第84回地理思想研究部会
2006年2月18日(土) 14時〜17時 キャンパスプラザ京都 第1会議室

「風土性と持続可能性」 オギュスタン・ベルク(フランス国立社会科学高等研究院)

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<要旨>
 風土の問題は人間存在そのものの問題であり、和辻の風土論は無論重要なものであるが、それに対しては誤解が存在している。これは和辻が依拠する存在論そのものの難しさから来るものである。風土性が「人間存在の構造契機」であると説く序言と第1章は、それゆえ多くの場合飛ばされて読まれてしまう。存在論的地理学は、エリック・ダルデルの『L'homme et la terre人間と土地』(1952年)にも見られ、彼の「geographicite(地理性)」の概念を和辻の「風土性」と比較することは興味深い。だが、ダルデルの概念は専門的な語に過ぎて、和辻のように社会的なインパクトを与えることは無かった。そればかりかフランスの地理学会でも無視されてきた。再評価は1970年代以降である。
 和辻の『風土』は、英語に翻訳されたものの、概念の訳が拙く、彼の意図が伝わってはいない。独語訳の方がまだ良い。和辻の矛盾は、第1章以前と第2章以後とで環境決定論に対する違いが見られるところにある。「解釈」と「主体性」の問題が、異国における自分の印象(主観性)を解釈することで構成される彼の第2章以降の部分に存在しているからである。人間関係の二重性、すなわち「個人的でもあり社会的でもある」という、この「個人的」と「社会的」の間の契機が問題なのである。これこそが「風土性」なのである。契機Momemtとは、二つの力の関係である。二つの力が一緒になって一つの方向に動いていくことを指す。風土はフランス語でmilieuであるが、風土性に対応する語として、私は存在論的意味を強めるために「メディアンスmediance」という語を用いる。これは、「半分」ないしは「二重的」であるというラテン語のmeditasに由来するものである。
 和辻の『風土』は、人間と環境の新しい関係を築く上でパワーを持った本である。だが、風土論と実証科学との間にはギャップがあり、現象学の立場からだけではこれを乗り越えることはできない。もっと実証科学に通じるようにしなければならない。和辻のヒントとなったのは、ハイデガーのDasein(そこ:自己的局所以外の空間)とAusser-sich-sein(外に出ている)という考え方である。これはメルロ=ポンティの身体性の現象学に受け継がれるものである。そして実証科学に通じるヒントは、ルロワ=グーランの人類学にある。霊長類の人類への進化において、もともと中にあった機能を外に出していく過程がある。これが即ち技術システムである。技術として外に出るものの、その一方で意味/象徴として身体/脳に戻る。世界の果てまで外部化しまた身体に内部化していくプロセスである。この場合の外にあるもの、それが風土であり、そこには身体性が生きている。これこそが通態的なものと私は考える。世界の通態性とは、同時に物理的現実、精神的現実、肉体的現実であるということである。
 和辻は、現象学でいうところの肉体性を踏まえて、風土は人間の肉体であるとしたが、このように風土を身体の延長としてとらえると、環境はどのように実証自然科学に根拠付けられるのだろうか。わたしの場合、ユクスキュルの動物行動学を適応することで、それは解決されている。生物圏biosphereにあって、動物の生きている環境は単なる空間ではないとユクスキュルは言った。所与の環境をUmgebungとすると、生物のそれなりの環境はUnweltである。Umgebubgを述語化(「〜のための」という解釈:西田による)するのがUnweltである。人間も無論Umweltに生きるが、技術的体系と象徴的体系を持ってさらに高次なWeltにも生きている。これは通態的・風土的なものであって、単なる環境Umgebungではない。世界は地球を基盤とし、制約から自由へ、また上/精神/文化の方へ向かっていく。これは人間の歴史の「おもむき」そのものである。そしてこうした環境世界の述語化は、環境決定論に対する反論となりうるのである。
 無論、良い面だけではない。危ない面もそこにはある。これは環境問題だけでなく、人間の存在基盤を失う可能性を持っている。基盤・基底substanceを離れては空回りするしかないのである。世界は無基底(西田)ではありえない。だが、世界の論理だけで回っていけば、基底を無視して進んでいく(自己絶対化)。現在は反省の時代を迎えている。人間世界のecological footprintは地球の1.3倍であり、より拡大していく。このペースでは「死」へと進むだけであり、持続性を保つためには、新しい環境倫理が必要となる。そしてこれは、言い換えると「風土倫理」でなくてはならないのではないかと思われる。わたしたちは自分の存在が、そこにかかわっていることを強く意識すべきである。

<コメント>(山野正彦:大阪市立大学)
 大略以下のような質問が出された。@自然の中に人間が埋め込まれているというのは地理学の普遍的課題であったはずだが、なぜそのような試みが放棄されたと考えるか、A風土は具体的にどのようにとらえることができるのか(経験的・観察的にか)、B同様の含意を持つ景観・風土という語ではなくあえて風土という語を用いるのはなぜか。これに対してベルク氏は、@地理学が専門化し全世界の解釈からある問題そのものへとスライドしていること、A方法論的にはそこに済む人間の主体性を理解することが必要であり、参与観察もそれに含まれないことはないこと、B景観・風景は近代的な思考に基づくものではあり客体化されており、さらに風土は環境をも風土としてとらえることができるという利点がある、と応えた。「地理思想」研究部会でのコメントとあって、地理学の枠組みにこだわった内容であったといえる。

<質疑>
その後、フロアからは非会員を含めて質問があった。風土性を失ったとき人間はどのようになるのかという質問に対して、風土性は人間存在の構造契機であり不可欠であるため、それを失うということは人間の存立基盤の半分を失うことになり、「偽物の世界」が立ち現れると回答した。また、社会や政治という視点が必要ではないのかという質問に対しては、人間の生活は常に政治的なものでありその次元への視点は非常に重要であることを、自らの研究の履歴を紹介しながら答えた。さらに、風土性の議論では人間主体が無条件に措定されているように思われ、主体を規定する社会的構造に対する視点が必要ではないのかという質問があった。確かに人文主義地理学に対する批判の一つが政治的な過程や主体のポジションをめぐるものであったことを考えれば、ベルク氏の風土性の議論で前提とされている人間存在への問いは妥当であったように思われる。しかしながら、それは現在という立場を前提としていることも事実であろう。ポストモダン地理学が行き先を失いつつある今、あえてハイデガーの視点を再び取り込みながら対象を捉える人文地理学の可能性が示されたという点でも、意義深い報告であった。
 すでに日本語訳された著書をいくつも持ち、流暢な日本語で幾多の講演をこなしてきたベルク氏の報告とあって、当日は大学院生や若手研究者、また多くの非会員の参加を得て会場が埋め尽くされた。ベルク氏の報告内容は、これまでの著書のエッセンスまとめたものであったが、会場前面に用意されたホワイトボードは、報告中に適宜参加者の理解を助けるためにいくつもの用語が書き埋められるなど、単なる読書では経験できない貴重な報告となった。
(出席者48名、司会:大城直樹、記録:森 正人)