◆第82回地理思想研究部会・第99回歴史地理研究部会
2005年7月30日(土) 於:大阪大学

テーマ 新しい「都市プラン」論の地平

佐藤賢一(電気通信大) 近代日本朱子学と測量術
鳴海邦匡(大阪大) 「プラン」としての近世地図
千田嘉博(奈良大) 考古学・城郭研究と都市プラン研究


コメンテーター 藤田裕嗣氏(神戸大)、田原直樹(兵庫県立大)

 今回の研究部会は、地理思想研究部会が設立時に掲げた4つの重点領域のなかの「地図史と環境史の展開(既存の地図学・歴史地理学的研究の再検討)」のうち、特に「地図史」に焦点をしぼり議論を進めたものである。
 その際、矢守一彦の提唱した「都市プラン」論に注目し、テーマを「新しい「都市プラン」論の地平」と設定した。これは、人文地理学、特に歴史地理学の分野のになう社会貢献を考えた際、近年、文化財保護行政のなかで注目される「文化的景観」の意味をみていくうえで新たな視点を提供しうると判断されたからである。
上記のテーマに従い、佐藤賢一(電気通信大)の「近代日本朱子学と測量術」、鳴海邦匡(大阪大)の「「プラン」としての近世地図」、千田嘉博(奈良大)の「考古学・城郭研究と都市プラン研究」とする報告を得た。以下、3報告の概要を記す。

【佐藤報告】
 近世前半期に一人の朱子学者が残した測量術関連資料を瞥見し、当時の測量術と「プランニング」についての事例報告を提示しようとした。
 従来、日本思想史を語るうえでは、近世期の儒学者は教養として多少の知識は持っていても、暦学や測量術に関して積極的に研究を進めたという事例はほとんど無かったものとして取り扱われてきた。しかし、この通念から離れて資料を精査すると、意外な実態が見えてくる。ここでは三宅尚斎(1662〜1741)という儒者にスポットを当てた。
 山崎闇斎門下の儒者として知られていた三宅尚斎が、意外にも測量術(当時の用語では「町見術」)に通暁していたことを示す史料が再発見されたのは近年のことである。(沼田敬忠『小学本註九数名義諺解』(1720年)と同沼田氏加註『阿蘭陀町見』(1721年)が主たるもの。)
 現代的観点からすれば「理系」の学問分野に属する測量術を、なぜ儒学者が研究をしていたのであろうか。自然界の秩序と人間界の秩序の間にはある種の連続性・親和性が存在することを前提とする朱子学においては、「天地」に関わる事柄は重要な研究対象なのである。さらに言えば、暦法策定(天文観測)と地図作製(測量術)を為政者の必須業務として位置付けてきた東アジア的伝統も背景としてあった。三宅が活躍をしていた時期を見ても、幕府は1680年代に改暦(貞享暦策定)を実施し、1690年代には4回目となる国絵図調進事業を諸藩に命じている。三宅自身の周囲にもこの国絵図作成に関わった人物が数名いたことが知られている。後知恵を以て言えば、彼にとって測量術を学ぶ環境はごく自然に整えられていたようである。
 一方、当時の測量術の実態に目を転じると、近世前半期は各地の城下町建設や新田開墾などがすすめられたまさに国土開発期で、様々な分野で様々な用途の測量術が実践されていた。本来は砲術、航海術、鉱山掘削等々の場面で用いられていた測量の技術が、雑然と導入され、体系付けられることもなく日本の測量術として定着していった。それらの技術を以てして全国各地で作られたのが一連の国絵図である。むしろ、幕府が主導した国絵図調進事業がきっかけとなり、全国各地に測量術の需要が生み出され、技術としての測量術の体系化が促進されたと言うべきであろう。(例えば、清水流の測量術という一派が歴史上著名であるが、その成立はまさに1690年代に求められる。)
 ここで問題としたいのは、このようにして体系化された当時の測量術が、「プランニング」という行為と何か関わりを持っていたのか否かという点である。
 秩序や環境の改変を伴うプランニングという行為の実現には、何らかの政策決定(権力)が介在しているはずである。現在ならば、「技術」の進展がこのような政策決定に影響を及ぼすことはごく普通のこととなっているが、近世日本の場合はどうであろうか。技術(測量術)が進展したことを受けて、幕府や藩はそれを政策決定に利用していたであろうか。結果は全く逆のようで、近世前半期の測量術が体系化され、整理されたのは国絵図調進という政策が先にあったことに求められる。
 三宅尚斎が熟知していた測量術もこの範囲に収まっており、朱子学者として為政者の指針となるべき技術上の提案をしているわけではない。例えば「江戸」という町を彼は測量する技術を持っていたには違いないが、そこから飛躍して、あるべき王都・帝都の姿を儒学者として都市計画の俎上に載せるという発想は三宅の中には現れていなかったようである。測量家と儒学者の立場が彼の中で分断されていたといっても良いであろう。このように、朱子学者が測量術を熟知していた事例は三宅に求められるが、それを「プランニング」という政策レベルの議論まで発展させた者の存在はまだ見いだされていない。当面の結論はこのようなことになろう。

【鳴海報告】
 日本の都市史をめぐる研究が1950年代以降、様々に展開してきており、統合的な都市史研究という点では、矢守一彦による「都市プラン」を越える研究はなかったといえるのではないだろうかという問題意識から報告を行った。近年では、特に近世都市をめぐる研究として社会史的なアプローチ、都市構造の各要素や機能といったテーマに関心が集まり、都市史をめぐる関心からプラン、つまり「かたち」をめぐる議論は外れていっているようにみえる。しかし、都市プランの議論を終える前に、その理論的背景を理解しておく必要があると考えている。それは、その理論的枠組みが、現在の文化的景観といった景観保全の場面において有用と報告者は考えるからである。
 そもそも「都市プラン」という言葉は、矢守による造語であり、Stadtgestalt(都市の形態)の意味に近い。このプランに注目したのは、それを幕藩制社会の「地域構造」をみる指標として位置付けたからであった。それは景観の復元を目的とする試みではない。このように都市プランの研究は、都市の形態学Morphologyとして実施されたものと評価できる。そのことは、ドイツ近代地理学以降の「景観」や「形態」をめぐる理論的系譜をひくものとして「都市プラン」論を位置付ける必要があることを意味する。例えば、ラウテンザッハのFormenwandel(形態変化)論はその契機のひとつとなる議論であったと考えられ、それを批判的に検証することによって矢守独自の形態論が形成されることとなった。
 さらに「都市プラン」論は、変容系列のパターンと表現されるように、形態が変化した時に機能がどのように変化するのかという「変化のルール」の類型を試みるものでもあった。その際、都市プランを全体のまま扱うのではなく、各空間要素に注目して発生学的な分析を行うものとしている。こうしてみてみると「都市プラン」論という枠組みが対象とするものは、「かたち」と「変化」であったことが分かる。恐らく矢守の中心的な関心は近世初期城下町の形成にあった。それは「プラン」という多義的な言葉を選択した意図にも示されており、資料や関連する研究が未だ不十分であった当時、形態に注目し、主な素材として地図を撰んだことは必然であった。
 近年の景観法の制定や文化的景観という概念の創出に伴い、様々な都市の歴史性をあらためて評価することが求められはじめている。固定されたファザードとしての都市の復元や保護を行う建築学、記憶されたシーンとしての都市の再生を試みる社会学のアプローチに対して、今一度、地理学(歴史地理学)は都市の骨格、つまりプランを作り出すものに注目する意味があるのではないだろうか。加えて、「変化」を位置付ける枠組みの存在は、常に変化する都市景観を理解するフレームワークとして評価される。現代の都市を考えるうえで、近世初期城下町の成立史や建設史の理解は避けられないテーマであり、かつてよりも資料や方法論が増えた現在、より充実した環境で「都市プラン」的手法に取り組む意義があると考える。
これらの点から今回の報告では、都市の形態を規制する要因のひとつとして技術(土木・測量)に注目し、若干の検証を試みている。それは、どのような「都市プラン」の実現が各時代において可能であったのかを明らかにする作業であると考えたからであった。

 【千田報告】
 日本の中世考古学は寺社関係の遺跡・遺物がはやくから研究されてきた。都市や城の発掘調査は1960年代にようやくはじまり、広島県草戸千軒町遺跡、福井県朝倉氏一乗谷遺跡を端緒に全国へと広がった。発掘調査は1990年代まで増加の一途をたどったが、開発行為によって他律的に決められた調査区を都市全体に位置づけて検討する方法が発見されるまで、検出した遺物や遺構から都市プランの問題を論じることができなかった。
こうしたなかで城郭研究では1979年の村田修三の研究を契機に、縄張り研究と発掘成果とを融合する方法が、城下の研究では歴史地理学が扱ってきた地籍図と発掘成果を融合して細部の成果を活かして都市プランを論じる方法が1980年代に確立した。今日では都市遺跡の検討に考古学研究者が地籍図を用いることはふつうのことである。
 1988年の清須シンポ以降、一九三年に発足した中世都市研究会など多くの活動は、考古学の変化を雄弁に物語る。しかし都市プランを明らかにする研究の一般化は、研究の起点として、また都市跡を遺跡(埋蔵文化財包蔵地)にするのに大きな成果をあげたが、都市プラン復原の先に何を明らかにするのかという批判も高まった。
中・近世城下町に関しては、歴史地理学・考古学双方に研究成果がある。しかし城郭プランの検討は充分ではない。城下町の核であった城郭のプランを分類・編年すると、戦国期の拠点的な山城から近世城郭へと至る系譜性や共通性を指摘できる。これまで重ねられた侍屋敷・町屋のプラン分析に、城の視点を加えることで城下町プラン研究はさらに飛躍する可能性があると思う。そこに発掘成果の物質資料群をもとに人と空間との関係を捉える視点を組み込むことで、新たな都市プラン研究を構築できるのではないだろうか。
 あらためて3報告を要約すると以下の通りである。佐藤は、数学史の立場から、朱子学者三宅尚斎の測量術者としての側面を紹介し、「プランニング」という観点から近世初期の権力と測量術者の関係を検証した。鳴海は、地理学の立場から、矢守一彦の業績を整理したうえで、「都市プラン」論の枠組みにおける近代ドイツ地理学の系譜を指摘し、その現代的意義を評価した。千田は、中・近世考古学の立場から、考古学分野における都市・城郭研究の展開を概観したうえで、戦国期拠点城郭の分析や中・近世城郭のアクセス・アナリシスから判明する城郭プランの変遷を「都市プラン」と統合的にとらえていくことの必要性を指摘するというものであった。
これらの報告をうけて質疑応答がおこなわれた。なかでも、環境工学の立場による田原直樹氏(兵庫県立大)および歴史地理学からの立場による藤田裕嗣氏(神戸大)の両コメントは、各報告者の専門分野との間で知識や技術の面で連携の可能性を示唆したものであった。これをふまえ、都市の「文化的景観」の文化財的価値を評価していくうえで形態論的なアプローチが未だ有効な視点を有しているのではないかという点、また、この手法によって歴史地理学が社会に果たす役割があるのではないかという点など、各分野の展望を見据えた方向性が述べられるとともに、その一方で今後の学際的活動を期待する意見が中心となっていった。なお、報告の間には、大阪大学総合学術博物館の常設展示の見学も行ったことを付記する。
(参加者:53名 司会:小野田一幸 記録:土平博)