を促すサイドにあると思われているものが、The Waste Land に向かわせているような印象を持ちました。ただ、The Waste Landと対極のイメージは、日本語なら豊穣地とか楽園とかになるのでしょうが、少なくとも、エデンのイメージとは異なっているようにも思えます・・・「バーント・ノートン」 響きとして、意味として、感動しました。これこそ詩の力ですね。なぜか、「2001年宇宙の旅」のクライマックスでボーマン船長がみるもう一つのrealityのシーンを思い出しました。 明晰さの基にある事実、いや「事実」を明晰さでもって把握する。 100%「事実」をすくい取ったつもりでいるけど、Non,Non。 一見堅固な事実の世界の結び目を解きほぐす
 
N・Nさん: 1、疑問 第1回のT.S.エリオット、私はイギリスの詩人だと思っていました。それがなんで、「アメリカ現代詩への招待」講座のトップで取上げられるのか?ちょっと講師の考えが聞きたいところです。「広辞苑」にも「イギリスの詩人」とあり、Collinsには「British poet,dramatist,and critic,born in the U.S.」とありました。英米文学史には必ず出てくる人物とのことですが、こういう分野に初めて接する者としては、アメリカの詩壇の現状がどうなっているのか、そのなかで、どういう詩人をどういう理由で取上げていくのかを、まず知りたいと思います。 2、参考書 月1回の講義、プリントアウトした講義は10頁ほど、せっかく初めて接する世界だからと、副読本など紹介してもらえると有難い限りです。「詩のレッスン」(小学館)は読みましたが、少し頭が混乱する感じでした。西宮の中央図書館をのぞいたら、川本皓じ(漢字が出ません)「アメリカの詩を読む」(岩波)、飯野友幸「アメリカの現代詩」(彩流社)、和田博文編「近現代詩を学ぶ人のために」(世界思想社)がありました。川本は懇切丁寧(過ぎる感じもある)解説で、ヘェとかフーンとか感心しながら読んでいます。せっかくだからとAmerican poetryでamazonで検索するとあるわあるわ、しかし旭屋にも紀伊国屋にも現物はありませんでした。しかるべき参考書を紹介していただけると有難い限りです。(>・・・お尋ねの、>> 第1回のT.S.エリオット、私は・・・講師の考えが聞きたいところです。<< は議論のあるところですが、わたしは基本的にエリオットは英国人になったアメリカ生まれのアメリカ詩人であって、W・H・オーデンのようにアメリカに帰化したイギリス詩人の逆のケースである、つまり、そのアイデンティティは決めかねる、あるいは国籍よりも各個人の原体験がどのような風土にあるか、ということの方がむしろ重要だと考えます。 >> 月1回の講義、プリントアウトした・・・副読本など紹介してもらえると有難い限りです。<<これは本屋や図書館に行けば、あるいはAmazon.comや日本の本屋さんの検索、あるいはその他のサーチ・エンジン(yahoo.comなど)、あるいはさらに国会図書館などのデータベースで「アメリカ現代詩」をキーワードに探されることをお勧めします。そんな労は払えないという場合は、とりあえず、以下の本をお勧めします。 ・金関 寿夫 『ナヴァホの砂絵』(小沢書店)や『アメリカ現代詩ノート』(研究社出版) ・新倉 俊一 『アメリカ詩入門』(研究社出版)や『アメリカ詩の世界』(研究社出版) ・D・W・ライト(沢崎順之介他訳)『アメリカ現代詩101人集』(思潮社) ・Mark Strand, ed. _The Contemporary American Poets: American Poetry Since 1940_ (Mentor Book) [手頃な現代詩のペーパーバック・アンソロジーです]---T.K.<)
 
Dさん:古賀先生、こんにちは。もう、レポート課題の返信をしなくてはならない時期だというのに今頃、自己紹介をしている「まだいた受講生の一人」です。お許し下さい。私、パソコンはまだまだ不慣れで、中2の長女の協力をもとに、書類を手にすることができるような状況です。パソコンに向かう時間をつくらなくてはいけないのですが、プリントアウトした書類を持ち歩いて、学生時代に舞い戻ったような学びのひとときを過ごさせていただいております。学生時代に英米詩という講義を受けたことを思い出し、A Book of English Poetryというテキストを引っ張り出して、好きだったWilliam Blakeの'The Sick Rose'を呟いてみたり、書き込みを読み直してみたり、と、気持ちは高まってきましたが、さて、エリオットとなると、容易ではありません。何かと、集中する時間を確保することの難しい私ですが、実用表現の習得に偏りがちな英語学習とは異なり、詩人によって紡ぎ出された独特の世界をかいま見られることを嬉しく思っていますので、どうぞ宜しくお願い致します。
 
(>((文学部サーバー・トラブルによるメール紛失発生!!)) ・・・N・Nさんのメールに対して小生は「Re: 甲子園から、その2」を書き送ったのですが、慌てて、N・Nさん宛に返信したものですから、MLには届いていないのです。慌てたときには、悪いことは重なるもので、当方はいつもはとっておく発送済みメールを削除してしまったのでリカバリのしようがなく、再度、N・NさんにMLへの転送依頼をした次第です・・・でも、それから気になって再度、N・Nさんの「その1」と「その2」を再読し、またレスポンスしようという気になりましたので(現在書いている第3講<エズラ・パウンド>予告を絡めて)下記の文をML宛に送ります。 記 「 甲子園から、その1」の >> 「詩」は「死」と同じように非日常的なものであった自分にとって、これからどんな新しい出会いがあるのか楽しみにしています。<< について、最近、特にわたしたちは、個人的な「死」との遭遇以上に、より局部的で多量な「死」に遭遇しています。つまり、イラク戦争で死んだ民間人や兵士たち、そして今、中国で猛威をふるっているSARSの犠牲者です(より普遍的な日々の事故死や病死、殺人などは累計的には多くても、やはり戦争と疫病による一時的な大量死にはかないません)。たしかに、アメリカ人は 2001年9月11日の同時多発テロ以降、愛国主義的になり、内向きになり(対外的には攻撃的となり)、変化したといわれています。小生が最近観たアメリカ映画でも、例えば、Woody Allenの _The Curse of the Jade Scorpion_(邦題『スコルピオンの恋まじない』)2001や、Robert Denilo+Bil Brystal主演の_Analyze That_(邦題『アナライズ・ユー』、『アナライズ・ミー』の続編)2002 では、それぞれ、テロを直接扱ってはいないものの、古き良きアメリカへの郷愁やトラウマ克服という側面がありました。今回アカデミー作品賞を取った上映中の『シカゴ』にしても、1975 年初演のリバイバルで現在もロングラン中のヒット・ミュージカルの映画版であるという以上に、19世紀リアリズム、たとえば、ドライサーの『シスター・キャリー』(1900)のような女主人公の成功譚という側面(映画『陽の当たる場所』1952 は彼の『アメリカの悲劇』1925の映画化です)があると思われます。20世紀において、二つの世界大戦や冷戦、特にユダヤ人大量殺戮や原爆といったホロコーストを経験した人類が、そういった集団的なトラウマから回復する方法として、そのような体験を主題化した文芸を生み出してきたわけですが、近年では『タイタニック』に始まり、『戦場のピアニスト』に至るヨーロッパ映画に、主題としての戦争(死)と文芸(詩)を感じています。 そこでパウンドの話をしようと、彼の第1次世界大戦期の詩を読んでいますが、前回のエリオットにも、『四つの四重奏』の「リトル・ギィディング」に対独戦争時のロンドン空襲を描いた場面があるのを付記いたします。みなさんはこのような主題をどう考えますか?またリストにご意見くださいね。---T.K.<)
 
(>N・Nさん、および皆さんへ 大変遅くなりましたが、以下にお答えします。>>・・・折角だからと、検索エンジンで「シェリー」「シェリー・詩人」「シェリー・詩人・詩の> 擁護」と順に調べてみました。84400件、1580件、5件と出て、やった、5件を見てレポートを書いてと思い、調べてみたら、確かに論文名等は分かったものの、内容は出ていず、ぬか喜びに終わりました。国会図書館にでも行けば閲覧できるのかもしれませんが、皆さんはどんな学習法を試みておられるでしょうか?大型書店で「詩の擁護」を立ち読みしてとも思い、詩のコーナーを覗いてみましたが、ありませんでした。それでも海外の詩集だけで一つの棚が埋まっているのをみて、意外に詩関係の本も多いのだと、私にとっては一つの発見でした。<< そうですね。たしかに yahoo.comやyahoo.co.jpなどの検索ではずらずらと関連サイトやそこに掲載されている情報が挙がってきますので、それから絞り込むということになります。アメリカ現代詩については私のホームページに載せている "List of Related Links You May Desire: Alternative Culture and Postmodernism" というリンク集や "A Research Report: How the Internet Can Change Literature Now"という研究報告書で言及しているサイトを参考にされてはいかがでしょう。>> 3、要望 ついでといっては何ですが、「古賀哲男」でも検索してみました。30件、中には同姓の方もあったようですが、「冷戦とアメリカ文学」のなかの「冷戦時代の詩人たち」は、古賀先生の書かれたものではないでしょうか?・・・<<そうです。「冷戦時代の詩人たち」は『冷戦とアメリカ文学』(世界思想社、2001)に書いたものですが、この本は関西在住のアメリカ文学研究者による冷戦論文集です。私の学問的な「業績」については大阪市立大学のHPの研究者データベースで検索することができます。また、「ニュース詩」というわけではありませんが、今日のアメリカ作家がテロ以降に何を考えているかについては、翻訳家の青山南も『朝日新聞』(2003年2月10日夕刊)で紹介した、米国務省発行の_Writers on America_ (http://usinfo.state.gov/products/pubs/writers/ で入手可能)が参考になります。なかでも桂冠詩人であったロバート・ピンスキーのエッセイは面白かったです。---T.K.<)
 
(>N・Nさん >> なぜか、「2001年宇宙の旅」のクライマックスでボーマン船長がみるもう一つのrealityのシーンを思い出しました。<< SFファンタジーの魅力は最近の『ロード・オブ・ザ・リング』でもそうですが、超現実感覚の提示だと思います。これってやはり、あらたなポエジーですよね。学会関係の友人、巽 孝之(慶応大教授)に『「2001年宇宙の旅」講義』(平凡社新書)という本がありますが、読まれましたか?売れっ子の巽氏は疾走しすぎるきらいがありますが。 >> 明晰さの基にある事実、いや「事実」を明晰さでもって把握する。100%「事実」をすくい取ったつもりでいるけど、Non,Non。 一見堅固な事実の世界の結び目を解きほぐす<< これって「詩」になってますね!---T.K.<)
 
Y・Iさん:大変遅くなりましたが T.S.エリオットの「荒地」を読んでのレポートを提出します。私のつたない文章で仲間の皆さんが安心してレポートを出してみようと思われることを期待します・・・私は「荒地」の“1.死の埋葬”を訳しました。先生の講義の中から「荒地」にアクセスしてプリントアウトしたものから第1章だけやっと。それで「荒地」で詩人は何を言いたかったかという先生の設問ですが、先ず自分の感じたことや疑問を述べようと思います。詩人は男性、詩の中の“私”は女性、詩人の奥さんのヴィヴィアンとの事ですが、読み手の私は女性ですので主人公に入り込みやすいものがあります。でも作者が男性ということで時々頭の中が混乱します。詩人は少し離れたところから自分と奥さんを見つめながら詩を作ったのでしょうか。また何故4月は残酷な月なのでしょう。植物にとっても再生の月で活気ある月でありましょうに。ああ封印しておきたかった思い出やなんかも表に引きずり出して来るからでしょうか。ちなみに私は春がもっとも好きです。二つ目の区切り。乾いた赤石の場面、映画のシーンのようです。その中に自分が居るように感じられます。その前の最初の区切りからもそうですが、その場面、背景(文字どおりの)はとても解りやすく、美しいカラーに満ちたシーンが述べられていると思います。その次のタロット占いの場面、これはよく理解できなかったのですが、主人公の何か不安な状況、思いの中で自分の意思を貫き、他の権威ある意見をも排除し、青白い顔をしてすっくと立ち尽くす姿が目に浮かびました。私自身そうした人物像にとても共感を覚えます。第1章での最後の区切り、ロンドンでの場面、これがメタファー(隠喩)というものなのでしょうか?それとも実際の場面なのか。正直のところ私はメタファーというものがよく解りません。まだ、それに接するのが少ないからかも。詩人は「荒地」で何を言いたかったのでしょう?作者とその妻が、うまくいかない思いやものごとに苛立ち、悩み、苦しみ、怒り、その心を吐露しながらも、再生の希望の芽が吹き出すことを願っている というふうに私は思いました。この「荒地」は好きです。主人公が女性で自分と重ね合わせてしまうからでしょうか。主人公、自己主張の強い傷ついた心を持った女性、しかし人の助けを拒否し自分で生き返ろうとしている・・・。まわりの情勢に流され、平凡に生きてる私とは違うと思います。しかしまた自分の生き方にも、まわりの人々との付き合い方にも悩んだであろう主人公。80年ほど前の人々も現代の人間もちっとも変わらないなあと感じました。最後にイギリスのミステリー作家 P.D.ジェイムスの「DEATH IN HOLY ORDERS」(神学校の死) 椛$書房発行 青木久恵 訳 の中にこの「荒地」の名前が出てきたのでご紹介します。名前が出ただけなんですが。185頁に、この神学校の食事の風景が描かれています。神父や神学生たちが食卓につき食事をする間、当番の神学生が本や詩を朗読します。そのいつかの時、神学生の一人は、エリオットの「荒地」を朗読したとあります。私は「荒地」の全部の章を朗読したのだろうかとか、「マリー、マリー、しっかりつかまって」など どういうふうに朗読したのだろうかなどと思いました。勿論虚構の話ですが、自分もその場に居て朗読を聴いているような気がしました。これでレポートを終わります。最初のこの「荒地」でとても日が経ってしまいました。第2章の”チェス・ゲーム”を少し訳したところでもうギブアップ。後は図書館で借りて西脇順三郎訳か深瀬基寛訳のを読もうと考えています。次からの詩も楽しんでいきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願い致します。
 
(>N・Nさんへ レポート提出ありがとうございました。>> 私はもともとジャズが好きなので、ジャズの歴史に非常に興味があります。アメリカの各州を自動車旅行したといえば、『The Grapes of Wrath』の著者として有名なJohn Steinbeckがいます。愛犬Charleyを連れて40州を巡った旅行記『Travels with Charley』(1962)が出版され、その後を受けて出版された『America and Americans』(1966)には鋭い文明批判と祖国への愛情が表裏となって語られています。その第1章で「E PLURIBUS UNUM」という標題がついています。これは1782年制定のアメリカ合衆国の紋章にあるモットーで、英語で書けばone out of many(多数から成る一つ)となります。ヨーロッパから移住したピューリタンをはじめとするイギリス系の移民にくわえ、イタリアやスペインからの移民、奴隷として綿花畑などの貴重な労働力としてアフリカから連れてこられたニグロの人々が混じりあい多民族の混血社会を作り上げたわけですが、国家としては一つであるというスタインベックの愛国心の表れではないかと思います。ただ現在のアメリカ合衆国のNational mottoは 1956年に制定されたIn God We Trustであることを付け加えておきます。<< そうですね。スタインベックの偉大さは最近も再評価されています。なにかこうロード・ムーヴィー的な書き方はビートの詩人にも影響を与えています。>> 20世紀にはいってレコードビジネスが普及して、白人黒人の混合セッションが頻繁に行われたことによりアメリカの音楽=Jazzという思想が私の頭の中にはあるので、講座の主題からはそれますがアメリカの詩という概念はジャズのvocalの中にも現れていると思うので、一例として“YELLOW DOG BLUES”の歌詞を挙げておきます。"Ever since Miss Susan Johnson lost her Jockey, Lee, / There has been much excitement, more to be; / You can hear her moaning night and morn, / Wonder where my Easy Rider's gone? / Cablegrams come of sympathy, / Telegrams go of inquiry / Letters come from down in “Bam,”/ And everywhere that Uncle Sam, / Has even a rural delivery, / All day the phone rings, But it's not for me, / At last good tidings fill our hearts with glee, / This message comes from Tennessee. / Dear Sue your Easy Rider struck this burg today. / On a south boun'rattler side Pullman car. / Seen him here and he was on the hog. / Easy Rider's gotta stay away, / So he had to vamp it but the hike ain't far./ He's gone where the Southern ‘cross’the Yellow Dog." 詩の大意を述べると次のようになるでしょう。「スーザン・ジョンソンが恋人リーに去られてから、途方に暮れたよう。朝な夕な泣き暮らす、私の彼氏、どこへ行った?同情の電信、問合わせの電報、辺鄙な田舎から来る手紙。一日中電話は鳴るが、他人に来るものばかり。とうとう届いたうれしい知らせ、テネシーから来たこの便り。親愛なるスウよ、あなたの彼氏は、南部行きの貨物列車で今日この町に着きました。みかけたところ、彼は本当の無一文。さらにゆかねばならぬはず。歩いてゆくよりしかたがないが、もはやそんなに遠くない。南部鉄道がイエロー・ドッグと交叉するあたりを、彼は歩いてゆきました。」<< このブルースは http://ingeb.org/blues/yellowdo.mid でメロディーが聴け、全部の歌詞がみれましたが、どちらかと言えば、ディキシーのなかでもあまりアクが強くないもののひとつのような気がしました。高島誠氏も書いていましたが、本当にアメリカ詩の精神の半分はジャズにあると言っても過言ではないと思われます。以上、簡単な感想まで。---T.K.<)
 
K・Hさん:(OFF-LIST STATEMENT: "Coming to know that you have studied in New Jersey, and as you gave mention to Interstate 95, Rutgers University and your profound love for Jazz and so forth, I was tempted to address this mail to you for the very first time. . . . I have worked for a certain trading firm for 40 years. My last place of station was New York. While I was in NY, I used to go to play golf at Fortgate Golf Club in NJ which was located along Interstate 95, and on my way there, I used to go to see the signboard of Rutgers University. (By the way, this university has a special course on Jazz music, as they say.) Now I'm leading retired life and with a view to making use of my free time, I applied for a mail-member of your web-class on American poems. To be very honest, the lectures provided by you once a month or so are too academic for me to catch up to, and so I just enjoy reading what you write without venturing to submit any "Report" so far. New Brunswick, Philadelphia, Washington, D.C., Charlotte, Nashville, Atlanta, St. Louis, Chicago, Buffalo, Niagara Falls, Rochester, Corning. . . . . these are the places which are all still vivid in my mind, and it is much regretted that during my four years' stay in the States, I did not pay any attention to American literatures or poems, excepting going to various Jazz clubs. Please take note that in your web-class, there is a student like me who enjoys reading your texts silently. . . . ") 第10・11回講義の古賀先生のCover Noteに、受講者のカテゴリ−を「終了証の取得まで進まんとする人」と「気楽に最後まで通読すれば良しとする人」とに大別されておられました。先生には申し訳ないのですが、私の場合はまさに後者の部類に属しまして、そもそもが、”What it (American poetry) is like?”という謂わば好奇心が受講の動機でありました。先生の解説を通じて、それがおぼろげながら凡そどんなものであるか分かったような気がしています。歴史のごく浅いアメリカという国のPoetryが、斯様に多種多彩であることに、認識を改めさせられた次第です。お陰さまで友人たちとの会話の中で何度か私の話題とさせて頂きました。それにしても、第10回の"Language Poetry"なるものは、私の如き門外漢にはチンプンカンプンで、まさに謎解きパズルそのもので、頭を捻るばかりでした。以上、私の雑感を述べさせていただくと共に、この一年間の先生の大作講義に対し厚くお礼を申し上げます。
 
Y・Iさん:読むのは好き、書くのは何と難しいことでしょう。アメリカ現代詩に初めて接して、その長さに驚き、キリスト教、神話などが散りばめられた詩を理解するためには解説が必要でした。むしろ解説文を読むのがとても楽しかったと思います。原詩を音読し、語のリズム 響きなどが感じ取れればと思いましたが、途中で発音が解らず つっかえ、またどういう意味だろうと立ち止まってしまう有様。これは何回も何回も読むしかないと覚悟しました。先生の講義をプリントアウトしています。さあっと読んだもの、まだ読んでいないのもありますが、これから折にふれて読んでみようと楽しみにしています。今後もT.S.エリオットやウォレス スティーブンス、ロバート・フロストなど他で目にしたらきっと手にとって読んでしまうでしょう。いろいろなアメリカ現代詩の詩人たちをご紹介くださったことを感謝致します。最後に、最近一つの俳句に出会い いいなあと感じたのを述べたいと思います。日本の詩人ですが美しい言葉には共感していただけると信じて・・・。3月21日、毎日新聞の朝刊に載っておりました。「ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう 折笠 美秋」 折笠美秋とは、私は初めて知ったのですが1934年生まれの東京新聞の記者で、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のため56歳で亡くなった俳人だそうです。私も蝶の背に乗って、春の光あふれる 花々の咲き乱れる野原を飛び回っているような思いがしました。きっと何か歌いながら、叫びながら、、、。1年間 古賀先生、スタッフの皆様どうも有難うございました。
 
K・Nさん:この1年間、アメリカ詩を勉強して感じたことを記します。以前、女流詩人のエミリーディキスンを学びました。彼女独特の言葉を十分に理解はできませんでした。しかし、詩のもつ言葉の奥深さを感じました。言葉にこだわることは大切なことだと理解しています。言葉の意味も、これが一つだとはいいきれません。あいまいさがあります。話者によって、同じ言葉でも、微妙に異なります。それを理解しながら、詩を読むと、詩人の訴えたいものを、正確につかむことは百パーセント無理でしょう。詩を声を出しながら読むと、黙読よりもより理解できるかな、と思います。詩の勉強を通して、日本の俳句にも興味が出てきました。私は今まで言葉を粗末にしてきました。会話はもちろん、書き言葉も、自分勝手に使ってきました。受講をきっかけに、私の日本語を見直すと貧弱です。読書を含め、意識的に勉強することが必要です。詩を含め、言語の勉強に終りはないと思っています。
 
N・Nさん:あっという間の1年間でした。受講開始後まもなく入院という羽目になり、プリントアウトした講義録を病室に持ち込んで、気分が良いときに読んでは、ノートにメモを取ったり(もちろんレポートを出すために)、週末に外泊できるときは図書館に足を運んで調べたり、自分なりに何とか一方通行の講義にならないようにと努めました。しかし、結局レポートは出さず、いや出せずに最後の講義を受け取ることになりました。当初は、機会があれば受講生が講師を囲んで話をする場をつくれないかと思ったり、受講が決まったときには、そのことを新聞に投書したり(毎日新聞「みんなの広場」)、夢はいろいろでした。病気に負けたとは思いたくありませんが、入退院を繰り返していると、やはり新しいことを学ぶにはエネルギーが要るとつくづく感じます。「夢二つ三つ四つ命足りませぬ  新子」新しい世界を垣間見ただけに終わりましたが、命ある限り学ぶことは忘れずにと考えています。1年間有難うございました。
(以上 2004年3月29日午前0時現在までに受理したものから)