2004年度部会アワー発表者公募選考過程の概要

 本研究部会では、2004年11月13日から15日にかけて開催される人文地理学会大会の部会アワー(13日午前開催)において、発表者を公募することに決定しました。7月20日を締切とし、以下の3名の応募者による発表要旨を受理しました(応募要領はこちらをご覧下さい)。発表要旨の後に、選考投票結果と講評を記載していますので、あわせてご覧下さい。

発表候補および要旨(応募順)

候補1:泉谷洋平氏(所属なし)

タイトル:ジオグラフィック・マトリックス・リローデッド-模範例としての学会発表表題

要旨:「地理学とは何か」を考える際、大まかに二つのアプローチが考えられる。一つは、「地理学とは何であるべきか」という規範的な問いから出発するやり方で、空間や場所などの概念によって地理学を特徴づけようとした過去の様々な試みがこれに含まれる。これに対し、「何が地理学であるか」という事実確認的な問いから出発し、その外延として地理学が何であるかを見定める方法が考えられる。従来、後者の立場からの研究は、前者と比較してあまり注目されてこなかった。本研究では、後者のアプローチを採用し、人文地理学会大会の一般研究発表の表題を題材としつつ、人文地理学とは何であるのか、その一側面を明らかにする。
 まず、クーンのパラダイム論を再検討する。クーンは、ある学問分野において規範となるような業績や教科書、あるいは定期刊行物をパラダイムと呼んだ。これは後に専門母型(その中でも特に模範例)という言葉で言い換えられることになるが、いずれにせよ、もともとクーンはパラダイムという概念を、「支配的なものの見方」や「概念図式」(これらの方が、むしろパラダイムの意味としてよく知られている)という観念的存在ではなく、「それを通じてその分野の規範が学ばれていくような具体的事例」という物質的存在として理解していた。しかし、具体的な実例としての模範例を通じて、当該分野で規範とされる科学的知識や技能が暗黙知的に習得されていくプロセスは、これまで人文地理学内でクーンを援用した議論においては看過されてきた。そこでまずこの点に焦点を当て、従来の人文地理学におけるクーン読解を批判的に再検討しつつ、研究の枠組みを整える。
 次いで、人文地理学における模範例の一事例として、人文地理学会の一般研究発表表題に頻出する「〜における」という表現に着目し、その実態を明らかにする。この表現は全体の約3割に相当する数の発表で用いられており、その大部分は地名と結びつく形で使用される。また、ある時点での学会発表の表題は、後続の研究者がやはり研究成果を学会で発表する際に見本として利用されており、そのような慣習的な研究実践によって「〜における」など特定の表現が典型として反復されていると考えられる。さらに、「〜における」等の表現の使用頻度を年ごとに比較すると、時代や年ごとによる格差が非常に小さく、この表現の使用頻度が、長期的に非常に安定した傾向であることが理解される。以上から、これらの表現が人文地理学の学会発表において、まさにクーンの言う「模範例」として機能していると結論づけられる。ある研究成果がまず学会発表において初めて専門家の承認を受ける場合が多いことを考えれば、人文地理学にとってこの「模範例」の持つ意味は非常に重要である。
 続いて、人文地理学における形而上学的パラダイム-通常理解される意味でのパラダイムについて理論的に考察する。まず、模範例への反復的習熟から概念図式が形成されていく一般的プロセスを考察する。次に、具体的に人文地理学において、模範例としての学会発表表題、特に「〜における」という表現や地名の使用の反復から、地理行列が形而上学的パラダイムとして形成されていくプロセスを考察する。さらに、人文地理学の形而上学的パラダイムが地理行列であることから示唆される、「学問としての人文地理学」の価値と限界や可能性について、若干の論点を提示する。

関連執筆文献
泉谷洋平2004.地名のない地理学.空間・社会・地理思想9(掲載予定)
泉谷洋平.ジオグラフィック・マトリックス・リローデッド-模範例としての学会発表表題(本報告を元に執筆中)

候補2:若松 司氏(大阪市立大学・大学院生)

タイトル:「風景」と「景観」の理論的区別の検討-ジンメル,G.「風景の哲学」の再解釈を通して

要旨:人文地理学は、それが確立された当初からlandscapeやLandschaftをつねに研究対象のひとつに数えてきた。日本の人文地理学は従来、この研究対象に「景観」という訳語を与えてきた。しかし1960年代後半から英米において人間による環境や空間の「生きられた」体験、あるいはそれらの「生きられた」関係を追究する学的潮流が登場すると、その影響を受けて日本の人文地理学者の中に、「景観」と同じくlandscapeやLandschaftの訳語として巷で広く用いられている「風景」という言葉をあえて使用する研究者が現われた。「生きられた」体験や関係をこの言葉に託して、「景観」を対象とする研究とのちがいを明示するという彼らの意図は評価できるものの、これらの研究の多くが両概念のちがいを理論的に検討して整理するという作業を行っていない。つまり、「風景」と「景観」が「主観」と「客観」という二項対立に重ね合わされるのみで、「風景」を「主観」と結びつける理論的根拠が示されていないのである。極端な場合には「風景」とは主観的な景観として捉えられることもあり、一つの概念として「風景」が認識・使用されていないことを如実に示している。既存の「景観」の研究では捉えられなかった「生きられた」体験や関係を研究の俎上に載せようとするとき、もう一度「風景」という言葉(概念)のもつ可能性を理論的に検討する必要があるのではないだろうか。
 以上に提起した問題にこたえるために、本発表ではジンメル,G.「風景の哲学」(1913)を取り上げる。ジンメルはその著「大都市と精神生活」によってシカゴ学派に影響を与えた社会学者として知られている一方で、ニーチェ、ベルグソン、ディルタイとともに「生の哲学」とよばれる思想を展開した哲学者としても知られている。われわれが参照する「風景の哲学」と題された短いエッセイは暗にジンメルに特有の「生の哲学」を基盤にしているので、「風景」と生きられた体験との結びつきを考察するのに適している。
 ジンメルの生の哲学がユニークなのは、生の自己疎外の産物である「形式」を重視している点である。一般的には、人間のありありとした生き方の本質とされる生は、固定されたもの(形式)の対立項をなす流動的なものと理解される。ジンメルもまた生を、絶えず自己を超越していく流れとして捉える。しかし彼は、この流れを形式と対比させるのではなく、こうした流れは超越のために、自らをかたどる形式を必要とすると考えた。こうした考えは必然的に、生が自己疎外の産物である形式を生みだし、そしてまたそこから溢流していくプロセスの描写を、彼に要請することになる。ゆえに生の哲学に基づいたこのエッセイを参照すれば、生きられた体験としての「風景」と、そうした体験をかたどる形式としての「景観」を一つの理論的枠組のうちに捉え、両概念をどのように区分しうるのかを明らかにできる、と考えるのである。
 本発表はこのような意図をもっているので、ジンメルの「風景」や「生」の概念にいくぶんかの再解釈をほどこすことになる。それをここではとりあえず「三元論的」と形容しておきたい。ジンメルはその生の哲学において次の三つの位相、すなわち自らを確立するために「形式」を必要とする生(より以上の生)、そのような要請にしたがって確立された「形式」(生より以上のもの)、そしてその「形式」を超越していく流れそのものとしての生を設えているように思われるからである。ジンメルの生や風景の哲学を三元論として再解釈することによって、「風景」という言葉・概念が含意する主観性の根拠(生きているという実感の根拠)を導出してくることが、本発表の目的である。

関連執筆文献
若松司(近刊予定)「「風景」と「景観」の理論的検討と中上健次の「路地」解釈の一試論」『都市文化研究』4

候補3:前田裕介氏(九州大学・研究生)

タイトル:D・ハーヴェイの地理学─個別性と普遍性の弁証法

要旨:1980年代以降、英語圏の批判地理学(左翼の地理学)においては差異の再主張ともいうべき動向がみられ、経済に対する文化の相対的自律性や新しい社会運動の意義が主張され、地理的事象のユニークネスが再主張されたりと社会的・地理的差異を新たにあるいはふたたび重視する研究の興隆がみられた。こうした批判地理学の趨勢のなかで批判の対象となったのは、マルクス主義地理学者デイヴィド・ハーヴェイ(David Harvey)である。ハーヴェイの資本主義の空間編成論は、理論を現実の歴史地理に押しつけ、階級以外の社会的差異や地理的差異を排除し均質的な世界を描き出す「全体化の理論」として、さまざまな論者によって批判されてきた。しかし、はたしてそれらの批判は正当なものだったのか。今回の発表では、ハーヴェイが現実の歴史地理との関係のなかで理論に与えている役割を明らかにし、彼の理論的実践を個別性と普遍性の弁証法として提示し、ハーヴェイの理論的実践の有効性を確認したい。
 ハーヴェイは自らの理論化の実践を「具体的抽象化」とよび、抽象的理論と具体的な歴史地理とのあいだのたえざる往還を含むものであることを含意させている。ハーヴェイの研究の方法は、歴史地理的素材からかんたんな抽象へ(下向)、そして複雑な抽象へ(上向)と向かうものであるが(理論的研究において叙述されるのは上向の過程のみ)、この運動は一方通行的なものではない。ハーヴェイは理論の統一性とともに、「歴史地理的素材による理論の絶えざる改訂」を理論化の指針としてあげている。ハーヴェイの経験的研究には19世紀パリの研究などがあるが、したがって彼にとって、それらは理論の適用であり、なおかつ理論を改訂するための足場でもある。
 この理論と歴史地理の弁証法は1990年代に入って、正義論・権利論のかたちをとってより明示的なものとなる。そこでハーヴェイは、個々の抑圧されている人や集団が世界のなかに埋め込まれたものであるにしても、その利害の個別性を超越し、より大きな利害へと拡大してゆく必要性があることを論じる。正義・権利の観念は、個別的な諸状況に根ざしたものであるが、それらからの抽象化をつうじて普遍性を獲得するのであり、ひとたび確立された観念は個別的な諸状況なかで個別的な諸行為をつうじて現実化され、ふたたび個別的なものとなる。ハーヴェイは既存の社会をよりよい方向へと変えていく足がかりとして、被抑圧者の意向がよりよく汲み取られた正義・権利の弁証法を確立しつづけることを、すなわち、正義・権利をめぐる個別性と普遍性の永続的な運動を提唱するのである。
 1990年代の正義論において、無限に存在する差異のなかから差異の抑圧の階層性と被抑圧者の連帯の条件を定義するためにハーヴェイがうったえるのが、差異が構築されている過程を理解できるメタ理論的枠組みである。ハーヴェイは自らの理論が、あらゆるメタ理論と同様に、状況に依存した不完全で部分的な知にすぎないことを認識しつつも、「労働者階級」を「資本蓄積との関係における状況依存性ないしはポジショナリティ」と定義したうえで、かつてよりも搾取的な形態をとる現代資本主義の条件のもとでの、差異に満ちた被抑圧的な人びとのあいだの「労働者階級」としての類似性の意義深さと、連帯の必要性とを主張している。
 抽象化とそれにもとづくメタ理論の構築との必要性を唱えるこうしたハーヴェイの議論を全体化的として批判することはたやすい。しかし、あらゆるものを具体的労働と抽象的労働の、使用価値と交換価値の弁証法のなかに巻き込んでゆく資本主義ほど全体化するものはなく、自らの研究はこの資本主義の還元主義的な性質を反映しているにすぎない、とハーヴェイが述べるとき、これに反論するのもまた容易ではないのではなかろうか。批判地理学における差異の再主張においてよく主張されているように、社会的・地理的差異が個別的で偶有的なものであり個々別々の研究の対象であるにしても、ハーヴェイのように「個別的な諸偶有性が……資本主義の社会的論理の構造化された内的諸要素へと変化させられている」という立場に立ち、さまざまな差異の個別性を、それらが資本主義社会のなかで内的に関係しているかぎりにおいて、包括的な視点でとらえる必要性もまたあるのではないだろうか。

関連執筆文献
前田裕介(2004)現代社会と批判地理学の地平─D.ハーヴェイの差異・空間論を中心に(2003年度九州大学大学院人文科学府修士論文)

選考投票結果
 本研究部会では部会世話人(出張中であった1名を除く5名)が3件の応募発表に対し1位から3位までの順位を付け、各候補に講評を付して、部会内で回覧し議論しました。各候補に付された順位はそのまま点数化し、この順位点を選定の基準としました。投票の結果、順位点の合計において泉谷候補8点、前田候補9点、若松候補12点(平均順位点において泉谷候補1.6点、前田候補1.8点、若松候補2.4点)となり、首位と次点の間に明確な差が出ませんでした。そこで、各世話人が記した講評を参考に部会オブザーバー2名を含めた計7名で、泉谷氏と前田氏のいずれを選定するか再度投票した結果、前田候補が過半数の4票を獲得し、最終的な部会の総意として、前田氏の発表を採用することに決定しました

講評
 今回寄せられた発表候補3件は、いずれも今日の人文地理学における理論的問題に着目しており、地理学が理論的に発展する上で重要な議論を展開しようとしています。加えて、そうした議論の中で批判的に構成される候補者個々の主張は、学界内での更なる議論を喚起しうる内容を持っていると考えられます。また、いずれの候補も雑誌掲載予定論文や修士論文をベースとした完成度の高い内容をそなえており、部会アワーにおける発表としてふさわしいものと考えられます。発表者公募という方式が、おそらくは部会発足以来、初めての試みであるにもかかわらず、これら優れた発表案が寄せられたことは、部会世話人にとって大きな喜びであるとともに、最終的に1件に絞る作業は予想以上に困難でした。惜しくも選外になった2件については、今回の選考での講評を参考とされ、同じ大会の一般発表において、さらには学術雑誌等で速やかに公表されることを切に期待します。
 上にも述べましたように、各発表候補に対しては数多くのコメントが寄せられており、それらを候補ごとに修正・編集した上で以下に列挙します。こうした講評をもとに審議し、最終的に前田氏を発表者として選定したことをここに報告させていただきます。

泉谷候補
 上にも述べましたように、本発表案は最初の投票においては過半数(3名)の世話人から1位に推挙され、その内容の卓越性が評価されました。部会アワーという場においてより広い聴衆を惹きつけるという点では、「地理学とは何か」という「普遍的」テーマを挙げ、クーンのパラダイム論という古くて新しい論点を導きにして学界(学会)ないし学における知の再生産の構造にメスを入れんとする内容は、学会員の興味を引きうるものと考えられます。また、学会発表の場における学会発表の分析という意味で、話題性やインパクトとともに議論の展開も期待されると、高い評価が与えられました。方法論的にも、学会発表表題という具体的データを計量的に分析する手法を用い、単なる話題提供に留まらない厳密な論証を期待できます。
 しかしながら、本発表案に対して主に指摘された問題点は、そのタイトルのわかりにくさです。発表要旨を事前に読むことがない聴衆には発表の内容が伝わりにくく、挑発的にもとらえられる可能性があり、改善の余地があると指摘されました。そうしたタイトルや内容から推定される、候補者のパフォーマティブな地理学批評のスタイルは、聴衆にとって必ずしも聞き心地の良いものとはならないかもしれません。また、発表が地理学徒の規律化・社会化という問題だけにとどまってしまうのではないか、あるいは分析結果をクーンによる科学哲学の諸概念と符合させる前提や手順はどの程度厳密なのかといった疑念も示されました。このように本発表案は、その内容の卓越性が評価され、多くの世話人の興味を惹いた反面、その論証・発表スタイルに対する懸念も提示されるという結果を得ました。

若松候補
 本発表案は、景観・風景といった概念をめぐる興味深い理論的問題を提起しており、内容も野心的で、この種のテーマは部会で取り上げられるべきだと評価されました。しかしながら、風景を論ずるにあたって、社会学者ジンメルを敢えて取り上げることの意義が選考資料には説得的に示されていませんでした。加えて、候補者の指摘する風景/景観の使い分けが一般的であるとは思えない、要旨からはジンメルの哲学と風景概念との関係が必ずしも明確に伝わってこないといった指摘があり、主観性の根拠、ないし生の拠点と関わる「場所」概念を鑑みれば、ジンメルに立ち返る前に場所―空間という一般的な二項対立について整理しておく必要があるのではというコメントも寄せられました。つまり、候補者がジンメルを通して風景を再概念化する試みには、要旨から判断される限り、やや独善的に展開する可能性があるのではという懸念が世話人の間にあったように思われます。
 ただ、前田候補と並んで、愚直ではあれ、特定のテクストを精読し、そこから得られた知見を地理学(概念)の理論的展開に結び付けようとする姿勢は、適正に評価されるべきで、そうしたポテンシャルのある研究を支援する役割も本研究部会にはあると考えられます。

前田候補
 前田候補には泉谷候補と並んで高い評価が与えられました。本発表案は差異の地理学の興隆をハーヴェイの議論を機軸に据えて検討するという点で地理思想研究部会の主題としてふさわしいと考えられます。要旨にも、ハーヴェイの理論的実践を普遍性と個別性の弁証法から再評価していくプロセスが明確に述べられており、ハーヴェイに寄り添いつつそれでいて突き放した視線も感じられます。ハーヴェイの日本における通俗的理解を是正するのに格好の報告となると期待されます。結果的に、多くの部会メンバーが著名なハーヴェイを対象とする本発表案を部会アワーにふさわしいものと判断しました。
 ただし、いくつかの批判的指摘もありました。まず、実際の発表では、ハーヴェイの各年代の業績やそのコンテクストを簡明に提示した上で、90年代以降のハーヴェイの動向を位置づける必要があるということ。つまり、常にハーヴェイを読み込んでいてその業績を議論できるような聴衆にも、他方であまり詳しくないような一般の聴衆にも、それ相応に理解される報告が望ましいと考えられます。理論的研究は観念的な議論に陥りがちですので、ハーヴェイの業績を先行研究や他の領域の研究の中に位置づける作業も必要となるでしょう。また、若松候補とともに、前田候補の要旨にも候補者の考察の枠組みが明確に提示されていない印象を受けますので、当日の発表ではその点も配慮される必要があると思われます。

以上

(文責 山崎孝史)