Summary of the first session in the online seminar series of the International Symposium 2021

The first session in the online seminar series of the International Symposium 2021 was held via Zoom from 3:00pm to 5:00pm on Thursday, September 9, 2021.

Speaker: Madoka Morita (Research Associate at the Research Institute for Languages and Cultures of Asia and Africa, Tokyo University of Foreign Studies). She joined our joint research project in 2018, when she was a junior exchange fellow at Yale University (January 2018 through March 2019). She received a Ph.D. for her dissertation entitled “Neighborhoods of Ottoman Istanbul: Politics of Order and Urban Collectivity, 1703–54” (University of Tokyo, 2021).

Discussant: Hiroko Saito (Associate Professor, Osaka City University)

 

“Looking into Neighborhoods of Early Modern Istanbul through the Lens of Sharia Court Registers”

Dr. Morita’s talk centered on sharia court registers as among the most important sources through which to approach early modern Istanbul, the capital city of the Ottoman Empire, and particularly its neighborhoods (mahalle)—religiously organized communities that served as the smallest units of urban administration. Istanbul constituted a judicial and administrative district to which a qadi (judge) was assigned in charge of judicial affairs as well as fiscal and administrative matters. Various documents the qadi issued and received were copied into court registers. After a brief account of the characteristics of the court registers of Istanbul, she moved on to introduce one specific document from these registers that epitomizes the Ottoman authorities’ considerable reliance on neighborhoods in the maintenance of order in the imperial capital, even at times of political crisis and urban insecurity.

Professor Saito, who specializes in Japanese history, provided some observations on early modern Istanbul from a comparative perspective by elaborating on the block association (chō 町)—a status group composed exclusively of house-owning townspeople—in early modern Osaka, with a particular focus on the role played by the chō in controlling real estate in the city. In compliance with orders issued by the town governor (machi bugyō 町奉行), the block association assumed collective responsibility for notarizing every transaction and inheritance concerning the houses, or residential lots (ieyashiki 家屋敷) in their area, which led to incredibly meticulous practices of record-keeping at the level of the chō and exceptionally voluminous quantities of archives that survive to this day. Significantly, the fullness of this historical record is in stark contrast to that for Ottoman Istanbul, and more generally Ottoman cities, which suffer a scarcity of archives produced and preserved at the level of the neighborhood.

Further discussions revolved around the possibility of conducting broader comparative analyses from the perspective of law and society that might encompass the following: the membership of the mahalle and chō, and their relations with the physical urban space; the management of newcomers (often tenants) deemed as a threat to public order; and the functions of the qadi of Istanbul and the town governor of Osaka, and the place they occupied within their respective societies, as well as their interactions with the local communities (mahalle and chō, respectively). It was considered that these points of comparison would ultimately contribute to a deeper understanding of the way in which the inner workings of local communities and their relations with government impacted the production and preservation of the archives in these respective societies over the centuries.


大阪市立大学国際学術シンポジウム2021 オンラインセミナー(第1回)の記録

報告:守田まどか氏(東京外国語大学 AA 研)
「近世イスタンブルの街区と史料―18世紀のシャリーア法廷台帳を中心に―」

コメント 齊藤紘子氏(大阪市立大学文学研究科)
日時:2021年9月9日(木)15:00~17:00  Zoom方式利用

 

近世イスタンブルの街区と史料 ―18世紀のシャリーア法廷台帳を中心に―

守田 まどか

1453年の征服後、オスマン帝国の首都として新たに建設されたイスタンブルは、宗教的・民族的・社会的に多様な住民が比較的平和裏に共存した社会として知られる。帝都イスタンブルにおける多様な住民の共存のあり方や、オスマン帝国の多元的な統合のしくみを理解するための鍵となるのが、都市の重要な構成要素であった街区(トルコ語で「マハッレ」)である。

 オスマン帝国期のイスタンブルにおいて街区は、宗教・宗派別に形成された住民共同体であり、都市行政の末端組織として機能したと理解されている。従来の研究では、史料的な困難に加えて、街区の果たした社会的役割や行政的機能を歴史的に考察するという視点の欠如から、時代による変化を視野に入れた詳細な検討が行われてこなかった。しかし、帝国統治が社会集団の媒介を前提としていた前近代において、街区は統治基盤を支える重要な要素であり、街区のあり方を歴史的に考察することは、オスマン帝国の統治構造や国家・社会関係についての理解の深化につながる。

イスタンブル旧市街路地の坂道

 今回の第 1 回セミナーにおける筆者の報告では、まず、オスマン帝国下の都市社会史研究にとって重要な史料であるシャリーア法廷台帳の概要を示した後、博士論文 “Neighborhoods of Ottoman Istanbul: Politics of Order and Urban Collectivity, 1703–54” (東京大学,2021年)で扱った史料群から一点の文書を取り上げ、その作成の経緯や政治的状況を踏まえながら紹介することで、近世イスタンブルの街区研究におけるシャリーア法廷台帳の有用性を論じた。

 周知のようにシャリーア法廷台帳は、オスマン帝国の司法や民政を担ったカーディーが作成または受領した文書の控えを収録した帳簿である。証書や上申書、都市民の生活にかかわる勅令や大宰相令の写しなど、種類・内容ともに多様な文書が含まれる。本セミナーで取り上げた史料は、1740年に帝都で生じた反乱の鎮圧後、秩序維持に対する警戒の高まりのなかで作成され、大宰相府に提出された上申書の控えである。この上申書には、地方からの流入者の取り締まりに関して発布された勅令の遵守を誓った、258人の街区イマーム(モスクの導師であり、街区の代表を兼ねた)の名簿が添付されている。この史料は、18世紀イスタンブルの街区構成を知ることのできる、現時点では唯一の文書史料であるという点で貴重である。さらに注目に値するのは、帝都の秩序危機に際してオスマン政府が利用しようとした人々の結合関係が、職業や宗教的な帰属を超えた地縁的なつながりであり、そのつながりがイマームに代表されたことを、この史料は示唆している点である。

 

町における土地と人の把握 ―守田報告を聞いて―

齊藤紘子

守田まどか氏は、シャリーア法廷台帳に写し留められた史料から、オスマン帝国都市の重要な構成要素である街区(マハッレ)の歴史的展開について研究されてきたが、本セミナーでは法廷台帳の史料的性格や、18世紀半ばにおけるシャリーア法廷と都市街区の関係について紹介された。イスタンブルの街区とは、居住地区における宗教・宗派別の共同体である。これまで地縁的共同体としての連続性のみが注目されてきたのに対して、守田氏は歴史的段階性や非ムスリムの動向などをも視野に置いた実証研究の重要性を提起されている。

都市支配(行政・司法)の担い手であるカーディーが作成・受領した文書を写し留めたシャリーア法廷台帳には、狭義の法廷(裁判)に関する内容のみならず、カーディーの職務に即して、勅令・大宰相令の写し、都市調査、証書類(特に、カーディー法廷が公証人役場機能を持っていた点が注目される)などが収録され、そこには非ムスリムに関するものも含まれるという。日本近世の幕府直轄都市でこうした「法廷台帳」にあたる史料は町奉行所の文書だが、日本の近世都市の場合、上記の諸機能は街区である「町」の側にも分有されている。この点を踏まえて、都市行政と街区、街区内の社会関係について、質問とコメントをさせていただいた。

守田氏が注目されたのは、転換期としての18世紀前半の都市社会である。当該期は、度重なる反乱によって君主の威信が低下し、帝国統治の正当性が揺らいだ時代であり、イスタンブルに流入する移住者の把握や、女性に対する管理強化といった統治秩序の再構築が図られた。守田氏は、この時期の「法廷台帳」の諸史料において街区の存在・機能が「可視化」する点に注目し、都市民の地縁的結合関係が帝国の統治機構の末端として集約されていく動向を指摘された。その際、重要な役割を期待されたのが各街区の代表者たるイマームであった。これらは、18世紀前半のイスタンブルの街区が都市支配に「動員」される政治的な様相だが、その前提・基盤には18世紀前半までに形成されてきた各街区の共同性・結合関係の実態があったと思われる。

その点について、守田氏は別稿(「1745年イスタンブル街区における移住者の排除と包摂」都市・周縁〈史料と社会〉科研ニューズレター第7号〈シリーズ史料を読む⑤〉、2020年12月)で同時期の移住者に関する調査報告書を分析している。そこでは、移住した当人の身元が保証され、街区へ包摂される前提として、街区における地縁・血縁・同郷の繋がりが存在したことに注目されている。また博士論文では、オスマン社会にみられる「追放刑」の慣習が街区住民の集団訴訟によって発動されるものであり、18世紀初頭以降イスタンブル主法廷が管掌し、裁定を大宰相府に上申するようになったことにも着目されている(事前に送っていただいた博士論文の概要による)。こうした街区における共同性の実態や展開を基礎に、18世紀前半(とりわけ報告で扱われた1740年代に)それらが政治的に掌握・再編されるようになったと理解することができる。

以上を踏まえて、18世紀前半における街区のあり方について、どのような構成・構造をもつ空間だったのか、街区代表者のイマームと街区住民との関係について質問した。前者については、比較対象である近世日本の都市の場合、通りの両側に並ぶ家屋敷(土地)の所持者が「町」共同体の正規構成員であるため、街区の正規構成員・運営主体は街区に居住している者のなかのごく一部である。町における様々な行事・治安対策・救貧の仕組みなども、そのような関係性を前提に展開していた。オスマン帝国社会における街区の特質やその変容を考える上で、街区の構成員のあり方や、治安・救貧などでの街区の社会的役割、移住者の居住と身元保証の仕組み(居住することと、街区という集団に包摂されることとの関係など)、宗教的混住と街区の関係などはとても重要であるように思われる。また後者については、オスマン社会における街区がモスクを中心とした空間であり、中心となるイマームもモスクの礼拝の導師であるという点を踏まえると、街区とイマームの関係として、日常的にモスクを支えている「会衆」のメンバーや運営機構のあり方、街区でのイマームの社会的・経済的基盤なども気になった。またその点と関わって、カーディーへ報告・上申した書類などが、街区のモスクやイマームの居所などに控えとして保存されることはなかったのだろうか。

これらの論点の比較対象として近世大坂における都市行政と街区の関係を取り上げ、①公証のありかた(町人の身分に関わる家屋敷の売買)、②移住者の把握(借家人;史料では「借屋(かしや)」と記される)に関する具体例にふれた。①公証の問題では、町人の身分と繋がっている家屋敷の所持権について、近世大坂の司法・行政(奉行所)と街区(町)の関係をみるため、近世初期の家屋敷売買に関する研究を紹介した。1640年、町奉行は町中にむけた町触で「家屋敷売買は、その町の年寄・五人組に届け出たうえで売買し、たとえ売券(売買契約証文)があったとしても、町中へ無断で売買した場合は裁許しない」と発令している。この触を検討された八木滋氏は、それ以前の大坂では領主・町奉行が家屋敷売買に伴って「帳切銀」を徴収し、その受け取りをもって売買を公認する仕組みがあったが、1634年の将軍徳川家光上坂の恩典として帳切銀の納入先が町に変更され、公証の方法が曖昧となっていた背景を指摘されている(八木「慶安触以降の家屋敷売買の手続きについて」塚田孝編『近世大坂の法と社会』清文堂出版、2007年)。この内容は1648年の法令整備にあたって出された町触でも「家屋敷売買はその町の年寄・五人組に相談のうえ行うこと。たとえ売券があったとしても年寄・五人組の加判がない場合は証文たりえない」と再確認される。実際には、町の承認をえて売券を作成したあとに、家屋敷所持者の切り替えが町と町奉行所の「水帳」に登記された(水帳は17世紀末以降、大坂三郷の惣会所でも保管されていく(前掲八木論文))。

近世大坂の各町で保管される文書について1761年の尼崎町二丁目の町内規定をみると、「水帳幷絵図」と「家売買幷家質証文割印押切帳」があり、これらは「手廻りの箱にいれ、普段は町会所に保管し、年寄と町代が管理する」と記されている(大阪市史史料第32輯『大坂の町式目』大阪市史編纂所、1991年)。家屋敷売買に関する公証は、町での売券への加判とその控(割印)の保管、奉行所・町の水帳への登記により機能していたことがうかがえる。

写真:京橋三丁目の町中申定作法帳、借屋人に関する箇条(寛政10年) 出典:大阪市立大学学術情報総合センター所蔵「日本経済史史料」、https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/detail

②の移住者の移動については借家人の問題にふれた。近世日本の場合、とくに借屋人として来住する者(宿貸し)は隠れキリシタンや盗賊などの温床としても警戒され、治安対策として近世初期から把握の徹底が命じられた。町レベルでも厳密な規定が作成され、1798年の京橋三丁目の町内規定(大阪市立大学学術情報総合センター所蔵「日本経済史史料」)には、借屋を貸すときは借り主がそれまで「何屋誰借屋」「何町何屋方に同居」「何町に家屋敷を所持していたが居宅を売り払い引っ越し」などの情報と、「どのような理由で変宅したのか」を確認し、所属の宗旨を聞いて旦那寺の請状(キリシタンではない旨の証明)をとり貸し付けることとし、貸し手の家主が居住を認めたとしても、町が了承しなければ立ち退かせるという箇条がみられる。また、以前に国際シンポの準備セミナーで報告した事例だが、和泉国の農村で都市化が進む陣屋元村の村方騒動の争点にも、移住者(出稼ぎ)に関する問題が含まれていた。近世後期の庄屋家文書では、領主に提出する宗旨人別帳の記載戸数と、村入用帳の家別割負担者数にズレがあり、村レベルでは出稼ぎ者を人別帳に 登録しないまま低額の村入用を賦課して居住させていた形跡がうかがえる。来住にあたり作成された史料では、出身村からは正式な手続きとして人別送り(送籍)の一札が出されて、請人(保証人)のもとなどに同居や同家として居住しているのだが、領主に提出する人別帳には載せない場合もあったようだ(陣屋があり、領主の監視が行き届くような村だが…)。こうした措置は幕末の村方騒動の際、庄屋を糾弾する訴状のなかで、移住者増加による村内秩序の攪乱と、村方への移住を積極的に世話してきた庄屋への反発・不満として記されてもいる。街区が移住者をどのように包摂・排除するかは、街区の秩序や社会構造とも密接に関わっている。

また、報告後の討論において、イスタンブルへの移住者のうち、家族持ちの借家人となりうる層は居住地区である街区へ来住したが、街区には保証人がいなければ居住できず、街区の集団訴訟によって追放される人々には借家人が多かったこと、単身の日雇労働者は、商業地区周縁の船着き場など、街区とは切り離された場所へ流入したことなどをご教示いただいた。移住者に対する街区独自の対応や判断は、街区の社会構造と直結するだけでなく、商業地区も含めたイスタンブルの都市社会構造の変化とも密接に関連していることに気づかされ、とても興味深い指摘であった。

 

討論要旨

質疑応答では、まず齊藤氏のコメント内で出された質問に対して、報告者が以下のように回答した。

  • 救貧の面での街区の役割は、イマームが管財人となり、街区ごとにワクフ(宗教寄進)基金を設立していることであり、治安維持の面での街区の役割は、街区から経費を出して夜警を雇って不審者を捕まえることである。
  • イマームの元に残った史料はほとんど現存しないが、例外的に残っているものとして、古本屋で見つかった19世紀後半の三冊の帳面がある。それには街区住民の婚姻、寄進、不動産に関することなどが書かれてある。
  • 街区構成員がどのような人々なのかは、詳細は不明であるが、街区での集団訴訟の記録で、原告として名を連ねた人々の称号が一つの手がかりになる。称号から、このメンバーは男性で経済的に豊かで、官職を持つ人であるとみられ、こういった人が街区内で発言権を持つようである。
  • 移住者の居所については、街区に住むのは原則として家族世帯であり、身元保証人が必要であるため、地方から移住して間もない単身労働者などは、商業地区にある宿や店舗、船着場などを含む職場に滞在していたと考えられる。

次に、全体の質疑応答が行われた。主な内容は以下のとおりである。

  • 「1741年の街区イマームの名簿」について、イマームの名前の配列にルールはあるのかとの質問には、現在、地図上に示す作業を進めているが、今のところ地理的規則性は見いだせず、署名に来た人から順番に書いただけの可能性もあると答えた。またこの史料については、全てのイマームが召集されていることが、行政のあり方を考える上で重要なのではないかとの指摘も出た。
  • 街区の人々は、居住地に近いモスクに所属しているのかとの質問が出た。これに対し、イスラームの一般的な理解では、モスクと信徒との関係は固定化されていないが、オスマン帝国下では、街区のモスクに通うことが命じられている例があるので、上からの意図としては地域的まとまりを重視しようとする動きはあること、ただしイスタンブルの非ムスリムについては、人口に比して教会やシナゴーグの数が少なく、地理的にまとまるのは難しいことを答えた。
  • 街区に境界線はあるのかとの質問には、境界線が明確に線引きされるのは20世紀初頭のトルコ共和国樹立後のことであると答えた。そして、モスクに集う人的集団がしだいに領域的なまとまりになっていく現象が18世紀頃に見られることを付け加えた。
  • 訳語の問題として、カーディーを「裁判官」と訳すことや、「法廷台帳」という訳語を用いることは適切か、という質問があり、慣例的に使われている訳語を採用したが、適切かどうかは要検討であると答えた。この点に関わって、法廷台帳の冊子そのものがどういう性格のものなのかを把握する必要があるのではないかとの指摘も出た。これに対しては、法廷台帳にも勅令だけを集めたものや、同職組合関係のことだけを記したものなど、特殊なものがあるので、今後はもっと台帳自体の性格にも注目していきたいと答えた。
  • 比較史的な視点からは、イスタンブルとオスマン帝国内部の他都市とを比較することはできるかとの質問が出た。これに対し、イスタンブル以外の都市でも街区はあるが、小規模であり、非ムスリムの比率など諸点で性格が違っており、都市として一般化して比べることはできないと考えていること、また先行研究で比較の試みもされているが、港市としての性格からの比較に限定されたものであることを答えた。
  • 日本の都市との比較という点からは、カーディーと、日本の町奉行および与力などとの、仕事の担い方の違いが、両都市での史料の作成のされ方や残り方の違いとも関連する重要な点なのではないかとの指摘が出た。また、イスタンブルの街区のあり方が属人的なまとまりから領域的なまとまりへと変化していくことは、日本の町が初めから領域的なまとまりであったのとはかなり違っている点に注目すべきであるとの指摘も出た。

(討論要旨の文責・渡辺祥子)