発表要旨

 現代社会において、<都市的なるもの>とは何か、を問うために、ストリート空間という都市に走る境界に注目する。ストリートは、「空間の表象」と「表象の空間」とのせめぎあい、あるいは相互の流用関係が展開する「意味づけの闘争」の場である。考察の場は1980年代後半以降の南インドの大都市チェンナイである。都市ストリートの中央で展開される「伝統の発明」的な都市祭礼ヴィナーヤガ誕生祭という大スペクタクルと、ストリートの縁辺の歩道で細々としかししたたかに実践される「歩道寺院」建設と経営という小スペクタクルとに注目する。両者の対照を通じて、フォーマルとインフォーマル、法と不法とが織りなす綾のような境界空間としても歩道空間を「下からの視点で」読み込んでみる。そこに、スーパーモダニティーに突き進む現代を生き抜く生活術、すなわち非場において場を創造する生の構え、身ぶりを発見する可能性を考察する。

質疑・討議の内容

 本発表は、発表者による編著『〈都市的なるもの〉の現在 文化人類学的考察』(東京大学出版会)を踏まえて物された原稿「ケガレから都市の歩道へ、あるいは現代人類学事始め――『〈都市的なるもの〉の現在:文化人類学的考察』を編んだ後で――」の内容を中心とする報告であり、グローバル化する社会のなかでインドの大都市チェンナイに勃興しつつある「歩道寺院」の空間(論)的な意味合いが検討された。そこで提示された視点は、M・フーコーの「ヘテロトピア」、M・オジェの「非−場」、ド・セルトーの「物語的行為の空間」、あるいはH・ルフェーブルの「生きられる空間」などの概念を拠り所にして発見/解釈された「歩道寺院」の空間性であった。
 報告の内容があまりに多岐にわたったため、質疑は主として発表者が用意した資料と編著の論文をめぐって進められたが、随所にちりばめられた空間概念への問いは思いのほか少なく、議論は発表者自身の著述ならびに「歩道寺院」興隆のコンテクストとに集中した。
まず「歩道寺院」をめぐっては、郊外における存立状況について問いかけがあり、発表者は都市圏の空間構造や貧富の差に基づく居住分化の様態を説明しながら、スペクタクル化する寺院風景を紹介した。その背景には、脱落をおそれ上昇を志向する中間層の不安定な心性があるという。ヘテロトピア的な場と景観の侵入を恐れる結果、相当にカネをかけたスペクタクルの景観が登場するのである。
 同じく「歩道寺院」の非−場としての性格について、突っ込んで質問が出された。宗教的なハビトゥスそのものが非−場的な実践のあるのか、と。これに対して発表者は、寺院を営む歩道生活者にまったく資本がないわけではなく、生活それ自体が「開かれた資本」として存在し、フローのなかで非−場としての存立が可能になると指摘した。これと関連して、寺院そのものに一定程度の歴史があることから、共同体としての性格をも持ち合わせているのではないか、という問いに対しては、「歩道寺院」の増加率が50%に達しており、特定の範域に収まらない人々から寄進があるという答えであった。歩道という特殊な場を占める寺院ではあるが、それがあくまで建造された確固たる環境であるという点で、場を占める物的存在とそれを中心に編成される社会諸関係との連関についてはより詳細な議論が必要となるように思われる。
 一方で、日本の都市空間におけるヘテロトピア的な場が存立する可能性、ひいては「表象の空間」ないし抵抗の場の生成の可能性に関する問いかけも複数あった。発表者は民俗的な知のあり方に関心を示す一方で、そうした場の存在が明確にならない状況下での研究の方向づけのもどかしもフロアからは指摘された。この点もいささか議論が拡散した感があり、必ずしも質疑応答がかみ合ったわけではなかったが、「スーパーモダニティ」と称される社会状況下で、特異な性格(抵抗の可能性)を有する場の可能性とそれを研究する営為とに議論が発展したことは、近年の人文地理学の動向を見定める上でも興味ぶかい結果となった。

(出席者27名、司会:加藤政洋)