Summary of the third session in the online seminar series of the International Symposium 2021

The third session in the online seminar series of the International Symposium 2021 was held via Zoom from 3:00 p.m. to 6:00 p.m. on Tuesday, November 9, 2021.

 

Speakers:

SHIMAZAKI Mio (Curator, Osaka Museum of History)

YOSHIMOTO Kanami (Lecturer, Kyoto Seika University)

 

“Izumi Province’s Ikedashimo Village during the Nineteenth Century: An Examination of the Intra-village Regulation of 1867”

Dr. Shimazaki specializes in the early modern history of Izumi province with a particular focus on Ikedashimo village, which was located in that province. Her previous research primarily centered on oil production in Ikedashimo village. Since 2018, when she was a junior exchange fellow at Yale University as part of our international joint research project, she has been directing her attention toward more multifaceted aspects of Ikedashimo village in order to provide a fuller picture of the dynamics of the transformations that this village society went through during the nineteenth century. In this seminar, Dr. Shimazaki introduced a document from Ikedashimo village records, namely, an intra-village regulation issued in 1867, which was jointly sealed by the head of each of the households that comprised the village. The regulation consists of nineteen articles that cover a range of issues including a crackdown on gambling, supervision of the behavior of local youths and servants, restrictions on receiving servants from other regions, control of the liquor store, and rules concerning agricultural production. Through a close examination of the document, Dr. Shimazaki concluded that the 1867 intra-village regulation reflects the way in which Ikedashimo village during the Bakumatsu era was deeply dependent on the labor force of servants—be they local or from other villages and provinces—who came to be bound by a landlord–tenant relationship.   

 

“Local Society and the Urbanization of Peripheries in Early Modern Osaka: The Case of Namba Village”

Dr. Yoshimoto specializes in early modern Osaka and especially the urbanization of its peripheries, such as Namba village, adjacent to the southern part of the urban area of Osaka. The urbanization process involved the transfer of jurisdictional oversight because the urban area fell under the jurisdiction of the town governor, whereas the village was under the direct control of the shogunate. In this seminar, Dr. Yoshimoto explored the urbanization of the western part of Namba village, where five blocks of a residential neighborhood called Saiwaimachi were newly established in 1698. In order to examine relationship that would have developed between the village and the urban area, she focused on Sanken’iji, the irrigation canal that was built to secure the irrigation of the village’s agricultural lands following the establishment of Saiwaimachi neighborhood. Through a close analysis of two cases of conflict (one case at the turn of the eighteenth century; the other in the early 1840s) that arose between the village and the neighborhood over the use, maintenance, and administration of the canal due to the fact that although the canal primarily benefited the village, the land on which it was built belonged to the town governor’s jurisdiction, Dr. Yoshimoto concluded that these two cases are among those rare examples that allow us to understand the implications of urban expansion from the vantage point of both of the parties involved (i.e., the neighborhood and the village), as well as the stance and logic of the two different jurisdictions (i.e., the town governor and the shogunate), which were complexly interwoven.


大阪市立大学国際学術シンポジウム2021 オンラインセミナー(第3回)の記録

  • 報告:
    • 島崎未央氏(大阪歴史博物館)
      「村中規定連印帳にみる和泉国池田下村の19世紀」
    • 吉元加奈美氏(京都精華大学)
      「近世大坂の都市周縁部の開発と地域社会―難波村を素材に―」

日時:2021年11月9日(火)15:00~18:00  Zoom方式利用

 


 

村中規定連印帳にみる和泉国池田下村の19世紀

島﨑未央 

 

 今回の報告では、大阪市立大学文学研究科叢書に執筆予定の論稿にむけて、そのねらいと主たる素材とする慶応3(1867)年村中規定連印帳を紹介した。

 筆者は2018年3月~2019年1月の間、育成事業の若手研究員としてイェール大学・シンガポール国立大学に派遣された。その期間の研究テーマとしたのは、これまで主に絞油屋を対象としてみてきた和泉国池田下村の19世紀のあり方を、和泉国の村落研究の蓄積を念頭に置きながら、総体的に捉えるということである。

 18世紀後期から19世紀にかけて、「倹約」を課題とする村掟は繰り返し作成され、特に地域の若者や奉公人らが博奕・諸勝負や、祭礼時の騒動、集会・酒宴を催すなどの奢侈的な行為を繰り返し、家と村を受け皿とした統制が図られた。農民層分解が拡大し、商品作物生産が広く展開するなか、地域の支配層は農本主義的な論理を押し立てながら地域の統制を図った。

 池田下村でも同様の村掟は繰り返し作成されているが、現在確認できている範囲では、氏神の祭礼を前にした郡中レベル(領主一橋家の支配の村々の行政的な組合)のものや、村レベルのものが目立つ。そうした中で、慶応3年の村中規定連印帳は、その当時池田下村が抱えていた諸問題を包括的に条目に組み込み、村、生活共同体としての村内集落、個々の家を受け皿にして統制を実施しようとしたものである。この条目と、その前後の時期に作成された訴訟史料、一件史料などを組み合わせることで、池田下村の当時の様相を明らかにできると考えた。

 報告ではまず、規定が作成された動機とその枠組みを確認した。前書きには、近年の傾向として、幕府が禁止している博奕などの諸勝負に手を染め、酒興に耽り、村役人・五人組の説諭も聞かず、領主役人の廻村先に召し出されて吟味をうけても改心しない者の存在を問題にしている。そうした者たちが農業を怠ることで、幼い者にも影響が出て、村の衰退のもととなるというのである。今後、箇条に背く者がいないか日常的に吟味をし合い、村として制裁を下す(具体的には付き合いを停止する)と規定している。

 規定連印帳の形式に注目してみると、表紙に「願城」とあり、池田下村に五つある村内集落のうち、願成で作成されたことがわかる。また裏表紙の貼り紙で、願成の構成員である8軒の名前が列記されている。箇条の内容にも貼り紙で修正があるため、効力がある連印帳ではなく、下書きか写しと思われるが、家や五人組、集落を取締りの受け皿として、村レベルの規定を設けたことがわかる。

 次に、19箇条を内容別に分類した。(1)先行する法令と村役人の申渡しの順守、(2)村を主体とする不正(博奕)の吟味、(3)若者・奉公人の行動規制、(4)村外の者、奉公人の受け入れ規制、(5)酒屋営業の規制、(6)農業生産にかかる規制、に分類できる。それぞれの内容の分析は論考の執筆準備で深めることとするが、全体的な傾向として、若者・奉公人、そして村外の者の行動規制に力点が置かれている。博奕や酒屋営業の規制は、不正行為の温床となる集会への警戒も含んでいるし、若者・奉公人による盗難と盗品の密売にも警戒している。(6)の農業生産にかかる規制は、普請所からの窃盗や作物荒しへの警戒については他の部分と共通するが、検見前の刈取り規制、地主小作間の小作料の交渉に関する条項は、倹約を基調とする村掟の項目とは異質である。検見前の刈取による一件史料はいくつか見られるし、地主小作関係は、階層分解が顕著な池田下村では重要な問題だっただろう。村中規定が、その当時村が抱えていた問題を包括的に規制しようとしたものとする所以である。

 最後に、村中規定が作成された前後の、池田下村の動向を紹介した。

 安政3(1856)年2月、一橋家の役人である本多・松田の廻村に際して、池田下村の儀兵衛ほか4名の風聞が耳に入り、召し出されて吟味を受けた。4名は手鎖のうえ村預けとなるが、親類と五人組による釈放願いで赦免されている。この事例から、三田智子氏が紹介した南王子村の博奕問題への対応が想起される(「十九世紀泉州南王子村の村落構造-博奕問題を手がかりに」、『ヒストリア』241号、2013年)。堺奉行の管轄下で博奕に携わったことが摘発され、堺での牢飯代や村役人の出頭費用、堺役人の出張費などで村入用が嵩むことを忌避し、文化期に始まる一橋領知役人の廻村にあわせて取締りを村から願い、村預けにしてもらうことで、費用節減を図る手続きが恒常化するという。南王子村だけでなく、広く一橋領知の村々の間でこうした手続きがとられるようになっていた可能性が高い。

 さらにこのとき、池田下村からは、吟味を受けた4人の他に漏れがあってはならないので、との理由で、20代から40代の「部屋住」や「借地人」7名の不行跡を申告している。うち5名の行状は「手合にて不正筋」であり、賭け事だと思われるが、その他に山林荒し、営業している小売酒屋での人寄せ、小盗み(奉公先でも)といったものが挙げられる。まさに村中規定で規制されている行為なのである。

 以上から、慶応3年の村中規定は、幕府の規制、特に領主一橋家の取締りを前提とし、部分的にその仕組みを活用しながら、村と家を受け皿として、その当時蔓延していた諸問題を取り締まるために作成されたと評価した。当日の質疑を通して、村中規定は領主の倹約令等を前提とせず、池田下村が主体的に作成したことは間違いないが、その内容には幕府・領主の統制や、郡中レベルの動向が組み込まれていることを改めて意識させられ、さらなる史料調査と分析の必要を痛感した(「神酒酒屋」を名目とした居酒営業規制は一橋領知村々全体でみられることの指摘等があった)。

 余談だが、育成事業の派遣期間中には、弘化3(1846)年に泉州一国で行われた堕胎取締り令が、泉郡、大鳥郡の村々ではどのように実行されたかを分析した。堕胎の取締り令は、取締りが人口増に繋がり、農本主義の回復と国益に寄与するという理念から実施されたもので、ただし地域柄を充分に考慮せねば実行できないという判断から、村や五人組、家を受け皿とした堕胎取締りと小児の養育が奨励され、当の村レベルでは、堕胎が発覚した時の責任と、養育責任の明確化という方向性が現れるとの指摘をした(「和泉国における堕胎取締りと地域社会 : 一九世紀の若者問題の一例として」、『鳴門史学』34号、2021年)。

 社会構造の変化により噴出する諸問題を統制する論理と、地域の指導者層が打ち出す理念、そして現実の地域ではどのように取締りが受容されるのかを論じる際には、その根底にある社会構造の分析を潜らせなければ表層的なものにしかなりえない。それが堕胎取締りを分析した動機のひとつでもあったが、そのことを念頭に置きながら、今後も作業を進めていきたい。

 

 

 

近世大坂の都市周縁部との開発と地域社会
―難波村を素材に―

吉元加奈美

 11月9日のセミナーでは、大阪市立大学文学研究科叢書に執筆予定の論稿にむけた、作業内容を発表した。これまで報告者は、近世大坂の拡大過程を、都市域のすぐ南に位置する難波村を素材に分析してきた。難波村は村高1700石あまりの大村で、幕領(大坂代官所支配)である。村領の東側は道頓堀周辺の繁華街(芝居地とその周辺地域)に隣接しており、早い段階から村領の町場化が進んだ地域である。その一方で西側は、田畑が広がり、宅地化の進展も比較的ゆるやかである。今回の論稿では、難波村西側地域における都市域の拡大がもたらす変化を考察するために、元禄11年(1698)の堀江新地開発の一環である、幸町五ヶ町(幸町一~五丁目)の開発を取り上げる。

 幸町開発にあたっては、開発用地として、道頓堀沿いの難波村領地が収公されたが、そこには道頓堀から農業用水を取水する樋が3つ設置されていた。開発後、そのうちの2つの樋は取り払われ、幸町用地の東端に設置されていた「字円手開の樋」のみが残された。大坂町奉行所は、難波村の農業用水への影響を考慮し、「字円手開の樋」から取水した水が幸町五ヶ町の裏側を通り、村内の既存の井路に流れ落ちる用水路を、幸町用地の一部に開削した。この水路は幅が3間であったことから、「三間井路」と呼ばれた。

 難波村に残された史料には、元禄期~享保期にかけて生じた、三間井路をめぐる幸町五ヶ町との争論の記録(「三間井路道成一件」)、天保13年(1842)より幸町五ヶ町の出願で三間井路が整備された際の記録(「三間井路堀浚一件」)が残されている。研究科叢書の論稿では、これらの史料から難波村と幸町五ヶ町の関係を明らかにする。また、難波村は代官所支配ではあるが、都市域に隣接しているために、町奉行所が管轄する事柄に関与することも多い。三間井路もその事例のひとつであることから、今回の分析を通して、代官所支配と町奉行所支配の権限が交差する事象が、実際にはどのように扱われていたのかも考えたい。

 報告では、まず、「三間井路道成一件」の分析成果を報告した。当日は、いくつかの争論の事例を紹介したが、ここでは三間井路の難波村と幸町五ヶ町の関わり方を確定した、正徳5年(1715)の大坂町奉行所の裁許にいたる事例を紹介する。

 三間井路は幸町用地の一部を開削したものであるため、底地は幸町の町域の一部である。そのため、三間井路で行き倒れや心中が発生した場合は、幸町が対応する必要があった。しかし、日常的に用水路として利用するのは難波村であり、井路浚は難波村の都合で実施し、掘り上げた土も難波村の判断で処理された。幸町五ヶ町は、三間井路から特段の得分を得られるわけでもないのに、負担が発生することに不満を抱いていた。そこで、幸町五ヶ町は正徳5年(1715)3月に、町奉行所へ三間井路の支配をめぐって出訴した。

 訴えをうけた町奉行所は、同年4月に難波村に事情を問い合わせる。それに対して難波村は、「支配上は町地であっても、難波村の農業用水井路なので、いつでも難波村より井路浚をしても良いと命じてくれれば、他に何も望まない」と主張した。なお、難波村が提出した口上書には、「元禄11年に大坂代官と川奉行から、『南岸は村から杭・笧を、北岸は幸町から関板を(土砂留として)設置し、村が井路の土砂・塵を取り、水流が滞らないよう支配せよ』と命じられた。しかし、幸町は関板を設置せず大道から土砂が入り込み、また幸町の人々はゴミも捨てるので、井路が埋まり、村から井路浚えをしてきた。」とある。つまり難波村としては、幸町開発をきっかけに、村のために用水井路を敷設してもらったのに、幸町五ヶ町の対応では支障がでるため、用水路の機能を維持するために不可欠な井路浚えをしてきた、と認識していたことがわかる。 

 最終的に、町奉行所は村の主張を認め、三間井路は町地であることから支配は幸町(つまり、問題発生時の対応の責任も幸町)、堀浚えは村、との裁許を5月7日に下した。また、この段階で井路幅が狭くなり、幸町大道と井路北岸の境目が不分明になっていたことから、難波村の提案を受けて幸町が町奉行所に出願し、難波村側の岸に設置されていた井路端を示す古杭から、北に3間の幅で、幸町側の岸に「御定杭」を打った。こうして、井路幅が再確認されたのである。

 この裁許以後、両者の関係に変化はなく、基本的に村の用水路としての役割を、三間井路は果たしてきた。しかし、こうした状況は天保改革期に大きく変化する。その理由は、改革に伴う遊所統制の転換によって、天保13年(1842)8月17日に、幸町五ヶ町での食盛女付旅籠屋渡世(ほぼ遊女商売を公認された業態)が認められたことである。この経緯は、「三間井路堀浚一件」にまとめられているため、報告でもこの一件の概略を紹介した。

 幸町五ヶ町は天保13年11月に町奉行所に、三間井路の再整備を出願している。その内容は、当時1間半ほどに狭まっていた三間井路を幅3間に掘り浚え、あわせて井路の末端を延伸し、井路を木津川と接続させ、通船路として再整備したい、というものであった。この願書のなかで幸町五ヶ町は、三間井路の再整備を希望する理由を、「幸町五ヶ町に食盛女付旅籠屋が許可され、旅籠屋たちが移り住んできたため」としている。これまでの研究で、堀江地域の遊所では、茶屋(≒黙認遊女屋)が小船で木津川に停泊する廻船に赴き、水主などを客として勧誘したことが確認できている。おそらく幸町五ヶ町も、こうした遊所の業態を念頭におき、幸町裏の井路を、道頓堀川~木津川を結ぶ通船路として整備することを企図したのであろう。

 また別の史料では、三間井路再整備は「地域の繁栄のため」とも述べている。つまり幸町五ヶ町は、地域に食盛女付旅籠屋街(≒遊所)が形成されることに乗じて、食盛女付旅籠屋にとって利便性があるように井路を整備し、地域一帯が遊所とその周辺域として繁栄することを目指したのである。そして、その繁栄は、三間井路再整備を願う幸町五ヶ町の町中(家持町人層=地主層)にとっては、自身の家屋敷における借屋経営の利潤増大に繋がるものなのである。

 こうした幸町五ヶ町の出願を町奉行所は認める方針を固めており、実際に三間井路の再整備は公儀普請で行われた。そうとはいえども、三間井路は難波村の用水路であることから、幸町五ヶ町の出願後、町奉行所は難波村に支障が無いか尋ねている。難波村も村役人一同で相談の上で、「再整備されれば取水量が増え、また通船は百姓稼ぎにも便利であるという理由で、幸町五ヶ町の出願に同意する方針を決定した。

 こうして天保13年12月23日に普請が開始され、翌年7月に三間井路の再整備が完了した。この間、三間井路再整備に伴って必要となった付随施設(樋や堤など)の具体相が決定するが、その過程では幸町五ヶ町・難波村双方が希望を示し、町奉行所主導の下で調整がなされた。こうした普請の経緯の整理についてはこれからの課題であり、引き続き「三間井路堀浚一件」を丁寧に分析した上で、研究科叢書の論稿をまとめる予定である。

 

討論要旨 

島崎報告の質疑応答

・規定連印帳に署名している8名はどういう人物かという質問があり、願成の集落内の人々であるが、集落内のリーダー層というわけではなく、この史料が伝来した佐五平家の親類も一部しか含まれておらず、不明な点が多いと答えた。

・規定の中に出てくる「宝暦年中御條目」について、全国に出された幕令かもしれないとの意見が出たが、池田下村と同じく一橋家の領地だった今在家村には、宝暦期に一橋家が出した条目が残されているので、それが宝暦の条目かもしれないという意見も出た。

・規定の中で「村法」と呼ばれるものが出てくるので、基本となるような村法が別に存在するようだが、それは確認できるのかとの質問があり、今のところ村法にあたりそうなものは見つかっていないと答えた。これについては、近隣村の事例からの推測であるが、村の処罰規定や取り決めなどを記した村法のようなものはおそらく存在していて、この規定はその具体的箇条を想定しながら書いているのだろうとの意見も出た。また、村法が別にあるとしても、この規定は基本法の派生というより、これ自体がこの時代のために包括的に作られたものなのではないかとの意見も出た。

・村掟は、領主の承認なしで出せるものなのかとの質問があり、たとえば倹約令を作れというような、領主の意向を受けて作成される場合には、文言を作成して領主に提出する場合もあるが、村内での決まりごとなら村独自で作成している場合もあると答えた。

・規定違反者に対する村としての制裁が書かれているが、領主の側では制裁を執行するつもりはなく、村に任せているということなのかとの質問には、領主の権限は前提として存在する中で、村が制裁をコントロールしようとしている、ととらえるべきだとの意見が出た。また、領主の廻村を機会として違反者を自己申告→村預けを命じられる→赦免を嘆願→認められる、というパターン化した流れができており、村が領主の力を利用することでうまく収めようとしているところが興味深いとの指摘も出た。

・最後に報告者から、この規定が持つ意味は、近世社会のありようと関わる広い視点で位置づける必要があると考えており、今回の議論はそのための参考になったこと、そして今後はもう少し関連史料の検討も進めたいとの発言があった。

 

 

吉元報告の質疑応答

・三間井路の底地が幸町の町域なのはなぜかとの質問があり、宅地として収公した後に、井路がやはり必要だということで、町域内に作られたという経緯によるものだと答えた。

・町地に収公されたことに対する、村への補てんは無いのかとの質問には、替地などは与えられなかったが、幸町が作られた際には、村の側には特に不満は出なかったこと、ただし難波新地が作られた際には村が抵抗を示しており、開発の各事例により事情は異なることを答えた。

・「村方野通ひ道」の史料解釈をめぐって議論があり、難波村側でも明治に入ると井路の南岸が宅地になっていることから、天保期の井路整備については、すでに難波村にとって単純に用水だけの問題ではなくなっているかもしれないという指摘が出た。

・幸町の開発は何の目的だったのかとの質問には、幸町が作られた17世紀段階では都市の治水工事と連動していたこと、ただし大坂の開発の性格は時期により異なっており、18世紀段階になると、町人から願い出ての開発が進むことを答えた。

・町地の開発が民間だけで完結しないのはなぜかとの質問には、幸町については、まだ治水のための護岸工事の段階なので、当然ながら公が主導していること、またそれ以後の段階でも、大坂では町奉行所の許可がなければ、開発はできなかったことを答えた。

・今回の報告からは、町奉行所と代官所の支配の交錯がかいま見えて興味深いとの感想が出た。また難波村についてはこれまで、道頓堀の芝居町近辺の地域は、開発や都市化の問題に関わって研究が進んでいるいっぽうで、幸町近辺の地域はほとんど注目されていなかったのだが、今回の報告で新たな視野が開かれたとの指摘が出た。

・18世紀初頭と19世紀(天保期)では、村と町の双方で水路をめぐる関係は変化しているのだが、天保改革での遊所統制をめぐる動向が、水路の問題に波及したことで、この変化が表面化したところが興味深いとの感想も出た。

・最後に報告者から、今回は1章の内容のほうに重点を置いたが、これからは2章の内容についても、史料解釈が難しい部分を読みこむなどの作業を進めていきたいとの発言があった。

                                (討論要旨の文責・渡辺祥子)