第89回地理思想研究部会
2007年7月21日(土)
於:神戸大学瀧川記念学術交流会館

観光における「伝統の転移」―J.ラカンの概念による観光研究の可能性―
遠藤英樹(奈良県立大学)


 エリック・ホブズボウムによれば,「伝統の創造」とは「ある時期に考案された行事がいかにも古い伝統に基づくものであると見なされ,それらが儀礼化され,制度化されること」であるとされている。観光においては,こうした「伝統の創造」といった現象が頻繁に見受けられる。
 「よさこい祭り」も「創られた伝統」である。この祭りは,今でこそ高知県になくてはならない「伝統の祭り」として地域における多くの人びとに考えられているが,もともとは1954(昭和29)年に商店街振興を促すために考案された祭りである。
 しかし,より丁寧に見ていくと,「よさこい祭り」には「伝統の創造」といった議論だけではとらえられない興味深い現象も見てとれる。「よさこい祭り」にあっては,その伝統行事が本来存在していたはずの場所から離れ,別の場所へと移植されるという現象が見られる。
 たとえば「よさこい祭り」は北海道札幌に移植されることで,「YOSAKOIソーラン祭り」となっている。「YOSAKOIソーラン祭り」は,高知県のよさこい祭りと北海道のソーラン節がミックスされて1992(平成4)年に生まれた祭りである。毎年6月に開催され,北海道・札幌の初夏をいろどる行事として定着してきており,地域の人びとによって次第に「伝統」として考えられるようになっている。
 このように観光にあっては,ある地域の伝統と考えられていたものが別の場所に移植され,別の場所の文脈において再定義されることが時折見受けられるが,北海道に移植され,再定義された伝統,それこそが「YOSAKOIソーラン祭り」だと言えよう。その他にも,高知県の「よさこい祭り」は様々な場所に移植され,北は北海道から南は沖縄県まで,ほぼ全国で「よさこい祭り」が行われるようになっている。
 このような現象は,「伝統の転移」ともいうべき問題を生み出している。それは,「地域アイデンティティ」というものが有する位相に深く関わった問題である。「YOSAKOIソーラン祭り」では,本来,北海道札幌に内在する地域の文脈に根づき,表象・創造されるべきであったイベントが,高知の地域アイデンティティとして表象されている「よさこい祭り」のかたちをとって現れている。ある地域の伝統行事に投影される人びとの想いや思惑が,他地域の伝統行事に投影される人びとの想いや思惑のかたちをとって現れているのだ。
 そもそも「転移」とは,シグムンド・フロイトやジャック・ラカンをはじめとした精神分析学者たちが中心に据えた概念で,自己の感情や想いが他者の感情や想いとシンクロナイズ(同調)する現象を言う。フロイトやラカンの理論を用いて精神分析学を日本で展開している新宮一成は『ラカンの精神分析』(講談社現代新書)で,自らがあつかった症例から,「イギリスへ留学したい」という自己の欲望が,治療の過程で「フランスへ留学したい」というクライエント(患者)の想いとシンクロナイズ(同調)し転移し,新宮自身は結局フランスへ留学することになり,クライエント(患者)はイギリス文化論へと専攻を変更した事例について述べている。クライエント(患者)が父親に対する愛情や憎しみを精神分析を行う者に転嫁させるのも,感情や想いがシンクロナイズ(同調)した現れである。「伝統の転移」においても,これに類似したことが生じている。北海道という地域の伝統行事に投影される人びとの想いや思惑が,高知という他地域の伝統行事に投影される人びとの想いや思惑とシンクロナイズ(同調)し,他地域の伝統行事を自分たちの地域のアイデンティティとして考えてしまう。
 ジャック・ラカンのテーゼ「人の欲望は他者の欲望である」において表現されているように,私たちの想いや思惑や欲望は,自分の内からではなく,他者からもたらされたものであり,社会の中で他者と結ばれているかぎり他者の想いや思惑や欲望を自分のものとしてみずからの中にとりこんでしまう。私たちが地域の伝統行事に投影している想いや思惑もまた,私たち自身の内にその起源を持っているかのように見えながら,実はそうではなく,他者や,他地域の人びとによって形づくられたものなのではないだろうか。2006年(平成18)年度の「よさこい祭り」で出演していたあるチームは,そのことを象徴的に表現していた。そのチームは香川のチームであったが,徳島の阿波踊りの振付けをしながら,高知で「よさこい」を踊っていたのだ。
 もちろん他地域に移植され再定義された伝統行事が逆に,それが本来存在していた地域の伝統行事に影響を与え,そのあり方を変えることもある。たとえば北海道の「YOSAKOIソーラン祭り」が,高知の「よさこい祭り」のあり方に影響を与えたりする。このように「伝統の転移」にあっては,地域のアイデンティティが,まるで合わせ鏡に映る「鏡像」のように形成されているといえる。
 現在,観光による「まちづくり」において自分たちの地域アイデンティティを発見し,地域らしさをアピールすることが重視されている。しかし「伝統の転移」という概念を通して考えるならば,そのアイデンティティは他者や他地域の人びとの想いや思惑がシンクロナイズ(同調)し形成されたものかもしれないのである。地域のアイデンティティを基盤とした地域づくりをすすめる際には,そうしたことについて私たちはより注意深く考えていく必要があるだろう。

〔所見〕
 歴史地理研究部会と結果的に日程が重なったこともあり,参加者は22名と近年の地理思想研究部会の情況に鑑みると少なめであった。しかし「ラカン」などという,ややもすると地理学徒にとっては難解さだけが想起されがちなビッグネームをタイトルに含む報告は,実際にはハッタリや韜晦のない,きわめてわかりやすい良心的な内容であった。若干の事実関係の質疑の後,コメンテーターの内田忠賢氏(奈良女子大学)より,@よさこい祭りは観光イベントといえるのか,Aよさこい祭りの移植は主体どうしのメンタルな相互作用を前提とする「転移」というより,むしろ「よさこい」の形式が模倣された結果ではないのか,という主旨の質問がなされた。遠藤氏は@に対し,近年の観光研究では観光の概念が幅広く捉えられており,よさこい祭りも観光の枠内で考えうるとし,Aについては単に形式の模倣に留まらず,地域(おこし)への想いや欲望が転移していると応えられた。その後は,良心的な報告内容の裏返しとしての「ツッコミやすさ」も手伝って,多種多様な質問がフロアから発せられるに至った。論点は多岐に亘り,よさこい祭りなどの「和風」イベントとナショナルアイデンティティとの関係性,何処の誰がよさこい祭りを「伝統」とみなし「ナントカらしさ」と呟くのかという表象の担い手の問題,これに関連した表象の移ろいやすさや強度の問題,個人レヴェルの精神現象として論じられてきた「転移」概念をダイレクトに地域集団レヴェルに当てはめうるのかという問題,真正性(オーセンティシティ)の概念に内包される権威性が「よさこい」に見出せるのかという問題,そしてアンダーソンのいう「モジュール」概念と踊りの形式の類似性など,充分にあったはずの討議時間も短く感じられた。この討議の活発さは,参加者の過半数がなだれこむという想定内の展開をみせた懇親会にも持ち越され,社会学畑の出身でありながら人文地理学会の会員でもある遠藤氏を囲んでの議論に花が咲いた。細かい「実証」を要求しがちな地理屋のハビトゥスに遠藤氏は閉口されたかもしれないが,刺激に満ちた知の空間の中心的アクターとなってくださったことにお礼申し上げたい。最後に,本所見をまとめるに当たり,多岐に亘った討議をきっちりと文字化してくださった,大阪市立大学大学院生の山口 晋さんに感謝したい。

(参加者22名,司会:山口 覚,記録:島津俊之)