会議・アメリカ障害学会第十回年次大会

土屋 貴志

 一九九七年五月二二日から二五日まで、米国ミネソタ州ミネアポリスにおいて行われたアメリカ障害学会(Society for Disability Studies)の第十回年次大会に参加しました。
 この学会は、障害および慢性病がもつ人文科学的・社会科学的意義を、さまざまな専門分野の研究者が集まって学際的に研究することを目的とした学術団体ですが、障害者運動の活動家や政策担当者の参加も歓迎しています。一九八二年に「慢性病および障害学会(Society for the Study of Chronic Illness, Impairment, and Disability)」として設立され、一九八六年に現在の名称に変えました。学会名称の原語には「アメリカ」という言葉は入っていないのですが、会員のほとんどは米国在住者で、議論もおおむね米国内の話題を内容としているため「アメリカ障害学会」と訳しても間違いとはいえないのではないかと思います。一九九七年の会員名簿によると、三〇〇人弱の会員のうち米国外の在住者は二三人で、その内訳はカナダ十六人、オーストラリアと日本が各二人、ニュージーランド・プエルトリコ・英国が各一人となっています。
 実際に大会の会場に来てみると「学会」なのですから当然といえば当然のことですが、報告者の大半は大学の教員や研究機関の研究者でした。また、参加者は白人系が圧倒的に多く、アフリカ系やヒスパニックや東洋系の人はわずかでした。男女比は、女性のほうがやや多かったようです。障害をもつ参加者でも、介助者が必要な人はほとんどいませんでした。
 日本からは、花田春兆、長瀬修、坂部明浩、石川准の四氏が参加しました。私は現在米国に海外出張中で、ワシントンDCからの参加になりました。

◎出生前診断のセッション
 さて、ちょうど十回目となった今年の大会の最大の特徴は、米国立障害・リハビリテーション研究所の資金援助を得て、生命倫理学のシンクタンクであるヘイスティングス・センターの「遺伝的障害の出生前診断」研究プロジェクトのメンバーを招き、出生前診断と選択的中絶(胎児に障害があるとわかったときに中絶すること)に関するセッションを四回も設けたことでしょう。
 ヘイスティングス・センターのこの研究プロジェクトには、今年から障害学会の会長になったエイドリアン・アッシュ氏(視覚障害者、女性)をはじめとして五人の障害者が、生命倫理学者、医師、社会科学者、遺伝学者、遺伝カウンセラー、法律家などと並んで加わっています。ヘイスティングス・センターの生命倫理学者たちを障害学会の場に招いて議論することで、障害当事者の声をさらにプロジェクトの成果に反映させようというのが、アッシュ会長らの狙いのようです。生命倫理学者たちにとっても、じかに障害当事者と向き合って議論する経験はほとんどなかったようで、セッションではかなり緊張気味でした。
 四回のセッションは一日目から二日目にかけて行われ、テーマは「遺伝的障害の出生前診断」「多様性?差別?遺伝的検査を制限できるか?」「私はなぜ羊水検査を受けた/受けなかったのか、その意味は」「障害児との生活が家族に及ぼす影響とは何か?」と、総説から次第に体験談をも含んだ具体的内容へと深められました。いずれのセッションも、それぞれ四人程度のパネリストが報告を終えたあと、会場から質問やコメントをする参加者がマイクの前に列をなし、終了予定時間を大幅に超過することもしばしばで、四つのセッション合わせて八時間以上も、密度の濃い熱を帯びたやりとりが交わされました。
 議論の一般的な傾向としては、ヘイスティングス・センターの生命倫理学者たちは女性の中絶権を擁護する立場から、たとえ出生前診断を受けて障害を持つ胎児を中絶する場合でも、それを規制したり非難したりすることはできない、という意見なのに対し、障害学会のメンバーは、出生前診断と選択的中絶は障害者を否定するものと考え、社会に広く普及していくことに強い懸念を表明する、という、日本の女性運動と障害者運動の間で交わされてきた議論とほとんど同じような対立構造が見られました。
 また、生命倫理学者は疾病を予防し治療するという医療技術の積極的意義をあまり疑っていない印象を受けたのに対し、障害学会のメンバーはより社会科学的な立場から、障害や疾病を社会的に構成されたものとして捉え、医療技術に対しても批判的な姿勢を取っているように思われました。ただし、全般的には、やはり個人個人の選択を尊重する米国社会の倫理を反映して、出生前診断を一人ひとりが選ぶべきか選ぶべきでないか、そのことがどんな社会的影響をもたらすのか、という問題設定になっており、医療による支配や誘導という視点は希薄でした。
 こうした問題設定の前提には「出生前診断や選択的中絶を選ぶことも選ばないこともできる自律的な個人」という人間観があります。しかし、私たちは実際に医師を前にして、どこまで自律的に選ぶことができるのでしょうか。自律的な個人という米国社会の人間観は、個人に責任を負わせると同時に、その個人を一人前の大人として力づける機能を果たしています。また、医師をファーストネームで呼べる米国社会では、たしかに患者は日本よりも自分の意志で選びやすいとはいえます。米国では、医師から出生前診断の説明を受けたとしても、それは単に選択肢が示されたことを意味するだけで、それを選ぶか選ばないかは、患者がその結果と責任を引き受ける以上、自由なのです。しかし日本では、医師は米国よりも権威的であり、医師が出生前診断を勧めたら、素人である患者がそれを断るのは難しいのが現状でしょう。
 したがって日本では、自律的選択をする個人という患者モデルよりも、医師に誘導される患者というモデルのほうが、より現実を言い当てているように思われます。だからこそ、日本では出生前診断と選択的中絶の問題は、一人ひとりの選択と社会的影響の問題というよりは、どちらかというと出生前診断を受けさせ選択的中絶を受けさせる医療と政策の問題として語られてきたのでしょう。
 もっとも、だからといって、日本で「自律的選択を行う患者」というモデルが不必要だとはいえません。むしろ患者が自分の意志で選択しにくい日本だからこそ、患者が選択しやすい医療環境を整えていくためにこのモデルが役に立ちます。また、米国で出生前診断の問題がまず一人ひとりの個人的選択の問題として語られるといっても、患者が医師に誘導されることがないというわけではありません。患者は医学には素人であり、医師の説明を信じそれに基づいて選択するしかない以上、やはり医師による誘導は避けられません。しかし、それでもなお、自分が選択したのだからその結果と責任は自分で負うしかないと患者に思わせる米国の医療は、支配形態としてはむしろ日本の医療より巧妙といえます。

◎その他のセッションと日本からの報告
 その他には「アイデンティティ」「コミュニティと学校」「デザイン︱アクセシブルな環境の建築」「高等教育」「権利」「障害学のプログラム」「政治」「障害について教える」「社会保障」「健康と医療」「生活の質とコミュニティ」「類似と相違︱中心的概念と障害学の出現」「元会長・現会長が障害学会と障害学の過去・現在・未来について語る」「表象・政治・隠喩」「HIV/AIDS」「歴史」「雇用問題」「障害のイメージ」「データ」など、障害学のテーマを幅広く網羅したセッションが設けられ、精力的な議論が交わされました。
 日本からは、花田春兆氏と長瀬修氏の二人が「比較的展望︱日本」と題するセッションで報告を行いました。花田氏は、日本の歴史において障害者が置かれてきた状況と果たしてきた役割を、ビデオを用いながら説明しました。長瀬氏は、障害者運動と優生保護法=母体保護法との関わりを軸に、日本における中絶と選択的中絶の議論を紹介しました。どちらの報告も充実した内容で、参加者の関心を呼び起こして非常に好評でした。
 とかく日本では米国やヨ−ロッパの動向を知ることばかりに重点がおかれがちですが、むしろ日本の障害者運動の成果をもっと積極的に世界に向けて発信していくことの重要性を強く感じました。日本の障害者運動は、思想的には世界的にみてもトップクラスの成果を生み出してきています。とくに、出生前診断と選択的中絶をめぐって過去二五年以上にわたり障害者運動と女性運動の間で積み重ねられてきた議論は、個人の選択の問題という地点から先になかなか進めない米国の議論を明らかにしのいでいます。こうした成果を日本から世界に発信していけば、世界各地の障害者運動に貢献することもできるはずです。
 もちろん、言葉の壁を越えることはたやすくはありません。だが、それを越えようと努力することこそ、障害学に携わるアカデミックな「研究者」が果たすべき役割でしょう。

(つちやたかし、大阪市立大学教員、ジョージタウン大学客員研究員)

(『ノーマライゼーション 障害者の福祉』第17巻第9号【通巻194号】1997年9月、日本障害者リハビリテーション協会、pp.74-77.)