第1回 なぜ「人体実験の倫理学」なのか----概説

 今回は、なぜこの講座のテーマを「人体実験の倫理学」と定めたのかを説明します。まずは、この講座で用いる用語の整理から始めます。

1. 用語の整理

●「人体実験」は記述的な言葉として用いる
 この講座では「人体実験」という言葉を、「人間を対象(被験者)として行われる実験」という記述的な意味で用います。
 今日一般に「人体実験」という言葉は、それだけで「非人道的な実験」とか「残虐な実験」といった否定的なニュアンスを込めて用いられています。しかし、この講座では、このような否定的に評価する意味を「人体実験」という言葉自体に込めて使うことはしません。「人体実験」はあくまで、単に「人間を対象とする実験」という、事実を客観的に描写しただけの意味で使うことにします。
 人間を被験者として行われる実験は、必ずしも「人体」に対するものだけではなく、人間の心理や意識に働きかける実験も含まれます(「人体実験」という言葉でこうした行動科学的実験までカバーさせるのはやや無理があるかもしれません)。しかし、この講座では行動科学における実験まで取り扱うことはできませんので、「人体実験」という言葉は、主に医学で行われる、人間の身体に働きかける実験のことを指して用います。

●「実験」とは?「実験」と「実験性」
「実験」という言葉は、科学的用語として用いる場合と、一般的な言葉として用いる場合とで、若干意味合いが異なります。科学的用語としての「実験」とは、仮説を検証するために、あらかじめ立てられた計画に従って行われる一連の手続きのことをさします。これに対し、一般的な言葉としての「実験」は《結果が確定していないことを実地に試してみること》という漠然とした意味で用いています。もちろん科学的な意味での「実験」は《結果が確定していないことを実地に試してみること》の一種ですので、一般的な意味での「実験」は科学用語としての実験を含む広い概念ということになります。また、一般的な意味で「実験」であることの程度、すなわち《結果が確定していないことを実地に試してみる、その試みであることの程度》を「実験性」と呼ぶことにします。
 科学的な実験にはおおむね「実験性」が含まれます。しかし、科学的実験でないからといって「実験性」が含まれないとはいえません。目的と実験計画が明確な科学的実験ではなくても《結果が確定していないことを実地に試してみる》ことはいくらでもあります。また、医療においては、治療の中に「実験性」が含まれている場合もあります。この意味で「治療と実験はまったく別物だ」と言うことはできません。

●「治療的実験」と「非治療的実験」
 ところで、医学実験の議論においては、実験計画に則った科学的実験を、さらに「治療的実験」と「非治療的実験」に区別することが一般に行われています。
 治療的実験とは、患者を被験者として、効果を検証する医療的措置が行われる患者(=被験者)本人に直接の利益があると期待しうる医学実験のことをいいます。治療的実験は他の治療法では改善効果がみられない患者を被験者として行われることが多くなります。開発中の薬や治療法を、これまでの治療で効果の見られない患者に用いて、従来の治療法と比較するデータを集めるといった場合がこれに当たります。
 これに対して非治療的実験とは、被験者本人に直接的利益はない医学実験のことで、健康な人を被験者とする場合が典型的です。また、患者が被験者であっても、その患者本人には直接的利益がない場合には、いくら他の患者や将来の患者などの利益につながったとしても、治療的実験ではなく非治療的実験になります。また、強制収容所の被収容者を用いたナチスの実験や日本軍の七三一部隊における実験など、被験者が死ぬことを前提にした実験が非治療的実験であることはいうまでもありません。
 たとえ患者に直接的利益が「あるかもしれない」としても、実験である限り、それはあくまで「治療的」実験にすぎないのであって、治療そのものとはいえません。にもかかわらず、インフォームド・コンセントの条件は非治療的実験の場合よりも緩くなっていることがあります(ex. ヘルシンキ宣言)。それは「患者の切実な要望に応えるものであり、駄目でもともと、うまくいけば患者の生命を救うことができる。救命のためにできるだけ努力することに患者は同意して入院しているのだから、非治療的実験の場合のような厳格なインフォームド・コンセントの要件は必要ない」といった理由に基づいています。しかし、まだ治療法として確立されてはおらず、効果があるかどうか判断するためのデータを取ることが本来の目的であり、最終的には治療的効果が得られず患者の身体に侵襲を加えただけで終わる可能性もあります。また、もし結果的に患者が治ったとしても、実験であったことに変わりはありません。したがって、治療的実験であっても、インフォームド・コンセントの手続きをむやみに緩めたり省略することには問題があります。

●「医学」と「医療」
 この講座では「医療」を、その外側から客観的に見ようとする医療社会学や医療人類学の視点でとらえます。たとえば佐藤純一は医療を「その社会の『病い・治療・健康』などをめぐる社会的文化的現象(行為)の中で、何らかの形で、社会的に形式化(慣習化・制度化)された営為」と定義しています(「医療」黒田浩一郎編『現代医療の社会学』世界思想社、1995年、p.4)。「病い」や「病気」という観念は、どんな社会にも、何らかの形で存在すると考えられます。したがって、どんな社会にも、病気でない状態としての「健康」という観念や、病気への対処である「治療」という観念が存在することになります。こうした観念に基づいて行われる営みは、社会や文化によってさまざまな形の慣習や制度となっています。こうした社会的・文化的事象を「医療」と総称するのです。
 こうした「医療」の定義の長所は、国家によって制度化され正統化されている医療だけではなく、民間医療や伝統医療や宗教的医療なども「医療」としてとらえることができる点にあります。そうすれば、それらの「非正統医療」と「正統医療」の間の関係を記述することもできるようになります。
 一方「医学」とは《医療を行うための学問的な知の総体》と定義できます。具体的には、何が病気なのかを定め、その原因を明らかにしようとし、どうすれば病気が治るのかを理論的に指示しようとするのが「医学」という学問です。上述の「医療」の定義に従えば、非正統的医療の理論体系もまた「医学」と呼びうることになります。

●「近代医学」
 私たちが今日一般に「医学」と呼ぶものは、上述の広い意味での「医学」のうち、近代の西洋で発達した医学を指しています。それは、日本が明治時代以来、西洋の医学を取り入れ、それのみを正統的な医学としてきたことによります。
 西洋近代の医学は、科学的であることを標榜しています。それは、人間を心と身体からなるものととらえ、身体を一種の機械であるかのようにみなしています。また、病気には必ず特定の原因があり、その原因(病因)を取り除けば病気は治る、と考えます。
 この講座では、こうした「西洋近代医学」のことを、特に意識して広義の「医学」と区別する必要のあるときには「近代医学」と呼ぶことにします。

●「倫理学」
 倫理学とは、規範の根拠を考える学問です。すなわち、どうして「〜はわるい」のか、「〜はよい」のか、「〜してはいけない」のか、「〜してもよい」のか、「〜すべき」なのか、「〜すべきではない」のか、といった理由を、他の人にも理解できるように、筋道を立てて考えるのが倫理学です*。

*倫理学についての私の考えについて、より詳しく知りたい方は、私のホームページにある「倫理学入門」の講義ノートをご参照下さい。

 ところで、規範の根拠について考えることは、必ずしも、何らかの規範を示すこと自体を含んではいません。「どうして『〜すべき』といえるのか」を考えることは、実際に「〜すべきだ」と指示することとは異なります。「倫理学する」ことと、倫理を説いたり倫理的に生きることとは違うのです。倫理学すること自体は、必ずしも倫理的なこととは限りません(だから倫理学研究者は必ずしも人格者ではないし、人格者でなければならないわけでもありません)。
 ですから、人体実験に関して「倫理学する」ことも、人体実験に関する何らかの具体的な倫理を示すことを目的にしているわけでは必ずしもありません。「人体実験をしてもいいのか、してはいけないといえる理由は何か、してもいいといえる理由は何か、してもいいとしたらどのようにすべきなのか、そうすべきといえる理由は何か」といったことを考えるのが厳密な意味での「人体実験の倫理学」であり、それは「人体実験はしてはいけない」とか「人体実験はこのようにする場合に限ってしてもいい」と実際に指示することを、必然的に含んでいるわけではないのです。そうした指示を行うことは学問としての倫理学そのものの責務ではないし、それを学問としての倫理学に求めるのは過大な要求だ、と私は考えます。
 しかしながら、私たちは具体的な現実に即して、実際に「〜すべきだ」とか「〜はよい」とか「〜はわるい」とか「〜してはならない」とか「〜してもよい」という判断(倫理的判断、規範的判断)を下さざるを得ません。ですが、この判断は、学問としての倫理学が下すのではなく、あくまでも私たち自身が下すのです。たしかに、学問としての倫理学は、私たちが具体的な現実に即して「いま、ここで」倫理的判断を下す際に、参考になる筋道を知らせてくれます。しかし、実際に「〜すべきだ」といった倫理的判断を下すのは、あくまでも私たち自身なのです。この私たち一人ひとりに課せられた責務を、倫理学という学問に転嫁してはなりません。倫理学に「〜すべきだ」という結論まで期待するのは、自分の頭で考え判断する責任を放棄し、学問の権威によりかかることでしかないのです。
 そこで、この「人体実験の倫理学」でも、具体的に「人体実験をどうすべきか」という倫理的判断を下すことは、受講者のみなさん自身の課題としてとっておくことにします。講座では、そのために参考になる資料と考える道筋を示すことを中心に行うつもりです*。20世紀末という「いま」、日本という「ここ」で、「人体実験」という問題に関して、具体的に「どうすべきか」を考えるのは、あなた自身です。

*もっとも、担当者である私自身、この講座のなかで「こうすべきだ」という倫理的判断を示さずにはいられない時もあると思います。しかし、これはあくまで、土屋貴志という一人の個人、私という一人の人間として語っているのであって、倫理学という学問の名において語っているのではありません。学問の名において「〜すべきだ」と語るならば、それは自分の個人的意見を通すために学問の権威を利用しているにすぎないのです。

 ところで「いま、ここで、どうすべきか」を考える上で非常に重要なのは、「いま、ここ」がどうなっているのか、「いま、ここ」はどのような由来でこのようになっているのか、という事実に関する情報を知ることです。そこで、この講座では、概念や論理の分析を主な方法とする哲学的倫理学(理論倫理学)とは異なり、歴史的事実や社会的構造についての考察がかなりの部分を占めることになります。私たちはいったい何をしてきたのか、私たちの社会はどうなっているのか、ということを知らなければ「いま、ここで、どうすべきか」という倫理的判断は偏ったものになってしまうからです*。そのため「倫理学」を標榜する講座なのに歴史学や社会学や文化人類学の文献を参考図書として挙げることが多くなり、哲学的倫理学の文献にはあまり触れないと思います。また、倫理学の理論的問題についてもほとんど扱いませんので、哲学的倫理学について知りたい場合は、一般の倫理学入門書や、(倫理思想史の解説を極力省いた、ごく大まかなアウトラインにすぎませんが)私の「倫理学入門」の講義ノートをご参照下さい。

*もっとも、だからといって、事実に関する情報を得られさえすれば倫理的判断はおのずから導き出されるとか、同一の事実情報を得られれば倫理的判断は必然的に一致する、とは私は考えません。この点に関しては「倫理学入門の講義ノート」の第3回にも引用した拙論「倫理的判断の正当化と合理性」をご覧下さい(私のホームページにも掲載してあります)。

2. 今日の医療と人体実験

●新しい治療法を開発するための人体実験
 上に述べたように、近代医学は科学的であろうとします。ある治療法がほんとうに効果があるのかどうかを確かめようとする際にも「科学的」な方法を採ろうとします。そこで、実験計画を立てて、その治療法が有効かどうかを検証するためのデータを集める実験が、人間の体を用いて行われることになります。
 もっとも、必ずしもすべての医療が、治療法の有効性を証明する必要に迫られるわけではないかもしれません。そもそも病気が治ることがまれで、もともと医療が病気を治すことすらあまり期待されていない社会では、患者やその家族は、医師に診てもらったというだけで満足し、治療の有効性自体はあまり問われないかもしれません。しかし、医療が病気を治すことを標榜し、人びとからもそういう期待を集めるようになると、医師たちは、ある治療法が実際に効くのだ、ということを示さなければならなくなります。近代医学はまさにそうした「治す力を持つ」はずの医療を理論づけているのです。
 しかし、一般に治療法、たとえば特定の薬や手術法は、どのようにして有効なものとされるのでしょうか。それは、患者にその治療法を実際にやってみて、その治療法による効果といえるものが得られるかどうかを確かめる以外にありません。
 もちろん、患者に試す前に、まず可能な限り動物などで試してみるべきです。動物実験は人間と動物に共通性があるということを前提にしており、ある種の症状を人為的に発現させた動物を用いた治療実験なども行われています。しかし、それにもかかわらず、動物と人間の「種」の違いにより、人間には感染したり病気を発症させたりする菌やウィルスが、動物には感染しなかったり、感染しても病気が発症しなかったりする場合があります。薬への反応も「種」によって異なる場合が少なくありません。ですから、たとえ動物実験で効果が認められても人間に治療効果があるとは言い切れず、最終的には、やはり人間に試して効果があるかどうか調べなければなりません。また、手術法などの開発では、いくら動物に執刀してもデータとしてあまり意味をもたない、という事情もあります。
 ちなみに、新しい治療法を開発するための実験は、今日では次のようなやり方で行うのが厳密で科学的とされています。ある病気の患者のできるだけ属性を揃えた集団を作り、開発中の治療法を行う患者のグループと、行わない患者のグループ(対照群)とに二分して、治療法を行ったグループのほうが平均的にみて対照群よりも高い効果が上がっているかどうかを調べます。場合によっては「プラシーボ効果」(「治療してもらった」ということだけによる効果)をあとで差し引くことができるようにするために、特定の患者がどちらのグループに属しているかを患者自身や医師にすらわからないようにする、という手続きを踏むこともあります。

●日常診療のなかの実験性
 以上のように、実験計画に基づきデータを取ることを目的とする実験が行われること以外にも、今日の医療はさまざまな形の「実験性」を日常的に含んでいます。
 たとえば、一般的に確立された治療法であっても、患者の体はひとりひとり多かれ少なかれ異なっていますので、たいていの患者には何も副作用が出なくても、まれに激しい副作用を起こすことがあります。そもそも上記のような「厳密で科学的な実験」では、治療の平均的な効果が有意に対照群よりも高いということをもって有効と判定されるので、患者一人ひとりを見れば、効果がほとんどなかった人や顕著な副作用のあった人が含まれていたかもしれないのです。すべての人に対して100%確実な治療法や、危険性がまったくない治療法は、実際には存在しません。そうすると、あらゆる治療行為は、多かれ少なかれ実験性を含まざるをえないことになります。
 また、厳密な「科学的」実験によって治療効果が確かめられているわけではなく、治療効果が生じるメカニズムすらわかっていないけれど、経験的に治療効果があるとされて一般に行われている治療法は、実際にはたくさんあります。ある特定の病気に対するものとされている治療法(薬など)を、別の病気に対して用いてみる、ということも、現実の診療においてはしばしば行われているようです。このような治療行為は、つねに実験性を含んでいます。

3. 人体実験を正当化する手続きとしてのインフォームド・コンセント

 日本では「がん告知」や「患者の権利」の文脈で語られることの多い「インフォームド・コンセント」(患者が、治療に関する説明を医師から受け、理解した上で、その治療に同意すること)は、じつは二つの異なる起源を持っています。
 その一つは米国の医療過誤訴訟です。この文脈ではたしかにインフォームド・コンセントは、患者が治療に同意しなければ治療できない、という意味で「患者の権利」を確保する機能を果たします。これは、個々の医師・患者関係の場面におけるインフォームド・コンセントの効用といえます。
 ですが、インフォームド・コンセントの効用はそれに尽きるわけではありません。インフォームド・コンセントのもう一つの起源は、人体実験のガイドラインに求められます。その歴史はしばしば、第二次世界大戦後のニュルンベルク国際軍事裁判の判決から説き起こされます。強制収容所で非人道的な人体実験を行ったナチス・ドイツの医師を裁いた判決の中に、人体実験を行う際の遵守事項が明文化され、これが「ニュルンベルク・コード」と呼ばれる古典的文献になりました。その第一条に「被験者の自発的同意は絶対に欠かせないThe voluntary consent of the human subject is absolutely essential」と述べています。また、1964年に世界医師会が発表した「ヘルシンキ宣言」は、ニュルンベルク・コードと共に、インフォームド・コンセントの歴史を語る際に必ず引用される古典となっています。
 これらのガイドラインに示されたインフォームド・コンセントの原則は、人体実験スキャンダルによって医学に対する一般社会の疑念が高まる中で、医学界が《どうすれば倫理的に容認される仕方で人体実験を行えるか》という難問に対して出した一つの回答といえます。すなわち、被験者の意志に反する人体実験の禁止を宣言することで社会的信用の回復を図りながら、被験者の自由意志を尊重する形で人体実験の継続を確保したのでした。これは、医学界と一般社会という、社会集団どうしの関係におけるインフォームド・コンセントの機能と捉えることもできます。
 つまり、インフォームド・コンセントというのは、患者や被験者の権利を護る言説であると同時に、医学界が失われた社会的信用を回復し人体実験を継続するために打ち出した戦術的アピールであるともいえるのです。この両面を見なければ、インフォームド・コンセントの本質を理解することはできません。インフォームド・コンセントは、たしかに患者や被験者の「人権」を護るために《必要な》条件です。しかし、インフォームド・コンセントさえあれば《十分に》患者や被験者の「人権」が護られるわけではありません。なぜなら、治療においても人体実験においても、患者ないし被験者の同意は、医師や研究者から与えられる情報に基づいてなされざるを得ず、その情報を医師や研究者が都合良く操作しないとも限らないからです。

4. 日本における医療倫理学の課題

 しかしながら、この「人体実験の正当化手続き」としてのインフォームド・コンセントという性格は、日本ではあまり理解されていません。日本の医学界には、インフォームド・コンセントの要求を、日本の伝統的なうるわしき医師・患者関係をぎすぎすした関係に変質させる西洋流の権利主張とみなして、排斥したり骨抜きにしようとする態度が見られます。こうした態度は、患者の権利を尊重するという見識はおろか、《医学界にとってもインフォームド・コンセントは必要で有益なものなのだ》という認識すら欠いていることを、よく表しています。
 それどころか、日本の医学界にとって「人体実験」という言葉はタブーになっているようです。たとえば、新薬開発のための人体実験はもっぱら「臨床試験」とか「治験」と呼ばれ、それが本質的に人体実験にほかならないという事実には気づきにくくなっています。こうした事情は、日本の医学界が、戦前・戦中に七三一部隊などで行った組織的な人体実験を隠蔽してきたことに呼応していると思われます。しかしながら、そのために日本の医学界は、人体実験やインフォームド・コンセントに関する見識を持てないでいるのです。
 医療についての倫理的考察、すなわち「医の倫理」や「生命倫理」の領域においても、事情は似たようなものです。近代医学にとって人体実験が避けて通れない以上、人体実験は医療倫理や「生命倫理」の本質的なテーマの一つです。実際、米国で1970年代に「バイオエシックス」(生命倫理)が学問として制度化される際に、人体実験の倫理に関する議論はきわめて大きな役割を果たしました。現在でも、米国で出版されているバイオエシックスの教科書の多くは、人体実験の問題に一章を割いています。
 しかしながら、日本人が書いた医療倫理や「生命倫理」の本で、人体実験の問題が中心的なテーマであるとの認識を示しているものはほとんどありません。そもそも医学実験の問題に触れてすらいない本が大部分ですし、たまに触れている本があっても、医学全般に関わる問題としてではなく「臨床試験」にまつわる特殊な問題としてのみ扱っていたり、ナチスが行った非人道的人体実験に言及するだけで日本の過去には触れずにすませていたりするものがほとんどです。また、せっかく日本の人体実験について取り上げても、戦争という異常な状況下の問題としてとらえるだけでは、今日の医療倫理や「生命倫理」との関わりは明確になってきません。
 人体実験の問題を正面から取り上げ、しかもそれが日本の医学界に負わされている途方もなく重い十字架なのだという認識のもとに、医学や医療の倫理を考えない限り、日本の医療倫理や「生命倫理」はいつまでたっても口当たりのいい美辞麗句でしかありえません。そして、そうしたうわべだけの「倫理」を唱え続ける「倫理の研究者」は、一人の人間としての良心を疑われざるをえなくなるのです。

●今回の参考文献
(1) R・フェイドン、T・ビーチャム『インフォームド・コンセント----患者の選択』(酒井忠昭・秦洋一訳、みすず書房、1994年、¥5800)の第一部と第二部(p.179まで)
 インフォームド・コンセントという概念が米国でどのような歴史的背景のもとに生まれてきたのか、ということが詳しく書いてあります。余裕があれば、インフォームド・コンセントの概念を哲学的に分析した第三部まで目を通されることをお勧めします。

(2) D・ロスマン『医療倫理の夜明け----臓器移植・延命治療・死ぬ権利をめぐって』(酒井忠昭監訳、晶文社、2000年、¥3600
 米国におけるバイオエシックス(生命倫理学)の成立史を描き、生命倫理学に関する歴史的研究の先駆けとなった著作です。邦訳の副題にもかかわらず、全巻の半分以上を人体実験(医学実験・臨床研究)の問題に費やしており、人体実験の問題が米国における生命倫理学の成立にとっていかに重要であったかを理解できます。

(3) 土屋貴志「インフォームド・コンセント」(佐藤純一・黒田浩一郎『医療神話の社会学』世界思想社、1998年、¥2200、第8章)
 日本における「インフォームド・コンセント」文献をレビューし、その語られ方と「神話」を分析した拙稿です。この本は「インフォームド・コンセントの神話」以外にも、今日の日本の医療におけるさまざまな「神話」の分析を試みています。医療に対する見方が変わる一冊だと思いますので、買って通読しても損はない(はず)です。

●練習問題
(1)「人体実験」とは何ですか?その定義を説明しましょう。

(2)「実験」と「実験性」の違いについて説明しましょう。

(3)「治療的実験」「非治療的実験」のそれぞれの言葉の意味を説明しましょう。また、この区別は必要なものだと考えますか?必要である/ないと考える理由を述べましょう。

(4)「医学」と「医療」はどのような関係にありますか?説明しましょう。

(5) 筆者の倫理学についての見解を批判的に検討しましょう。「学問の名において『〜すべきだ』と語るならば、それは自分の個人的意見を通すために学問の権威を利用しているにすぎない」という主張について、どう考えますか?

(6)《日本の医学界や医療倫理学界が人体実験についてほとんど触れないのは、七三一部隊をはじめとする戦前・戦中の医学犯罪の総括を避けてきたからだ》という筆者の主張に同意できますか?同意できないなら、その理由は何ですか?