土屋 貴志
1. 問題 選択可能なのはAとBという二つの行為しかなく、AをしなければBを、BをしなければAをすることになるような状況にあり、しかも、そのどちらを選んでも「これでよかったのだろうか」という疑問を拭いきれないような場合がある。この場合〈Aが正しくBはまちがっている〉という倫理的判断と〈Bが正しくAはまちがっている〉という倫理的判断のいずれも、完全に妥当であるとすっきり割り切ることができない。
たとえば、次のような事例がある。
生後7日目の、在胎週数24週で生まれた未熟児(体重650g)。新生児は、出産後すぐにNICU(新生児集中治療室)に運ばれてきた。この病院は極小未熟児の治療及び研究に積極的で、設備やスタッフも整っており評価も高い。
現在の新生児の状況は、出生後の呼吸状態の悪さより人工呼吸器が装着されている。生後5日目に重度の脳内出血が発症した。この状態は治療をすれば当面の生存は確実であるが、結果として非常に重い知的障害が残り、他者とのコミュニケーションがとれるようになる可能性はほとんどないと見込まれる。
また、超音波検査で心臓奇形が見つかっており、早期に外科的手術を行えば80%以上の確率で治療することができるが、手術はかなり大がかりなものであり、再手術を要する可能性もある。
主治医は6時間以内に脳内出血の治療を開始しないと、新生児の生命が危険になると判断している。母親と父親はこの新生児の治療を拒否している。
父親は一流商社に勤めており、母親は研究所に勤める生化学者である。共に30代半ばを過ぎ、二人の年収は計2000万円を越える。親戚に障害児を出産した例はなく、両親の親族も治療に反対するであろうと予想される。
主治医は両親の反対を押し切っても新生児の脳内出血の治療を行うべきか。それとも両親の希望通り治療をしないで、新生児を死にゆかせるべきか。(註1)
実際には主治医は残された6時間の間、治療に同意するよう両親の説得に努めるであろう。しかし説得が不成功に終わった場合、両親の反対にもかかわらず治療を強行する(これを行為Aとする)か、それとも両親の希望どおりに治療をしない(これを行為Bとする)か、いずれかの行為を行うことは避けられない。
このような事例において、はたして〈Aが正しくBはまちがっている〉という倫理的判断と〈Bが正しくAはまちがっている〉という倫理的判断のどちらが「合理的」といえるのだろうか。また、そういえるのはなぜか。「合理的」であることは、倫理的判断を正当化する根拠にどこまでなりうるのだろうか。
ところで「合理的」という言葉は、今日一般にどのように定義されているか。いくつかの辞書の記載をひろってみると、まず『広辞苑』第四版(岩波書店、1991年)には「(1) 道理や理屈にかなっているさま。(2) 物事の進め方に無駄がなく能率的であるさま」とある。また『大辞林』第二版(三省堂、1995年)は「(1) 論理にかなっているさま。因習などにとらわれないさま」「(2) 目的に合っていて無駄のないさま」、『新明解国語辞典』第二版(三省堂、1979年)は「道理・理論に合っている様子」と説明している。
これらの記述から取り出せるのは
(1) 道理・理屈・論理・理論などの「理」にかなっているさま。
(2) 何らかの目的を達成するための手順に無駄がなく能率的であるさま。
という二つの意味である。『大辞林』にある「因習などにとらわれない」という意味は、「理」にかなうことにのみ従うありさまであると考えられるから、(1) の意味から派生したものであろう。
しかしながら、(2) の「無駄がなく能率的」というのも、やはり「理」にかなっているからこそであり、「理」と独立に達成されるありさまではないから、(2) の意味もやはり (1) の意味から派生したと考えられる。すると「合理的」の意味としては「理にかなっている」という意味が最も根本的であることになる。ちなみに「合理的」に相当する英単語「rational」の意味として『オックスフォード英語辞典』(OED)は「理性を持っている」「理性を適切に用いる(ことができる)」などを挙げている。
だが「理にかなう」ということは、いったいどういうことだろうか。それは「納得できる十分な理由がある」ということであろう。理由や理屈が不十分で納得できないとき、それは「理にかなう」とはいえないし、合理的なことではない。ある主張が論理にかなっているというのは、きちんと納得のいく十分な理由づけが与えられているということである。理論とはそうした理由づけの体系である。また、理性とはそのような理由づけを行う能力のことであると考えられる。
結局のところ、ある倫理的判断が合理的であるというのは、その倫理的判断を下す理由が、納得できる十分なものであるということになろう(註2)。
では、冒頭に掲げた事例において「治療を行うべきだ」という判断と「治療を行うべきでない」という判断には、どれだけ納得のいく十分な理由が与えられるか。
まず、治療を強行することを正しいとし、治療を行わないことをまちがっていると判断する理由には、
(A-1) 救命できる患者(新生児)を死なせてはならないから。
といったものが挙げられる。
次に、治療の強行を不正とし、治療を行わないことを正しいと判断する理由としては
(B-1) 両親の意志を尊重すべきだから。
(B-2) 両親に大きな負担をかけることになるから。これはさらに
(B-2-i) 治療費が高額になり経済的負担が大きいから
(B-2-ii) 非常に重い知的障害児を育て介護しなければならない負担が大きいから
という二つの理由に分けられる。
(B-3) 治療を行って延命してもさらに心臓手術を行う必要があり、新生児本人にかかる負担が大きいから。
(B-4) 非常に重い知的障害児(者)は社会に大きな負担をかけるから。
(B-5) 他者とコミュニケーションがとれないのでは生きていても仕方がないから。
といったものが考えられる(註3)。
4. 立場 だが、双方の理由づけはこれで尽きるわけではない。理由(A-1) に対しては「なぜ救命できる患者を死なせてはならないのか?」とさらに問うことができる。この問いに「死を回避するために全力を尽くすべきだからだ」と答えるなら「なぜ死を回避するために全力を尽くすべきなのか?」と問われるであろう。この問いに対しては「生きていることは何よりも重要なことだから」と答えられよう。「では、なぜ生きていることは何よりも重要なことなのか?」と問われれば「生きていることは、その人と周囲の人々の関わりの基盤であり、この関わり(とそれに伴う経験)はしばしば限りなく貴重なものだから」と答えられるだろう。
もしここで「なぜ、この関わり(とそれに伴う経験)はしばしば限りなく貴重なものなのか?」と問われれば、もはや「我々にとっては、そうである(それが事実である)」としか答えようがない。したがって「生きていることは、その人と周囲の人々の関わりの基盤であり、この関わり(とそれに伴う経験)はしばしば限りなく貴重なものだから」という答は「治療すべきだ」という倫理的判断の究極的な理由となっているように思われる。
この「究極的な理由」は、人生と生命一般に関する一つの根本的な見方(生命観)を表している。この生命観は「たとえ他者とコミュニケーションがまったくとれず、単に心臓が動いているにすぎない状態でも、生きていることには関わりの基盤としての価値がある」という言明をも含意するであろう(註4)。この生命観から発し (A-1) を経て「治療すべきだ」という判断に至る立場(註5)を、ここで「関わりの基盤としての生命至上主義」と呼んでおこう。
同様に (B-1) について理由づけの連鎖を追っていくと「両親の意志を尊重すべきなのは、患者である新生児の利益を誰かが代弁すべきで、代弁者としては親が最もふさわしいからであり、それは、親が新生児のことを最もよく理解できるからである。また、新生児の利益を誰かが代弁すべきなのは、医療においては一般に、患者の利益を最大にするよう行為すべきであり、この利益は本来は患者本人の表明によるべきだが、新生児は自らの利益を表明できないから」ということになり、結局は「患者本人の利益を最大にすべきだ」という理由に行き着くように思われる。これは「患者の利益尊重主義」と呼べる立場であろう。また、(B-2)、(B-3)、(B-4) についてさらに理由を問うなら、最終的には「誰であれ、過大な負担を強いられるべきでないから」という理由に至り、この立場は「過大負担回避主義」と呼べるだろう。さらに、(B-5) はそれ自体すでに「コミュニケーション至上主義」と呼べるような立場の表明であり、これは、コミュニケーションが不可能な生に意味があるか否か、という点をめぐって「関わりの基盤としての生命至上主義」の生命観と真っ向から対立する生命観を表現している。
もっとも、ここまで「患者の利益尊重主義」と「過大負担回避主義」と「コミュニケーション至上主義」が「治療すべきでない」という判断に至り、「治療すべきだ」という判断を導く「関わりの基盤としての生命至上主義」と対立するという図式を描いてきたが、この対立図式は「患者の利益」や「過大な負担」や「コミュニケーション」をめぐる事実認定が変化すれば解消しうる。たとえば「この両親は新生児本人の利益をまったく代弁していない」とか「両親にかかる負担はけっして過大ではない」とか「この新生児はコミュニケーションを十分に達成できる見込みがある」といった事実認定がなされれば、それまで「治療すべきでない」という判断を支持していた立場が、一転して「治療すべきだ」という判断を支持することになろう。このように、倫理的立場そのものが必然的に特定の倫理的判断を導くわけではなく、ある倫理的立場がどのような倫理的判断を導くかは事実の認定次第である、ということは、十分に注意する必要がある。
しかし、事実認定の変更がなければ、対立図式は依然として存続する。なかでも「関わりの基盤としての生命至上主義」と「コミュニケーション至上主義」の対立は、根本的な生命観の対立を含んでいるがゆえに、調停不可能であるように思われる。こうした場合には「治療すべきだ」という判断と「治療すべきでない」という判断の、いずれか一方だけが合理的でもう一方の判断は合理的でないとは、もはや言えない。というのは、どちらの立場もともに、その立場を支える生命観を受け入れる者には納得できる十分な理由を提供するが、異なる生命観を受け入れる者に対してはまったく納得のいかない理由しか提供できないからである。また、両方の生命観にいくばくか理にかなうところを認めるがゆえに、どちらか一方だけを受け入れることに踏み切れないでいる者は、納得できる十分な理由を、どちらにもまだ見出してはいないからである。
すると《治療すべきか治療すべきでないかの決定に当たっては、合理性が「客観的かつ最終的な」審判を下すための手がかりになるわけではない》ということになる。治療すべきだという判断と治療すべきでないという判断は、互いに共約不可能な形でどちらも合理的である(すなわち、どちらが合理的と考えるかは人により異なり、両者の合理性を比較しうる者はいないし、そのための共通の尺度も存在しない)か、あるいは、どちらも合理的とはいえないか、のいずれかでしかないからである。
こうして我々は、倫理に関する多元主義と相対主義に到達した。ここでいう多元主義とは〈複数の相容れない倫理的立場が存在し、そのそれぞれが正当性をもつ〉という考え方のことである。また、相対主義とは〈唯一の正当な倫理的立場などありえず、ある立場はそれを受け入れる者に対してのみ正当である〉という考え方のことである(註6)。本稿の事例で治療すべきかすべきでないかという問題に対する一致した回答が得られないのは、今日において倫理的立場が多元的に並び立つようになり、その正当性が相対的なものでしかなくなってしまったからであるように思われる。
しかしながら〈倫理的判断の一致に至れないのは、その事例における事実の解明が足りないからであって、事実に関する十分な情報が得られれば、どんな倫理的立場に立っていようとも、おのずと一つの合理的な倫理的判断を導き出せるはずだ〉という考え方もある。これを「理想的一致主義」と呼んでおこう。
たとえば、近年、バイオエシックス研究の中から「決疑論 casuistry」ないし「事例に基づく推論 case based reasoning」と呼ばれる倫理学的方法が見直されてきている(註7)。この決疑論的方法を提唱する背景には〈事例に示された事実を整理し、必要な情報を解明していけば、おのずと一つの妥当な倫理的判断を見出すことがができる〉という理想的一致主義の信念があると推測される。
また、教育哲学者の宇佐美寛氏は、事例をめぐる二つの相容れない倫理的判断に関して議論させる「ジレンマ資料による道徳授業」について次のようにコメントしているが、その中に理想的一致主義の基本的姿勢が表れているように思われる(註8)。
「ディレンマなど無い方が望ましい。道徳的判断は、ディレンマを解消する方向に働くべきものである」(p.166)
「『神にディレンマ無し』である。神は、すべての事実を知っている。また今後の事実もすべて予測できる。そのような存在は、どのような意志決定はどのような結果に到るかが明確にわかる。だから、神はディレンマを味わうことが無い。
人間は、もちろん神ではない。しかし、そのように先が見え準備が出来ていてディレンマが無い状態に近づいた方が幸福である。望ましい道徳判断は「ディレンマくだき」なのである」(p.167)
理想的一致主義は「倫理的判断が一致しないのは事実に関する情報が不足しているからであり、倫理的立場を一元化できないからでは必ずしもない」と考えるので、多元主義や相対主義とは両立しうる。そもそも理想的一致主義者は「倫理的判断を下す際に重要なのは事実に関する情報であって、どのような倫理的立場に立つかではない」と考えるから、多元主義や相対主義に関する議論には、まったく関心がないのかもしれない。
しかし、ある倫理的判断(本稿の事例でいうと「治療すべきだ」)がある倫理的立場(関わりの基盤としての生命至上主義)によって理由づけられ、その判断とは相容れない倫理的判断(「治療すべきでない」)が別の倫理的立場(コミュニケーション至上主義)によって理由づけられ、しかもその二つの倫理的立場が重要な論点(他者とコミュニケーションのとれない生に価値があるか否か)をめぐって真っ向から対立している場合、事実がいくら解明されても、どちらかの一方の判断が衆目一致して是認されることにはならない。
たとえば、もし仮に「この新生児はじつはコミュニケーションをとれるようになる」ということが明らかになったとすれば、上述したようにどちらの倫理的立場も「治療すべきだ」という倫理的判断を一致して支持するだろう。だが、逆に「この新生児はけっしてコミュニケーションをとれるようにはならない」ということが明らかになったとしたら、どちらの倫理的判断が正しいかをめぐる対立は解けない。「他者とコミュニケーションのとれない生に価値があるか否か」という問いは「価値がある」か「価値がない」か、二つのうちどちらかの回答しか許さないし、どちらの回答も、それぞれの倫理的立場に立つ者にとっては、納得できる十分な理由に基づいているからである(註9)。
このように、事実の完全な解明が、かえって相容れない倫理的判断の間のディレンマを抜き差しならないものにしてしまう場合が、実際には存在しうる。そのような場合、神さえも、やはりディレンマを味わわざるをえないのではないか。もしディレンマを味わわないような神がいるとしたら、それはすでに「関わりの基盤としての生命至上主義」か「コミュニケーション至上主義」のいずれかに一貫して立っている神であろう。
しかも、神ならぬ我々は、実際には、事実の解明が不十分なままに倫理的判断を下さなければならないことが多い。《まず可能な限り事実を解明すべきであり、十分な情報を得ようともせずに安易に倫理的判断を下してはならない》と戒める点では、宇佐美氏のコメントはまったく正しい。だが、どんなに事実の解明に努めたとしても、完全な知識が得られることはない。しかも、本稿の事例において、治療の結果が実際にはどうなるのか、この新生児は本当に他者とコミュニケーションできるようにはなれないのか、心臓手術の再手術が必要になる可能性はどのくらいか、両親が翻意する可能性はないのか、といった重要なポイントについてわからないまま判断を下さなければならないのと同じように、我々はしばしば、はなはだ不完全な知識に基づいた判断を強いられる。この事例そのものはフィクションであるが、どんなに注意深く事実を確かめようとしても、結局は不十分な情報しか得られないまま、ある行為を行うべきか行うべきでないかの倫理的判断を下さざるをえないことは、むしろ日常茶飯事である。
このように、理想的一致主義は理想的信念以上のものにはなりえず、しかもその信憑性はあまり高くない。
とすると、我々はやはり、倫理的多元主義と相対主義を避けることができないように思われる。しかし、多元主義と相対主義は、倫理的判断や倫理的立場の正当化にどう関わっているのか。
多元主義も相対主義も、それ自体が特定の倫理的判断の正当化に関与することはない。〈複数の相容れない倫理的立場が存在し、そのそれぞれが正当性をもつ〉とか〈唯一の正当な倫理的立場などありえず、ある立場はそれを受け入れる者に対してのみ正当である〉と言ったとしても、たとえば「関わりの基盤としての生命至上主義」が正当であるかどうかについては何も言っていないし、本稿の事例において「治療すべき」という倫理的判断と「治療すべきでない」という倫理的判断のどちらが正しいのかを決める材料を何一つ提供しない。ある倫理的立場や倫理的判断の正当化(ないし正当性の否定)はあくまでも、何らかの倫理的立場を受け入れた者に任されている。その意味で、多元主義者や相対主義者は、さまざまな倫理的立場をいわば上空から眺めるだけの、傍観者としての位置に身をおいている。そして多元主義や相対主義は、その日和見的な高みにおいてしか妥当性を保ちえない。
倫理的多元主義は複数の相容れない倫理的立場に合理性を認める。だが、これら複数の立場が同時にすべての人々にとって合理的なわけではない。「関わりの基盤としての生命至上主義」は、この立場を受け入れた人にとっては合理的であるが、「コミュニケーション至上主義」を受け入れた人にとっては不合理な考え方である。同様に「コミュニケーション至上主義」もまた、この立場を受け入れた人にとってのみ合理的であり、「関わりの基盤としての生命至上主義」を受け入れた人々にとっては不合理な考え方にすぎない。こうした状況こそ、相対主義が描き出す〈唯一の正当な倫理的立場などありえず、ある立場はそれを受け入れる者に対してのみ正当である〉という事態にほかならない。多元主義とは、相対主義の現実に直面して、仕方なく「まあ、それぞれ合理性と正当性を主張しているのだから、たぶんそれぞれに合理的で正当と言ってもいいのでしょう」と、力なく宣言しているだけなのだ。
同様の無力さが相対主義にも認められる。複数の倫理的立場がそれぞれ合理性と正当性を主張し、自分以外の立場の不合理性と不当性を糾弾し合っている闘争状態を目の当たりにして「唯一絶対の正当性は存在しない」と宣言しているのが相対主義であるが、これはそれぞれの立場の正当化の成功を確かめた上での判定なのではなく〈自分は正当化の試みを放棄する〉という敗北宣言にすぎない。
このような多元主義と相対主義は、多くの人々にとって結局どの倫理的立場も心底から受け入れることはできない、という事態を反映している。〈どの倫理的立場にもいくばくか納得させられる部分があるのだが、しかし十分に納得する理由までは与えられない〉と多くの人々が感じているという今日の状況が、多元主義と相対主義を要請しているといえよう。
だが私は、こうした中途半端な人々の状況と、それに伴う敗北主義的な多元主義および相対主義を、必ずしも否定的に評価するわけではない。それが実態である以上、この状況をむりやりに「改善」しようとするよりも、まずこの状況のなかでの「合理性」の姿を、ありのままに見つめるべきである。
どの倫理的立場も心から受け入れることはできないので、我々の多くは、本稿の事例のように特定の倫理的立場の二者択一を迫られる状況においては、合理的な(納得できる十分な理由がある)最善の倫理的判断を下すことはできず、いつまでも「はたしてこれでよかったのか」という疑問を拭いきれない、次善の判断しか下せない。
しかし、こうした疑問をむりやり消去し「これでよかったのだ」と思い込もうとすることは望ましいことではない。このような力づくの正当化は、しばしば「合理性」の概念の矮小化につながる。「理にかなう」「納得できる十分な理由がある」という、あいまいだが豊かな意味を含んだ「合理的」という言葉を「十分には納得できないが、とりあえず理屈はつけられる」といった程度にすぎない場合に用いて、それを「合理的だ」と強弁するなら、合理性の概念は次第に「無駄がなく能率的」といった乏しい内容しかもたなくなる。この場合に「合理的」という言葉は、疑問を排除し「無駄なく能率的」に〈納得できないのにむりやり納得する〉という目的を達成するための単なる手段としてしか用いられていないからである。「無駄がなく能率的」というのは「合理的」という言葉の本来の意味ではなく派生的な意味にすぎないのに、いつのまにかこれが本来の意味であるかのような倒錯が生じてしまう。
しかも、こうした力づくの正当化は、何ら理由を示すことなく自分の受け入れている倫理的立場だけが合理的であるとし他の立場を不合理として斥ける独善的な態度を招くことになる。このような態度こそ、まったく「理」にかなわない不合理なものであることはいうまでもない。
「合理的」という言葉を、拭いきれない疑問や後味の悪さを消去し、思考の効率性を上げるための単なる道具として用いてはならない。これこそ、複雑で困難な倫理的判断を迫られる今日の状況において、合理性の概念が使い捨てられてしまうのを防ぐために、いま我々に求められていることである。
(1) 当事例とそこにおける倫理的判断の理由づけの分析は、赤林朗・後藤弘子・土屋貴志・宮坂道夫『生命倫理事例集作成の試み・第1回日本生命倫理学会研究奨励金報告書』1998年、p.19以下に提示されているもの(該当部分の第一次草稿の起草者は土屋)を発展させたものである。ちなみにこの事例自体は、臨床現場で実際にあったケースを改変したフィクショナルなものであるが、しかしこのような状況は十分現実に起こりうるし、同様のケースで、両親の反対を押し切って治療し裁判になった例や、治療をしないのは障害児差別だとして訴えられた例もある。
(2) 本稿におけるこの「合理性」の定義が、西洋哲学史における多様な「合理性」の概念のすべてをカバーできるかどうかは、本稿では検証できない。また「科学的合理性」の概念を定義するためは、この定義にさらに多くの限定を加える必要があるから、「合理性」の概念一般が「科学的合理性」の概念とどう関わるかという点や、今日において「科学的合理性」の本質をどう捉え直すべきかという点に関する考察も、別稿に譲らざるをえない。
(3) 厳密にいえば (B-5) は単独では、「治療すべきでない」という判断というよりは「治療しなくてもよい」という判断の理由である。すなわち (B-5) から導き出されるのは「生きていても仕方がないから、治療を強行する必要はなく、死なせてもかまわない」という消極的な判断である。したがって「治療すべきでない」という積極的判断の主張に至るためには、(B-1) から (B-4) までのように、治療をすることのマイナス面をはっきりと打ち出した理由と結びつく必要がある。
(4) これに対しては「単に心臓が動いているだけでは『生きている』とは言わない。たとえば脳死状態の人はすでに『死んでいる』のだ」とか「他者とのコミュニケーションがとれてこそ『生きている』と言える」といった異論があるかもしれない。だが、こうした異論は、(B-5) の「他者とコミュニケーションがとれないのでは生きていても仕方がない」という見方を暗黙のうちに前提にした上で「生きている」という言葉の意味を狭く限定している。「関わりの基盤としての生命」は、我々が生きていると直観的に感じることができ、死んでいるとは感じられない状態をさす。そして、体温も血液循環もまだ保たれている脳死状態は、まだ「生きている」状態に含まれると思われる。
(5) ここで「立場」とは、ある倫理的判断を連鎖的に理由づける体系的な倫理的志向のことである。これは、その連鎖的な理由づけの「究極的な理由」としての基本的な見方の内容によって端的に記述される。
(6) この「正当性」という言葉は「合理性」に、「正当である」という言葉は「合理的である」に、それぞれ置き換えてもよい。すなわち、ここでは「正しい」とは「合理的である(納得できる十分な理由がある)」ということであると捉えられている。これは本稿が「理にかなっていることは正しいことであり、正しいということは理にかなっていることである」という合理主義の伝統に立っていることを示している。
これまで歴史上には、いっさい理由を説明せずに「正しさ」を主張する倫理的伝統が実在してきた。たとえば、正しさの根拠を「神の命令」や「聖典の記述」や「教師の指示」や「権威者の発言」に求め、その理由をいっさい問うべきでない、とされる倫理的立場がある。こうした立場においては「正当性」と「合理性」は一致せず、理由を問うこと自体が不当なこととされることすらある。だが、私はこうした非合理主義的立場にはまったく同意できないし、こうした伝統には可能な限り与しないようにしたい。
ちなみに「我々はそもそもなぜ道徳的であるべきか?(私益の追求を越えた道徳的観点をなぜ採るべきなのか?)」という問いに関連して論じられる「一般に道徳性と合理性は一致するのか?(道徳的観点を採るのは合理的なことか?)」という問題は、本稿では扱わない。
(7) 代表的な文献として Jonsen, Albert R. and Toulmin, Stephen.
The Abuse of Casuistry: A History of Moral Reasoning, University of California Press, 1988.
(8) 宇佐美寛「『ジレンマ』くだき」『道徳教育改革のためのアッピール』(『授業研究』臨時増刊・352号)1990年4月、pp.163-168.
(9)「他者とコミュニケーションのとれない生に価値があるか否か」という問いそのものを、問う必要がなく、したがって答える必要もない問いとして回避する論者もあるかもしれない。たしかに現実には、このような深刻な問いを問わざるをえないような状況にはなるべく至らないですむような途を探るのが唯一の建設的な対応であろうし、この問いをもたらした状況そのものを解消し問いを回避する以外に対処のしようがないかもしれない。しかしながら、「価値がある」または「価値がない」のいずれかの回答を暗黙のうちに前提することなしにこの問いを回避することもまた、きわめて困難であろう。
(『文部省科学研究費 [基盤研究(c)(2)]「西洋哲学における理性の概念と科学的合理性の関わりについての研究」[研究代表者・小林道夫・大阪市立大学文学部教授] 研究成果報告書』1999年3月、pp.51-58.)