2006年度部会アワー発表者公募選考過程の概要

 本研究部会では2004年度以来、人文地理学会大会の部会アワーにおける、発表者の公募を企画しています(公募の趣旨また2004年度の公募選考については本部会ホームページを御覧下さい)。昨年度は応募者がなく、通常の発表形態に変更いたしましたが、今年度は7月31日の締切日までに4件の応募がありました。これを受けて当部会世話人による選考を行い、発表者を決定いたしました。以下4件の発表要旨の後に、選考投票結果と講評を記載していますのであわせてご覧下さい。本年(2006年度)は大会第1日(11日(土))午前10時30分より開催)されます。

発表候補および要旨(応募受付順)

候補1:泉谷洋平氏(フリー)
タイトル:地理学の開闢、あるいは語りえぬものの地理学

要旨:
 本研究の直接の目的は、独我論、私的感覚、意味体験といった晩年のウィトゲンシュタインの哲学的課題を検討しつつ、そこから場所の固有性をめぐる諸問題を考えるための基盤を整備することである。
 20世紀の後半を通じて、国民国家や資本主義経済との連動性をますます高めながら学術研究が営まれるようになり、また他方では、科学的知識が価値中立であるという神話がまさに神話であったという認識が、科学の内外においてますます常識化している。こうした中、現代の社会において科学技術や学問的知識がどういう位置づけを持つのかという問題の重要性が、広く認識されつつあると言ってよい。いうまでもなく人文地理学もその渦中にあり、昨今われわれが頻繁に遭遇する、人文地理学の社会的貢献や人文地理学者の政治的立場(ポジショナリティ)をめぐる諸言説も、そうした状況の先鋭化の具体的な現れといえる。しかしながら、こうした問題が一度制度内部で定着すると、そうした問いが本来持っていたはずの批判性は失われ、ややもすると問いを立て(そして、それに無難に応答する)ことが一種の形式的儀礼と化してしまう傾向もある。本研究は、科学(ないしは学問)と社会という図式において人文地理学の政治性や社会的貢献を問いただすような問題系を相対化しつつ、そうした図式によっては扱うことのできない重要な倫理的・政治的問題が人文地理学にも存在しうることを提示する。われわれにとって常識化しつつある問題系に対して、あえて違和を注入することで議論を喚起したい。
 まず、議論の出発点として、本研究で「場所の発見」と呼ばれるものとそれに伴う独特の感覚について、私自身の体験を提示する。私は、何気なく日々の生活を営む中で、ふとある場所の本質、特徴、謎などに触れてハッとしてしまう瞬間を体験することがある。この私の体験は、私にとってその体験が生じた場所のある種の固有性と切り離すことができないように感じられるのであるが、このような体験の正体はいったい何であるのだろうか。本研究で「場所の発見」と呼ぶのはこうした体験のことであるが、その語りえない不思議さ、あるいは不思議な語りえなさは、果たして人文地理学という知の営みとどういった関係を持っているのだろうか。
 この「場所の発見」に伴う独特の体験は、須原一秀の蒐集した「変性意識」の事例として理解することができる。須原によると、変性意識とは、(1)何かのきっかけに、(2)時空間や主観客観、自己や言語に対する感覚が日常的なそれと著しく変わってしまい、(3)恍惚感、眩惑感、解放感、溶解感、熱中や自発性の放棄などを体験し、(4)やがて元の日常的意識に戻る、以上のような意識状態のこと指している。彼はこうした変性意識の事例を過去十年にわたって数千も集めている。そこで、まずここでは、須原の考察や事例提起を踏まえて、私自信の「場所の発見」の体験を意味づけることにする。その結果、「場所の発見」の体験とそれに伴う独特の身体的な感覚は日常頻繁に生じうること、そしてそれらが日常世界(とそれを支える諸規範のシステムとしての、広義の社会ないし公共圏)からの離脱の契機となりうることなどが確認されることになる。しかし、私にとっては「場所の発見」の感覚の独特な「語りえなさ」の正体が重要な問題の焦点であるのだが、須原の議論の射程内では、この「語りえなさ」の問題が欠落している、という問題がある。
 そこで次に、こうした「語りえなさ」の問題にもう一歩踏み込むために、須原の提示した諸事例と類似した現象について考えていたと思われる、晩年期のウィトゲンシュタインの哲学的思考をたどることにする。ウィトゲンシュタインは『哲学探究』第二部において、同一の図像が全く異なる相貌(アスペクト、風景相)に見えてしまう際の心的体験をめぐって考察している。言語にとって本質的なのは語の使用であり、語の意味は言語活動にとって何ら本質的ではないという考え方が、後期ウィトゲンシュタインの到達点であった。これと同じように、例えば有名なアヒルとウサギの反転図形の事例に見られるように、同一の図像にそれまで見ていたものとは異なる相貌を見いだした瞬間の閃きや驚きといったものは、たとえそれがその相貌を認識した当の者にとって無視しえないインパクトを持ったとしても、世界内の出来事の記述において全く本質的ではない。これがウィトゲンシュタインの洞察である。しかしながら、逆説的にもウィトゲンシュタイン自身がこうした閃きや驚きの体験を動機として哲学的な仕事をしていたと考えざるをえない側面が、ウィトゲンシュタインの著作の端々に見受けられる。こうした捻れは、ウィトゲンシュタインが哲学的な仕事において終生一貫してこだわり続けた彼の独我論的な世界観と関係している。そして、実はアスペクトの認知における閃きや驚きの語りえなさは、この独我論の語りえなさと構造的に同型である。以上から、「場所の発見」の体験がウィトゲンシュタインの考察と整合する限りにおいて、その体験において「場所の固有性」として感知されたものが、独我論における「この私」の比類なさからの派生であることが示唆される。当日の発表では、永井均が展開する独在論の哲学を紹介しつつ、ウィトゲンシュタインの独我論の語りえなさの輪郭をなぞっていくことにする。さらに、須原の議論におけるこの「語りえなさ」の欠落についても、その要因を考察する。須原においては、「頭で分かっているわけではなくても身体的にはかなりはっきりと分かっていることがある」という暗黙知的な認識の採用によって、この「語りえなさ」が乗り越えられているということを確認する。
 以上の考察を逆方向からまとめ直すと、次のようになる。ウィトゲンシュタインが固執した独我論と、その変奏としての驚きや閃きの体験の語りえなさの問題は、須原の議論において、暗黙知的ないし身体的な感覚の正当性を承認することにより抹消されている。そして、須原が提示した日常頻繁に生じるある種の私的体験の非日常性や非社会性は、須原が問題としているように、表象され言説化された知に優位性をおく人文社会科学の慣習においては排除されている。本研究の最後に、こうした(A)『通常』の人文社会科学、(B)須原の「ウヨク」的態度(須原自身の用語)、(C)晩期ウィトゲンシュタイン、という三つの立場を相互比較しつつ、それぞれと対比的な「人文地理学」のあり方を探ることにする。日本においては、昨今の人文地理学が圧倒的に(A)の枠に収束しつつあり、人文地理学者の政治的立場やポジショナリティの問題、人文地理学の社会的貢献に関する問題も、もっぱら(A)の枠の内部で取り扱われる問題である。そして(A)において制度化されるような人文地理学で通用している諸規範を前提にした時、(B)および(C)の立場が必然的に排除される。こうしたことを論証しながら、しかしそれにもかかわらず、(B)と(C)の立場において人文地理学的と呼びうる知が開ける可能性があることや、生に意味を与えるものを思想と呼ぶ限りにおいて、地理思想の新たな可能性が(B)や(C)の領域においても開かれうることを指摘する。また、こうした領域において開ける知の領域が(A)の立場に回収されえない剰余を孕む以上、そこに倫理的・政治的な問題が実践的な問題として必然的に生じる、ということも示唆したい。

関連執筆論文
泉谷洋平「地理学の開闢、あるいは語りえぬものの地理学」(執筆中)。


候補2:柴田陽一氏 (京都大学・院)
タイトル:アジア太平洋戦争期における小牧実繁のプロパガンダ活動

要旨:
 近年、さまざまな学問分野で、アジア太平洋戦争期の知的営為が、本格的に検討されている。それらは一面的かつ表面的であった既存研究に対する批判に発するもので、正確な事実関係の追究を重要視すること、ナショナリスティックな言説を即座に否定するのではなく、その成立基盤や言説に込められた意図に注目すること、また、「学知」という問題設定の下、学問の「理論」的側面の検討に加え、その「実践」的側面、すなわち学者の政治的・社会的活動なども注意深く検討することが目指されている。このような視角から当時の知的営為を捉え直すことで初めて、現在の我々自身の知的営為を省察し、新たな「学知」の創造に生かし得る真の意味での「反省」ができるであろうと、発表者も考えている。
 さて、こうした研究は地理学界では一向に進んでいないが、アジア太平洋戦争期の地政学は、やはり他分野の既存研究と同様の視角から、照射してみる必要のある問題であろう。そして、その際に最も適当な対象となるものは、小牧実繁ら京都帝国大学地理学研究室関係者が参加した綜合地理研究会(通称「吉田の会」)の主張した「日本地政学」であると考えられる。なぜなら、それは当時、言論界や地理学界で一定の支持を得ていた活動であったにもかかわらず、これまでは「精神運動」として一蹴され、その内実が検討されてこなかったからである。
 発表者は、前稿(2006a)で「日本地政学」の「理論」的側面を検討したが、当時、「日本地政学」という地理的知がなぜ成立し、支持されたのかという問いに答えるためには、さらに同時代の社会状況にコミットする力に注目し、その「実践」的側面を検討する必要があると考えるに至った。そこで本発表では、会の陸軍の作戦計画への関与の部分について検討した歴史地理学会大会における発表(2006bの後半)に続き、もう一つの「実践」的側面である小牧のプロパガンダ活動を取り上げ、彼が国民の啓蒙を意図し、あらゆるメディア(著書、雑誌、新聞、講演、ラジオ)を駆使して行った同活動の検討を通して、「日本地政学」という知の性質を考察し、アジア太平洋戦争期の地理的知の一存在形態を浮き彫りにしたいと思う(2006bの前半)。
 小牧が公の場で「日本地政学」を主張し始めたのは、1938年11月である。これは、同月の参謀本部の高嶋辰彦大佐からの地政学研究の依頼を受けて行われたものと考えられる。これ以後、綜合地理研究会は、高嶋が設置した「国防研究室」(総力戦研究所の前身)の外郭団体と位置づけられ、皇戦会や昭和通商からの資金提供の下、総力戦研究の一翼を担うことになる。その後行われた小牧のプロパガンダ活動を、発表メディアや内容に注意して概観すると、3つの転機が見出せる。すなわち、地政学的論考を発表するメディア獲得の契機となった『日本地政学宣言』の刊行(1940年10月)、地政学的地誌の執筆依頼増加の契機となったアジア太平洋戦争開戦(1941年12月)、その後のプロパガンダ活動に多大な影響を及ぼす契機となった大日本言論報国会の理事就任(1943年12月)である。また、プロパガンダの内容は、新しい地理学としての「日本地政学」、地政学的地誌と地理教育、「大東亜」建設の方策、「日本精神」の強調の4つに分けられる。以下、それぞれの内容を検討するとともに、そうしたプロパガンダがいつ現れたのかを明らかにする。
 第一に、小牧は、西洋帝国主義の強化に努めてきた従来の地理学や、非歴史的な景観地理学、西洋の人種優越主義に貫かれたドイツ地政学を批判して、日本の立場に基づく新しい地理学として「日本地政学」を主張し、その実践的な性格を強調した。こうした主張は、『日本地政学宣言』及び1941年の雑誌論文に集中しているが、それは会で「日本地政学」や地政学的地誌の理論的枠組みが議論され、本格的な地誌研究が始められた時期に当たる。ただし、それ以後も著書では必ず同様の主張が見られた。
 第二に、会のメンバーが公表した地政学的地誌は、日本の立場から世界各地域をいかに把握すべきかを示し、国民に「国家的自覚」や、その地理認識の「反省」を促すことを意図したものであった。この地誌は、総力戦の中でも特に重要視された思想戦の一環として、従来の「平板」な地誌の革新を目指し、企図されたものであった。ただし、直接的には、南方の地政学的位置づけや、「大東亜共栄圏」の地域的統一性を説明する必要性から登場したもので、1942年前半に集中して発表されている。こうした地誌として、『世界地理政治大系』などの著書の他、多くの雑誌論文がある。その中で彼らは、「八紘一宇」に基づき、アジアという概念を観念的に拡大した一元的な地理認識を国民に提示した。これは世界を二元的に描く西洋的な地理認識とは異なる。彼らは、生存圏やブロックとして考えられがちだった「大東亜共栄圏」という概念には反対していた。彼らの地誌は、学界や言論界で注目を浴び、著作もよく売れた。その理由は、彼らの地誌が欧米列強に不満を感じていた当時の人々の心情をくすぐるような性格のものであったからであろう。また、彼らの地誌が詳しい文献研究の成果であると同時に、主観的問題意識の突出、実証性や文化相対主義的視点の欠如といった問題点を抱えていたのは、それがあくまで「世界観的地盤に於ける問題」を取り扱うものであったことに起因している。このように世界観に注目する小牧は、国民の地理認識の形成に大きな役割を果たす地理教育の見直しを訴えた。「国民科地理」の教科書の内容にその影響が見られる。また、当時の教育界で重要な位置を占めた雑誌に多くの論考を発表した。
 第三に、小牧が、特に1942年後半から1943年後半にかけて発表した「大東亜」の建設の方策は、主に、「大東亜」建設における農業と教育政策の重要性を説くものであった。彼は、農業を基礎とする宗教や家族制度の類似がアジア全域に認められるので、農業を軸にしてアジア経済を再編すべきだと訴えた。この主張には、アジア主義的な側面とともに、近代ヨーロッパ批判、近代資本主義の再考という側面があった。また、彼は、欧米が行ってきたのとは異なる新しい植民地教育を行うべきだと主張していた。こうした主張は、彼の国土計画に対する考えに基づいており、精神的側面を重視したものであった。
 第四に、小牧は、1938年から終戦まで一貫して「日本精神」の重要性を強調したが、特に1942年後半以降その傾向が強まった。1943年9月以降、言論報国会は、敵国思想謀略への警戒や国民の日常の心構えの日本主義化を訴え国内思想戦を強化するが、同会理事であった彼のプロパガンダ活動にも、その影響を読み取ることができる。その多くは、「皇道」のみにすがる排外主義的なものであった。また、ユダヤ陰謀論など非現実的な主張も多かった。ただし、彼は軍を通じて不利な戦局を認識した上でプロパガンダ活動を行っており、国民生活の具体的指針を説く主張は、厳しい状況にある国民の精神的引締めを図ったものとも考えられる。
 小牧のプロパガンダ活動の基盤にあったのは、西欧的近代というものを、自己にとって異質なものとして捉えようとする思想である。彼は国民を西洋的世界観から日本的世界観に回帰させようとしたと言ってよかろう。だが、世界観というレベルの問題を取り扱うプロパガンダはナイーブであり、終戦による価値観の変化とともに、それ自体の有効性が失われることに加え、「日本地政学」が提起した地理学の認識論的問題までもが等閑視される事態を引き起こした。また、内発的創造性を強調する彼の主張は、一種のヨーロッパ批判とも見なし得るが、日本の固有思想を全世界に広めようとするとき、その主張は彼が批判する西洋思想と同様の結果をもたらすことになる。西洋的な知に懐疑的な姿勢をとる小牧自身、その枠組みから決して抜け出すことができなかったし、「日本地政学」自体、実は、西洋という存在なしには存立し得ないものであった。
 また、小牧のプロパガンダは、国策に対する国民の態度、地理学の地位向上、新しい地理認識の形成、地理教育の改変、国民の士気の鼓舞に影響を及ぼしたと考えられる。彼のプロパガンダが社会に影響を及ぼし得た理由は、多くの機関と関係をもち、あらゆるメディアを回路として利用していたことに加え、宣伝技術の卓越性にあった。彼はプロパガンダの有効性を高める術を心得ていた。彼の活動範囲は国内に限らず、植民地にまで及び、その主張はラジオにより、中国やアメリカ合衆国にも届けられた。
 このような活動を行った小牧は、終戦後、綜合地理研究会を解散し、京都帝国大学を辞職した。そして後に、言論報国会の理事だったという理由で公職追放された。講和条約締結後、滋賀大学に勤務するようになった彼は、以前のように「日本地政学」を声高に主張することはなかったが、それに対する自負心をもち続けていた。
結論として、次のことが言える。第一に、「日本地政学」は、その思想としては夙に小牧らに抱懐されていたものであるが、それが公の場に現れるきっかけは軍からの要請であった。ここにおいて名実ともに「日本地政学」が成立したのである。そして、その主張と社会的風潮との親和性に加え、帝大教授というネームバリューや、メディアの多用、その卓越した宣伝技術により国民に支持された。その主張は政策決定者に直接的な影響を及ぼすようなものではなかったが、小牧は「日本地政学」を標榜することによって、それまでは基礎研究分野としての位置づけしか与えられていなかった地理学の一新生面を開き、多面的な社会的実践への参与に「成功」したと言える。第二に、総力戦下という状況の中、地理学者である小牧は、精神的側面を重視したプロパガンダ活動の活路を地政学的地誌と地理教育に見出し、日本の主体性に基づく彼独自の地理認識を提示した。彼には、単なる「御用学者」という言葉だけでは片付けられない一面があったのである。反面、西洋と全面対決する姿勢を打ち出したにもかかわらず、より正確に言えば、それゆえにこそ、彼の主張には、あくまで西洋という対立物なしには成り立ち得ないという矛盾も含在しており、それがところどころに見え隠れしている。第三に、「日本地政学」の「理論」と「実践」は有機的関係にあり、ともに両義的な性格をもっていた。こうした「日本地政学」という知の性質は、アジア太平洋戦争という総力戦下の地理的知の一存在形態を示している。
 また、本研究を通して次のような示唆が得られた。第一に、アジア太平洋戦争期の学史研究も、先入観によって単純化した捉え方をするのではなく、十分な資料批判を基礎とし、資料的事実に基づく歴史的現実の再構成を徹底するという立場をとる必要があること。第二に、我々は地理学の「理論」や「実践」そのものの中に内在する政治性を深く認識する必要があること。日本の国策を正当化するため、当時の思潮に合致する言説を積極的に展開した小牧の行動とその結果は、〈地理学という学問はどういうスタンスをとるときに実社会にとって有益な研究をなしうるのかという問題〉に対する一つの解答の試みであった。アジア太平洋戦争期の地理学者の知的営為を問う試みを通じて、我々は地理的知の政治性を認識するにとどまらず、自らの知的営みをいかなる状況の下で行っているかということにも常に自覚的であり続けるべきであると考える。

関連執筆論文
柴田陽一(2005)小牧実繁の著作目録と著述活動の傾向(歴史地理学47巻2号)
柴田陽一(2006a)小牧実繁の「日本地政学」とその思想的確立(人文地理58巻1号)
柴田陽一(2006b)小牧実繁の「日本地政学」とその実践(2005年度京都大学大学院文学研究科修士論文)


候補3:北川眞也氏(関西学院大学・院)
タイトル:生政治的空間をめぐる表象-イタリアの移民収容所(Cpt)の「人道的拘禁」-


要旨:
 冷戦後の戦争は、しばしば「人道的介入」から「対テロ戦争」への移行として捉えられる。人道的介入は、人権の普遍性を訴えて、生命の危険が確認される人間を救うと同時に、世界秩序の平和と安定を目指すべくなされる戦争として提起されたと言えよう。他方で対テロ戦争は、互いに交渉不可能な「西洋文明」と「イスラム文明」の間での「文明の衝突」を具現化するものだと論じられた。だがそもそも、人道的介入が保護しようとする「犠牲者」の生と、悪魔化された「テロリスト」の殺害されるべき生との間の区別は、どれほど厳密なものであったろうか。多国籍軍が、抑圧を受け、助けられるべき集団が集住するエリアを空爆すれば、それは「誤爆」と表象され、とるに足らないものとして済まされる。またモスクワの劇場で、警察によって使われたガスは、テロリストのみならず、人質をも巻き添えにする形で用いられた
 こうした政治の有り様は、イタリアの哲学者ロベルト・エスポージトによれば「生政治biopolitics」という概念を通して把握される。生と死、戦争と平和、攻撃と防御という、近代において対立する二項として捉えられて来た概念が、重なり合い不分明になっているのである。この生に対する政治の矛盾が、空間的に発現し、恒常的なものとなる場所がある。それは、避難民を収容する人道キャンプや、庇護申請者や非合法移民を収容する施設である。人道キャンプは、「避難民」の生命を保護しているのだろうか。それとも、予想を越えて、西洋社会へ入り込む「移民」を囲い込み、閉じ込めているのだろうか。このような空間の例として、「非合法」移民の収容と追放のために設けられた、イタリアの移民収容所、「一時滞在と救護の施設Centro di permanenza temporanea e assistenza(以下Cpt)」に着目する。Cptという生政治的空間が、イタリアの一連の政治的文脈の中で、どのように表象されてきたのだろうか。批判的な知識人や対抗Cptの運動は、移民の「拘禁収容所centro di detenzione」であるはずのCptを、「受け入れ・歓待の施設centro di accoglienza」と称するような、政治家やメディアによる「婉曲表現」を告発している。運動にとって、Cptは移民からどんな権利をも剥奪し、行政的措置を通して、かれらを拘禁するという点で、ナチスが制度化した収容所、「ラーゲルlager(伊)/ラーガーLager(独)」に等しいものなのである。以下では、「ラーゲル」としてのCptの表象と、「歓待の施設」としてのCptとの表象に着目し、双方の問題点を明らかにする。
 ジョルジョ・アガンベンによると、例外状態が完全に規範となり、それを空間的に具現化するものが、収容所である。それは、人間の「おとしめと零落のプロセスの終点において発現する空間であり、対応している人民にはなりえない人口が、再領域化される空間である。収容所で起こることは、全て例外的なことであり、ただ収容所の論理や決定においてのみ理解されなければない。その結果、大戦における収容所、特に絶滅収容所は、大量殺戮の悲劇、「非人間」的行為の象徴的な場所として理解されるに至っている。
 しかしながら、クラウディオ・ミンカの指摘を待つまでもなく、収容所は過去のものとなった訳ではないことを明白であり、こうした空間の生産について明らかにすることは急務であろう。テロリストという「非人間」を収容するグアンタモやアブ・グレイブから、難民・避難民という「人間」の生命を保護する人道キャンプまで、収容所は、新たなポストモダニティ(〈帝国〉でもよいだろう)の条件のなかで、いつも緊急事態と安全の名の下で設けられ、剥き出しの生を包摂している。外国人、特に非合法移民を収容する施設、難民認定を行うための施設も、こうした論理で、世界の各地で機能し、またその数を増大させているのである。
 Cptを「ラーゲル」と名付けることは、「対抗Cpt運動」においては今や自明なこととなりつつある。その点について特には、イタリアの政治学者・政治活動家であるサンドロ・メッツァードラの説明を参考にする。彼は現代の権力の変容という点と、それが歴史修正主義の論法に接近する可能性もあるという点を考慮しつつも、Cptを「ラーゲル」として呼ぶことの意味を強調している。ヨーロッパの歴史におけるもっとも暗黒の時期の1つに関連させられるこのような空間が、現代の政治的舞台からなくなってはこなかったこと、ある特定の国民国家にどんな法的なつながりをももたい人々、または「悪い」市民権を有する人々の移動を制限すること、そして何より、罪を犯していない男性と女性が、かれらの移動する権利を否定されるという点を強調している。
 Cptを「歓待の施設」とすることは、特にその運営団体(例えばイタリア赤十字、ミゼリコルディア会など人道・カトリック系団体)によって理解されていることである。ここでは、レッチェ近郊のCpt「レジーナ・パチス」を運営していたチェーザレ・ロデゼルト神父の議論を参照にする。彼は、たとえ「非合法」な移民で、イタリアからの追放が運命づけられていても、またたとえそれが一時的な救護であっても、全ての人間を歓待し、各々の人の事情までを理解に努めた上で、かれらにサービスを提供していると言う。レジーナ・パチスのCptは無償で、寝具、衣類一式、保険衛生・健康に関する用具、食事とその内容、信仰の自由、電話、心理的な面のケア、そして法的な援助までを準備している。ラーゲルは、暴力と死の空間であるが、Cptはたとえ一時的にでえあれ、生命を救護し再生産する人道的な慈愛の空間ではないのかと言わんばかりである。
 こうした2つ空間の表象は、それぞれが現代の収容所の何らかの部分をとらえているのかもしない。だが「ラーゲル」にせよ「歓待の施設」にせよ、いくらか比喩的であり「感性的なもの」への訴えが強い表現のように思われる。ジャック・ランシエールの言うように、現代においては、感性の統治が極めて重要な警察的機能を引き受けているのであれば、これらの表現に対してはやはり配慮が必要である。これら美的でまた道徳的な表象のはざまで、見失われていくのは、収容され例外状態にいる移民の声であり、またかれらの自由を求めて移動する主体性である。まるで、かれらは、人身売買のような形で、犯罪組織によって卑しめられ、自身の生命を再生産することもできずに、見知らぬ土地をさまよっているかのようである。また「ラーゲル」のなかで、徹底して自由への欲望を破壊されているかのようである。かれらは、ただ生でも死でもない不分明地帯で、「生き残ら」されるだけなのだろうか。
 このように考えてくると、未だこの不分明な生政治的空間を十分に表すための、コトバが見つけられていないのかもしれない。そのためには、「生き残らせる権力」というアガンベンの議論を視野に入れつつ、Cptを権力のディスポジティブとして認識し、その内部でいかに主体化と脱主体化が生産されているのかということを明らかにすることが重要であると考える。

関連執筆論文〔いずれも未公表。今後投稿予定〕
Beaumont, J., Kitagawa, S., and Rossi, U.,"Europe as a potential politics", for Antipode.
北川眞也「生政治的空間をめぐる表象-イタリアの一時滞在と救護の施設Cpt」の「人道的拘禁」」(仮題)
北川眞也「現代の地政学における例外空間としての収容所-イタリアの移民収容所における主体化と脱主体化の生権力-」(仮題)


候補4:山口 晋(日本学術振興会特別研究員/大阪市立大学・院)
タイトル:公共空間としての都市のストリートをめぐる文化的実践・管理の地理


要旨:
 近年,都市のストリートで,何らかの活動をする人々をよく目にすることがある。彼/女らは楽器を演奏したり,閉店後の店舗のガラスに姿を映してダンスをしたり,スケートボードで滑走したりしている。また,食品などを販売する露店商や路上で生活せざるを得ない野宿生活者なども見られる。これまで特に,報告者はミュージシャンやダンサー,スケーターの活動,すなわちストリートでの文化的実践について調査してきた(山口,2002a,b)。議論を先どりすると,彼/女らの実践は自己実現や自己満足といった,きわめて平和的で楽しさを追求するものであった。このような実践は「両親の文化」からみれば逸脱しているとみなされたり(上野・毛利,2002),法制度やその他規則による取り締まりを受けたりして,彼/女らの口からそれへの不満が出ることもある。しかし多くの場合は,暴力的な抵抗ではなく,管理者から「お目こぼしを勝ち取る戦略」として平和的な交渉を行なう(矢部,2002)。彼/女らの実践には,抵抗の要素が全くないとはいえないものの,カルチュラル・スタディーズのサブカルチャー論における「象徴的抵抗」のようなものは見受けられない(ヘブディッジ,1986)。また,管理側も彼/女らの実践を囲い込んだり,利活用したりするような動きはあるが(山口,2006),暴力的に取り締まったり,排除したりするといったことは見受けられない。
 ゆえに本稿では,現代都市のストリートを公共空間として,そこで繰り広げられる文化的実践と管理を捉えることで,これまでの公共空間論に新しい視点を提示することをめざす。その作業としては,これまでの公共空間論について展望したのちに,現代日本の都市のストリートにおける具体的状況から欧米で練り上げられた公共空間論を整理し,それに新たな視点を加えたい。
 ところで,公共空間が含む「公共性」の主要な意味合いについて,齋藤(2000)は大きく3つに分けている。その内容とは,@ 国家が法や政策を通じて国民に行う活動で,公的な(official)なものという意味,A 共通の利益・財産,共通に妥当すべき規範,共通の関心事といった,全ての人々に関係する共通のもの(common)という意味,B アクセスすることを拒まれない空間や情報であり,誰に対しても開かれている(open)という意味,である(pp.G〜H)。さらに重要であることは,これら3つが互いに拮抗する関係にあり,時には空間から特定の集団が排除されることもある(齋藤,2000)。従来の公共空間論について,公共性論を社会科学の俎上に載せたアーレントとハーバーマスの議論を見ても,そこで想定されている公共空間は全ての人々に開かれたものではない(アレント,1994;ハーバーマス,1994)。アーレントとハーバマスが論じる公共空間に対して,キャルホーン編の『ハーバマスと公共圏』では,まとまった批判がなされている。その中で,ベンハビブ(2000)はアーレントが提示する公共性には,女性,子供,奴隷といった従属的な立場にいる人々が不在であることを指摘している。また,フレイザー(2000)は,ハーバーマスの単一的でブルジョワ的な公共性の議論を組み替えることを提起した。とりわけ,フレイザーは階層の中で従属的なポジションにある集団が,相対的な自立性を保持しながら形成するオルタナティヴな空間を「サバルタン的対抗公共圏」として,その可能性を示した。このような公共圏はマジョリティによって排除された集団が結束し,お互いの生にも関心をもち,配慮するような「親密圏」でもある(渋谷,2003)。このように,これまでの公共空間をめぐる議論は,公共空間から排除された集団に焦点を当てて論じられている。その一方で,公共空間がどのような空間であるのかという点については触れられていない。ゆえに,空間の具体的な側面に注目するという地理的な視点が有効であると考えられる。
 人文地理学においては,Howell(1993)はハーバーマスの議論についての地理的コンテクストやスケールへの鈍感さを指摘している。またGregory(1994)もハーバーマスの議論にみられるヨーロッパ中心主義を描き出している。さらに公共空間からの暴力的な排除や立ち退きとそれに対するリアクションを記述した研究もある。例えば,ミッチェル(2002)や酒井・原口(2005)都市の公園からホームレスや露天商などが行政などの管理者の思惑によって排除されていくプロセスを明らかにした。杉山(2003)は都市の若者が逸脱するものとしてみなされることで,公共空間から排除されることを展望している。また,女性や同性愛者の排除に関する研究も見られる(バレンタイン,1998;ペイン,1999;村田,2002)。
 このように地理学の先行研究でも,公共空間にアクセスできない集団とアクセスを妨げる空間について取り上げたものがみられる。しかし,現代日本のストリート・パフォーマー(以下,パフォーマー)の文化的実践は,必ずしも暴力的な排除を受けるわけではなく,そのような排除に対してオルタナティヴな公共圏をつくりだそうとするわけでもない。ストリートに一時的に滞留し,聴衆や仲間と談笑しているパフォーマーはストリートという都市空間のミクロな場所に「微細な影響を与えている」程度である(矢部,2002)。ただし,日本の都市のストリートは,消費資本主義の影響を強く受けており,排除の空間がみられる一方,主に若者を中心とした平和的な文化的実践が行なわれる空間が並存している。このようなストリートの状況や現象は,近代市民社会をベースとした公共空間論ではもちろん想定されていない。ストリートという公共空間での排除ではない,文化的実践を捉えることによって,現代日本の公共空間の一つの特徴が提示できるのではないかと考えられる。さらにストリートの状況を地道に記述し,公共空間について考えることで,オルタナティヴな公共圏をつくりだすことのみに傾斜しているプロジェクト(例えば,毛利,2002)へのアンチテーゼとなるのではないだろうか。

関連執筆論文
山口晋(2003):ストリート・パフォーマーが創出するスタイルと都市の文化産業,文化政策.大阪市立大学大学院文学研究科2002年度提出修士論文.


選考投票結果
 本研究部会では、世話人8人が4件の応募発表に対し、1位から4位までの順位を付け各候補者に講評を付して部会内で回覧・議論しました。各候補に付された順位はそのまま点数化し、この順位点を選定の基準としました。投票の結果、順位点の合計において1位18点、2位19点、3位20点、4位23点となり、一点差で1位から3位までが並ぶ結果になりました。点差のついた4位をはずし、その分のポイントを一つずつスライドさせてみると、2位と3位の候補者は逆転しましたが、1位は変わらなかったため、最終的な部会の総意として、1位の泉谷氏の発表を採用することに決定しました。


講評
 今年度の各候補の要旨を見て分かるように、いずれも地理思想研究部会の趣旨に沿った刺激的な内容のものですが、4つのそれぞれチャレンジングな姿勢の立ち位置は異なっているといえます。本研究部会の今年度と来年度の活動計画として取り組むべきテーマを3つ挙げていますが、応募要旨はこの3つ(@地理学史、A地理学方法論、B地理的表象・実践の実態的把握・・・細目もありますがそれは当研究部会HPをご参照下さい)に即するものでした。@のジャンルには、「日本地政学」が何ゆえ一定程度の隆盛を見たのかその文脈を明らかにしようとする候補、Aには、アカデミアの言説から奇妙にも零れ落ちる実存的な地理的経験をもとに学的慣習を反省的に検討する候補、Bには、イタリアの避難民キャンプをめぐる歓待施設なのか強制収容所なのかという言説政治とそれと連動する感性の政治を問題化する候補、また、都市のストリートの若者による領有の日本的な特有性と公共圏論議との折衝をめぐる候補が、それぞれ対応しているといえます。いずれの着眼点も鋭く、これらのすべてを聞いてみたいと思わせるものでした。4候補とも、今後学会誌に投稿されて掲載されるべき内容であると考えます。是非内容を拡充し近いうちに公表されることを切望いたします。各発表候補に対するコメントは以下に列挙しているとおりです。僅差の順位付け結果だったこともあり、整合的に調整することは困難ではありましたが、こうした講評をもとに審議し、最終的に泉谷氏を発表者として選定したことを、ここに報告させていただきます。

泉谷候補
 候補者は、「場所の発見」という誰しもが経験しうる体験を題材として、須原一秀の「変性意識」やウィトゲンシュタイン哲学を用いてその「語りえなさ」についてユニークな解釈を繰り広げています。これは、ラカンの精神分析風に言えば、象徴界からふと想像界ないしは現実界を感知してしまう経験の話とも通底するものです。分かりやすくいえば、トゥアンの場所感覚論をさらに分析的にした研究といえます。しかしながら、人文主義的な議論と異なるのは、アカデミアの慣習的な実践が、こうした場所の経験の「語り得なさ」を「語りえないこと」、その構制を検討しようとする試みにあるといえます。当発表候補は、実践批判というメタ哲学的な議論の停滞する日本の人文地理学界において、この問題に果敢に取り組み、新たな刺激をもたらすものと評価されました。
 なお、要旨の最後で、人文地理学が基盤をおくべき立場に筆者なりの意見を提示しているのですが、読者が最後に期待するのは、(B)須原の「ウヨク」的態度や(C)晩期ウィトゲンシュタインなどの立場に立った地理学研究が持ちうる可能性や具体的内容がどのようなものになるのかであり、それを明示すべきであるとの意見がありました。また、「場所の発見」についての論述以降の「語りえなさ」に関する議論は、候補者とほぼ同じような知識と関心を持っている人でないと理解が困難なのではないかといった意見も出されました。加えて、要旨の言葉に沿えば、「非日常性や非社会性」を「私的体験」する「比類ない」個人が「倫理的・政治的」に社会にコミットする際に独我論的なコミットになる可能性と、それを抑制・抑圧する「社会的貢献」言説一般が対抗的に生産されている昨今の社会科学の状況に関する、より一層丁寧な説明が必要との意見もありました。こうしたコメントへの対応が当日の発表では求められます。

柴田候補
 本発表候補は、小牧の「日本地政学」の内容や当時の評価などを明らかにすることで、アジア太平洋戦争期における地理学界の一端を描き出そうとした意欲的な内容といえます。戦時下状況の地理学的実践の解明は学史的理解にとって重要な課題であり、関与した人々の多くが亡くなっていく現在、早急に貴重な情報を収集・整理するべき問題です。小牧の思想とその実践について、丹念に原資料から分析を進めていく手法には手堅く、日本地政学が当時、なぜ国内で広く受容されたのかまで踏み込んで分析している点に好感が持てると同時に、要旨レベルで見た場合の完成度も高いものといえます。またこの話題についての聴衆の関心が高いことが予想され、活発な議論が期待できるとの意見もありました。
 しかしながら、実質的にどの程度までこの学派の思想が影響力を持ったのかについては不明なままですし、活動の与えた影響の正確な理解、他国における地政学と地理学の関係との比較など、様々な比較軸を提示しながら議論を進めていく必要性があるものと思われました。また、実践への注目は重要ですが、それがどのような局面にどの程度効力を持つものであったかを明らかにする必要があるとの意見や、「実践」という言葉で小牧の主体性が強調されている部分もあれば、状況依存的に説明されている部分もあり,全体的に未整理との印象を受けるとの指摘もありました。かなりの時間をかけて議論されてきたはずの主体性と社会との関係をめぐる議論を踏まえて、改めて内容を整理する必要があるのではないか、といった意見も寄せられました。手堅い手法への評価と同時に、この先の本研究をどう開いていくのか、その展望について提示することが求められているものと思われます。

北川候補
 候補者は、ジョルジョ・アガンベンの議論をベースに、フーコーの「生政治」概念を用いて、イタリアの移民収容所の中に現れる「ラーゲル」としての表象と「歓待としての施設」の表象という相反する空間的表象の生起する要因と問題点を指摘します。さらに「感性的なもの」への訴えが強くなり、感性の統治が極めて重要な警察的機能を引き受けている点も強調しています。となれば「美的で道徳的な表象」ではない表象のためのポジションとは一体何なのか。表象される現象における「現実」面をとらえようにも、そこでの「コトバが見つけられていない」という指摘は重要ですが、二つの空間表象よりも、少しでも当該現象に接近して見える某かの「内部」がこの発表で扱われるのか、それが見えたとして、それを報告することにどのような意味があるのか気になるところです。いずれにせよ、北川候補の内容が最先端の社会理論の咀嚼し、それを現実の場所/空間を事例に応用しようという姿勢は高く評価できます。
 できることならば、歴史的な経緯を含めてCptやそれをとりまく社会的状況を説明し、それに対する様々な立場の言説を拾い上げて分析し、その上でCptに対する知識人のクリティークに対する評価を行ない、自らの考えを披露して欲しいとのコメントが寄せられました。それとは別に、移民収容所の表象は「生政治」を用いるまでもなく、相反する二つの空間表象を持ち合わせると想像することは困難ではないので、生政治空間として論者が指摘する空間が、どのような特性を持ち、新たな解釈として、どのようなことを行えるのか、明確にする必要があるとの意見もありました。これらのコメントの背景には、収容所の客観的な実態の提示がなされないまま、言説表象のみが論じられているとの印象がネックになったものと思われ、この点の工夫が必要と思われます。

山口候補
 公共空間の管理という最新のトピックを取り上げる本候補は、ハーバーマスをはじめとする従来の公共空間論に対して、地理学からの批判を整理するとともに、特定の集団の公共空間からの排除に関する研究蓄積をまとめています。この取り組みは、これまでの実態調査に基づいた分析枠組を構築するためと考えられます。候補者は、日本におけるストリート・パフォーマーは、排除の空間の中で、平和的文化実践を作り出しており、既存の公共空間論ではとらえきれない特異性が存在していると指摘します。この特異性の指摘は重要であり、今後の経験的研究の蓄積が現在の公共圏創造プロジェクトへのアンチテーゼとなるであろうことも理解できます。
 ただ、仮にそうであるとして、若者のストリート利用状況の何を持って「平和的」とするのか、その「微細な影響を与えている程度」をどう把握すべきについては明確に述べられてはいません。また管理や抑圧といった、研究対象として「書きやすい」ものでなく、逆に学問の場で訴えにくいであろう状況に敢えて取り組むその積極的意義や枠組みが提示されていない点も指摘されました。さらに、日本の都市のストリートにおけるパフォーマーに関しては、様々な形で研究は着手されており、それらの研究を、論者の視点で整理をしたあとで、本議論を展開することによって、新たな知見が得られる可能性があるし、そのほうが、より多くの読者に理解されやすくなるのではないかといったコメントもありました。日本の特異性をどのように分節していくか、また説得的にどう説明していくかが求められているといえます。

以上
(文責:大城直樹)