山と詩
「詩人・村野四郎生誕100年の集い」に参加して
前川 整洋
村野四郎は日本現代詩人会の創設者の一人であり、現代詩に新しい表現を切り拓こうとした詩人でもある。各種スポーツを題材にした新しい詩も試みているが、次ぎの「登攀」も当時としては新しい登山の詩であった。
登 攀
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僕らは地表の凹凸(ヂグザグ)の中にはいった 麻痺させるほど巨い垂直が屹立し 岩燕が突きあたっては落ち 耳元で軽金属(アルミ)のコップが小さい音をたてた 僕らは地表の脊に立った 夕雲が足元で斑(ふ)の絨氈をうごかした ピイクの風が友の裳裾をめくり上げと 彼女は赤くなって それを抑えるのであった
山岳は僕らを翻弄した それは抜きがたい力であった しかし遂に僕らは征服したのだ 僕らを此処まで高く支えたもの それは何であったか 振りかえると 一人の強力が其処にゐた 背中に 僕らの山岳をのせて
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この詩ではどんな稜線であり谷であるかは言っていない、抽象的捉え方をしているにもかかわらず、リアルに山が浮かんでくる。「強力が其処にゐた」とは、山は一人では登れないことを象徴しているのであろう。そこには天候などの運も含まれる。 村野四郎といえば「体操詩集」が代表作とされているが、別の一面が表われている次ぎの詩「鹿」も挙げておく。
鹿
鹿は 森のはずれの 夕日の中に じっと立っていた 彼は知っていた 小さい額が狙われているのを けれども 彼に どうするこどが出来ただろう 彼は すんなり立って 村の方を見ていた 生きる時間が黄金のように光る 彼の棲家である 大きい森の夜を背景にして
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朝日新聞「折々のうた」の連載など知られる詩人・大岡信は、次ぎのように解説している。 ここに姿をあらわした鹿は、いうまでもなく鹿そのものであると同時に、人間であり、われわれ自身であり、すべて生命そのものであるといってもいいのだが、この鹿が射たれて死ぬという惨事が、一瞬前に詩人のカメラにとらえられたとき、そこに生命の最も美しい瞬間の輝きがあったという点に、この詩の秘密の鍵がある。
私はこの詩から、生命が輝くのは自然の中でこそであり、それも一時であるよう印象をもった。
現代詩創作集団「地球」の活動の一つとして「村野四郎生誕100年の集い」がとり行われた。参加者約150名。私も参加し、普段聞く機会のほとんどない著名な詩人による話を、身近で興味深く拝聴することができた。簡単にその内容を紹介する。
日時:9月26日(日) 場所:神楽坂エミナース 時間:1部 PM2:00〜PM5:00 2部 PM5:30〜PM7:30
プログラム 1部 司会あいさつ 石原 武、菊田 守 はじめに 秋谷 豊 講演 村野さんの詩について 新川 和江 スピーチ 村野さんとの出会い 安藤元雄、伊丹公子、伊藤桂一、入澤康夫、小田久郎、小海永二、嶋岡晨、 辻井喬、長谷川龍生 詩朗読 「登攀」ほか 星 義博、小林登茂子 歌 「ぶん ぶん ぶん」ほか 田井陽子 講演 「飢えた孔雀」について
福田陸太郎 あいさつ 村野晃一
2部
記念パーティ 司会 中原道夫、大石規子、北岡淳子 スピーチ 「父村野四郎の思い出」 村野晃一 スピーチ 天彦五男、鎗田清太郎 詩朗読 遠山信男 花束贈呈 笠原三津子 相互の交流歓談
講演、スピーチの概要
○ はじめに 秋谷 豊 村野先生が現代詩人会の会長をされているとき、私は理事長であっとことから、親しくして頂いた。ご長男の村野晃一さんがこのたび出版された「飢えた孔雀―父村野四郎」の出版記念と合わせて、現代詩の主導的役割をはたされた村野さんの詩業を偲ぶためこの会を催した。
○講演 村野さんの詩について 新川 和江 村野先生にはじめてお会いしたのは、いつの事であるか定かには思いだせないが、日本詩人会の理事会であったと思う。理事会では運営の議事は早めに切り上げ、詩についての議論を盛んに行っていた。 村野さんは、「我が孔雀永遠に飢えたり」と述べられている。これはご自分のことを言っているとともに、詩人すべてについても言っているのであろう。飢えたりとは、満足できないでいることである。詩人には欠けっているところがある、だから、それを補うために詩を作っているのである。
○ スピーチ 村野さんとの出会い 長谷川龍生:詩人、日本現代詩人会会長 かって多くの詩人が、戦争に賛同するような詩を書いていたことがあった。村野さんもそのような詩を2,3書いている。しかしそれは雑誌の巻頭に載るような詩ではなく、詩としての内容もあり、許せないと思うようなものではなかった。日本詩人会の大会で詩を朗読されたあと、足がふらついたようで係りに人の手をかりて席にもどられたが、その2ヶ月後にお亡くなりになった。
安藤元雄:詩人 第一詩集は自費出版であった。これは本当の自費出版で、自分でガリ版を作り印刷したものである。この詩集の中の詩を、村野先生が新聞紙上で批評して下さった。それで村野先生のご自宅に訪問させて頂いたことがあった。
伊丹公子:俳人 私の俳句を新聞紙上で批評して頂いたことから、しばしばお伺いするようになった。薔薇がお好きで庭にはたくさんの薔薇が植えられていた。無限という詩誌の俳句についての対談に、村野先生からのお誘いで参加させて頂いたこともあった。亡くなる前のご家族での京都旅行にもお供させて頂いた。ホテルでは詩作されていましたが、それがとても怖い詩であったことを覚えています。
伊藤桂一:直樹賞作家、詩人 村野さんとはそれほど交流があったわけではない。頼まれれば断れない性分なので、ここで喋らせて頂くことになった。 戦地から一時帰国したとき、村野さんの「体操詩集」を読んで、新しい作風に感動したことがあった。東京オリンピックのとき新聞社からスポーツについての小説執筆の依頼があった。私は、スポーツはまったくやったことがなく、さてどうしたものかと困った。軍隊では騎馬隊にいたが、スポーツの馬とは別ものであり、スポーツはまったくやったことがないことになる。そのとき村野さんの「体操詩集」を思い出し引っ張り出してきた。この詩の躍動感を小説に取り入れ、飛び込み競技の小説を書いた。
小海永二:詩人 晃一さんの「飢えた孔雀」を昨日読み終えたところだ。本の中で村野先生が晩年、パーキンソン病であったことを知り驚いた。実は私もパーキンソン病であるが、良い薬ができたので、病気が治ることはないが、日常生活には不自由なく済んでいる。 私がNHKのラジオ番組を担当しているとき、村野さんの詩を教材にしたことがあり、その番組を村野さんも気にしておられたので、そのときはご自宅に頻繁にお伺いした。詩を書くだけの人は多いが、詩の批評もできる人は少ないと誉められたことがあった。 シニカルな方で、蜜柑を送ってきてくれている詩人がいて、「蜜柑は美味いんだが、詩は巧くないんだよ」と言っておられたこともあった。
辻井喬:詩人、作家 村野さんとは3度しかお会いする機会がなかった。息子さんが西部デパートに入られて、息子さんについてどのように話してよいやらで、お会いしずらくなった次第である。
○講演 「飢えた孔雀」について 福田陸太郎 リルケを敬愛していた村野さんは、リルケが薔薇の棘で死んだように、薔薇の棘に刺されて死んだような死に方であった。
なお、敬称は略させて頂き、「です、ます体」は「だ、である体」に書き直してあることを、ご了承下さい。
(おわり) |