平成16年度卒業論文

新聞記事における新世界について

文学部 人間行動学科 地理学コース
さ と う  あ き ら

佐 藤  聡


目 次 

T はじめに・・・・・1

U 新聞記事の検索・内容の分類・・・・・4

V 記事の内容分析・・・・・8

W さいごに・・・・・23

脚注・・・・・25

参考文献・・・・・27

図表 

 

キーワード

新世界・通天閣  新聞記事  内容分析  月別掲載回数  年次別掲載回数

 

T はじめに

 

 本稿では、大阪市浪速区に位置する「新世界」と呼ばれるエリアに注目した。新世界とは、大阪市浪速区の恵美須東1丁目から3丁目までのエリアを指す総称で、実際に町丁名として存在するわけではないが、大阪で新世界といえば大衆の盛り場としてほとんどの人がこのエリアのことであると認識しているだろう。また、その中心部には大阪のシンボルである通天閣が建っておりこの街のランドマークとして人々に親しまれている。その一方で、新世界といえばどうしても「ガラが悪い」や「こわい」といったイメージがまだまだある。これはおそらく、すぐ近くにある日雇い労働者の街・釜ヶ崎の人たちが新世界の居酒屋などで飲んでいるためにイメージ付けされているのであろう。しかし、実際にはそんなことはなく、むしろ最近では、世の中ではレトロな雰囲気が流行ってきているらしく、新世界を訪れる人が増えてきているという。特に、若年層の増加が目立つということであるらしい。

 新世界は浪速区の中でも南東部に位置しており、通天閣北側の商店街を抜け地下鉄の恵美須町駅を過ぎると、そこには多くの電気量販店の建ち並ぶ日本橋の電気屋街がある。さらに行くと、千日前から難波周辺のいわゆる「ミナミ」と呼ばれる若者の街へ、さらには心斎橋方面へと続く。新世界の東側に目を向けると、そこには天王寺公園や動物園また市立美術館などがあり、土・日には親子連れをはじめ多くの人たちが訪れる。南側には日本最大の花街である飛田新地が存在する。また南西部に目を向けると、日雇い労働者の街、釜ヶ崎がある。このように、新世界の周辺には、それぞれ全く違った要素を持つ街が存在している。この中での、また大阪全体における新世界の存在というものは一体どういったものなのか。また、新世界というエリアはこれまでマスメディアによってどのように表現されわれわれ視聴者に伝えられてきたのか、また現在伝えられているのか。さらに、その伝えられ方には、それぞれの時代の流れや、そのときの経済状況などによって何らかの変化を見ることができるのか。

 本稿では、数多くあるマスメディアの中で特に新聞記事(以下、記事)に注目し、記事上において新世界が、社会全体の中でどのように捉えられ、われわれ読者に伝えられているのか。掲載される記事の内容には、時代によって、特に大阪の社会情勢や経済状況などが反映されているのか、また一年の中でも一定の掲載リズムがあるのかといったことについて調査・分析することにより、新世界というエリアの持つ場所性について言及していくことを目的としている。

 まずはじめに、新世界についての調査・分析を進めていくにあたり、新世界というエリアのなりたちについてごくごく簡単にではあるが記述しておこうと思う。

 

 現在の新世界が誕生したのは、1903年(明治36年)に現在の新世界から天王寺公園あたり一帯で開催された、第五回内国勧業博覧会1)の跡地再開発としてである。勧業博覧会とは、産業の振興を目的として主催されたイベントで、博覧会というよりも、物産展や見本市に近い(橋爪:1996)というものだった。そして、もともと大阪市の市有地であった約10万坪の広大な跡地は、当初、全て公園として転用するものと誰もが思っていたそうだが、結局、跡地のうち約4万5千坪を市有地に残して公園の設置を具体化、残りの5万1千坪ほどを民間の手に売り渡し、民間の活力を導入して新しいタイプの「大衆娯楽」のメッカを建設しようという大阪市の思惑がそこにはあったようである。その後、紆余曲折を経て1911年(明治44年)に創立された、大阪土地建物株式会社2)によって、初代通天閣と遊園地「ルナパーク」を目玉とした「新世界」3)が誕生した。

 当時、新世界を創りあげる工程は、第一期と第二期に分けられていた。第一期事業は、通天閣とルナパークを囲むように建つ映画館や劇場、そして大通りに面した商店・飲食店群であった。この頃はまだ「新世界」という名ではなく、エッフェル塔に似た塔が建設されているということから「新巴里」や、当時大阪一の盛り場であった千日前と比較し「第二千日前」とも呼ばれていた。結局、「新世界」と名付けられたのは、第一期事業が終了し、新世界が開業する1912年(明治45年)のことであった。その後、1913年(大正2年)に第二期事業が完成、北側、北東側の整備が中心、また南側の噴水浴場も竣工した。しかし、その後の新世界の経営はなかなか厳しいものであったようで、ルナパークの閉園に続き、1938年(昭和13年)に通天閣は大阪土地建物株式会社の手を離れ、吉本興業に買い取られた。さらにその後、太平洋戦争によって新世界一帯は焼け野原となり、通天閣も火災と戦争による金属回収により失われたのだった。

 終戦後しばらくは、通天閣のないまま新世界も復興作業を進めていくが、やはり通天閣がないのは淋しいという地元住民により通天閣観光株式会社4)を創立、1956年(昭和31年)に二代目通天閣が開業し、現在に至っている。

 

 この後、U章において、実際に新世界についての内容が記載された記事の検索方法、また分類について、V章以降においてそれら記事の内容分析、そして分析結果の考察について論述していこうと思う。

 

U 新聞記事の検索・内容の分類

 

1)記事の検索について

 今回、新世界について記述された記事の内容分析を進めていくにあたって、まずは記事の収集から始めることとし、その収集方法として、学術情報総合センターにおける朝日新聞の記事検索システム「聞蔵(きくぞう)」を利用することにした。

 はじめに、聞蔵の「パワフル検索」機能を使い検索することとし、検索ワードを「新世界または通天閣を含む」、掲載年を2004年10月以前とし、朝・夕刊の両刊を選択した。この条件で検索をかけたところ、1987年からの記事で該当するものが190件あった。この190件の記事について、それぞれの内容を確認し、明らかに新世界について書かれたものではない記事を削除していった。そして最終的に128件に絞り込むことができた。本稿ではこの128件について記事の内容分析を行っていくこととする。

 このパワフル検索で表示されるものは、掲載年月日、朝・夕刊、掲載面、記事の文字数、タイトル、そして記事の本文である。しかし一部の記事で掲載面の表示されていないものもあったが、この点に関しては特に気にしないことにした。これら、検索で表示されるものをもとにして実際に内容分析にとりかかった。しかし、ここで言っておかなければならないのは、本稿での内容分析については、あくまでも朝日新聞社のみの記事についてであるので、この後の記事の分析結果・傾向の全てが必ずしも他社の記事についてもあてはまるとは言えない可能性があるということである。

 

2)記事内容の分類

 まず、検索により入手した128件の記事について、掲載年月日順に並べ、表にしていき、それぞれの記事についてタイトルを加えていった。その後、それぞれの記事の内容を簡潔にまとめて表に書き加えた。さらに、今後の記事の内容分析をスムーズに行えるよう、128件の記事をいくつかの分類に分けるという作業を行い、それぞれ分類1〜3の項目を加えた。こうして作成したものが、表1である。この表では、掲載年月日と記事のタイトルは検索により得たものであるが、「内容」と「分類1〜3」の項目は筆者によるものであり、各分類項目の説明をしておくことにする。

 分類1は、記事の内容をもとに、分類項目を大きなまとまりにするということを考えず、できるだけ細かく分けていったもので、22という比較的多い項目数となったが、それぞれの項目が記事の内容に最も近い分類である。

 分類2は、分類1の各項目と記事の内容により、分類1よりも各分類項目を大きなまとまりとしたものである。これにより、分類1では22あった項目数を8項目にまでまとめることができた。

 分類3は、分類1・2と記事内容をもとに、分類項目を「経済」「場所」「人」「もの」という、分類1・2よりも抽象的な4項目にあらかじめ絞って分類をしたものである。それぞれ分類1〜3の項目名と各該当数を表2・3・4にまとめておく。本稿においてこれから進めていく分析の中で、いくつか出てくる表やグラフといったものは、全てこの表1をもとに作成しているものであるので、本稿における表1の重要度はかなり高いものと言える。もちろん、表2・3・4も表1より作成したものである。また、次節において、各分類間の関係について述べていくこととしているが、分類1から2への、また分類2から3への変換過程において、筆者自身は記事を熟読し、できるだけ客観的に分類の変換をしたつもりではあるが、もしかしたら変換過程において筆者の個人的な主義思想のようなものが介入してしまっている可能性があるが、その点についてはお許しいただきたい。

 

3)分類間の関係

 ここで、分類1〜3間における関係として、分類1から2への、また分類1から3、分類2から3への変換プロセスについて述べていきたいと思う。この際、表5・6・7を参考にしてもらいたい。表5は、分類1と2との記事数の関係をまとめたもので、分類1のどの項目から分類2のどの項目へどれだけ分類されたかを見ることができるようにした。同様に、表6は分類1から3へ、表7は分類2から3への分類の関係をまとめたものである。

 表5〜7の項目の中で、特に分類1の各項目に関しては、記事の内容を最も強く反映しているものである。そのため、項目名の中で普段聞きなれない言葉があるのではないかと思う。その中で、いくつか簡単に説明を加えておくと、「叶麗子」5)は、通天閣の地下にある『通天閣歌謡劇場』で活躍する歌手で、絶大なる人気を誇る人物である。彼女個人を書いた記事が思いのほか多かったため、分類1ではあえて「新世界の人」とは別項目とした。もう一項目説明をしておくと、「ビリケン」6)これは、通天閣の展望台に祀られている幸福の神のことで、この神様の足の裏をなでると願い事がかなうといわれており、通天閣に登ったことのある人なら一度は見たことがあるだろう。

 分類1から2への変換としては、前節で述べたとおり、分類1と記事の内容から分類1よりも大きなまとまりとしているが、両分類共通の項目である「ビリケン」が7件から9件に増加しているのは、分類1の「映画」の記事内容が、通天閣のビリケンを主人公にしたその名も『ビリケン』という映画についてであったため、分類2では同じ項目にまとめたのである。

 また、分類2において、「季節行事」と「その他行事」という項目がある。このふたつに関してだが、表5によると「季節行事」を構成しているのは「えと引き継ぎ」「王将祭」「福豆まき」7)の3項目、「その他行事」を構成しているのは「イベント」の1項目となっていることがわかる。一見すると、両項目とも新世界で行われた催し物の記事ということで、ひとつの項目にまとめることができそうに思う。しかし、これは後述することだが、記事の掲載月ごとの集計をしたときに、このふたつの『行事』を分けていた方がわかりやすいだろうと考え、分類2では別項目にすることにした。さらに、ふたつの『行事』の大きな違いとして、分類3への変換を見てみる。表7を見ると、「その他行事」は「人」「もの」の2項目へ大きな差なく変換されている。これは、実際にイベントを行った人やイベントで使ったものが記事内容の中心であったためである。一方、「季節行事」は、「経済」「人」「もの」の3項目に変換されてはいるものの、その内訳は、そのほとんどが「経済」に集中していることがわかる。表6を見てみると、「季節行事」の中の「えと引き継ぎ」と「福豆まき」は全て「経済」に変換されている。実はこのふたつの行事、その年の経済状況が大いに反映されている行事でもあるのだ。というのも、前者については、その年と翌年の干支となる動物の引き継ぎの際に、それぞれがその年の反省と翌年の抱負を、そのときの経済状況などに対して風刺のきいた口上で交換するということで、記事内容も、その口上の内容がメインになっている。後者も同様に、そのときの経済状況によって旬の人を福男・福女に選び、景気回復を願って豆まきをするということで、『景気回復』が記事のメインになっている。以上のことから、この2行事に関しては「経済」へ変換をしたのである。

 分類1と2で同じ項目名のものとしてもうひとつ、「通天閣の工事」がある。分類2のそれを構成しているのは、分類1の「通天閣の工事」と「通天閣の衣替え」の2項目である。このふたつの記事内容の違いとしては、前者は主に大規模な改修工事等について、後者は主に写真1のように外見に少し変化を与えるようなものであったが、通天閣に変化を与えるという点で共通する部分があると考え、分類2ではひとつの項目にまとめることとした。

 このようにして分類を行った記事・資料をもとにして、これよりV章にて実際に分析を進めていく。

 

V 記事の内容分析

 

1)掲載月における傾向

 実際に内容分析に入るにあたり、まず注目したのは、それぞれの記事の掲載されている月である。今回検索して得られた記事数はこれまでも述べてきたように1987年から2004年10月までの128件。これを年間月数の12で割ると、一月あたりの掲載回数は約10,7となる。つまり単純に考えれば、今回の検索期間においては、一月あたり10件前後の記事が掲載されているという計算になる。しかし、実際には各月によっていくらかのばらつきが生じてくるだろうと考えた。そして、そのばらつきが生じるとすれば、そのばらつきには何らかの法則のようなものがあるのだろうか。これらの点に注目して、表1よりまとめて作成したのが表8である。さらにこの表8をグラフに変換したものが図1である。

 先に述べたように、一月あたりの平均掲載回数は10,7である。そこで図1を見てみると、やはり各月によっていくらかのばらつきを見ることが出来る。そして図1により各月の回数を見てみると、平均より多いのが2・7・9・12の各月で、回数がそれぞれ、12・14・16・18回となっていることがわかる。ここで注目しなければならないのは回数よりもむしろ、平均を上回っている月である。実は平均を上回っている各月の中で、9月を除いた2・7・12月に共通することがあることに気付いた。それは、2月は「福豆まき」、7月は「王将祭」、そして12月には「えと引き継ぎ」という、分類2によるところの「季節行事」が行われている月であるということだ。そこで、2・7・12月の中での、この3項目の該当数を見てみると、2月では、全12件中8件、つまり3分の2が「福豆まき」、7月では、全14件中5件が「王将祭」つまり約3分の1が該当、さらに12月では、全18件中6件、これも3分の1が「えと引き継ぎ」ということになっている。これらに対して、9月を見てみると、全回数は16ということで、最多回数の12月18件に次ぐ多さとなってはいるものの、「年中行事」といったような『定例』となっている項目はない。9月の中で最も多く該当する項目は「新世界・通天閣のできごと」の4件で、9月全体の4分の1を占めているのだが、この項目の中身はというと、「年中行事」のように同一内容の記事で構成されているわけではないため、「年中行事」の3項目がそれぞれの月の大部分を占めているということとは若干意味合いが違うのではないかと思う。つまり、『定例』行事である3項目を含む月の掲載回数が多くなることはある程度の必然性が存在しており、9月に関してはいくつかの出来事がたまたま重なったということではないだろうか。偶発的なものであったのではないかと筆者は考える。だが実際には、そこには何らかの必然性があり、ただ単に筆者の分析不足であるという可能性も否めないとは感じているところである。

 しかし、記事上において、年間を通じて新世界が一定のリズムを持って描かれているということは、図1と前述したことからも確実に言えることであると考える。つまり、我々読者は、何か特別なイベントや事件、出来事が全く起こらなかったとしても、年間のうち何度かは新世界についての記事を目にする可能性が高いということになる。違う言い方をすれば、特別何も起こっていなくても、年に何度かは記事にする確率が高いということから、新世界というエリアの存在が、大阪全体の中である程度の大きさを占めているとも言えるのではないだろうかと考える。

 この節では、記事の月別掲載回数のデータにより論述をしてきたところであるが、次節では、掲載年次別のデータに注目して新世界というエリアを見ていきたいと思う。

 

2)掲載年次における傾向

 前節では、記事が掲載月によって、その掲載回数にばらつきがあり、また一年の中で一定のリズムを持って掲載されているということについて言及していったが、続いてこの節では、掲載年次別のデータではどうかということで、さらに分析を行っていくこととする。

 ここで、記事の掲載年次別の分析を行うにあたり、まずはそれぞれの年次における記事の掲載回数をまとめる必要があるだろう。そこで作成したのが、表9及び図2である。図2は表9をグラフ化したものであり、表9は表1をもとに年次別に集計をし、まとめたものである。まずはこの表9と図2を使って分析を進めていきたい。

 まずは前節の掲載月別と同様に、1987年から2004年までの平均を出すことから始めることとした。この際、2004年についてだが、はじめの記事の検索を行った段階で、検索期間として2004年10月以前として入力をしたことはU章1節ですでに述べているところであり、2004年に関しては、11月と12月の記事数を反映していないことになる。しかしながら、残りの11・12月のみでの急激な記事の増加というものはあまり考えにくい。仮に増えたとして、年末の「えと引き継ぎ」を含めてもせいぜい1・2件と予想した。よって、全体の平均にはあまり影響はないものと考え、2004年も丸一年分のデータとして平均を求めることにした。そこで、全体の128件を1987年から2004年までの18年間で割ることとし、その結果出てきた平均値は表9のとおり7,1となった。

 次に、図2を見ていくことにする。月別掲載回数と同様、いくらかのばらつきは出てくるものだろうと予想はしていたのだが、明らかに突出している年次があり、少々驚いた。図2によると、平均の7,1を上回っている年次が、1992・94・96・97・99・2002・03という7年次になっていることがわかる。その中でも、掲載回数が10件以上となっている、1996・1999年そして2003年に注目していきたい。

 この節で分析していく、記事の年次別掲載回数というものは、前節の月別掲載回数の分析とは大きく違うものであると筆者は考える。表9と図2を見ていると、月別のデータである、表8と図1に、見た目は同じような図表であるので、データそのものの性質などについても同様に、一定のリズムを持っているのではないかと単純に考えてしまうかもしれない。確かに、これからの分析の進め方としては、月別のときのように、平均値よりも掲載回数の多いデータに注目し、その中身について分析を行っていくという方法が、まずしなければならない作業ではあるだろう。実際、本稿でもその手法により年次別の分析へとアプローチをし、これから言及していくつもりである。しかし、各年次における記事該当数と、前節の月別データの各月における記事該当数とでは、その構成内容に違いがある。ではその違いは何なのかということになってくる。筆者の考える両者の違いとは、まず月別掲載回数についてだが、こちらのデータにおいて、各月を構成している記事は、そもそも全く違う年次の記事どうしで構成されており、前節で述べた「季節行事」のように、違う年次でありながらほぼ同じ内容の、つまり同じ分類に属する記事で大部分を構成されている月において、掲載回数が多くなり、「季節行事」という年間の一定リズムを生み出していた。一方で、これから本格的に分析を進めていこうとしている年次別データでは、当然のことではあるが、年次ごとの記事は、全て同一年次だけで構成されている。そのため、『定例』の行事による該当数の増加というものはまずないといってもよいだろう。むしろ、各年次に該当している記事を分析することにより、その年その年でどういった出来事があったのか、また、その年の経済の、特に関西経済の状況がどのようなもので、そのときの経済状況により、新世界がどのような描かれ方をされているのかということを、年単位の期間で見ていくことができるといえるだろう。

 つまり、年次別のデータを分析することで、月別データの分析とは違い、社会全体の流れの中での新世界がどのように捉えられ、表現されているのかといったことを明らかにしていくことができるのではないかと筆者は考えた。

 では、本当に筆者が考えたように、年次別データを分析することにより社会全体における新世界の捉えられかたを明らかにすることができるのかどうか。この後、実際に分析を進めていこうと思う。

 まずは図2を見ていくことにする。先に述べたように、平均の7,1を上回り、なおかつ年次における記事の該当数が10件以上を示している、1996年、1999年、そして2003年について特に注目しながら進めていくこととし、再度図2を見てみる。すると、平均が7,1であるので、ほとんどの年次でだいたい7前後の記事数を示していることがわかる。ここで、分類2と分類3について、年次別の掲載回数をまとめたものとして、表10と、表11を見ていきながら、各年次における分類ごとの該当数から、何らかの傾向を見ることができないだろうか。この際、分類1については、分類項目数が22とかなり多いため、年次別の掲載回数をさらに分類項目に振り分けると、0件や、1件のものが非常に多くなってしまうために、分析するのには不適当な表となってしまう可能性が高くなるであろうという筆者の判断により、ここでは考えないものとした。

 表10を見てみると、各年次における記事が、分類2の項目においてはどのような振り分けになっているのかがわかるようになっている。そこで、先程から何度もいっているように、平均値を上回り、かつ10以上である3年次について、その記事の中身を見ていくと、まず1996年であるが、「季節行事」や「新世界の開発」をはじめ、分類2の全8項目中「その他行事」を除く7項目にわたって記事内容が分散されている。このことからも、この1996年には多種多様なネタが揃っていたことがうかがえるところである。さらに、その内訳に目を向けると、全20件7項目にわたって記事が分散されているにも関わらず、その3分の1以上となる、7件という数値を示している項目がある。そう、「ビリケン」である。分類2における「ビリケン」項目数は9となっている。そのうちの8割近い数である7件が、この1996年に集中しているのは、どういったことを意味しているのだろうか。実は、1996年という年は、U章3節で少し紹介したのだが、新世界を舞台にし、「ビリケン」を主人公とした、その名も『ビリケン』という映画が公開された年であったのだ。この映画の公開に伴って、映画そのものについての記事が増加したのは当然のことながら、実物の「ビリケン」そのものを紹介したものであったり、『ビリケン音頭』なる歌についてであったり、さらには、「ビリケン」をめぐる商標の問題について記述された記事も見ることが出来た。

 その他に、ほぼ1996年だけに限って取り上げられたと思われる記事を見てみると、分類2の項目「その他出来事」に記されている2件についていうと、この2件とも表1の「内容」において、「商店街のアーケードが完成」とされている記事であるのだ。これらは、通天閣から北西側に位置する地下鉄恵美須町駅に通じている道、『通天閣本通商店街』のアーケードが、この年4月に完成したために取り上げられたものと思われる。それまでのものは、1956年(昭和31年)の通天閣の再建に合わせて1958年(昭和33年)に作られたもので、かなり老朽化が進んでいたようだ。

 続いて、この年の「通天閣の工事」を見てみると、3件の記事が該当している。これらも1996年であるこの年次に大きく関係している内容であるのだ。その内容というのは、分類1でいえば「通天閣の工事」、つまり、分類2においても同一の項目名に変換されていた。その中身は、いずれも通天閣のネオンの改修工事についての記事であった。一見、ただの改修工事であり、たまたまこの年、1996年に行われたために、記事となっているかと思うかもしれない。しかし、この改修工事はこの1996年10月の通天閣再建40周年に合わせて行われたものであったのだ。つまり、決して偶然1996年に行われたものではないということである。

 そして、1996年でもうひとつ見ておきたい記事がある。分類2の「新世界の人々」という項目を見ると、3件の記事が記されている。この3件のうち1件は、最近の新世界の様子を描いた記事で、新世界を訪れる若年層の人々が少しずつ増加してきているという内容であった。では、残りの2件はというと、分類1では「叶麗子」としている。「叶麗子」という人物に関しては、注5を参照していただきたい。またこのふたつの記事は、彼女のことを二日間にわたる上・下に分割した、特集記事であったのだが、なぜこの年次に彼女の特集をしているのだろうか。実は、1996年10月から翌97年4月までNHKで放送された、朝の連続テレビ小説「ふたりっ子」が関係している。このドラマは、大阪の天下茶屋、そして新世界を舞台に、双子の姉妹が活躍するというものなのだが、その中の登場人物で『オーロラ輝子』という、通天閣歌謡劇場を中心に活躍する、頭の上の通天閣の形をした髪飾りをトレードマークにする歌手が出てくるのだが、この『オーロラ輝子』のモデルとなった人物こそ、「叶麗子」その人であったのだ。こういったことが、特集記事の背景にはあったのだろう。

 このように、1996年という年次は、映画やテレビドラマにおいて新世界にまつわるものや人が扱われることによって、その影響が、記事の掲載という面に表れたという、間接的な要素と、また、商店街のアーケードや通天閣の改修という、直接的に新世界自身が記事にされた要素が重なったことにより、年次の記事数が多くなったものと考えられる。

 次に、1999年次の記事について見ていく。この年次は、表10を見るとわかるように、該当記事数は10、1996年ほど突出した数というわけではないが、1996・2003年次に次ぐ三番目の記事数となっている。その記事の中身を見ていくと、分類2の全8項目中6項目に掲載されており、1999年同様に記事内容も広範囲に及んでいることがわかる。その中でのこの年次の特徴ともいえる記事はというと、「その他行事」に分類されているふたつの記事で、これらは、分類1ではともに「イベント」に属する記事である。では、具体的には何のイベントなのかというと、両者同一のイベントで、年末に行われたものなのだが、それは、年末のカウントダウンである。これまでの新世界とは若干違い、非常に現代的なイベントであるといえる。さらに、2000年に向けてのカウントダウンよりも、これらの記事のメインは、実はさらに翌年、つまり21世紀に向けてのカウントダウンであった。その他では、この年次にも「ビリケン」ネタがあったが、1996年の間接的内容とは違い、今回は、通天閣に祀られている「ビリケン」そのものを取り上げたものであった。

 続いて2003年次について表10により見ていく。この年次は、記事数が13ということで、1996年に次ぐ二番目に多い年次である。この年次で注目したのは、分類2の「通天閣の工事」そして「その他行事」の項目である。

 まず「通天閣の工事」について分析する。表10によると、該当記事数は2件と決して多いとはいえない。しかし、この2件の記事内容は、両者とも、通天閣がプロ野球球団の、阪神タイガースの応援用デコレーションとなったことなのだ。この年は、阪神タイガースが久々にリーグ優勝をした年で、関西地方、特に大阪ではとてつもない阪神フィーバーが発生。関西にかなりの経済効果を呼び寄せることとなった。そして、新世界もその流れに乗ろうとし、その結果として記事になったということで、新世界の、経済の流れに敏感なところ、またタイガースを応援するという地域との密着性もうかがえる記事といえるのではないかと思う。

 さらに「その他行事」の分析を行う。この項目に該当する3件の記事には、これからの新しい新世界を垣間見ることができる。では、これからの新しいとは一体どういうことかというと、新世界で、現代アートの新しい試みとして、『新世界アーツパーク事業』そして『フェスティバルゲート・市民還元事業』という、ふたつの事業を開始したのだ。前者は、意欲的で才能あふれる若いアーティストを発掘し、いまだ評価の定まらない実験的な表現活動を支援する。というもの。後者は、独自の表現手法で社会との接点を探りながら、新世界を舞台にさまざまなトライアルに挑む。というもので、いずれも大阪市と大阪都市協会が芸術NPOとタイアップして運営していく。さらに、活動拠点として新世界のフェスティバルゲートを活用しつつ、思い切って街へと飛び出していこうということである。さらに、両事業とも街に飛び出すだけではなく、新世界の街との共存を目的としているのだ。これは、これまでのレトロな新世界とは全く違う、斬新な試みであるといえる。また、この二事業が行ったイベントについての記事には、事業を新世界の雰囲気とは違うといったような批判的なコメントは一切書かれていない。新世界は、このような新しい時代の流れを何も言わずに受け入れてくれるという寛容な街であることがうかがえる。

 この2003年は、こういった新しい試みが取り上げられたために、平均より記事の掲載があったものと思われる。新世界は、経済の流れだけでなく、文化的な流行に対してもかなり敏感であるといえる。

 この節では、ここまで表10を主に使用して、特に記事数の多い年次について分析をしてきたが、これより、表11を主に使用しながら、記事の年次別分析について考察していこうと思う。

 表11は、分類3の各項目を、表10と同様に1987年から2004年の各年次別に表したものである。対象分類が分類2から3へとなり、項目数が少なくなったため分類2ほどの項目ごとにおける該当数の差は、項目ごとの平均を見てもわかるように、かなり小さくなった。それに伴って、表10に比べてこのデータの分析を行うことについても若干の難解さを求められることになったと感じる。そこで表11について、この表にさらに手を加え、データの分析を行いやすいようにすることにした。具体的には、各分類項目別に、どの年次あたりに記事の掲載が集中されているのか。またその項目ごとの記事の集中の仕方や分散の仕方と、各年次全体の集中、分散の仕方との間にどのような関係があるのかといったことを、よりわかりやすく表すことができるように、表11に対して作業を行うことにした。その結果できたものが表12である。この後、表12を使い年次別の分析として、検索期間を通じての傾向を探っていきたいと思う。その手始めとして、この表12についての若干の説明を加えておくこととする。

 表12は、つい先程説明したように、表11に対して若干手を加えたものである。よって分類3について年次別に見ている。表11と見比べてすぐわかるように、分類項目ごとについて「A」と「B」の項目を付け足している。さらに、合計についても、「%」の項目を加えている。まずは新しく加えた各項目について説明しておくことにする。

 「A」は、分類項目ごとの各年次の記事数をその分類における年平均の数値で割ったもの、特化係数Aである。なお、小数第二位以下は四捨五入している。計算例をあげると、1988年における「経済」の特化係数Aの0,6を求める計算式は、

1(1988年の「経済」)÷1,8(「経済」の平均)である。

この特化係数Aを使うことにより、各分類項目によって、検索期間内における記事の集中の仕方がどのように異なるかを見ることが出来る。

 「B」は、分類項目ごとの記事数の年次別割合を全記事の年次別の変動(項目「%」)で割ったもの、特化係数Bである。こちらも1988年の「経済」を例にし、この際の、分類項目ごとの記事数の年次別割合とは、1(1988年の「経済」)÷33(「経済」の合計)、全記事の年次別の変動とは、1(1988年の全項目の合計)÷128(全記事数)×100で、項目「%」である。そのときの、1988年「経済」の特化係数Bの3,9を求める計算式は、

(1÷33×100)÷0,8である。

この特化係数Bにより、各分類項目における記事の年次別割合と、記事全体の年次別割合との関係を見ることが出来る。

 このようにして計算により求めた「A・B」の両項目について、それぞれの数値の大小をある程度わかりやすくする識別するために、数値を段階的に色分けすることとした。その色分け基準は、0〜0,9は無色、1,0〜1,9は薄桃、2,0〜2,9は桃、そして3,0〜を赤とした。

 そこで改めて表12を見てみることにし、特に「A」について分析をしていくこととする。この際、今回の表12のような作業を、表10については行っていない。それは、分類項目が多くなると、各分類における各年次の記事数が少なくなり、記事数がわずかであっても、特化係数の計算を行うと、非常に突出した数値になる可能性が高くなり、分析の参考にはならないデータになってしまう恐れが強いためである。

 分類項目「経済」では、3,0〜の赤はないものの、2,0〜2,9の桃と1,0〜1,9の薄桃をいくつか確認できる。そしてその他の3項目についても、同様に桃・薄桃が確認できる。ただし「人」と「もの」には赤の年次が含まれている。さらに、各分類項目別に、「A」の集中の仕方を見ていくことにする。

 「経済」は、比較的高い数値を表している桃が、いくつかの年次で確認できるものの、その集中は検索期間の前半部に偏って存在している。後半部は、90年代後半に薄桃の年次があり、その後記事のない年次もあり、2002年と2003年に盛り返してきている観がないでもないが、どちらかといえば90年代後半から減少傾向にあるといえる。

 続いて「場所」は、80年代後半は掲載なし。1991年から若干高めの数値で現れ始め、その後も数値は低い年次もあるが、コンスタントに数値を刻んでおり、そして2003年からまたも若干高めの数値を示していることがわかる。

 「人」については、1992年に若干の、そして1996年に相当の高い数値を示してはいるものの、この項目全体の傾向としては、90年代後半からのほうがよく記事が掲載されていることがはっきりと表されている。

 そして「もの」についてだが、その年次別に見ると、掲載があったりなかったり、他の3項目と比べてもかなりのばらつきがあり、集中というよりも分散という感じもするのだが、よく見てみると、どちらかといえば、この項目も90年代の後半からのほうが多く掲載されていることに気付くだろう。

 そして、これら4項目を合わせて見ていくことにする。すると、はっきりとまではいえないが、大体の傾向が見えてきたと筆者は感じた。その傾向というのは、大体ではあるが、90年代前半くらいまでは「経済」についての記事によって描かれることが多かった。しかしながら、90年代後半くらいからは「経済」の記事が減少、それと入れ替わるかのようにその他の項目の記事によって描かれることが多くなってきている。というものだ。この傾向に対して、はっきりとした根拠を求めるとするならば、実際に各項目の記事について見ていくしかないと思われる。そこで、また表1を見ていくことにした。

 ここで筆者が注目したのは、分類1の「市交通局の車庫跡地再開発」の記事である。この『市交通局の車庫跡地』とは、現在のフェスティバルゲートとスパワールドが建ってある場所のことで、これらの施設は1997年に開業したものであるが、レトロな雰囲気がうりの新世界に似つかわしくない、極めて現代風の施設ができるということで、建設予定段階から建設中くらいにかけて、つまり90年代前半くらいに集中したと思われる。また、当初の再開発の計画では、超高層マンションも建設するというものであったのが、途中で大幅な計画変更を余儀なくされたことも、記事になった要因のひとつかと思われる。そして、表6によると、「市交通局の車庫跡地再開発」の9件全てが「経済」に変換されていることがわかる。これが90年代前半に「経済」の記事が多く掲載されていた要因のひとつであることがわかる。

 「場所」については、表12では90年代前半、中盤、2000年はじめが特に記事が多い年代である。この項目は、新世界というエリアの「歴史」の記事と強い関係がある。このことは表6・7の分類間の変換件数を見てもわかるところである。そして、「場所」における「歴史」の記事は90年代前半以降、ある程度コンスタントに掲載されており、その他の記事に、特に新世界を代表する「場所」である「ジャンジャン横丁」の記事に注目すると、「ジャンジャン横丁」は、昔からその拡幅計画が大阪市によって進められてきたが、横丁で暮らす人々の反対によって難航していたのが、先程の「車庫跡地再開発」を機にまた取り上げられるようになったようである。

 「人」は、表12ではっきりと90年代後半から記事として描き出されていることを確認できるが、この要因としては、既に分析したように、1996年に映画やドラマで新世界が描かれ、その後注目されるようになった「ビリケン」や「叶麗子」が90年代後半にまた記事にされ、2000年を過ぎてからは、新世界を拠点とした現代アート団体の活動によって新世界が記事にされた。

 そして「もの」という視点からも90年代後半以降、記事の増加が見られ、その要因としては、既に分析したように、通天閣の再建40周年に向けた改修、阪神タイガース応援のための衣替えやその他のイベントであった。

 このようにして、表12のデータの分析を進めていくと、90年代の中頃を境にして記事内容の傾向の変化を認めることができた。しかし、その変化の要因は決して単独なものではなく、さまざまな要因が考えられることがわかった。例えばそれは新世界そのものの、直接的な変化であったり、間接的に新世界を描いたものの影響であったり、また大阪における経済情勢の変化であったり、さらにはこれまでとは全く違う、流行の波であったりといった、複数の要因が相互に関係することにより形成されていた。

 これらをまとめると、つまり、新世界というエリアの、記事上での捉えられ方というものが、常に同一の視点から見られているものということではなく、その時々の世の中の流れによって刻々と変化していく新世界を、漏らすことなく、しかも多角的な視点から捉え表現しているということである。しかしその一方で、前節で分析したように、どんなときでさえ、時代の流れに惑わされ、流されることなく、毎年の決まりきったもの、即ち『年中行事』という新世界独自の伝統文化をも漏らさずに捉えるということをも決して忘れないという、エリアの文化を重要視するという一面も記事が持っていることが、本稿における記事の内容分析から明らかにすることができたと思う。

 

W さいごに

 本稿では、大阪の新世界というエリアが、新聞記事という媒体によって、その時代、経済状況、最新の流行などといったファクターの中で、時間の流れとともにどのように捉えられ、表現され、われわれ読者に伝えられているのかを、実際に掲載された新聞記事を調査・分析することによって明らかにしてきた。しかし、実際には、本稿に対する筆者の準備不足、また収集したデータに対する分析不足が多々あり、また、データに対する間違った見解を述べていたかもしれず、卒業論文としての完成度がかなり低くなってしまったことに対し、この場をかりてお詫び申し上げたい。

 さらに、今回は時間の関係上、割愛させていただいたのだが、本来であれば、記事に挿入されている写真や図にも注目し、そこから記事との関連、また時代によってどのように新世界というエリアを映し出しているのか、といったことについても言及していければと思っていたところであり、この点については筆者自身も非常に残念に思っているところであります。

 最後に、本稿を執筆するにあたり、本学地理学教室の山崎先生には多大なる助言、ご指導、ご協力をいただき、この場をおかりして、心より御礼申し上げます。

以上

 

1) 内国勧業博覧会は、明治期に第一〜五回(明治10、14、23、28、36年)まで日本国内で開催されたもので、第一〜三回までは東京上野公園、第四回は京都岡崎、第五回は大阪天王寺で行われた。勧業博覧会とは、国産の商品を一ヶ所に集め、それを公開、さらに優劣を競わせることで、商工業の振興と商品流通の進捗をはかり、商品情報、生産技術に関する情報をひろく発信する「場」として位置づけられていた。(橋爪:1996)

2) 大阪土地建物株式会社は1911年(明治44年)新世界経営を目的として創立。(資本金300万円、経営土地実測面積2218995、取締役社長土居通夫、常務取締役宮崎敬介)

3) 当時の新世界は、パリのエッフェル塔を模した高さ64メートル(当時は東洋一)の通天閣と、同じくパリを模した放射状の市街地、また米国のコニーアイランドをモデルとしたルナパークからなるものだった。

4) 通天閣観光株式会社は、1954年(昭和29年)創立。資本金3500万円、代表取締役社長雑野貞二。現在の通天閣は二代目で、高さは103メートル。

5) 通天閣歌謡劇場を中心に活動している「通天閣の歌姫」。NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」の「オーロラ輝子」のモデルともなった。また、通天閣歌謡劇場は、平日は囲碁将棋センターとして(01年に閉鎖)、劇場も現在改修工事中。

6) 正式にはBILLIKEN。1908年(明治41年)に米国の女性美術家が見た夢に出た神をもとに造り、世界中で大流行。新世界の「ルナパーク」にも安置されていたが、初代通天閣の解体とともに行方不明に。その後、新世界の繁栄を願う人々によって、1979年(昭和54年)に復活した。

7) 毎年恒例となっている、新世界・通天閣の年中行事。「えとの引き継ぎ式」は通天閣が再建された1956年(昭和31年)から毎年12月末に、「福豆まき」も再建の翌1957年(昭和32年)から毎年2月の節分にあわせて行われている。また「王将祭」は、大正から昭和にかけて関西で活躍した名棋士・阪田三吉をしのび、1962年(昭和37年)に「王将忌」として開催、その後、1965年(昭和41年)からは「王将祭」と名を改めて行われている。

 

参考文献

・(財)大阪都市協会(1999):「大阪人」12月号((財)大阪都市協会)

・(財)大阪都市協会(2003):「大阪人」11月号((財)大阪都市協会)

・通天閣観光株式会社(1987):「通天閣30年のあゆみ」(通天閣観光株式会社)

・橋爪紳也(1996):「大阪モダン−通天閣と新世界−」(NTT出版)

・読売新聞社大阪本社 社会部編(2002):「通天閣−人と街の物語−」(新風書房)



図表

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