第87回地理思想研究部会(公募発表)
2006年11月11日(土) 於 近畿大学

地理学の開闢、または語りえぬものの地理学
泉谷洋平(フリー)


 本報告の目的は、独我論、風景相といったウィトゲンシュタインの哲学的課題を検討しつつ、そこから場所の固有性をめぐる諸問題を、<私>の固有性の問題と関連させて考えるための基盤整備である。
 まず、議論の出発点として、京都駅や大阪土佐堀通りで私がふと体験した非日常的な「語りえない」感覚を例示した。私は、何気なく日々の生活を営む中で、ふとある場所の表情、特徴、本質などに触れてハッとしてしまう瞬間を体験することがある。この私の体験は、私にとってその体験が生じた場所のある種の固有性と切り離すことができないように感じられる。こうした体験のことを便宜的に「場所の発見」と呼ぶことにするが、その語りえない不思議さ、あるいは不思議な語りえなさは、果たして人文地理学という知の営みとどういった関係を持っているのだろうか。
 この「場所の発見」に伴う独特の体験は、須原一秀の蒐集した「変性意識」の事例として理解することができる。須原によると、変性意識とは、(1)何かのきっかけに、(2)時空間や主観客観、自己や言語に対する感覚が日常的なそれと著しく変わってしまい、(3)恍惚感、眩惑感、解放感、溶解感などを体験し、(4)やがて元の日常的意識に戻る、以上のような意識状態のこと指す。ここではまず須原の考察や事例提起を踏まえて、私自身の「場所の発見」の体験を意味づけた。その結果、「場所の発見」 の体験とそれに伴う独特の身体的な感覚は日常頻繁に生じうること、そしてそれらが日常世界(とそれを支える諸規範)からの離脱の契機となりうることなどが確認された。しかし、私にとっては「場所の発見」の感覚の独特な「語りえなさ」の正体が重要な問題 の焦点であるのだが、須原の議論の射程内では、この「語りえなさ」の問題が欠落している。これは、彼が自身の問題関心に従って、語りえなさの問題を「身体性を通じた相互理解」や「暗黙知の理論」に訴えることで乗り越えていることに起因する。
 そこで次に、こうした「語りえなさ」の問題に踏み込むため、同様の体験現象について考えていたと思われるウィトゲンシュタインの哲学を、永井均による読解を参照しつつ検討した。ウィトゲンシュタインの哲学は、存在論的独我論(=独在論)の語りえなさ、すなわち「この」世界の唯一の原点としての<私>がいかに唯一の比類なき存在であるか、このことの「語りえなさ」の直感的認識と語りえない故の身悶えを重要な背景とする。彼の晩年の哲学を具体的に検討するための準備として、私自身が幼少時にチョコレートを食べた時の体験を紹介しつつ、この「語りえなさ」への「身悶え」の手触りを解説した。次いで『哲学探究』第二部の考察に進んだ。ウィトゲンシュタインはここで同一の図像が全く異なる風景相(アスペクト、相貌)に見えてしまう際の心的体験をめぐって考察している。言語にとって本質的なのは語の使用であり、語の意味は言語活動にとって何ら本質的ではないという考え方が、後期ウィトゲンシュタインの到達点であった。同様に、例えば有名なアヒルとウサギの反転図形の事例に見られるように、同一の図像にそれまで見ていたものとは異なる風景相を発見した瞬間の閃きや驚きといったものは、たとえそれがその風景相を認識した当の者にとって無視しえないインパクトを持ったとしても、世界内の出来事の記述として有意味には語られえず、全く本質的ではない。これがウィトゲンシュタインの洞察なのだが、しかし、逆説的にもウィトゲンシュタイン自身がこうした閃きや驚きの体験を動機として哲学的な仕事をしていたと考えざるをえない側面が、彼の著作の端々に見受けられる。こうした捻れに、独在論をめぐるウィトゲンシュタインの態度が、語られずして現れていることが示される。つまり、実は風景相の認知における閃きや驚きを有意味に語りえないということは、彼の世界観の根幹をなすこの独在論の語りえなさと構造的に同型なのである。以上から、「場所の発見」の体験の驚きの中に「場所の固有性」として感知されたものが、独在論における「この私」の比類なさからの派生であることが示唆される。
 最後に、(A)サヨク的、(B)ウヨク的(いずれも須原の用語)、(C)独在論的、という三者を比較しつつ、それぞれと対比的な「人文地理学」のあり方を概略的に提示した。「社会貢献」が課題として認識されるような昨今の人文地理学の風潮は、これまでそうした言説が常に課題として叫ばれていたわけではなかったことを考えると、その前提にあくまで個人の自由な研究行動が想定されていることが分かる。つまりこれは、個人から出発して社会的次元での利害調整を問題とするリベラリズム的道徳観念、あるいは須原の言う利己的で合理的なサヨク的行動様式と根本で通底すると思われる。これに対し、変性意識状態を経由して身体で認知された生の現実に言語よりも身体で反応しようとするウヨク的行動様式は、身体性や暗黙知の概念を経由して語られない地理的感覚の追求に向かう人文主義地理学と親和的である。この方向性は、個人−社会図式の世界観において後者に比重を置くコミュニタリアン的な道徳観念と親和性を持つことも想定される。独我論においては、個人−社会図式ではなく、独我論的に理解された、特定の個人とは本質的に無関係であるようなこの<私>と、それに対して開かれる<世界>との対比が基本構図である。ここでの道徳観念においては、そうした<私>の幸福を最大化することが基本となるが、こうした世界観・道徳観と親和的な人文地理学の営みは、むしろ語られるのではなく、語られずにただ<私>によって実践されることを通じてのみ示されるだろう。

〔コメント〕(中島弘二・金沢大学)
 「場所の発見」の語りえなさが<私>の固有性につながることをとらえた報告者の問題提起は、非常に刺激的であった。今回の議論で出された永井均の「語りえぬもの」の理解には2種類がある。一つは論理形式や生活の形式など世界に関して一般的に関係するという意味で超越論的なもの、もう一つは倫理的善悪や宗教的存在など総じて世界を超えているという意味で超越論的なものである。このうちコメンテータは前者に関心を寄せてきたが、報告者は今回、後者に焦点を当てたように思われる。すなわち、「場所の発見」において語りえないのは、場所を発見した<私>ではなく、「場所を発見する」という体験そのものであり、言い換えれば、私と世界の関わり方の語りえなさである。このような感覚は、世界が私を越えているという感覚に結びつくだろう。その一方で、「語りえなさ」を体験しているのが「どうやら私だけではないらしい」とウィトゲンシュタインが述べているように、語りえない体験をする<私>という自己了解には相互性が備わっている。この私と世界の超越的でいて相互了解的な関係の追究、ないし「世界」の語られなさと地理学的知との関わりの追究は、結局ダルデルが述べた「地理学は認識と存在の間にとどまるしかない」という理解に結びついていくのであり、そしてそれはウィトゲンシュタインの洞察と同じ地平にまで到達するのではないだろうか。
〔リプライ〕
ダルデルの「地理学は認識と存在の間にとどまるしかない」という点は、地理学を考えていけば必ずぶつかる点である。ただ、そこでとどまるのではなく、そこを出発点としていきたい。コメンテータの言う「語りえぬもの」の二つの理解や、報告者とコメンテータとの立場の差異については、やや分からない点があるので今後さらなる議論をしていきたい。

〔質疑〕
Q:「変性意識」が「ウヨク性」につながるのならば、それは間主観的なものであり、「語りえなさ」をともなう「場所の発見」がその一部であるという理解は妥当なものなのか。また、そうだとすれば「変性意識」の議論は今回の議論の(本質的な部分ではなく)枕に過ぎないのではないか。
A:当初は本質的なものと考えていた。しかし、「変性意識」には語りうる部分と、「語りえない」部分を一緒に語っている部分の二つが内包されているものの、結局「語られなさ」という視点は欠如しているという理解に至り、導入的な位置づけにとどめることにした。
Q:「場所の発見」とは意識化であり図像化である。今回の発表では、そのような意識化・図像化する過程にあるフィルターを分節化・差異化し、とりわけ<私>に注目し、「他人には伝わらないもの」として「場所の発見」を論じていたが、そもそも「他人」が前提とされていなければこの論は成立しないのではないか。言い換えるならば、意識化・図像化の過程のコンテクストにある社会という点をもっと見つめ、日常社会・生活のなかで生きている「私」という理解を根底に置く必要があるのではないか。そもそも意識化の過程は分節化できるのか、またできたとしても分節化したあるカテゴリー(たとえば「ウヨク性」・「サヨク性」・「独在論」)にのみにきれいに分類されるようなことはあるのか。コンテクストによって「ウヨク性」にもなり「サヨク性」にもなるのであって、その間を常に揺れ動いているのが普通である。独在論とはその揺れ動きをまさに示すものなのではないか。
A:「確信に近いところを批判されている気はしたが、今ひとつ分からない」という関係があってもよいのではないか。

(参加者39名,司会:島津俊之,記録:上杉和央)