発表内容

 本報告における「植民地博物館」とは、日本政府の支配下にある海外領土に存在していた博物館のことを指す。この場合の「植民地」は、「植民地教育」などの用法と同様に、朝鮮・台湾・樺太・満洲などのいわゆる植民地だけでなく、日本軍政下に置かれたシンガポール、インドネシアなどの占領地も含めて広くとらえている。そのため、「植民地博物館」の存在形態は一様ではなく、植民地化後における新規施設の設立、旧宗主国による既存施設の継承(接収)といった設立上の経緯、あるいは置かれている政治状況などによって、その性格や求められる機能は大きく異なっている。
 そこで本報告ではまず、このような植民地博物館のもつ多義性を踏まえ、個別館園史としてではなく、総体としての植民地博物館の見取図を提出することを課題とした。その上で本報告において注目したのは、植民地博物館において日本がどのように表象されたかという表象上の具体相ではなく、日本が植民地との関係の中でどう位置づけられたのか、そして、その位置づけはどのような視線に支えられ、どのような思想によって裏づけられていたのかということを、当時の博物館関係者らの言説から読み解くことであった。
 その結果、植民地における博物館の設立とその運用という側面だけでなく、日本本土(=「内地」)の人々の関心を植民地(=「外地」)に向かわせるために、博物館という機能が活用されるという側面が浮かび上がってくることとなった。すなわち、博物館が、植民地統治を有効かつ効果的に行うための「支配装置」としてだけでなく、「内地」においてさまざまな仕掛けのもとに植民地への欲望を喚起するメディアとしても機能していたのである。
 こうした植民地と博物館をめぐる視線のありようを探ってみると、植民地博物館における「他者」への屈折した視線に気づかされる。それは、西洋における二項対立的認識論(優/劣、文明/野蛮、洗練/素朴)に基づく「オリエンタリズム」(あるいは「日本版オリエンタリズム」)に単純には回収されない、錯綜したものであったと考えられる。「他者」としての西洋への視線とアジアへの視線はかなり異質のものであり、日本が一本の直線上の西洋とアジアの中間に位置づけられていたために、その差異が屈折した「他者」像を生み出し、西洋(劣等感)/アジア(優越感)という価値軸の中で揺れ動く近代日本の感性を露呈することとなったのである。
 アジアに対しては、〈優越性〉に裏打ちされた現地に対する統御の姿勢が見て取れる。それは、象徴的には、日本の「優秀な」文化を「大東亜各国に移す」(大政翼賛会調査委員会第三委員会「大東亜共栄圏建設に伴ふ文化的対策」)という性格のものであった。
 一方、西洋に対してはより複雑で屈折したものとなる。それはとりわけ西洋諸国のもつ先進科学への〈劣等感〉に根ざすものであり、このことは、1941年12月以降のいわゆる「緒戦の勝利」によって、イギリス、オランダなどが経営していた植民地を軍事的に獲得したことによって前景化された。日本にはないような規模・内容ともに充実した多くの科学研究機関を急に獲得してしまったことによって、日本の科学者は、反照的に日本の博物館施設の貧弱さを再認識させられ、困惑することになるのである。そこには、旧宗主国であるイギリスやオランダに対する憧憬と劣等感が混在している。
 こうした優越感と劣等感の狭間で揺れ動く視線のありようは、内地(東京/大阪)と外地(昭南=シンガポール/バタビヤ=ジャカルタ)を結ぶネットワークとして構想された幻の博物館・「大東亜博物館」の構想に結実していく。すなわち、内地と外地を博物館というメディアによって結ぶことで、「大東亜共栄圏」の民族や文化を内地の人々に知らしめること、そして、「大和民族」の「優秀な」文化を大東亜共栄圏内の現地人に紹介すること、という両面を同時に実現させようとしたのである。そしてこの構想は、その二面性を解決するための当然の帰結でもあったのだ。

[コメントと質疑]
 以上の研究発表を受けて、島津俊之(和歌山大学)によって次の4点についてコメントがなされた。1)植民地に博物館をつくる本当の意図、目的は何だったのか。公式の文書ではさまざまに記されているが、実際の意図や役割はどこにあったのか。2)日本内地において植民地表象を実践していた博物館、たとえば天理参考館などの民間博物館と、ここで取りあげられた外地の公的な博物館との具体的な関係はどのようなものであったのか。3)博物館展示の実務に関わった自然科学者の意図
はどこにあったのか。つまり、国家的な方針に従いつつも、自らの理念をつらぬく研究者のダブルスタンダードのようなものがあったのではないか。4)最後に、産業奨励館などの商品陳列館と、同時代の博物館との関係はどのようなものであったのか。
 このコメントをめぐっての質疑と、コメントとは関わらないいくつかの視点からの質疑も活発に行われた。論点は収束せず多岐にわたったが、近代日本と関わりのあった植民地博物館と、その表象が持つ問題群が明らかとなり、今後の研究展開にとっては有意義であったと思われる。今回のテーマとなった植民地博物館そのものの研究蓄積はいまだ小さく、しかも個別の事例についての議論に終始しがちである。1980年代以降のトレンドとなったミュージアム・スタディーズでの議論と問題意識を共有しつつ、植民地博物館を総体として捉え、その全体の見取り図を描く意図は今後さまざまに継承されていくであろう。
(参加者30名、司会と記録 荒山正彦)