Summary of the fourth session in the online seminar series of the International Symposium 2021

The fourth session in the online seminar series of the International Symposium 2021 was held via Zoom from 3:00 p.m. to 5:00 p.m. on Thursday, January 27, 2022.

Speaker: KOTANI Hiroyuki (Professor Emeritus, Tokyo Metropolitan University)
Discussant: UENO Masayuki (Associate Professor, Osaka City University)

 

“Marginal Social Groups and Historical Records in South Asia from the Eighteenth to the Twentieth Century”

In this seminar, Professor Kotani, who specializes in the history of India from the medieval to the modern period, covered marginal social groups in India, with a focus on the early modern Maratha Empire. In a society based on the caste system where all the castes, including the untouchables, each has its own caste rules for its members, are given a specified place, the marginalized are defined as those whose membership of their caste has been taken away as a result of their violation of those caste rules. Although historical records are generally silent about such marginalized people, two types of rare cases are documented in Marathi-language sources about those who were expelled from their caste due to their engagement in society in some form despite their marginality. The first type of case involves the inclusion of female slaves originally from the untouchable caste in a household, which forced the owners to receive a purification ritual when the origin of these slaves became known. The second type relates to dancing girls who served the wider caste society through musical performances in weddings, entertainment shows, and prostitution.

Professor Ueno provided some observations on Professor Kotani’s work on the history of India from the perspective of Ottoman history. Professor Ueno began by emphasizing that Professor Kotani’s research focus on the development of Marathi society from the early modern to the modern period is truly pioneering given that the Japanese historiography of South and West Asia has to date predominantly focused on the sixteenth century and centered almost exclusively on the Mughal, Safavid, and Ottoman Empires, a fissure in the historiography that clouds our understanding of the paths the early modern societies in the region took to modernity. Professor Ueno then highlighted that one of the elements that has made the research focus of Professor Kotani possible is the rich extant archival sources at the village level, which is in stark contrast to the Ottoman Empire that suffers a scarcity of local archives. Professor Ueno also stated that despite the assumed low literacy rate in both Ottoman and Marathi societies, the extensive use of documents in the latter at the local level is quite surprising. As one possible explanation for this difference, Professor Ueno pointed out that the difference in the use of paper between the two societies may have partly resulted from its cost as the Maratha Empire produced paper domestically, whereas the Ottoman state continued to rely on its importation throughout the early modern period.


大阪市立大学国際学術シンポジウム2021オンラインセミナー(第4回)の記録

  • 日 時  1月27日(木) 15:00~17:00 
  • 内 容
    • 報告
      小谷汪之氏(インド史)(東京都立大学名誉教授)
      南アジアの周縁的社会集団と史料―18世紀から20世紀へ―
  • コメント 上野雅由樹(オスマン史)(大阪市立大学文学研究科)
  • 形 態  Zoomでの開催

 


小谷報告を受けて

上野雅由樹

 大阪市立大学国際学術シンポジウム2021第4回のセミナーでは、小谷汪之氏を招いて近世のマラーター王国を中心としたインド史の史料状況と、インド社会において周縁化された人々として、カーストを失った人々についてご報告いただいた。その内容については2022年度刊行の文学研究科叢書第12巻にて詳しく論じていただく予定である。以下では、オスマン帝国史を専門とするコメンテータの立場から、小谷報告にコメントの内容をまじえて簡単にまとめておきたい。

 日本の世界史叙述では、近世の南アジアと西アジアの歴史は16世紀に重点が置かれ、ムガル、サファヴィー、そしてオスマンという「3つのイスラーム国家」(羽田 2000)の時代として描かれる傾向にある。その背景には、政治史重視の歴史叙述において、これら地域において目立った動きの見られた16世紀こそ注目に値すると見なされてきたという事情がある。これは、南アジアや西アジアにおいて近世後期(17世紀後半から18世紀)にどのような発展が見られたのかを軽視する歴史理解につながっており、ヨーロッパ列強の介入や植民地支配が本格化する近代への移行をより深く理解することを困難にしている。こうした問題を乗り越えることの重要性は、オスマン帝国史研究者のあいだでも理解が深まってきており、「近世的発展」を副題に掲げる近年のインド史分野の研究書にも共有されているように思われる(小川 2019)。こうした現状をふまえると、小谷氏の研究は、17、18世紀のマラーター王国におけるインド社会の成熟過程、社会発展のダイナミズムを解明し、そうした土台に立って近世から近代への移行を論じたものとして、いかに先駆的であったかが見えてくる。

 そうした小谷氏の研究を可能にしたのは、在地有力者や村書記の家に保存されていた文書である。マラーター王国下のインドでは、中央政府内で行政文書が作成されただけでなく、村の書記やダルマアディカーリー(法の役人、在地の法官)の手で、在地社会のレベルで文書が作成され、人々によって利用されていた。そして、植民地行政のために用いるという観点からマラーター王国の行政文書が20世紀初頭から国家事業として編纂され、刊行されたのに対し、私的に保管された公文書や、在地社会で作成された文書は、19世紀末以降、民族意識の高まりを受けて民間で蒐集され、刊行されてきたのである。こうした史料状況はオスマン帝国の場合とは大きく異なる。オスマン帝国の場合、民間で作成された文書の量が少ないがために、中央政府の公文書やそれと結びつきの強い法廷の記録に大きく依拠して研究が行われてきたのである。マラーター王国でもオスマン帝国でも識字者は少なかったと見られるが、その社会において人々がどの程度、文書を作成し、利用していたのかには大きな違いが見られたと考えられる。こうした違いはおそらく、紙の需要にも影響しており、近世のインドでは質はともかくとして紙の利用が幅広く見られたのに対し、オスマン帝国では近世を通じて紙を輸入に大きく依存していたのだった。

 豊富な在地文書は、インド史研究において社会のあり方を解明する第一級の手がかりとされてきた。ただし、その社会の仕組みから排除された人々がそれら文書に姿を表すことは少ない。小谷氏は、こうした存在、つまりインドにおいて周縁化された人々として、カーストから追放された人々を1月のセミナーで取り上げた。各カーストは、それぞれの規則を有しており、それに違反した構成員を追放する権限を持っていた。何らかの儀礼を通じて復帰を認められる人々も存在したものの、永久にカーストから追放された人々もいた。そのうち、マラーティー語史料から確認できる存在として、クンビーンあるいはバティークと呼ばれる家内女奴隷があげられる。彼女たちのなかには、もともと不可触民カーストに属していた者たちもいた。このことが後に判明し、購入した家の人々が不可触民との「近接」の「罪」を犯したとして、浄めの儀礼を受ける必要が生じることがあり、その場合は儀礼に関する文書が作成されたのである。一方、同じくカーストから追放された人々でも、カルヴァンティーンと呼ばれる歌舞演劇集団に受け入れられた人々もいた。彼女たちはカースト的制約からは比較的自由であったが、それでもカースト制的社会とのかかわりのなかで生きたがゆえに、その存在を史料から垣間見ることができるのである。

 

参考文献

  • 小川道大『帝国後のインド:近世的発展のなかの植民地化』名古屋大学出版会、2019年。
  • 小谷汪之『罪の文化:インド史の底流』東京大学出版会、2005年。
  • 小谷汪之『インド社会・文化史論:「伝統」社会から植民地的近代へ』明石書店、2010年。
  • 羽田正「3つの「イスラーム国家」」『イスラーム・環インド洋世界』岩波講座世界歴史14、岩波書店、2000年。

 

質疑応答

(上野コメントへのリプライ)

  • 18世紀にはインドの中央あたりの4分の3ほどはマラーター王国なのに、日本の世界史叙述において南アジアの近世といえばムガル帝国、ととらえられがちなのは、イスラム研究者の影響が大きいというのは、その通りだと思う。
  • 「我々のねらい」で言われている、「ヨーロッパ近代を特権視しない多極的な近代史像を描く」ということに関して言うと、ヨーロッパ史が土地制度史の枠組みで考えられている中で、インド史研究でももともとは土地制度史が絶対的だったし、日本でも1950年代までは土地所有を基軸に社会を考えようという研究が主流だった。しかしマラーティー語の史料を読むと、ワタンのような職種(日本でいう中世の職のようなもの)に関するものが多く、そういう史料を読むうちに、土地制度史ではなく、ワタンの発展でとらえるのがよいのではないかと思うようになった。
  • 文書への依存度の問題に関連して言うと、インドの識字率は低い。バラモン(全人口の5%ほど)は読み書きができるが、それ以外だと一部の商人が、商売上の手形(フンディ)のやりとりが必要なために読み書きできるくらいで、最大限みても識字率は10%前後にしかならない。しかし、当時のインドの社会で文書は非常に重要だった。納税の記録(村長・村書記が村内に配分した税を、いつ誰から徴収したかの記録が必要だった)を、字が読めない農民にも渡していたし、読み書きができない者同士の売買の記録を、証拠書類として村書記が書いたものなどが、村の書記の家には大量に残っていたりする。その他、ダルマアディカーリーが罪を除去する浄めの書を発給し、その写しが残されていることもある。逆に口頭のやり取りは、証拠が残らないので行われなかった。
  • 紙の使用については、インドでは13世紀に少しずつ使われ始め、15世紀くらいから紙社会となり、多く使われるようになった。紙は中国からイスラム世界を経由してインドへ渡ってきた。インドの紙は綿布のぼろを溶かして漉いたもので、あまり質は良くなかった。
  • 社会の持続性と流動性については、インドは体制としてはワタン体制が続いたが、それは停滞ではないと思うし、持続性と言えばそうだと思う。

 

(全体の質疑応答)

  • 国家公文書の「サタラの王と宰相の日録選」とはどういうものなのかとの質問には、国家の書記局の文書で、「今日は誰に何を発給した」ということが毎日列挙してあるもので、おそらくムガル帝国には無い珍しいものだと思うと答えた。
  • マラーター王国の村では、史料を作成するのはほとんど村書記とのことだが、ムガル帝国など他のインド各地の社会でも村で文書は作られていたのか、との質問には、地域差はあるが、村の共同体の共通性はある程度想定できるので、ムガル帝国の村にもヒンディー語の書記がいたかもしれない(ただしムガル帝国の多くの地域は末期に戦乱で焼かれて史料はほとんど残っていない)、また、ムガル帝国の発給したペルシア語の文書が、在地の有力者のところに残されていることはあると答えた。
  • オスマン社会では、口約束でも契約は成立し、証言が証拠になるのだが、インドでは文書が重視される。村の書記はお金に関わる記録をとることが多いようだが、近世はお金のやり取りが増える時期であり、それに伴ってこれだけ多くの記録が残るというところが示唆的だと思うとの意見が出た。
  • 19世紀のイギリス支配の時期になると、18世紀まで地域においてみられた文書主義はどうなるのか、との質問には、19世紀後半以降は英語ができないと村書記になれないため、村の文書も英語化されていき、残されているのは英語史料に限られていると答えた。
  • 日本の場合、識字率はインドよりずっと高く、文書を書くのは村役人だけでなく、実際に書くのは社会的地位があまり高くない下役の者であったりもする。同じ文書主義でも、その中身には違いがあるようで、そのあたりを比較していけると良いのではないかとの意見が出た。
  • 中国の場合は科挙による地位の上昇がありうるが、インドの場合もカーストを上昇させる方法があるのかとの質問には、インドでは1871年から全国で国勢調査が行われるようになり、その際に調査官がカーストに序列をつけたために、肉食をやめたり、踊り子を呼ぶのをやめるなどして序列を上げようとする志向がみられるようになったことを答えた。
  • 新しい職ができれば新たなカーストができるとのことだが、それは国家に認定されて出来上がるものなのかとの質問には、国家の認定は必ずしも必要ではないが、紛争が起きると国家が介入してカーストを分けることもあったと答えた。
  • カーストから追放された人は職を失うが、他の職業に加入することはないのかとの質問には、不可触民カーストは受け入れることもある、たとえばサティー(寡婦殉死)が行われる時には不可触民が押し寄せ、殉死に失敗した女性を連れていくようなことがあったと答えた。
  • ここまでの議論を受けて、日本の場合、集団から洩れ落ちた者たちの周縁的な集団は常に新しく生成され、身分化していくのだが、インドではカースト化しないのはなぜなのか、その違いが興味深いとの意見が出た。
  • 日本の場合、支配者は村請制に依拠しつつも、村内部の人々の年貢量まで検地帳で掌握しているのだが、インドではどうなのかとの質問には、インドではそれぞれの村にかけられた税を村内でどう割り振るかには国家はノータッチで、誰が何パーセント支払うという村独自の分配の論理により決められていたのであり、日本とはかなり違うと答えた。またこれとの比較で、オスマンの場合は、17世紀までは成人男性を個々人で把握していたが、17世紀以降は村単位の徴税請負の制度に変わり、村内の個々人に国は関与しなくなること、そのこともあって18世紀にかけて、村の共同性が高まっていく動きがみられることの紹介があった。これらを受けて、国際的な比較の際には村請というだけでなく、その中身まで見ての比較が大切であろうとの意見が出た。

(文責:渡辺祥子)