はじめに……或いは深夜の独り言
 
今、深夜の2時15分です。そう、またやってしまいました。例のうたた寝です。風呂にはいるのも、寝室に行くのもおっくうになってしまい、居間のホットカーペットの上でそのままぐっすりと。疲れているせいか、夢をみました。なんと夢のなかで自分がまったく同じ格好で寝入ってしまい、深夜に起き出すという場面で終わっていました。嘘じゃありません。本当です。
 
ところで実は私、ある人を殺したんです・・・。「えー、殺人したんですか?」と、これを読んでくれてる人はびっくりするでしょう。「インターネットでそんなこと告白していいんですか。警察に通報しますよ」って。でも、ご安心下さい。これは嘘です。「何でそんなこと書いたんですか?」実はこんな風に書くことがある種の快感であるからです。おそらく誰でも一度は「こいつ殺してやる」と思う瞬間があるんじゃないでしょうか。だから、「殺しました」と「告白する」ことは一種快感なんです。特にそれが嘘である場合は、そうでしょ。
 
少し話が物騒ですが、実は、私が思うに、これがフィクションの、いや、人が想像する、ということの本質的な楽しみを形成しているのではないでしょうか。恋をしていないのに、ある人を恋してその人と寝ました。旅をしていないのに、何処か素晴らしいところへ来ています。自分はアメリカの大統領ではないのに、イラク攻撃はやめだと宣言しました、とかね。そうなんです。実は、このような「嘘」を考えることは、人間が人間である証拠でもありますよね。
 
非現実という嘘を考えることすら出来なくなってしまっては人間はおしまい、でしょう。ここまで書いてきて、皆さんに読んでもらってきて、「なんでこんなことが『アメリカ現代詩』の話と関係あるんや?」といぶかしく思われます。そこで正直に告白しますが、これが私が今、考えていることなんです。「はじめに」の言葉をどう書こうかって考えあぐねているんです。(すみません。もっと「高尚」で「面白い」話を期待していた人には。)でもね、実はこんな風に「非現実」を考えるのは楽しいでしょう。
 
「そんなん、ひまな先生(あんた)だけや!」と仰る人もいるかもしれませんが、人生、金儲けや日々のどうしようもない現実ばかり目にすると、少しは「非現実」を考えたくなりませんか。もちろん、テレビでドラマを見たり、映画を観たり、音楽を聴いたり、絵をしげしげと眺めては夢想に耽ったり、あるいはスポーツ観戦したり、自分でも体を動かして、そういった日常の疲れ、鬱陶しい現実から息抜きをする、リラックスする、ちょっと抜け出る、変えは出来ないけれど変わったと思う、ことが出来ます。今ここで、これから年10回ほど皆さんと一緒に現実から逃避してみたいと思うんです。
 
「現実から逃げてどうするんや。立ち向かわんとあかんで」と、すぐさま、律儀な人は言うでしょう。「そんな後ろ向きなことではなにも現実は変えられへん。前向きに行かんとあかん!」まさにその通りです。でも、たとえ、イラク戦争反対のデモ行進に参加したり、環境保護や福祉のボランティア活動を行ったり、いやもっと切実に、自分の毎日の生活を向上させるべくあらゆる努力をする、例えば、喫茶店にはいるのをやめて少しでも貯金する、といった現実の行為を行ったとしても、先に書いた「私、ある人を殺したんです」といった嘘を考えることの快感は得られません、よね。
 
そこであまりに嘘と見え透いたような「殺人告白」じゃなくて、
 
 夕方、散歩をしていると、急に風が吹いてきて、冷たい中にも、なんだか、春の到来を 感じた。
 
と書くことにしましょう。(これは実は私が寝る前に[もう昨日のことです]感じたたわいないことで、嘘ではありません。)そして、これを、
 
 Le vent se léve, il faut tenter de vivre.
 風立ちぬ、いざ生きめやも。
 
という堀辰雄の小説『風立ちぬ』の冒頭に引かれているポール・ヴァレリーの詩の言葉に置き換えるとしましょう。あるいは、
 
Oh, Wind,
 If Winter comes, can Spring be far behind?
おお、風よ、
 冬来たらば、春遠からじ。
 
というP・B・シェリーの「西風に寄せる歌」の有名な最後の言葉に置き換えてみてはどうでしょう。あるいは、さらに、
 
. . . A cold wind chills the beach.
 ・・・冷たい風が浜辺を凍らせる。
 
というウォレス・スティーヴンズというアメリカの詩人が書いた「秋のオーロラ」という長篇詩の一節の言葉に置き換えてみます。
 
「なんや、最初の文章と全然違うやんか。なんの関係があるんや」と 思うでしょう。でもそれは、ヴァレリーも、シェリーも、スティーヴンズも、引用の一部にすぎないからです。つまり、文脈が欠けています。で、そのような文脈を知るためには、例えば、ヴァレリーについてはまず、堀辰雄の『風立ちぬ』を読んでください。以下がその冒頭部分です。
 
 それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生(お)い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍(かたわ)らの一本の白樺(しらかば)の木陰に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遙(はる)か彼方(かなた)の、縁だけ茜色(あかねいろ)を帯びた入道雲のむくむくした塊(かたま)りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生まれ来つつあるかのように……
 
 そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を架に立てかけたまま、その白樺の木陰に寝そべって果物を齧(か)じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗(のぞ)いている藍(あい)色が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上がって行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。
 
   風立ちぬ、いざ生きめやも。
 
 ふと口を衝いて出て来たそんな詩句を、私は私に(もた)れているお前の肩に手をかけながら、口の裡(うち)で繰り返していた。それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上がって行った。まだよく乾いてはいなかったカンバスは、その間に、一めんに草の葉をこびりつかせてしまっていた。それを再び画架に立て直し、パレット・ナイフでそんな草の葉を除(と)りにくそうにしながら、
「まあ!こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……
 お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧な微笑をした。
 
あまり私の最初の散歩のことを書いた文とつながりが見えてこないかもしれませんが、以上の引用箇所の文脈では、作家の「私」が軽井沢で出会った女との淡い恋が語られます(「序曲」と名づけられたこの引用箇所が冒頭を構成する章では、彼女の父親が[実は既に結核にかかって療養に来ていた彼女を]迎えに来てあっという間に[当座の]別れがあります)。そして続いて、「春」と題された次章では、今度は結婚して妻となったこの女性(「節子」)が「私」と共に富士見高原の療養所に行くという展開があります。そしてそこにも再び、ヴァレリーからの同じ詩句が出て来ます。以下は、少々長いですが、関連する文脈箇所です。
 
 四月になってから、節子の病気はいくらかずつ恢復期(かいふくき)に近づき出しているように見えた。そしてそれがいかにも遅々としていればいるほど、その恢復へのもどかしいような一歩一歩は、かえって何か確実なもののように思われ、私達には云い知れず頼もしくさえあった。
 そんな或る日の午後のこと、私が行くと、丁度父は外出していて、節子は一人で病室にいた。[中略]
「私がこんなに弱くって、あなたに何だかお気の毒で……」彼女はそう囁(ささや)いたのを、私は聞いたというよりも、むしろそんな気がした位のものだった。
「お前のそういう脆弱(ひよわ)なのが、そうでないより私にはもっとお前をいとしいものにさせているだと云うことが、どうして分からないのだろうなあ……」と私はもどかしそうに心のうちで彼女に呼びかけながら、しかし表面はわざと何んにも聞きとれなかったような様子をしながら、そのままじっと身動きもしないでいると、彼女は急に私からそれを反(そ)らせるようにして顔をもたげ、だんだん私の肩から手さえも離して行きながら、
「どうして、私、この頃こんなに気が弱くなったのかしら?こないだうちは、どんなに病気のひどいときだって何んとも思わなかった癖に……」と、ごく低い声で、独り言でも言うように口ごもった。沈黙がそんな言葉を気づかわしげに引きのばしていた。そのうち彼女が急に顔を上げて、私をじっと見つめたかと思うと、それを再び伏せながら、いくらか上ずったような中音で言った。「私、何だか急に生きたくなったのね……」
 それから彼女は聞こえない位の小声で言い足した。「あなたのお陰で……
       * * *
 それは、私達がはじめて出会ったもう二年前になる夏の頃、不意に私の口を衝いて出た、そしてそれから私が何ということもなしに口ずさむことを好んでいた、
 
 風立ちぬ、いざ生きめやも。
 
という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、??云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉(たの)しい日々であった。
              (新潮文庫版『風立ちぬ・美しい村』 90-94頁)
 
なんとも中途半端に甘ったるいようにもどかしい、でも絶妙に正確な心の動きをとらえた文章だと私には思えますが、肝心の詩句についての文脈が一応明らかになってきたでしょうか。つまり、堀辰雄が考えるヴァレリーの詩句の意味は「云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉しい日々」の蘇りを象徴する契機となるべきものです。文庫版の「解説」によると、特にこの『風立ちぬ』はそれが一緒に収められている小説『美しい村』を昭和8年に執筆した年の夏に、実際に一人の女性と出会い、9年の夏の末には婚約し、10年の夏にはその許嫁を伴って、かつて彼自身幾月かを過ごした富士見高原の療養所に赴き、その冬彼女が亡くなる体験をもとに綴ったものとされています。特にその中の章「風立ちぬ」の執筆は翌11年の9月から10月にかけて信州の追分で行われ、11月には同じく収められた章「冬」を脱稿し、さらに12年の冬には軽井沢の川端康成の山の家で書き上げられた「鎮魂歌」(現「死のかげの谷」)を加えて出版された小説とあって、いわば、ほとんど作家自身の体験をもとにして書いた小説、いわゆる告白的な私小説の典型なのでしょう。
 
すこし問題のヴァレリーの詩句よりも堀辰雄の小説に話が行きすぎた嫌いがありますが、では元のヴァレリーの出典はどうなっているのでしょうか。フランス語の原詩 "Le Cimetiére Marin" 「海辺の墓地」(詩集『魅惑』 Charmes[1922]収録)は、なるほど、以下のような最終連で終わっています。引用は鈴木信太郎訳のものです。
 
 風 吹き起こる…… 生きねばならぬ(注)。一面に
 吹き立つ息吹は 本を開き また本を閉じ、
 浪は 粉々(こなごな)になって 巌(いはほ)から迸(ほとばし)り出る。
 飛べ 飛べ、目の眩(くるめ)いた本の頁(ページ)よ。
 打ち砕け、浪よ。び踊る水で 打ちけ、
 三角の帆の群の漁っていたこの静かな屋根を。
(注)「この長い不要な瞑想の結末、生の勝利。墓地は消え、生命の力が強く脈打ち、詩人をその水尾(みを)の中に巻き込む。風は象徴的に詩人が詩や思索を書いている本を吹き捲る……」〔P・F・ブノア解説〕
(筑摩書房『ヴァレリー全集T 詩集』 238頁)
 
注の解説文は参考になると思いますが、すこし訳文が分かりづらいので原文に忠実な英訳も見ておきます。
 
The wind arises. . . it is necessary to try to live!
The vast wind opens and closes my book,
The wave in daring powder spouting against the rocks!
You fly away, dazzling pages!
Dissolve, waves! Dissolve with rejoicing water
This tranquil masthead where the jibs are picking!
 
あまり参考にならなかったかもしれませんが、以上がヴァレリーの引用の文脈でした。では続いて、シェリーの原詩はどのようになっていたのでしょう。以下がその最終連です。
 
Make me thy lyre even as the forest is:
What if my leaves are falling like its own!
The tumult of thy mighty harmonies
 
Will take from both a deep, autumnal tone,
Sweet though in sadness. Be thou, Spirit fierce
My spirit! Be thou me, impetous one!
 
Drive my dead thoughts over the universe
Like withered leaves to quicken a new birth!
And, by the incantation of this verse,
 
Scatter, as from an unextinguished hearth
Ashes and sparks, my words among mankind!
Be through my lips to unawakened earth
 
The trumpet of a prophecy! O, Wind,
If Winter comes, can Spring be far behind?
 
  わたしをおんみの竪琴とせよ あの森のように、
  わたしの木の葉が森の木の葉のように落ちるなら!
おんみの大いなる階調の動乱は
 
悲痛ながら美しい荘重な秋の調べを
うるだろう。おんみ 烈しい「精霊」よ、
わたしの精神(こころ)となれ!強烈なものよ、わたしとなれ!
 
わたしのまさに消えんとする思想を 落葉のように
世界へ駈けらせ 新生をもたらせよ!
この詩(うた)の呪力によって
まだ消えつきぬ炉から灰と火花を撒くように
わたしの言葉を人類の間にふり撒けよ!
わたしの唇をもってまだ目ざめぬ大地に
 
予言の喇叭をふきならさせよ!おお 西風よ、
冬が来れば 春は遠い先であろうか。
    (星谷剛一訳、新潮社『世界詩人全集4 シェリー詩集』より)
 
以上のむずかしそうな原文およびその訳文を読んで(あるいはこのページ上を素速くカーソルを動かして一瞥して)、「ああ、もうお手上げ。ついて行けへんわ」とこの時点でギブアップする人はいるかもしれません(いや、もっと早い段階でそうした人も)。ちょっと待ってください。
 
ここでなにも詩というものを体験するのに、その言葉をすべて理解する必要はないのです。むしろ、意味する所があいまいなままである方がよい場合もあります。さらに、詩は言葉の音楽です。 だから、「意味」をむしろ考えず、ただ言葉の響きに酔えばよい、ということでもあります。
 
「あ、そうか。そんなら英語が少しでも読めれば、音読して『言葉の響き』とやらに酔えばええんやな。そんなら簡単や」という人もいるのでは。そう、ある意味では詩を体験することは簡単です。ながったらしい小説や舞台劇や映画・ミュージカル、大掛かりなスペクタクル的イルージョン、あるいは絵画、彫刻といったうごかない視覚芸術、パフォーマンス、建築といった都市空間や環境芸術、その他もろもろの文芸事象に較べて、ある意味で、もっとも簡単に、そして一瞬にして「永遠のイメージ」や心が踊るような感動情緒を体験することができます。
 
事実、詩は小説と違って、物語なり筋立てなりを時間をかけて読み、全体を把握して初めて理解できる、という類のものではありません。もちろん、長い詩もあり、全体を把握しないと理解できないものが多々あることは事実ですが、その言葉の性格から云って、根本的に、詩的瞬間は一瞬にしてやってくるものです。つまり、詩が詩であるということは、ある言葉(一語でも複数の長い集まりでも)がその場でイメージなり、リズムなり、アイデアなりを、独立した(あるいは総合した)仕方で、読む人の心に響かせるということです。(厳密には叙事詩のように、物語的な内容をもった詩では、以上のように必ずしも言えないかもしれせんが、ここで詩とはもっぱら、叙情詩のことだと思ってください。)
 
「あまりようあんたの言ってること分からへん」という人は、数ある詩の入門書のなかで、例えば、『詩のレッスンー現代詩100人・21世紀への言葉の冒険』(入沢康夫・三木卓・井坂洋子・平出隆編、小学館、¥2000)という本を買ってゆっくりと日本の現代の詩人100人の詩をその各々の解説と共に読み(もちろん気に入った詩だけでも結構です)、日本の詩人たちが今どんなことをやろうとしているのか、そしておぼろげながらにも、詩とは何かについて自分なりの感想を抱くことをお勧めします。
 
ちょっと横道に逸れましたが、シェリーの詩の引用に戻っていうと、まず、詩人である「私」が冬の到来を告げる西風に向かって、「私の死せる思想を、全世界に、あたらしい生命を蘇らせる枯れ葉のように駆り立てよ」とか「人類中に私の言葉を、消えてはいない炉から火の粉混じりの灰を掻き立てるように、ばらまけ」というようなセリフに見られるアイデア(思想)を語っているということ。次に、このような畳みかけるように性急な主張が激しく吹きつける西風に対抗するかのように、原文では6個の感嘆符(!)によって、ほとんど絶叫する口ぶりで語られていること。さらに、もっと丁寧にみれば、[s]音を含むシューシューいう破擦音が多用されていること。(これが絶叫するような口ぶりと相まって、ほとんど、耳障りなほどに、「風」を感じさせるということ。)おそらく、イメージ的には、詩の全体を読めばもっとあきらかになりますが、猛り狂うように風で落葉する森の表情とひょうや雨まじりの逆巻く空の表情が一体となって、騒然とした大気の雰囲気を作っていることを心に留めることが重要です。
 
詩の書かれた背景を調べると、シェリーがこの詩を書いた時(1819年)、彼はイタリアのフィレンツェ近くのアルノ川沿いの森を散策していたそうです。ちょうど一年の暮れに(暖かいイタリア・トスカナ地方では冬の到来も遅いのです)、日没時に晩秋の嵐に遭遇します。そこでこのような詩を書いたと自注には記していますが、実はこの時期『解き放たれたプロメテウス』Prometheus Unbound という大部な詩劇の最初の三幕を書き終えたばかりであったのです。プロメテウスとは、もちろん、ギリシア神話に出てくる巨人族の一人で、天界から火を盗み人間に与えるが、みずからはその罰として天界の王ゼウスによって岩山に繋がれ、ワシにその肝を喰われるという苦しみを味わい、後にヘラクレスにより開放された人物です。しかし、この劇の内容はどう考えても単なるギリシア神話の登場人物をテーマにした詩とは思えない。また「西風に寄せる歌」についても同じく単に晩秋の嵐について書いた詩とは思えない。
 
そうです(一応アカデミックな講義のつもりなので、若干学問的な手続きを踏んだ議論もしますが、ときどき飛躍もします)、19世紀の人間シェリーがわざわざギリシア神話の話を引き合いに出したり、単なる自然現象について書くにはそれなりの理由があるのです。(ここであまりややこしくなるので、この理由ならびにもっと一般的に、何故19世紀のロマン派詩人たちは、当時の社会的事件や政治状況、人々の生活について直接テーマにはせず、概して大自然や神話や寓話について詩を書いたかを説明することは省略します。)
 
シェリー(Percy Bysshe Shelley)という人は、1792年に父親が国会議員、祖父が裕福な地主という家系に生まれ、名門私立イートン校、そしてオックスフォード大学で学ぶが、在学中に無神論をぶって放校処分となり、おまけに最初の妻 Harriet Westbrookと駆け落ちします。この最初の奥さんのハリエットとは、結局、長男出産の前に、二番目の奥さん Mary Wollstonecraft Godwin (これが『フランケンシュタイン』を書いたかの有名なシェリー夫人です)と駆け落ちしたため、別れることになります(彼女には父親の遺産の一部を慰謝料として支払いますが、別れて2年後に彼女は投身自殺をします)。二番目の奥さんメアリーは彼女自身文才がありましたから、以後は夫婦で互いの作品を批評し合ったり、欧州各地を旅したり、と1822年にシェリーが洋上で30才という若さで没するまで一緒でした・・・と一応の詩人の伝記をかいつまんでみてもあまり詩の解釈の参考になるように思えませんよね。そこでどうしたら、もっとシェリーの詩の内部に踏み込めるか?*
*この問題をもっと深く追求したい人はとりあえず、なぜ、詩人は「私の死せる思想を、全世界に、あたらしい生命を蘇らせる枯れ葉のように駆り立てよ」と言っているのかについてレポートを書いてください。[レポート形式、〆切等は一切問いません。皆さんの自発的な意見・質問を待っています]
 
ところで、この講義はそもそもアメリカ現代詩のはずなのに、たとえイントロの話としても、なんでまたイギリスの、それも19世紀のロマン派詩人の話をくだくだしているの?っていう素朴な疑問、これは話をしている私も感じております。ですから、やっと私たちの扱うアメリカの現代の詩人の一人であるスティーヴンズの引用に行きましょう。(このシェリーの詩はスティーヴンズのみならず、すべての現代詩人にとって重要な詩であるので、またこの話の続きは追ってすることとします。)
 
そこで最後にようやくアメリカ現代詩人のスティーヴンズ(Wallace Stevens, 1879-1955)の書いた「秋のオーロラ」("The Auroras of Autumn" 1947年執筆)の引用に辿り着きました。以下は全部で10ある「歌(キャント)」のうち、一部を引用した第2歌を見てみましょう。
 
 Farewell to an idea . . . A cabin stands,
 Deserted, on a beach. It is white,
 As by a custom or according to
 
 An ancestral theme or as a consequence
 Of an infinite course. The flowers against the wall
 Are white, a little dried, a kind of mark
 
 Reminding, trying to remind, of a white
 That was different, something else, last year
 Or before, not the white of an aging afternoon,
 
 Whether fresher or duller, whether of winter cloud
 Or of winter sky, from horizon to horizon.
 The wind is blowing the sand across the floor.
 
 Here, being visible is being white,
 Is being of the solid of white, the accomplishment
 Of an extremist in an exercise . . .
 
 The season changes. A cold wind chills the beach.
 The long lines of it grow longer, emptier,
 A darkness gathers though it does not fall
 
 And the whiteness grows less vivid on the wall.
 The man who is walking turns blankly on the sand.
 He observes how the north is always enlarging the change,
 
 With its frigid brilliances, its blue-red sweeps
 And gusts of great enkindlings, its polar green,
 The color of ice and fire and solitude.*
*引用本文は The Palm at the End of the Mind: Selected Poems and a Play by
Wallace Stevens (ed. Holly Stevens, Vintage Books), 308頁です。(『全詩集』もありますが、この便利なポケット版をお勧めします)
 
 ある観念に別れを告げ??砂浜に人気の絶えた
 小屋が一つ。それは白い、まるで
 習慣からか、先祖伝来の
 
 主題によってか、それともある無限の筋道の
 なりゆきであるかのように。壁を背にして、花は
 白く、少し乾燥して、一種の符号となって
 
 思い出させている、思い出させようとしている、
 年老いていく午後の白ではなく、去年、いやもっと以前の
 より鮮やかであれ、くすんだものであれ、
 
 地平線から地平線まで広がる冬の雲のであれ、
 冬の空のであれ、何か別の、違った白を。
 風が床の上の砂を掃いていく。
 
 ここでは見えるということは、白いということ、
 固体としての白でできているということ、つまり
 これは極論家が実践の中で達成すること……
 
 季節は変わる。冷たい風が砂浜を冷やす。
 砂浜の長い線はより長く、空っぽになり、
 闇が、降りずに深まり
 
 壁では白さが褪せていく。
 歩いている男が砂の上で何げなく振り向く。
 彼は、北がその変化を常に押し広げてゆくのに気づく、
 
 その厳しく冷たい輝き、その揺らめく大いなる焔の
 青く赤い流れと噴出、その極性の緑、
 氷と火と孤独の色で。*
    *日本語訳は『場所のない描写?ウォーレス・スティーヴンズ詩集』(加藤文彦・酒井信雄訳、国文社刊)、138-9頁より。
 
ここでも、「あ、そうか。そんなら英語が少しでも読めれば、音読して『言葉の響き』とやらに酔えばええんやな。そんなら簡単や」と思った人はぜひそのように一度音読してください。(テクストを朗読した詩人の声がインターネットでも聴けます。)もちろん、訳を読んで意味を考えようという気になった人もぜひゆっくりと一度は音読してください。
 
でも、一度朗読して「まったくチンプンカンプンや!」と匙を投げたくなった人はどうか最低3回は音読してください。
 
では今度は、私と一緒に音読しましょう。まず、"Farewell to an idea. . . "です。
 
私なら「さらば、観念よ・・・」と訳すと思いますが、みなさん各自で、自分なりにこの語句だけでも訳してみてください。
 
「アイデアにはバイバイ」「さようなら、幻よ」「考えなんかもういらん」「知識にはもううんざり」「思いつきさん、ごきげんよう」・・・とまあ、いろんな訳ができるかと思います。これは英語と日本語の違いによるためと、辞書的な言葉の意味をベースとして、この語句だけではおそよいかようにも解釈できるためです。そこで外国語の詩を読む場合にはできる限り原語の意味、響きを大切にして考える、ということが重要です。 
 
でも、ここであまり丁寧に詩を読む(むかしの大学ではこういった「舐めるように」テクストを読むことが定番でした)ことは出来そうにありません。特に現代の忙しい、わざわざ大学まで行って講義を聴いたりするのはできない(あるいはそんな気もない)当インターネット講座の受講生のみなさんにとっては、とても出来そうにはありませんし、こちらとてそんな時間的余裕も労力もさけないのが実情です。(そんな暇とエネルギーのある人は今では一部がすでに化石化しつつある文学部の英文科に行って英詩の授業を受け、大学院に進み、私のように*研究者になる道もあります。)
*弁明しますが、「私のように」とは決して私がそんな暇とエネルギー、その他もろもろの条件が整っていたというわけではなく、専ら偶然に詩と出会い、興味をもったのでここまで研究したきたわけで、特に今の忙しい大学改革の渦中ではとても昔のように丁寧な詩の解釈を大学院の授業以外であまりやる余裕がないのは本当です。この点はあしからず。
 
そこでこの詩を手っ取り早く、ある程度理解するにはどうするか。いや、少なくとも引用した
. . . A cold wind chills the beach.
 
という詩句の詩的意味だけでも知るにはどうしたらよいか。(それにはヒントがあります。)
 
詩は反復である、ということを言う人がいますが、なるほど反復される言葉なり、リズムなり、イメージなりを辿っていくのです。ですから、引用本文で "cold," "wind," "chill," "the beach" にまつわる語句やイメージ、音を探るのです(かつてガストン・バシュラールという人は特に象徴詩の解釈に際し、こういった「反響」*を中心的だと考えました)。
*例えば、『空間の詩学』(岩村訳、思潮社刊)という本では、フランス象徴派詩人ボードレールの作品に現れる "vaste"「ひろがり」をミンコフスキーというロシアの幾何学者のいう「反響」の概念を使って説明しています。
 
するとどうでしょう。一つのキャビン(アメリカの東海岸浜辺には日本以上に簡易な「海の家」や瀟洒な別荘がひしめいていますが、ここではどんな掘っ立て小屋でもよいのでしょう)が浜辺に白く突っ立っている、風が砂を舞いあげ、部屋の床にまで入り込む。一人の老人が浜辺を歩いている、晩秋の空、雲、相変わらず吹きすさぶ浜風・・・といった具体的なイメージは浮かび上がってくると思います。
 
ですが、ここからが問題です。例えば、散文的な意味内容として、「まるで習慣からか、先祖伝来の主題によってか、それともある無限の筋道のなりゆきであるかのように」とか「ここでは見えるということは、白いということ、固体としての白でできているということ、つまり、これは極論家が実践の中で達成すること」、あるいは「北がその変化を常に押し広げてゆく」(これは「その厳しく冷たい輝き、その揺らめく大いなる焔の青く赤い流れと噴出、その極性の緑、氷と火と孤独の色で」と補足されます)というような陳述文はどんな意味をもっているのか。
 
こんな問いかけをすると、「なんや、先生が言った、「意味」をむしろ考えず、ただ言葉の響きに酔えばよい、ていうのに矛盾してるんちゃうか」と怒り出してしまう人もいるかもしれませんね。そう、ある段階まではそれでよいのですが、詩によっては、いわゆる「意味」とやらを「考え」ねばならないものもあります。*
*次回扱うT・S・エリオットという詩人はかつてテニソンやブラウニングといったロマン派末期の詩人たちを批判し、彼らは「思想をバラの匂いを嗅ぐように直肌(じか)に感じていない」という感受性の分裂状態があると指摘したことがありますが、その意味ではスティーヴンズの詩のように難解な思想が詩の中で語られるようにみえる詩はあまりよくない詩ということになるのでしょうか。私はこの意見には異論がありますけど。(T. S. Eliot, "The Metaphysical Poets" [1921]参照)
 
でも、ここでそういった難しそうな「観念」も「さらば」と冒頭で書いてあるので、安心してください・・・。「えー、そんな冗談みたいなこと言われたって、分からんのやから、『安心』なんかできへん」と思う人がいれば、実はその通りなんです。私が思うに、スティーヴンズという詩人は詩の冒頭で「観念よ、さらば」と言いながら、実はそのようなことが易々と出来ると思っていないんではないか。だから、例えば、小屋の壁に吹きつけられた白い花というような現実具体的なイメージを提示しつつも、
 
            花は
 白く、少し乾燥して、一種の符号となって
 
 思い出させている、思い出させようとしている、
 年老いていく午後の白ではなく、去年、いやもっと以前の
 より鮮やかであれ、くすんだものであれ、
 
 地平線から地平線まで広がる冬の雲のであれ、
 冬の空のであれ、何か別の、違った白を。
 
という風に何度も言い換えを伴いつつ、実は花の白さが単に自然界にある白さではなくて、「何か別の、違った白」を「思い出させている」と書くわけです。つまり、現実にない白さを想像すること、いや、必然的に老いた詩人にとっては(彼がこの詩を書いたときは68才です)「思い出させようとしている」「年老いた午後の白」でなく、おそらく若い時に感じた(「もっと以前の」とあります)「何か別の、違った白」、例えば、結婚式の花嫁ドレスの無垢な純白や寝室の白いシーツといった安らぎとしての白さなどを思い出している。
 
だから、「ここでは見えるということは、白いということ、固体としての白でできているということ」というような文章が意図するのは、そのような回想に浸る詩人にとってすべてが様々な白さにみえてくる瞬間は、受け身的な印象のそれではなく、極めて能動的で努力のいる(「極論家が実践の中で達成すること」)瞬間であるはずです。
 
と、ここまで私につき合ってきて、「少し話がおもろくなってきたやないか」と感じるか、「あ、やっぱり、あかん。おもろうないわ」と感じるかはみなさん次第ですが、前者のように感じてくれる人が一人でも多いことを期待します。
 
気がつくと、もう朝の4時半です。急に部屋も冷えてきました。これから、風呂に入って少し眠ることにします。だから、以上で「はじめに」の言葉とします。次回までにメール・リストに今日の感想でも書いて送って下さい(自己紹介もついでにお願いします)。では、次回まで、おやすみなさい・・・zzz.